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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

213】「五十三億ドルの資産」は韓国に残したものではなく朝鮮半島に残したものの総額で、しかもこれらはアメリカとソ連に接収されているものである。

 

「昭和四〇(一九六五)年、日本は韓国と『日韓基本条約』(正式名称・日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)を結んで国交を正常化した。この条約と同時に締結された『日韓請求権・経済協力協定』で、日本政府が韓国に支払った金は、無償で三億ドル、有償で二億ドル、民間借款で三億ドル、その他を含めると十一億ドルにものぼった。これは当時の韓国の国家予算の二・三倍にあたるものであった。すべて外貨で支払われたが、当時の日本には外貨が十八億ドルしかなく、国民が死に物狂いで働いた得た中から、まさに身を切る思いで支払った。しかも併合時代に日本政府が韓国内に残した五十三億ドルにのぼる資産はすべて放棄した上でのことである。」(P462)

 

と説明されていますが、「韓国内に残した五十三億ドルにのぼる資産」というのは誤りです。朝鮮半島内すべての資産が五十三億ドル相当、という意味です。韓国内だけではありません。

また、これを「残してきている」のでこれが韓国のモノになっているかのような誤解を与えかねない説明ですが、この「五十三億ドルにのぼる資産」はアメリカ及びソ連に接収されていて、もともと日本に返還を要求できないものです。

(サンフランシスコ平和条約第二条(a)194512月 アメリカ軍政法令第33条)

(『昭和財政史・終戦から講和まで』・大蔵省財政史室編・東洋経済新報社)

212】水俣病もイタイイタイ病も1955年以降に「生まれた」のではない。

 

『日本国紀』の歴史記述の特徴として、社会問題についての記述が希薄なことが指摘できます。明治時代の最大の公害事件であった「足尾銅山鉱毒事件」に触れられていませんし、労働問題などの説明もほとんど見られません。

13章では、P460P461の「コラム」では、わずか7行で説明されています。

 

「昭和三〇年(一九五五)あたりから、工場排水や産業廃棄物による公害全国で発生し、水俣病やイタイイタイ病といった痛ましい公害病を生んだ。」(P460)

 

と説明されていますが、水俣病もイタイイタイ病も1955年あたりから生まれたものではありません。

水俣病はすでに1940年代からその兆候は始まっていました。1953が発症の第一だとするならば、「昭和三〇年(一九五五)あたり」といえなくもないですが、イタイイタイ病に関しては、1920年から始まっています。

「戦後の日本の急激な経済成長は、一方で大きな副作用を伴った。」と説明しながら、公害病の例を水俣病とイタイイタイ病の二つしかあげられておらず、公害対策基本法を説明しているにもかかわらず、新潟水俣病や四日市ぜんそくを含めた「四大公害病」という表現すら用いていません。

環境庁が2001年より環境省となったという指摘があるのに、公害対策基本法が環境基本法に変わっていることが説明されていません。

百田氏が公害問題を軽く考えているとは思いたくはありませんが、説明が不十分だと思います。

211】政府はメディア問題に鈍感であったわけではない。

 

「公共放送のNHKを除いて、民間のテレビ事業に参入したのは新聞社だった。多くの先進国では新聞社がテレビ局を持つこと(クロスオーナーシップという)は原則禁止されているが、当時、メディア問題に鈍感であった日本政府は禁止しなかった。これにより後に多くの弊害が生じたが、それらは改善されることなく現在に至っている。」(P461)

 

と説明され、その「弊害」を、

 

「新聞がテレビの問題や腐敗を批判・報道することがない。」(P461)

 

と説明されています。

「当時、メディアに鈍感であった」という説明は誤りです。そもそも1953年からの民放テレビ局として放送を開始したのは読売テレビで、ここから日本のクロスオーナーシップが始まりました。

