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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

217】沖縄返還は沖縄の人々の本土復帰運動が促したことで、核兵器の開発と絡めて説明するのは不適切である。

 

沖縄返還について、以下のように説明されています。

 

「この返還には昭和四五年(一九七〇)の日米安保条約の延長問題が大きく関係していた。昭和四〇年(一九六五)、アメリカは北ベトナムに対する空爆を開始し、ベトナム戦争に本格的に介入していた。そのため日本国内のアメリカ軍基地の重要度は飛躍的に増していた。それだけに。十年ごとに締結される日米安保条約が締結されない事態となれば、アメリカのベトナムでの戦争継続が難しくなるという状況でした。そこでアメリカは、沖縄を日本に返還する代わりに日米安全保障条約を延長しようと考えていた。」(P475)

 

と説明されていますが誤りです。そもそも安保条約は自動更新(どちらか一方の意思で破棄できる)になっていて、佐藤内閣そのものは継続に断固賛成の姿勢を貫いていました。70年安保の学生運動は、その過激化と「内ゲバ」などから国民の支持を十分に得られない状況で、安保条約が継続されない心配をアメリカがする理由はほとんどありません。

 

ちょっと驚いたのは、沖縄返還の背景となった沖縄の人たちの住民運動や本土復帰への努力にまったく触れられていないことです。

アメリカが沖縄返還に動いたのは、アメリカ内の政権交代(ニクソン政権の成立)、日本政府の交渉、そして沖縄の人たちの返還復帰運動の「合力」で実現したことです。

ベトナム戦争への本格介入を受けて「日本国内のアメリカ軍基地の重要度は飛躍的に増していた」と説明されているように、このことが理由となって沖縄内の基地の拡充や、強引な基地・施設の建設が進み、事故やアメリカ軍兵士による不祥事も多発するようになりました。

これを受けて、本土復帰をめざして「島ぐるみ闘争」が始まり、1960年には「沖縄県祖国復帰協議会」も結成されています。

197012月にアメリカ兵が起こした交通事故をきっかけに「コザ暴動」が起こり、日本政府も一刻も早い返還を、アメリカ政府も施政下に沖縄を置いておくことの問題を痛感するようになります。

 

「しかしアメリカの技術力が状況を変えた。原子力潜水艦に核ミサイルを搭載する技術の開発に成功したのだ。これにより世界のいかなる海からでも核ミサイルを撃ち込むことができるようになり、必ずしも沖縄に核兵器を置く必要がなくなったのだ。皮肉なことに、核兵器が開発されたことにより、沖縄返還計画が進んだのである。」(P475)

 

なんというか… まず、誤りの指摘ではないのですが、潜水艦発射ミサイルの技術はソ連が先に開発しました。アメリカは1955年に開発され、1960年に実戦使用が可能なレベルに技術向上させています。

しかし、沖縄の人々の運動を無視して核兵器が沖縄返還計画を進めた、という説明はどうでしょうか。そもそも「沖縄に核兵器を置く必要がなくなった」のならば、沖縄返還の際の、「核兵器についての密約」は必要ありません。

核兵器の開発が沖縄返還を進めた、という説明は適切では無いと思います。

 

216】日本人学生には給料が払われていたし、徴兵された朝鮮人も戦場に送られていた。

 

「たしかに戦争中『戦時徴用』として朝鮮人労働者を国内の工場などに派遣した事実はあるが、戦時徴用は日本の中学生や女学生にも行なわれていた。しかも日本の学生には給料は払われなかったが、朝鮮人労働者には正規の給料が支払われていた。」(P472)

 

これは誤解されています。日本人の学生にも給料は払われています。これは訂正されたほうがよい説明だと思います。国立公文書館アジア歴史資料センターに明確に記録が残っていて、1944年5月の「工場事業場學徒動員受入側措置要綱」に「基本報償算定基準」として報奨金額が記されています。

 

「同じ頃、日本人男性は徴兵で戦場に送られていたが、朝鮮人が徴兵されたのは昭和一九年(一九四四)になってからで、しかも一人も戦場に送られていない。」(P472)

