『日本国紀』読書ノート(10) | こはにわ歴史堂のブログ

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10】任那は支配下にあったかもしれないが百済はそうとはいえない。

 

朝鮮半島と日本の関係についてですが。

3世紀あたりは、まだ統一的な国家が日本側にはなく、九州の小国などが朝鮮半島の南部地域と関わりを持っていたことは、甕棺墓や支石墓などからわかります。

 

4世紀には、『好太王碑文』にあるように、また『日本書紀』の説明とも一致している記述があることからヤマト政権が本格的な進出をしていたことは間違いないところだと思います。

以後、その時々の国家の勢力バランスの中で、百済や新羅を従わせたときもあったし、対立したり、また独立したり…

百済も概ね友好的だったようにも思いますが、さりとて従属していたとも言いにくいような関係ではなかったでしょうか。

そのバランスの中で、南部の百済・新羅の間にある小国家地域(伽耶諸国)に、ヤマト政権はかなり強い力を及ぼし、『日本書紀』ではこの地域、あるいはその一部を「任那」と呼称しています。

『日本書紀』だけでなく、5世紀の中国の史料や、後年、新羅の記録したものにも「任那」という言葉は出てきます。

 

「韓国の歴史学界では、百済が日本の支配下にあった可能性について論じることはタブーとされており…」(P47)

 

と説明されていますが、「百済が日本の支配下にあった」ことではなく、伽耶諸国が、日本の支配していた「任那」である、とする考えを強く否定しているのだと思います。(1970年代はとくに韓国は強く抗議していました。)

 

5世紀は倭王武の時代です。

武の上表文(『宋書倭国伝』)から、日本各地の征服、朝鮮半島への進出が述べられていますが、『日本書紀』からもこのことはうかがえます。

 

6世紀になると、百済は北部地域を失いました。

そのためかどうかは別にして、南下政策をとります。百済から日本が任那4県割譲を求められたのはこのころで、朝鮮半島での高句麗・百済・新羅の勢力バランスに動きがあったことがわかります。

小国家にとっては大国の庇護・支援は重要で、4県を百済に割譲したことは日本の影響力の低下を示してしまいました。

結果、6世紀半ばすぎには新羅がこの地域を支配するようになったと考えられます。

 

「百済があった地方からは日本特有の前方後円墳がいくつも発見されている」(P46)

 

とありますが、「百済があった地方」というよりも、「百済に割譲した任那4県があった地方」というべきではないでしょうか。

前方後円墳だけではありません。翡翠製の勾玉なども出土し、朝鮮半島に翡翠が産出する地域がほとんどなく(高句麗の地域には少しみられるようですが)、その出土した翡翠も日本の糸魚川産のものと同じであることもわかっています。

 

任那は日本の影響下、支配下にあったと類推するのは一定の説得力がある説ですが、百済が日本の支配下にあった、というのはやや言いすぎではないでしょうか。

 

百済への出兵が国家的事業であったことは確かです。これには色々な説があります。

「6世紀の危機」という説明がかつてされました。

外にあっては任那4県の喪失。それにともない大伴氏が没落して豪族間の勢力関係が大きく変化し、内にあってはその中で蘇我・物部の対立が表面化する…

新羅と結んだ北九州の磐井の反乱もありました。さらに新羅により任那が滅ぼされます。聖徳太子による新羅遠征計画などは、この危機の解決が背景にあったものでしょう。

友好国百済を失うことは、その先に新羅による北九州進出があってもおかしくはない時代です。

百済防衛は植民地防衛というより、後に言う「利益線」防衛という意味の遠征であったとも考えられます。

また、大化の改新の急進的な改革は、国内の対立も生み出していました。宮の造営、新制度によって徴発された労役に反対していた有間皇子などの発言なども記録に残っています。

 

「共通の敵」ができると団結できる法則。

 

対外的危機(百済滅亡・新羅の拡大)をテコに国内の統合を図る… 

という意味での出兵であった、という考え方も可能です。百済が植民地であった、よって大規模な遠征をした、という「新説」を唱えなくても白村江の戦いの背景は説明可能です。