テレビが経営・放送内容に新聞社の意向が反映するようになるこの制度を日本で始めたのが、読売新聞初代社長の正力松太郎でした。

正力は、戦前、内務官僚をつとめ、警視庁警務部長も歴任し、免官後は大政翼賛会総務をつとめた人物で、自民党政権とも太いパイプを持っていました。

正力が、新聞社の子会社としてテレビ局を設立していく、という方式の先駆けとなったのです。

当初は東京を中心に支局を置く計画でしたが、郵政省からストップがかかりました。単独資本が他府県にまたがるメディアを寡占することを憂慮したからです。政府は「メディア問題に鈍感」ではありませんでした。

 

「後に多くの弊害が生じたが、それらは改善されることなく現在に至っている。」という説明を補足しますと…

2010年1月14日、鳩山政権下の原口総務相は「クロスオーナーシップ」禁止の法制化について発言しました。もちろん各新聞社は反発しましたが、クロスオーナーシップ規制の見直しを盛り込んだ放送法の改正法案は閣議決定されています。

しかし参院選の民主党大敗で、法制化が難しくなってしまいます。その後、クロスオーナーシップ規の条項が削除された改正放送法が成立し、規制は見送られることになったのです。

 

以下は蛇足ですが…

 

「『WGIP洗脳世代』が社会に進出するようになると、日本の言論空間が急速に歪み始める。」(P465)

 

占領期の「WGIP」が言論空間を歪めたかのような言説を説明されますが、それならばいっそ1950年代以降のCIAの活動に触れられたほうが「陰謀論」としてはおもしろかったと思います。

週刊新潮の2006年2月16日号で早稲田大学有馬哲夫教授が、正力松太郎が戦犯不起訴後、CIAが正力を工作しようとしていたことをアメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書から指摘して話題になりました。

百田氏は、朝日新聞を「WGIP」に絡めて批判されていますが、「日本では、世論は新聞社とテレビ局によって操作される部分が非常に大きい」(P462)と説明されるのであれば「戦争責任を伝える計画」(WGIP)という1947年に終わっている計画などを例にされるよりも、CIAとメディアの関連を指摘したほうが「陰謀論」としては説得力があったように思います。(『日本テレビとCIA』有馬哲夫・新潮社)

210】岸内閣から池田内閣が成立し、総選挙で自民党が勝利した背景の説明が誤っている。

 

「昭和三五年(一九六〇)、岸の後をうけて首相となった池田勇人は、マスコミや左翼知識人の反対を恐れて、自民党結成時のもう一つの党是であった『自主憲法改正』をいったん棚上げし、経済政策に力を注ぐことにした。」(P459)

 

と説明されています。どうも、戦後の戦局の説明が、正確ではなく、岸内閣総辞職、池田勇人に首相が変わり、「…四ヶ月後に行なわれた衆議院総選挙では、四百六十七議席のうち、自民党が二百九十六議席を獲得して圧倒した。つまりマスメディアが報道していた『世論』は、国民の意識を正しく反映していなかったのである。こうしたマスメディアによる世論捏造はこの後も長く続くことになる。」(P456P457)と説明されていますが、かなり勘違いされています。

「安保闘争」の一面は、何かと強引な政治を進めていた岸内閣に対する国民の「不信」もありました。与党内でもこの「空気」があり、池田勇人もその一人で、いわば反主流派の一人でした。(当時明らかにノンポリ保守であった母も、「岸さんが辞めはって何かホッとした。池田さん、わりと好きやったで。」と話していました。)

この「四ヶ月」というのがポイントで、池田勇人はマスメディア、とくに普及を始めていたテレビを利用して、さかんに「庶民派」であるアピールをしていきます。低姿勢で丁寧な説明を繰り返す池田首相に、好感を覚える人々が増えました。現在の内閣府大臣官房広報室にあたる内閣総理大臣官房広報室を拡大・充実させたのも池田勇人です。池田はマスコミを恐れたのではなく、逆に積極的に利用しました。

そして当時、社会党がさかんにアピールしていた「貧困対策」に対して「所得倍増計画」をかぶせ、与野党対立の要であった「政治・外交」から視点を外して「生活・経済」を全面に出して支持を得ました。その上で、総選挙に出たのです。