 

という説明も明確に誤りです。同じく国立公文書館アジア歴史資料センターの史料に1944年段階の「部隊割当表」があります。少し考えても、情勢逼迫の中、徴兵して戦場に送り出されていない兵士などはいなかったことはわかるはずです。

 

「松代大本営」建設の徴用では、朝鮮人7000人、日本人3000人が動員され1945年4月にはそれぞれ1万人規模になっていて、そのときの労働環境や状況はかなり苛酷なものであったことがわかっています。

『ガイドブック松代大本営』(松代大本営の保存をすすめる会編)

『「松代」から何を読み取るか』(飯島滋明・名古屋学院大学論集・社会科学編・第45巻4号)

『松代地下大本営』(林えいだい・明石書店)

 

215】歴代首相の靖国神社参拝と中曽根康弘首相の参拝の意味は大きく違う。

 

「そもそも中国・韓国の二国は、戦後四十年間、日本の首相の靖國参拝に一度も抗議などしてこなかった。それまでに歴代首相が五十九回も参拝したにもかかわらずである。」(P469)

 

これは日中の「歴史的」段階を踏まえていない理解です。

1945年以降、中国は内戦状態にあり、1949年に中華人民共和国が成立しましたが、日本は中華人民共和国ではなく、中華民国(台湾)を唯一の合法政府として承認し、平和条約を結びました。日中国交回復までの間の政治的・外交的な日本の対象となる「中国」は台湾政府でした。

1972年、日中共同声明が発表され、日本は外交方針を大転換し、中華人民共和国を唯一の合法政府と認めました。ここから日中双方が、「平和友好条約」締結を目的とした「歩み寄り」を始めています。

当時の首相周恩来は、日中国交回復にあたって賠償を放棄しました。彼の考え方は「日本軍国主義は、戦争によって中国に大きな災難をもたらし、日本人民も多くの被害を受けた」というもので一貫しています。主体を「日本」ではなく「日本軍国主義」とし、被害者は中国人民のみならず日本国民もであった、というものでした。よって賠償金を日本に請求することは、被害者である日本国民に二重の苦しみを背負わせるものである、として全面放棄を宣言したのです。

ポツダム宣言の考え方にも合致した考え方で、優れた見識であると私は思っています。

この周恩来の考え方が「対日外交方針」です。中国の非難は常に日本の政治家の「軍国主義的言動」に関しておこなわれてきました。

「平和条約締結の歩み寄り」に向けて、当時の日中は努力をしてきたと思います。

首相や政治家が、今日の日本の平和と繁栄は、たくさんの戦争犠牲者たちの尊い命に支えられている、という思いから、靖國に参拝するのは、個人の信仰の自由として何もさまたげられるものではありません。

ですから、70年代の首相および政治家たちはみな、「私人」としての参拝を強調して参拝しています。A級戦犯が合祀されたのは1978年で、それ以降も首相の参拝があっても「私人」としての参拝でした。

「公用車を使用せず、玉串料はポケットマネー、肩書き無し、公職者を随行させない」という私人参拝は、何も問題ではないと思います。

しかし、1985年の中曽根康弘総理大臣の参拝は、それまでのものとは異なります。

私自身、はっきりと記憶していますが中曽根首相はインタビューで「内閣総理大臣たる中曽根康弘が参拝しました。」と答えていました。

朝日新聞の非難は、「公式参拝」に対するもので、中国が反応したのもこの点でした。

国交回復後、中曽根康弘公式参拝までの首相参拝と同列に説明すべきではないと思います。

 

「昭和天皇が終戦記念日に靖國神社を親拝されなくなった理由はわからないが、もしかしたら『自分が行けば、私人してか公人としてかという騒ぎが大きくなる』と案じられたのかもしれない。」(P471P472)

 

と説明されていますが、あくまでも百田氏の推測です。「親拝されなくなった理由はわからない」と言われていますが、侍従の日記や、『昭和天皇独白録』を読めば、やはりA級戦犯の合祀と関わりがあったことは読み取れます。

