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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

208】「新安保条約」を「正しく評価しているとはいえない」。

 

「GHQは、日本人が容易に憲法を改正できないようにと、非常に高いハードルを設けていたのだ(憲法第九十六条に、憲法改正の国民投票を提起するには国会両院で三分の二以上の議員の賛成による発議が必要と定められている)。」(P455)

 

と説明されています。

憲法は「硬性憲法」と「軟性憲法」の二種類があるのは中学生でも学習します。雑に言えば「改正しにくい」憲法と、「改正しやすい」憲法のことです。

当時(現在も)、改正しやすさ、しにくさの分岐点は、議会においては議員の過半数多数決か2/3以上多数決かが一般的で、これはアメリカ合衆国も、スペインもドイツも、この方式を採用しています。とくに「非常に高いハードル」ではなく、「硬性憲法」としては標準的です。

「GHQは日本人が容易に憲法を改正できないように」と百田氏は決めつけておられますが、大日本帝国憲法の第73条をご存知無いのでしょうか。

 

第1項 将来ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅令ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ

議ニ付スベシ

第2項 此ノ場合ニ於テ両議員ハ各々其ノ総議員ノ三分ノ二以上出席スルニ非ザレバ議事ヲ開クコトヲ得ズ出席議員ノ三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非ザレバ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ズ

 

出席議員の規定まで含まれているので、大日本帝国憲法は日本国憲法よりもはるかに「硬性」で、もし百田氏の言を借りて説明するならば「GHQは、日本人が憲法を改正しやすいように」制限を緩めた、とも説明できます。

2/3以上多数決は大日本帝国憲法を継承しています。

現行憲法や大日本帝国憲法の基本的な内容は理解されておいたほうがよかったのではないでしょうか。

 

さて、新安保条約について、次のように説明されています。

 

「岸信介首相は安保改定のためにアメリカ側と粘り強く交渉を続け、ついに昭和三五年(一九六〇)、日米安保を改正した新条約に調印した(新安保条約)。これにより、アメリカには有事の際に日本を防衛するという義務が生じ、さらに今後は日本の土地に自由に基地を作ることはできなくなった。そして国内の内乱に対してアメリカ軍が出動できる、いわゆる『内乱条項』も削除された。」(P455)

 

とありますが、有事の際、アメリカが日本を防衛する義務ができた、という説明はやや一面的で、「共同防衛」という形にすることでアメリカを引っ張り込んだだけです。

ですから、日本にも相応の義務が発生しました。

 

第三条では、締約国は「個別的に及び相互に協力して」「自助及び相互援助により」、「武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を、憲法上の規定に従うことを条件として、維持し発展させる」と記しています。第五条でも、「自国の憲法上の規定及び手続に従って」「共通の危険に対処するように行動することを宣言する。」と記されています。

これをそのまま読めば、「『この改正によって、日本はアメリカとの戦争に巻き込まれる』という理屈を掲げて反対し…」と説明されていますが、巻き込まれる可能性はもちろんあります。

また、「自国の憲法上の規定及び手続に従って」という部分がある以上、もし憲法が改正されれば、この条約に直結することにもなるので、ますます「アメリカの戦争」に巻き込まれる可能性は高まる、という意見を述べる人たちの懸念もわかると思います。条文解釈的には一方的に誤りとは断言しにくい部分です。

 

「傘下の労働組合や学生団体を扇動して」と安保反対側の「過度な運動」ばかりを強調されていますが、安保賛成側も、同じように賛成する傘下の団体に「協力」を求めていたのも事実です。