「衆議院の解散」は首相の専決事項。「勝てるタイミング」でしか実施しません。

マスメディアという剣が、野党から与党の手にうつっただけのことで、マスメディアが報道していた「世論」が、今度は自民党に有利に働いたのです。

右派・与党は、「マスメディアによる世論捏造」という言葉で左派・野党を批判することはありますが、政権与党もまたマスメディアを有利に利用することはよくあります。

「安保闘争」とこの後の「池田内閣」はこのことをよく示している例なのです。

「『自主憲法改正』をいったん棚上げして」といっても、もし衆参両院で2/3以上の議席を占めれば、自民党はいつでも憲法改正発議をしていたと思います。

自民党が圧倒的支持を受けても2/3を超えない、というのは「経済政策や外交政策は支持するが、軍国主義と戦争は嫌」という五十五年体制の時期の「世論」がよく現れていたと見るべきだと思います。

 

「日本は、何年にもわたって年率一〇パーセントを超える成長が続く驚異的な高度経済成長によって、まさに奇跡ともいえる復興を成し遂げた。この章の冒頭でも述べたが、この復興を成し遂げたのは政府ではない。政府が『所得倍増計画』を打ち出し、号令をかけるだけで復興できるものなら、世界の発展途上国はすべて豊かになっている。日本の復興をなしたのは、ひとえに国民の力である。」(P459)

 

「国民の力」であったことは確かですが「ひとえに」ではなく、国際社会やアメリカの援助が背景にあったことも忘れてはいけない視点です。

アメリカの「ガリオア資金」「エロア資金」投入、ユニセフの経済・食糧支援、中国・インドの賠償金放棄など、これらが無ければ「東京オリンピックを開催して、新幹線を開通させた」(P459)ような「日本復活」などありえませんでした。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12451233156.html

「誇りと自信の回復」を謳うと同時に「感謝の現代史」も綴らなくてはならない部分です。

209】マスメディアへの批判が一面的で当時の世界や日本の空気を反映していない。

 

「当時のマスメディアは露骨なまでにソ連や中華人民共和国を称賛し、ソ連や中国に『言論の自由がない』ことや、『人民の粛清がある』ことなどは一切報道されなかった。」(P457)

 

と説明されていますが、まず当時の目線、「時代の空気」をあまりふまえていない説明です。

ソ連や中華人民共和国は、社会主義の優位性は、プロパガンダのみならず、実際的に経済など順調に進んでいました。付け加えるならば、マスメディアが、国交がない国の様子などを正しく把握するのは現実的に難しい状況にありました。

実際,中国は毛沢東が露骨な社会主義政策に転換するまでは、順調な工業生産と農業生産を続けていました。

内戦後の中国は、共産党独裁ではなく、人民政治協商会議といういわば連立政権状態で、きわめて穏健な路線にありました。「言論の自由」も「人民の粛清」はまだ始まっていません。

ソ連も1950年代は体制転換の時期です。1953年の「スターリンの死」以降、大きく政策が転換されていきました。50年代後半のソ連は、フルシチョフの経済改革が進み、人工衛星の打ち上げ、大陸間弾道ミサイルの開発、などなど、資本主義諸国に対する「目に見える形」での優位性を示していました。

こういう世界史的な背景をみれば、「ソ連や中国への評価」はマスメディアのみならず、政治家も感じていて、とくに保守勢力は危機感を募らせていくことになります。

 

「現代では信じられないことだが、昭和三〇年代には、朝日新聞をはじめとする左翼系メディアは口を揃えて、北朝鮮を『地上の楽園』と褒めそやした。在日朝鮮人の多くがその記事を信じて帰国し、その結果、祖国で塗炭の苦しみを味わうことになる。(北朝鮮は貧しいだけでなく言論どころか個人の生活さえ厳しく抑圧する独裁国家で、帰国者は差別と弾圧に遭った)。」(P456P457)

 

と説明されていますが、誤りと誤解を含む説明です。

まず「地上の楽園」という呼称はマスメディアの言葉ではありません。北朝鮮及び「朝鮮総連」による自称です。新聞の記事を信じて在日朝鮮人たちが帰国したのでもありません。

