【160】南京大虐殺はフィクションではない。
「『なかったこと』を証明するのは、俗に『悪魔の証明』といわれ、ほぼ不可能なこととされている。つまり、私がここで書いたことも『なかったこと』の証明にならない。ただ、客観的に見れば、『南京大虐殺はなかった』と考えるのがきわめて自然である。」(P372)
「なかったこと」を証明される必要などはありません。「あったこと」を否定されれば、それは「なかったこと」の証明になります。
実際、百田氏も南京事件を否定するのに「あったこと」を否定する手法を用いておられます。
まず、「『南京大虐殺』は、日本軍の占領直後から、蔣介石が国民党中央宣伝部を使って盛んに宣伝した事件である。」(P372)
と説明され、当時南京事件を報道したのが、ハロルド=ティンパーリとディルマン=ダーディンの二人の記者だけで、いずれも伝聞の域を出ない、と説明されています。
そしてその二人を「否定」することから南京事件の報道が虚偽である、という論法で説明されています。
・ティンパーリは月千ドルで国民党中央宣伝部顧問であったことが後に判明した。
・ティンパーリの著作『外国人の見た日本軍の暴行-実録・南京大虐殺』の出版に際して国民党からの偽情報の提供や資金援助が行なわれていたことが近年の研究で明らかになっている。
・ダーディンは後に自分が書いた記事の内容を否定している。
さて、これらはいくつかの誤認のもとに説明されています。
「近年の研究」とは、どこのだれのものかは不明なのですが、国民党はティンパーリに資金援助して書籍を書かせたりはしていませんし、『外国人の見た日本軍の暴行-実録・南京大虐殺』の翻訳出版の許可をとっているだけです(翻訳出版権の買い取り)。また、この著作は国民党宣伝部の顧問になる前にすでに書かれて出版されているものです。また、ダーティン記者は、南京でおこなった日本軍の行為については自らの記事を否定していません。
『現代歴史学と南京事件』(笠原十九司・吉田裕編・柏書房)
『南京事件論争史』(笠原十九司・平凡社)
「当時、南京には欧米諸国の外交機関も赤十字も存在しており、各国の特派員も大勢いたにもかかわらず、大虐殺があったと世界に奉じられていない。」(P369)
いや、他にも配信されていますよ。南京市内に居住していた欧米人の例をあげるならばミニー=ヴォートリンの「日記」は有名です。
また、ティンパーリやダーティンなどよりも、どうして当時最大のニュース配信したA=T=スティールの「シカゴ=デイリー=ニュース」(1937年12月15日~1938年2月4日)の報道に触れられないのでしょうか。
「逃げ場を失った人々はウサギのように無力で戦意を失っていた。」
「日本軍は兵士と便衣兵を捕らえるため市内をくまなく捜索した。何百人も難民キャンプから引き出され、処刑された。」
「日本軍には戦争なのかもしれないが、私には単なる殺戮にみえた。」
「シカゴ=デイリー=ニュース」のこの記事は世界中で十分ニュースになりました。
「また、同じ頃の南京政府の人口調査によれば、占領される直前の南京市民は二十万人である。」(P369)
という説明なのですが、そんな人口調査はそもそも南京でおこなわれていません。よくとりあげられる20万人、25万人という数字は、南京事件についての「国際委員会」の安全区の人々の数だけであるというのが定説です。
否定しやすそうな「証人」「証言」を取り上げて否定してみせたり、「あいまいな数字」が確かではない、としたりして全体を否定するのは不適切だと思います。
1937年11月7日、上海派遣軍・第10軍を統轄する松井石根を司令官とする中支那方面軍が編制され、「上海付近の敵を掃討する作戦」を命じられました。
しかし、上海派遣軍と第10軍諸隊は南京への「先陣争い」をしており、急進撃による兵站の不足については「現地にて徴発、自活すべし」という命令も付随して発せられています。
『現代史資料9日中戦争2』(みすず書房)
「八年間の戦争で、わずか二ヶ月間だけ、日本人が狂ったように中国人を虐殺したのは不自然である」と説明されていますが、作戦展開と命令をみるかぎり、そのようなことが起こっても不思議ではない状況にありました。また「日本軍は列強の軍隊の中でもきわめて規律正しい軍隊で…」と説明されていますが、百田氏がそう思われているだけで、以下のように、当時の兵士たちはそう考えていません。
日本軍は、南京だけで虐殺行為をしていたわけではなく、南京に至るまでの間ですでに略奪や放火をおこなっていて、兵士の回想録『私記南京虐殺』(曽根一夫・彩流社)でも「匪賊のような軍隊」だったと説明されています。
12月1日参謀本部は正式に南京攻略を発動し、13日には南京を占領しています。
いわゆる南京大虐殺は、南京侵入時の殺戮行為のみを言うのではありません。1938年1月までにおこなわれた一連の敗残兵・便衣兵・捕虜の摘発・処刑を含みます。
第16師団長中島今朝吾中将の日記にこのように記されています。
「大体捕虜せぬ方針成れば片端より之を片付くることとなしたれ共…」
「之を片付くるには相当大なる壕を要し中中見当たらず、一案として百二百に分割したる後適当のか処に誘きて処理する予定なり。」
この方針に基づいて第16師団は、13日の一日だけで約2万4000人を「処理」しています。
「中島師団長日記」『歴史と人物 増刊秘本・太平洋戦争』
『南京戦史資料』(南京戦史編集委員会・偕行社)
「南京大虐殺がなかった」という言説は、かなり不自然だと思われます。