反対側に過激なデモを展開するグループ・団体がいたのも確かですが、賛成側もかなり過激行動をするグループ・団体もいましたよ。

実際、「安保闘争」を境にして、一方の団体による、いわゆる「街宣カー」の活動が始まっています。

いつの時代にも、ある一つの法案に対する過激な賛成論、反対論は存在しています。

そのどちらか一方のことを大きく取り上げ、もう一方の過激さに触れないのは著しくバランスを欠いた説明です。「安保闘争」の説明を単純化してはいけないと思います。

「デモに参加していた夥しい大学生は、新安保条約の条文を正しく理解していなかったばかりか、読んですらいない者が大半で、日本社会党や共産党に踊らされていただけの存在だった。」(P455P456)という説明はあくまでも百田氏の感想です。

そんなことを言い出せば、賛成派に動員されていた団体・グループもどれほど安保条約を理解していたかどうかわからないところです。

大学などでは、安保条約の内容検討会や討論会、街頭での説明など様々な活動も学生たちは展開していました。その反面、学生運動にまったく興味のない「ノンポリ層」もいましたが、そういう学生と混同してはいけないと思います。

 

「自然承認の成立を前に、岸は首相執務室に、弟の佐藤栄作大蔵大臣(後、首相となる)といた。佐藤は「兄さん、二人でここで死のうじゃないか」と言ってブランデーをグラスに注ぎ、兄とともに飲んだという逸話が残されている。」(P456)

 

と、美談仕立てで、当時の官邸内の様子を説明しています。私もこの逸話は好きなほうで、政治家だった親戚のおじさんから、与野党の新安保当時の裏話を聞かされました(むろん誇張か過小か真偽は不明ですが)

しかし、官邸の外はデモ隊と警官隊の衝突もあり、賛成派の反社会的勢力がデモ隊を襲撃する事件も起こっています。デモに参加していた東京大学の学生樺美智子が死亡する事件も起こっています。

過激化したきっかけは樺美智子の死の知らせが届いた後です。

デモ隊の人数は、主催者発表33万人、警察発表13万人なのですが、百田氏は「国会と首相官邸には三十三万人のデモ隊が集結した」と、デモ隊発表の数字を採用して説明されています。

しかし、大部分のデモ隊と警察官は非暴力的で、「33万人の騒乱」として説明されてはいますが、負傷学生400人、死者1人、逮捕者200人、警察官負傷300人という状況でした。

 

「こうして岸はデモ隊の襲撃による死を覚悟したが、いささかも信念を曲げることなく、新安保条約を成立させると、一ヶ月後、混乱の責任を取る形で総辞職し、議員も辞職した。まさに自らの首をかけた決断であった(総辞職の前日、テロリストに指されて重傷を負っている)。」(P456)

 

と説明されています。これではこの「テロリスト」が安保闘争の関係者のように思われてしまいます。岸を負傷させた人物は、安保とは無関係のことで岸を襲撃しています。

 

「岸は治安のために、防衛庁長官に自衛隊の出動を申請するが、赤城宗徳長官は、『自衛隊が国民の敵になりかねない』と言って拒否した。」(P456)

 

と説明されています。ちなみに、赤木長官が後に語った言葉を紹介します。

 

「仕方なく辞表を懐にして行ったよ。部隊を出す以上勝たなければならないが、それには銃を使用しなければならない。しかし全学連といえども国の若者である。国軍に国民を撃てとは私には命じられない。だから出動を命じられれば、辞表を出す他なかった。だって、軍人たちに聞いたら、素手で出したのでは勝てる自信がないって云うんだもの。」

「丸はだかで,武器も持たずに出動すれば、機動隊よりも弱体だ。」

「再度正式に要請されればわたしとても承認せざるを得ない。」

 

『今だからいう』(赤城宗徳・文化総合出版)

『中村龍平オーラルヒストリー』(防衛省防衛研究所戦史部編)

 

ところで、岸が防衛庁長官に自衛隊の治安出動を命じたならば、指揮系統として拒否はできません。この話は、「治安閣僚懇談会」で佐藤栄作・池田勇人が赤木長官に要請したときの話です。(『自由民主党党史第2巻』自由民主党党史編纂会・編)

「自衛隊が国民の敵になりかねない」という発言は不正確で、インターネット上の説明でしかみられないものです。

 