三木武夫首相の「私人か公人か」のレベルとは違う(それを示す史料があるならばそれを示すべきですし、それがないならば、現有史料から判断して)昭和天皇の御心情を察するべきだと思います。

 

214】「南京大虐殺事件」を中国は「外交カード」に使用しなかった。

 

「…そして後に大きな国際問題となって日本と国民を苦しめることになる三つの種が播かれた。それは『南京大虐殺の嘘』『朝鮮人従軍慰安婦の嘘』『首相の靖國神社参拝への非難』である。」(P466)

 

と説明した上で、朝日新聞を非難されています。

正直、第13章の後半は、主として歴史の著述とは無縁な百田氏の個人の見解が述べられているので、これに関しては「表現の自由」の範疇だと思いますから、それに関してはコメントしません。

ただ、事実誤認や不正確な部分に関しての指摘にとどまらせていただきますと…

 

さて、『南京大虐殺の嘘』として「南京大虐殺は本当にあったと思い込んでいる人が多い」(P466)と再びされていますが、「無かったと思い込んでいる」だけとしか言いようがありません。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12445911910.html

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12449934757.html

 

「これは外交カードに使えると判断し、以降、執拗に日本を非難するカードとして『南京大虐殺』を持ち出すようになり…」(P466)

 

これはよく説明される言説ですが、誤りです。具体的に、中国が「南京大虐殺」を持ち出して「外交カード」として使った例をあげてほしいと思います。

1970年代は、実は中国側も積極的に「日中友好ムード」を共産党の主導で進めていました。むしろ、国内では南京大虐殺を初めとする日本軍の蛮行に対する住民の声をおさえています。田中角栄の訪中と、国交回復、さらには福田赳夫による日中平和友好条約の締結などなど…

1991年、南京大学で、多くの有識者や関係した人々が集まり「南京大虐殺に関する会議」が開かれる予定でしたが、開催直前になって中国政府からの許可が出ませんでした。理由は、日本の総理大臣(海部俊樹)が急な訪中をおこなったからで、日本の戦争犯罪に関する会議は控えよう、ということになったからです。

「南京大虐殺」だけではありません。

1992年、昭和天皇が訪中の際、戦時中に強制連行された「強制労工」を中心とする活動家たちはなんと政府によって数日間、自宅拘束されているんです。

当時、基本的に、中国の外交スタンスは、歴史問題で対立して日本側を刺激するよりも、改革開放政策を進め、日本の経済協力を得る方を優先してきました。

中国外交部が「南京大虐殺」に言及して日本を非難する時は、日本の政治家が「南京大虐殺はなかった」と発言した場合がほとんどです。

(『戦争の記憶』イアン=ブルマ・ちくま文芸文庫)

 

「南京大虐殺を外交カードにしている!」と声高に説明し、「南京大虐殺などなかった!」と主張するのは、とても冷静に当時の日中関係を理解しているとは思えません。

 

『従軍慰安婦の嘘』ということに関しては、百田氏が指摘されている通りの部分もあります。やはり「吉田証言」ということ対する検証不足、不正確な情報に基づく説明など、誤りがあったことは確かです。

ただ、朝日新聞の「勇み足」を逆手にとって、従軍慰安婦の実態の全体像に誤解を与えたり、否定したりするのはまだ早計だと思っています。

近年、実は、アメリカ側の資料などが次第に明らかになってきました。

最近の話題で言えば、自民党の国会議員の山田宏氏が指摘された文書です。

ご本人は「従軍慰安婦は基地相手にする売春婦にすぎない」と記されている部分を抽出して「慰安婦は売春婦だった」という主張をされたつもりですが、この文書の英文の全文を読めば、「真逆の説明」であることがわかります。ほんとうに全文を読まれたのでしょうか。

1944年8月に米軍がビルマで捕虜にした従軍慰安婦を尋問した文書なのですが、

「日本軍が慰安婦と呼んでいる仕事は売春婦のような仕事である。この韓国の少女たちは、病院で負傷した兵士たちに包帯を巻くような仕事で、新しい土地で人生がよくなると業者に聞かされ応募した少女たちだ。」と、自分の意思ではなく、だまされてつれてこられたことがわかる説明が書かれています。

それどころか、注目すべきは、

 

The conditions under which they transacted business were regulated by the Army.

