『日本国紀』読書ノート(159) | こはにわ歴史堂のブログ

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159】盧溝橋事件に始まる日中戦争に、侵略する意図がなかったとはいえない。

 

「昭和一二年(一九三七)七月七日夜、北京郊外の盧溝橋で演習していた日本軍が、中華民国軍が占領している後方の陣地から射撃を受けたことがきっかけで、日本軍と中華民国軍が戦闘状態になった。」(P366)

 

盧溝橋事件に関しては、昭和天皇「独白録」にも出てきます。

 

「日支関係は正に一触即発の状況であつたから私は何とかして蔣介石と妥協しようと思ひ杉山陸軍大臣と開院宮参謀総長とを呼んだ。」

「若し陸軍の意見が私と同じであるならば、近衛に話して、蔣介石と妥協させる考であつた。これは満州は田舎であるから事件が起こつても大した事はないが、天津北京で起こると必ず英米の干渉がひどくなり彼我衝突の虞があると思つたからである。」

「当時参謀本部は事実石原莞爾が采配を振るうてゐた。参謀長と陸軍大臣の見通しは、天津で一撃を加へれば事件は一ヶ月以内に終るといふのであつた。これで暗に私の意見とは違つてゐる事が判つたので、遺憾乍ら妥協の事は云ひ出さなかつた。」

「かかる危機に際して盧溝橋事件が起こつたのである。之は支那の方から仕掛けたとは思はぬ、つまらぬ争から起こつたものと思ふ。」

 

と述べられています。

昭和天皇は国際的な状況をふまえた上で「妥協」を模索されていたことが伺え、それに対して参謀長と陸軍大臣は事件は一ヶ月で終わるという甘い見通しを持っていたことがわかります。

 

さて、P366P367にかけて、中国のさまざまな日本に対する「事件」が紹介されています。

まず、「通州事件」が語られ、「この事件を知らされた日本国民と軍部は激しく怒り、国内に反中感情が高まった。」と説明されています。

さらに、日本人が射殺された「大山事件」、「日本人居留地を守っていた日本軍」と中華民国軍が戦闘状態に入った(第2次上海事変)と説明されています。

また、「昭和六年(一九三一)、商社や商店、個人が受けた暴行や略奪は二百件以上。通学児童に対する暴行や嫌がらせは約七百件。殺害事件だけでも昭和七年(一九三二)から昭和一二年(一九三七)までの間に何件も起きている。」と説明されています。

一方的に日本の被害だけを書き連ねていますが、このような事件が頻発している「背景」「個々の理由」にまったく言及がみられません。

満州国建設以来の住民の反対運動や、それを弾圧した日本側の説明がありませんし、

1932916日に起こった「平頂山事件」で住民を日本側が大量に殺傷した事件についてももちろん触れられていません。

この事件は、フーシュン炭田で働く中国人労働者たちに動揺もあたえ、日本離れを起こすきっかけともなっています。

弾圧、それに対する抵抗、反撃、そしてまた弾圧… というのは植民地支配や侵攻に関しては付きもので、日本側だけの被害を主張するのは一方的です。

ましてや、

 

「ただ、日本が戦闘を行なったのは、そもそもは自国民に対する暴挙への抵抗のためであって、中華民国を侵略する意図がなかった。」(P367)

 

というのは、あまりにも一面的な主張です。

1933年5月、満州事変の事後処理として日本は国民政府と停戦協定(塘沽停戦協定)を結びましたが、軍部は華北進出を企図し、193511月には長城以南の非武装地帯に「冀東防共自治政府」をつくらせ、国民政府から切り離す工作を進めています(華北分離工作)。広田内閣は翌年8月、華北5省を日本の支配下に置く方針を明確にしています。

広田内閣の大蔵大臣の馬場鍈一は、軍事予算拡大のために大幅な国債発行をおこなってこれをまかないましたが(「馬場財政))、国際収支の悪化から、政党勢力が広田内閣を非難するようになります。

軍部は華北進出と高度国防国家の建設をめざした内閣成立を推進して、宇垣内閣を流産させ、林内閣も短命に終わってしまいます。

建川美次予備役中将は、「支那こそは通商的見地よりする市場開発のために、しかして未開の各種天然資源に富める満蒙支の東亜大陸こそは資源的見地よりする日本経済の脆弱性補強のため残されたる格好の天地なのである。」と説明していますし(『東京日日新聞』193713)、さらに近衛文麿も、「自ら開発の力がおよばざるに天賦の資源を放置して顧みないといふのは、天に対する冒涜といひ得るが、日本は友誼の発露として開発をなさんとするものである。」と述べてもいます(『東京朝日新聞』193711)

1937年初めの日本の支配層は、防共・資源・市場のために華北を支配下におこうとしていたことはこれらの言説からも明白です。

こうして陸軍や国民の期待を受けた近衛文麿内閣が成立し、この近衛内閣のときに盧溝橋事件が起こることになったのです。

これらの背景の説明無しに、

 

「『暴支膺懲』というスローガンが示すように『暴れる支那を懲らしめる(膺懲)』という形で行なった戦闘がいつのまにか全面戦争に発展していたというのが実情である。」(P367)

 

と説明するのは、盧溝橋事件発生後の右翼団体や国家主義者、軍部のプロパガンダそのままで実態とはかけはなれたものといえます。