「岸は、『安保改定がきちんと評価されるには五十年はかかる』という言葉を残しているが、日本のマスメディアは五十年以上経った今も、この時の安保改定および岸の業績を正しく評価しているとはいえない。」(P457)

 

と説明されていますが、「安保条約」を「正しく評価」するために触れなくてはならない第2条に百田氏はまったく言及されていません。

 

安倍晋三首相が、まだ首相になられる前、何かのテレビ番組の座談会だったか何かで、

新安保条約のことを話されていました。安倍首相が小学生の頃(すいません、中学生の頃だったかも)、先生が安保条約のことを否定的に説明されたとき、第2条の項目を説明して反論した、という思い出話をされていました。

「どなたもなかなか評価しないところなんですが…」と、第2条を解説されて安保条約の「業績を評価」されていたことをよく覚えています。

これが「経済協力条項」です。

 

「…締約国は、その国際経済政策におけるくい違いを除くことに努め、また、両国の間の経済協力を促進する。」

 

二つの意味がありました。これでアメリカとの共同防衛が約束されたのみならず、日本への様々な経済協力を得られることができて、高度経済成長に弾みをつけることが

できました。

そして、日本は、共同防衛において、軍事的な協力を経済的な協力に置き換えられて、憲法9条に直接触れることがないように活動しやすくなった、ということです。

 

新安保条約の改定において、共同防衛義務の話や内乱条項の削除の話だけでは、安保条約の業績を「正しく評価しているとはいえない」と思います。

 

207】日米安全保障条約が結ばれる国際的な情勢とプロセスの説明が不十分である。

 

「…憲法第九条により自前の軍隊を持つことができず、自国の領土と国民を自ら守る能力がないというきわめて脆弱な国でもあった。」(P452P453)

「サンフランシスコ講和条約が成立すれば、すべての占領軍は日本から撤退することになっていたが、その時点ではまだ朝鮮戦争が続いており、アメリカ軍が撤退すれば、軍隊を持たない日本がたちまち安全保障上の危機に陥るのは明白だった。」(同上)

 

と説明されていますが、サンフランシスコ講和会議への過程においての連合国軍内の「合意」や世界史的背景をふまえていない説明です。

 

ダレスの「平和七原則」というのがあります。1950年に、日本の独立に向けての「方法」が示されています。

「国際連合が実効的責任を負担するというような満足すべき別途の安全保障とりきめが成立するまで、日本国区域における国際の平和と安全のために」、米軍が日本に駐留し、「その他の軍隊」(日本の軍事力)と引き続き協力するという方式が提起された(シリーズ昭和史№11・サンフランシスコ講和・佐々木隆爾・岩波ブックレット)

のです。

これにイギリスが同意します。そして日本軍国主義の復活を懸念するニュージーランドとオーストラリアを、1951年1月に「説得」しました。

アメリカは、ニュージーランドとオーストラリアの安全を保障するとともに、「日本の脅威からも守る」という担保を与えて同年2月、三国協定を結びました(これが後の「太平洋安全保障条約」“ANZAS”になります)

つまり、サンフランシスコ講和条約が結ばれても、アメリカ軍は撤退しない、ということは決定されていて、「日本はたちまち安全保障上の危機に陥る」ことはありません。

日米安全保障条約は、まさにこの「平和七原則」と「三国協定」をふまえて結ばれたものです。

ですから、「しかしこの条約には、アメリカは日本を防衛する義務があるとは書かれていなかった。」(P453)と説明されていますが当然です。オーストラリアとニュージーランドに「アメリカは日本の脅威に責任を持つ」と「約束」しているので、共同防衛という条約を結んでしまうと、日本が再軍備をし、オーストラリアとニュージーランドの脅威に再びなったときに、アメリカは日本の共同責任を持ってしまうからです。