「帰国事業」というのが展開され、主としてその事業のプロパガンダを信じて多くの人々が帰国を決心しました。

この帰国事業を推進したのは二つで、北朝鮮及び日本の赤十字と、「在日朝鮮人帰国協力会」です。前者は人道的帰国、後者はまさに政治的帰国を促すものでした。

当時の日本は、朝鮮戦争の特需に沸きましたが、一方で貧富の差も拡大し、そのうえ「なべ底不況」に陥りました。

また朝鮮戦争による荒廃と、政情不安定な韓国に対して、まさに針の穴のようなか細い窓口から伝わる「千里馬政策」などの社会主義政策の「成功」に期待する(中国の50年代前半の経済成長と重ねてしまった)在日朝鮮人も増えていきます。(1970年代までは北朝鮮のほうが農業・工業生産は上回っていました。)

日本共産党や日本社会党にすれば、「帰国事業」は、社会主義の優位性をアピールする機会であり、日本政府にとっては、生活保護費の削減や在日朝鮮人と左翼運動が連携する危険性を緩和するチャンスであったことから、言わば左右両派の「思惑」から在日朝鮮人帰国事業が促進されたのです。

よって「在日朝鮮人帰国協力会」は社会党議員・共産党議員はもちろん、鳩山一郎や小泉純也、などが呼びかけ人となり、超党派の議員によって構成されています。

そして1959年1月、岸信介内閣は帰国事業を認める方針を打ち出しています。

帰国事業によって結果的に塗炭の苦しみを味わう原因となったのは、マスメディアの報道よりも、左右両派から帰国事業が推進されたためです。

帰国した在日朝鮮人が「塗炭の苦しみ」を味わう原因は、岸内閣を含めた超党派議員による帰国事業推進によるところが大きかった、ということを忘れてはいけません。

 

「…メディアは北朝鮮を礼賛する一方、北と対峙する韓国のことは、独裁による恐怖政治が行なわれている悪魔のような国と報道した。」

「…岩波書店は『韓国からの通信』という、韓国の悪いところばかりを糾弾する本(一部に捏造もあった)を何年にもわたって出し続けベストセラーとなっていた。」

(P458)

 

と説明し、マスメディアや出版社を批判されているようです。

百田氏は、韓国の李承晩軍事政権を擁護されているわけではないと思うのですが、

「悪魔のような」という修飾はともかく、当時の韓国は、日本に対しては「李承晩ライン」を一方的に設定し、戒厳令を発して反対派を弾圧しました。その後、朝鮮戦争によって国土が荒廃し、その後も国内の野党を弾圧していた政権です。

情報がほとんど入らず、朝鮮総連のプロパガンダしか得られない北朝鮮と、情報が入りやすく、明らかな軍事独裁と荒廃の目立つ韓国では、当時は韓国に否定的な論調になるのは当然です。

(それに「韓国の悪いところばかりを糾弾する本」というのは、現在でも多数出版され、ベストセラーにもなっているものもあると思います。)

 

「冷戦時代」の社会の思想の潮流というのは、やはり政権与党と野党の対立、政権ノ右傾化に対する批判勢力の左傾化、という二項対立が起きやすいものです。

左派勢力の誇張された批判やプロパガンダがあれば、同じ質・量の右派勢力の誇張された反論やプロパガンダもありました。

左右どちらの主張も、極端な議論に陥ったときは「事実をもとにされてきたというにはほど遠く」「特定のイデオロギーでねじ曲げられてきた」(P458)という側面を持っていたといえます。

それでも、「55年体制」は左右の「二大政党制」とはとてもいえない、「2/3弱与党と1/3強与党体制」というもので、保守優勢が保たれ続けていました。

この政治状況は、(冷戦終結までは)国民は与党の経済政策・外交政策に一定の理解を示しながらも、軍国主義の復活や極端な右傾化を嫌っていた結果であった、とみるべきだと思います。