 

と記されているところで、これ、「彼女らの業務は陸軍の規定の下にあり…」となります。

 

「朝鮮人慰安婦に関しては、肯定派のジャーナリストや学者、文化人らが、『軍が強制した』という証拠を長年懸命に探し続けたが、現在に至ってもまったく出てきていない。」(P470)

 

と説明されていますが、「軍の強制」はともかく「軍の関与」が示されている文書はしだいに明らかになってきています。どうやら、百田氏はあまりこのことをご存知無いようです。正直、いまのところは断言できるような状況にはないと考えられたほうがよいでしょう。

ちなみに、山田宏議員が、指摘された文書は、「『従軍慰安婦』関係資料集成⑤」(女性のためのアジア平和国民基金編)にも当該文書の概要が説明されていて、こちらでも確認できます。

「WGIP」は「戦争責任を伝える計画」という意味以上のものでも、それ以下でもありません。

「ウォー・ギルト・インファメーション・プログラム」は、江藤淳の『閉ざされた言語空間-占領軍の検閲と戦後日本』(文春文庫)によって説明されたものです。

「真相はこうだ」「太平洋戦争史」など、GHQの占領期の情報政策の個別研究は進んでいましたが、一次史料によって、トータルな計画の存在を明らかにしたことは評価できます。

しかし、「WGIP」を「戦争の罪悪感を日本人に植え付ける計画」と翻訳していることは、どう考えても理解に苦しむものです。 

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12450326319.html

 

そして「WGIP」という言葉が、「日本の戦争を否定的に捉える歴史観はアメリカによって占領期間中に押し付けられたもの」という考え方を肯定する「根拠」として魔法の言葉のように一人歩きし始めていることは大きな問題だと思います。

また、「『WGIP』を植え付けられた」というような用例にいたっては、意味不明な使用法としか言いようがありません。もはや別単語のようになっています。

 

そしてGHQの占領期の「戦争責任を伝える計画」を誇張して説明する一方で、戦前の「検閲」「言論・思想の弾圧」「報道管制」「軍国主義的教育」にはまったく言及されていません。GHQの占領下の政策を「言論統制」というならば、戦前のそれはこれをはるかに上回るものでした。

P464P465にかけて「ゾンビのように蘇る自虐思想」という題名で説明されている内容は、「WGIP」を「戦前の軍国主義」を「Senznn no Gunkoku Shugi(SGS)

に置き換えて説明してみれば、「WGIP」という文言で戦後を説明する滑稽さがわかると思います。

 

「昭和四〇年代から五〇年代にかけての日本は、高度経済成長を成し遂げ、国民生活が飛躍的に向上した時代であったが、その繁栄の裏で、厄介な問題が起こってきた。それは占領軍が去ってから沈静化していた『軍国主義』が再び強くなってきたことだ。

日本人は、戦前に政府から『SGS』の洗脳を受けたが、独立と同時に起こった戦犯赦免運動でも明らかになったように戦前に教育を受けてきた国民の多くには、心の深いところまで『戦争責任』が浸透しなかった。昭和三五年(一九六〇)の安保改定の総選挙で自民党が圧勝したのも、有権者の全員が戦前生まれだったからである。昭和三〇年代には、祝日になると町の至るところに、『日の丸』が揚がり、儀式の際には普通に『君が代』が歌われていた。」

「ところが、昭和一〇年代の終わり(戦中)以降に生まれた人たちは、『SGS』を植え付けられていない。何も知らない白紙の状態の柔らかい頭と心に『SGS』を注入されていた戦前の人とは違うのだ。」

「SGSの信者は、戦後の歴史観はGHQが押しつけたものだと思い、戦後日本の全否定するまでに膨張し、さらに『自虐』というレッテルを貼っていく。」

 

ゾンビのように蘇っているのは「戦前の軍国主義」“SGS”というべきかもしれません。