「さらに日本国内で内乱が起きた場合は、その鎮圧のためにアメリカ軍が出動できる。」という項目も、日本に共産クーデターが起こることを想定しているだけでなく、軍国主義政権が誕生したときに介入できるようにした項目なんです。

「アメリカが日本の軍国主義化をくいとめる」というアピールを太平洋の「同盟国」に保障している意味もある条約でした。

 

「アメリカは日本を防衛する義務がない」「自由に基地を作ることができる」「内乱が起きたらアメリカ軍が出動できる」とネット上ではよく説明されています。

 

さて、改めて、日米安全保障条約の条文を紹介します。

 

第一条 …この軍隊(アメリカの駐留軍)は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によって引き起こされた日本国における大規模の内乱及び騒擾を鎮圧するため、日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。

 

しかし、これをよく読めばわかりますが、たしかに「義務」はありませんが、アメリカの意思で、共産クーデター、軍国主義政権樹立の阻止、ソ連などの侵攻から「守る」ことができる条約になっています。

当時、アメリカがこの「意思」を実行しないはずはない、そしてアメリカのオーストラリアやニュージーランドとの協定、「七原則」をわかっていたからこそ吉田茂は日米安全保障条約の調印をおこなったのです。

よって当時においては、「日本にとって不利、不平等な内容」(P453)とは断言できないのが実際でした。「不平等だが日本には有利」な条項です。

 

韓国の「李承晩ライン」が説明され、竹島の不法占拠、日本の漁船への取り締まりを指摘(P453)し、「拿捕された日本漁船は三百二十八隻、抑留された船員は三千九百二十九人、死傷者は四十四人にのぼる。抑留された漁民には残虐な拷問が加えられ、劣悪な環境と粗末な食事しか与えられず、餓死者まで出た。」(P454)と説明されていますが、この数字や抑留者の様子は何を典拠としたものでしょうか。

『海上保安庁三十年史』で、「北朝鮮と韓国による」拿捕が327隻、抑留船員3911人、というのが確認できました。近い数字ですが、北朝鮮による拿捕・抑留も合計していると思われます。また、抑留された人たちの回想のようす(例えば昭和28年のアサヒグラフ10月7日号など)から「劣悪な環境」「粗末な食事」という様子は十分窺えるのですが、

韓国に抑留された後に収容された場所で「残虐な拷問が加えられた」という話は見られません。拿捕されたときに暴行を受けた話は出てきますが、これは「抑留後の拷問」とは言えません。また、「餓死者まで出た」の話も確認できません。これは皮肉ではなく、韓国での「抑留後の拷問」「抑留中の餓死者」の記録や回想があればたいへん知りたいことなので是非教えてもらいたいところです。

206】「戦犯の赦免運動」と「赦免決議」に誤解がある。

 

「独立後、極東国際軍事裁判(東京裁判)によって『戦犯』とされていた人たちの早期釈放を求める世論が沸騰し、国民運動が起こった。日本弁護士連合会(日弁連)が『戦犯の赦免勧告に関する意見書』を政府に提出してこの運動を後押しした。」(P451)

 

と説明されていますが、少し微妙なところです。6月7日に「戦犯の赦免勧告に関する意見書」が政府に出されたことをきっかけに戦犯釈放運動は全国運動に発展します。

 

「何とのべ四千万人にのぼる署名が集まった」というのはどうでしょうか。この数字を確認できる資料は存在しません。しかし、大きな盛り上がりをみせたことで一千万人ほどの署名が集まったのではないか、と考えられています(これだけでも十分な署名数なのですが…)

 

「昭和二八年(一九五三)、『戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議』を国会に提出し、八月三日、衆議院本会議において、日本社会党、日本共産党を含むほぼ全会一致で、戦犯の赦免が決議された。」(P452)

 

これも微妙な説明です。「日本共産党を含むほぼ全会一致」というのは、どうでしょう。52年の衆議院法務委員が、本会議で共産党議員が反対を表明していますし、1953年当時、日本共産党は国会の会派を持っていません。

