『日本国紀』読書ノート(219) | こはにわ歴史堂のブログ

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219】「ベ平連」と「JATEC」を混同している。

 

「…そして作られたのが『べ平連』(正式名称・ベトナムに平和を!市民連合)という市民団体である。彼らは『ベトナム戦争反対』のデモや運動だけでなく、平和運動と称して企業を攻撃したり、成田空港建設反対などの闘争を繰り広げたりもした。」

(P478)

 

と説明されていますが、これはちょっとどうなのでしょうか。「ベ平連」を知らない世代の人がこの説明を読めば大きく誤解してしまいます。

「ベ平連」は、「戦争反対」と気持ちさえあれば参加も自由だし、脱会も自由、という市民団体でした。発足当初は、まったく無党派の団体で、警察官や自衛隊、右翼の活動家などでも、「平和を愛して戦争反対」ならば自由に集えるものでした。

たしかに新左翼のメンバーによる平和運動と直接関係がない運動にも関わりを持つようになります。しかし「成田空港建設反対などの闘争を繰り広げたりもした」という説明は誤解を与えます。まるで「ベ平連」が「成田闘争」を展開したかのように思われてしまいます。基地建設反対闘争と「歩調を合わせて」反戦平和運動を進めていました。

「企業を攻撃」というのもやや誇張された表現です。デモによる活動の他、もっとも有名なのは三菱重工に対して行った「反戦一株主運動」があります。株主総会では三菱重工側も「総会屋」を動員して対抗しています。

1973年あたりからは活動の幅が環境問題や開発反対にも広がりをみせます。

一方、初期の「ベ平連」の活動のまま続けるグループもあり、「反戦喫茶店」やら「反戦ライブ」のような文化的な活動とも融合し、若者たちの間で「反戦歌」などメッセージ性の強いフォークソングも生み出していきます。

(『反戦喫茶ほびっとの軌跡』中川六平・「週刊朝日」2010年2月19日)

「戦争反対」は、1970年代のサブカルチャーのキーワードでした。「ベ平連」はそのような「70年代前半の景色」の一つとなります。

 

「しかし冷戦終結後、『ベ平連』にはソ連のKGB(ソ連国家保安委員会=ソ連の秘密諜報組織)から資金提供があったことが判明する。つまり『平和運動』という隠れ蓑を着たソ連の活動団体だったのだ。」(P478)

 

これは誤った説明です。「『ベ平連』はアメリカ軍の『良心的兵役拒否』の脱走兵をソ連に亡命させる活動を行なっていたが…」と説明されていますが、これは「ベ平連」とき無関係に、「ベ平連」の幹部メンバーが行なっていた「反戦脱走米兵援助日本技術委員会」“JATEC”の活動です。

脱走兵がソ連への亡命を希望する場合はもちろんソ連大使館と接触しています。彼らが接触した相手はソ連大使館員だと思っていましたが実は、KGBの要員でもありました(しかしこれはソ連の大使館員ではよくある話)。

「資金提供があったことが判明する」というのは誤りで、「脱走兵を助けるための資金援助をソ連に求めた」というのが正確な説明です。しかも、ソ連の回答は脱走兵のために物質的援助はするが、ソ連の持つ「手段」を用いては移送できない、としています。

JATECがソ連大使館員(KGB要員)の支援を得て複数人、中立国のスウェーデンへ出国させていることはわかっています。

しかし、「ベ平連」に「KGBから資金提供があった」というのは誤りで、「『平和運動』という隠れ蓑を着たソ連の活動団体だった」という断定には問題があります。

(『1968年』すが秀実・ちくま新書)

(『秘密のファイル CIAの対日工作』春名幹男・新潮文庫)