『日本国紀』読書ノート(215) | こはにわ歴史堂のブログ

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215】歴代首相の靖国神社参拝と中曽根康弘首相の参拝の意味は大きく違う。

 

「そもそも中国・韓国の二国は、戦後四十年間、日本の首相の靖國参拝に一度も抗議などしてこなかった。それまでに歴代首相が五十九回も参拝したにもかかわらずである。」(P469)

 

これは日中の「歴史的」段階を踏まえていない理解です。

1945年以降、中国は内戦状態にあり、1949年に中華人民共和国が成立しましたが、日本は中華人民共和国ではなく、中華民国(台湾)を唯一の合法政府として承認し、平和条約を結びました。日中国交回復までの間の政治的・外交的な日本の対象となる「中国」は台湾政府でした。

1972年、日中共同声明が発表され、日本は外交方針を大転換し、中華人民共和国を唯一の合法政府と認めました。ここから日中双方が、「平和友好条約」締結を目的とした「歩み寄り」を始めています。

当時の首相周恩来は、日中国交回復にあたって賠償を放棄しました。彼の考え方は「日本軍国主義は、戦争によって中国に大きな災難をもたらし、日本人民も多くの被害を受けた」というもので一貫しています。主体を「日本」ではなく「日本軍国主義」とし、被害者は中国人民のみならず日本国民もであった、というものでした。よって賠償金を日本に請求することは、被害者である日本国民に二重の苦しみを背負わせるものである、として全面放棄を宣言したのです。

ポツダム宣言の考え方にも合致した考え方で、優れた見識であると私は思っています。

この周恩来の考え方が「対日外交方針」です。中国の非難は常に日本の政治家の「軍国主義的言動」に関しておこなわれてきました。

「平和条約締結の歩み寄り」に向けて、当時の日中は努力をしてきたと思います。

首相や政治家が、今日の日本の平和と繁栄は、たくさんの戦争犠牲者たちの尊い命に支えられている、という思いから、靖國に参拝するのは、個人の信仰の自由として何もさまたげられるものではありません。

ですから、70年代の首相および政治家たちはみな、「私人」としての参拝を強調して参拝しています。A級戦犯が合祀されたのは1978年で、それ以降も首相の参拝があっても「私人」としての参拝でした。

「公用車を使用せず、玉串料はポケットマネー、肩書き無し、公職者を随行させない」という私人参拝は、何も問題ではないと思います。

しかし、1985年の中曽根康弘総理大臣の参拝は、それまでのものとは異なります。

私自身、はっきりと記憶していますが中曽根首相はインタビューで「内閣総理大臣たる中曽根康弘が参拝しました。」と答えていました。

朝日新聞の非難は、「公式参拝」に対するもので、中国が反応したのもこの点でした。

国交回復後、中曽根康弘公式参拝までの首相参拝と同列に説明すべきではないと思います。

 

「昭和天皇が終戦記念日に靖國神社を親拝されなくなった理由はわからないが、もしかしたら『自分が行けば、私人してか公人としてかという騒ぎが大きくなる』と案じられたのかもしれない。」(P471P472)

 

と説明されていますが、あくまでも百田氏の推測です。「親拝されなくなった理由はわからない」と言われていますが、侍従の日記や、『昭和天皇独白録』を読めば、やはりA級戦犯の合祀と関わりがあったことは読み取れます。

三木武夫首相の「私人か公人か」のレベルとは違う(それを示す史料があるならばそれを示すべきですし、それがないならば、現有史料から判断して)昭和天皇の御心情を察するべきだと思います。