また、国会決議は、議長が採決し、「御異議なしと認めます。」という形式でおこないます。小会派の個々の議員の動向は記録されません。この形式を「全会一致」と説明されているのは不正確です。(55年決議の場合は労農党も反対しています。)

 

「まさしく日本人全員の総意であったといえる。また、これはGHQによる『WGIP』の洗脳にこの時点では多くの日本人が染まっていなかったということでもあった。もし洗脳が完全に行なわれていたなら、戦犯赦免運動など起こるはずがなかった。洗脳の効果が現れるのは、実はこの後なのだった。」(P452)

 

と説明されていますが、これはさすがに無理がある説明ではないでしょうか。

あれだけ、1945年から1946年にかけて、「WGIPの洗脳」を強調し、「かくの如く言論を完全に統制され、ラジオ放送によって(当時はインターネットもテレビもない)洗脳プログラムを流され続けば、国民が『戦前の日本』を徹底的に否定し嫌悪するようになるのも無理からぬことだ。」(P424P425)とまで説明されていました。

「何よりも恐ろしい」深い洗脳で、「日本人の精神を粉々にし」(P425)たはずが、

「この時点」(1953)では「まだ」染まっていなかったというのでは、説得力に欠けます。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12450537290.html

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12450589286.html

 

「WGIP」は「戦争責任を伝える計画」にすぎず、洗脳するような計画ではなかったということは、戦後の「戦犯の赦免勧告に関する意見書」及びそれを契機とする運動がむしろ証明しているのではないでしょうか。

正直、「WGIP」なるものが戦後の歴史観を形成したと説明し、戦後の歴史観を史料や社会科学的検討によって反論・批判するのではなく、「WGIP」によって洗脳されている、という表現で否定する手法から離れられたほうがよいと思います。

かなりの無理があり、近現代の全体像を(本来、百田氏が主張したいことまでも)歪めてしまっていると思います。

終戦後、日本人は、戦前の軍国主義とプロパガンダが誤っていたことに自力で、あるいは戦後内閣の説明で気づき、さらに復員兵の話で知った事実、自分たちが戦時中うすうす気づいていたことが、GHQが提供した「真相はこうだ」「太平洋戦争史」で再確認して「大東亜戦争」の実態を理解したのです。

その上で、東京裁判の判決を受け入れながらも、A級戦犯も、BC級戦犯も、実は軍国日本の犠牲者ではなかったのか、ということにも気づき、独立を回復したことを契機に、いまだ国外で、あるいは国内で服役している人々の赦しを諸外国に求めたのです。

もともとアメリカや国連、およびユニセフなどの機関は、日本の復興に手をかしてくれていました。戦後の戦犯赦免もまた「日本の復興」の一環であると国際的に理解してもらえたと考えるべきではないでしょうか。

 

サンフランシスコでの吉田茂全権の演説を紹介します。

 

「この平和条約は復讐の条約ではなく、『和解』と『信頼』の文書であります。日本全権は、この公平寛大なる平和条約を欣然受諾いたします。」

「アジアに国をなすものとして、日本は他のアジア諸国と緊密な友好と協力の関係を開きたいと熱望するものであります。」

「それらの国々と日本は伝統と文化・思想ならびに理想をともにしているのであります。」

 

この吉田の演説は、中国やインドへの「メッセージ」ともなり、中国国民党政府とは1952年4月に講和が成立し、中国は賠償請求権の放棄で「吉田が示した日本の意思」に応えました。

さらにインドも6月、平和条約を日本と調印し、同じくすべての賠償請求権を放棄する、としました。

これらが「戦犯赦免」の国際的同意にあったことを忘れてはならないと思います。

205】「全面講和」と「単独講和」の意味と背景を誤解している。

 

「日本の急速な復興を見たアメリカは、日本の独立を早めて、自由主義陣営に引き入れようと考えた。実はこの時まで、日本の独立はいつになるかわからなかったのだ。」(P450)

