『日本国紀』読書ノート(9) | こはにわ歴史堂のブログ

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9】蘇我氏は滅亡していない。

 

「蘇我氏が大きな権力を握った。その権勢は天皇を上回るほどだった。これに危機感を抱いた皇太子の中大兄皇子(後の第三十八代天智天皇)が六百四十五年に蘇我氏を滅ぼし(乙巳の変)、天皇による中央集権体制を整えた。」(P45)とありますが…

 

蘇我氏は滅ぼされていません。

 

教科書などでも「蘇我氏が滅ぼされた」、ではなく、「蘇我蝦夷・入鹿が滅ぼされた」と表記しています。

「細かいことが気になる、ぼくの悪いクセ」

では、実はありません。意味があってこう記されています。

教科書は、サラリといろんなことが書かれていますが、それがそのように記されているのは、それなりの意味があります。

 

というのも、同じ蘇我氏の蘇我倉山田石川麻呂(蝦夷の弟の子)は乙巳の変に加担し、後の政権の中枢に立ちましたし、蘇我赤兄・連子は天智天皇の側近(大臣)でもありました。

連子の子の安麻呂は天武天皇の信を得て「石川」の姓を与えられています。

政変や勢力争いの中で衰退していきますが、蘇我氏は一定の勢力を保っていました。

 

それからもう一つ。

「皇太子の中大兄皇子が六百四十五年に蘇我氏を滅ぼし…」

とありますが、こちらは誤りです。

中大兄皇子が皇太子に任命されたのは乙巳の変の後です。

 

天皇が孝徳天皇、皇太子が中大兄皇子、左右大臣に阿倍内麻呂・蘇我倉山田石川麻呂、中臣鎌足が内臣、僧旻と高向玄理を国博士とする新政権が発足し、宮も飛鳥から難波に移して政治改革が始まりました。

基本方針である「改新の詔」が出された646年をその始まり、としています。(かつては645年を大化の改新の始まりにしていました。)

『日本書紀』に記された詔の内容は、大宝律令の「令」をもとにして後から付け加えられたり改められたりしていて、当時の段階で目指されていたことがどのようなものだったかを細かく説明するのは慎重な姿勢が必要です。

 

ちなみに「律」は刑法、「令」は行政法その他諸法をさします。

「律」が刑法()、「令」が儒教(礼・楽)、というのは中国の漢代の話で、南北朝時代を通じて「令」は政事の諸制を定めたものになりました。

「律令」は隋で確立され、唐はこれをほぼ踏襲しています。

律令国家は「律」と「令」を統治の基本原則とした国家のことです。

「儒教に基づく法治国家」(P45)という説明は、当時の日本や中国を適切に説明したものではありません。