 

と説明されていますが、当時の「世界情勢」をふまえていない結論です。

まず、「日本の急速な復興」が早期講和のきっかけの一つと言えなくはありませんが、アメリカ、ソ連の「冷戦」の深化に理由を求めるのが普通です。

とくに朝鮮戦争で、アメリカとソ連の対立は決定的となりました。

実は、早期講和の話は1946年から何度もあったんです。

まず、誤解してはいけないのは、「連合国」と戦ったのですから、連合国と講和するのが常識です。実際、1943年に降伏したイタリアは全面講和ですし、オーストリアは、英・米・仏・ソの四ヵ国に独立を承認され、195510月には「永世中立」を宣言し、

冷戦のいずれにも与しない非同盟・中立の独立国になっています。

 

まず、百田氏は「単独講和」と「全面講和」の意味を誤解されています。

「全面講和」というのは、「連合国」と講和する、という意味で、「数」の多寡の話ではないのです。

ところが、冷戦の深化と内戦のせいで、日本が対象とする「英・米・ソ・中」が、内戦の「中」、「英・米」、「ソ」に3分裂してしまいました。

本来は、講和は戦争をしていた「連合国」と結ぶのがスジなのに、連合国側の「事情」で対象が分裂してしまったのです。

国際常識では、「連合国」と講和を結ばないかぎり、戦争は終結できません。

が、しかし、「連合国」が分裂してしまっている以上、「それぞれ」と講和しないと、いつまでたっても話が進まない、というのが「単独講和」です。

冷戦の図式から言うと、「連合国」と結ぶというのが「全面講和」、「資本主義陣営と社会主義陣営」どちらか一方と結ぶのが「単独講和」なんです。「数の多寡」ではありません。

ですから、

 

「日本と戦ったアメリカやイギリスやフランスなど世界の四十八ヵ国という圧倒的多数との講和を、『単独講和』と言い換えるのは悪質なイメージ操作である。」(P450P451)

 

と説明されているのは単なる勘違いです。むしろこのような説明のほうが「単独講和」と「全面講和」の意味に誤解を与えかねません。

 

「朝日新聞をはじめとする当時のマスメディアも『単独講和』が良くないことであるかのような報道を繰り返した。」(P451)

「当時のメディアと知識人は自らのイデオロギーと既得権保持のためなら、日本を独立させなくてもかまわないと考えていたのだ。」(同上)

 

と説明されていますが、そもそも外交は「善悪」ではありません。

「全面講和」は原則論で、これに対して「単独講和」は情勢の変化に合わせた現実論でした。

ただ、当時の冷戦状況を鑑みた場合、東西両陣営の一方と講和を結ぶことは、一方との戦争の可能性が現実問題としてありました。なにしろ一方は、中立条約を破棄して攻めてきた「実績」を持つソ連です。しかも、「冷戦」とは米・ソが直接対決しないだけで、「周辺」では戦争になっています。とくに目の前では朝鮮戦争が起こっているではありませんか。

多くの人々が「全面講和」をのぞんだことは一理も二理もありました。

ですから、政府は同時に、もしソ連が攻めてきた場合は、アメリカが代わりに戦う、という安全保障条約をセットにしてきているのです。

この裏付けがあったからこそ吉田茂も「単独講和」を推進できたのです。

 

「主権もなく、したがって外交の権限もなく、外国(アメリカ)の軍隊が国土と国民を支配している状況を良しとしていたのだ。」(P451)

 

と批判されていますが、「主権はある、外交の権限はある、しかし外国(アメリカ)の軍隊が国土に駐留している状況を良し」として「独立」したことを忘れてはいけません。

 

「時の首相、吉田茂は、東京大学総長の南原繁の名を挙げ、彼を含めて牽強付会の論を振りかざして講和に反対する学者たちを、『曲学阿世』と呼んだ。『世に阿るインチキ学者』という意味の言葉である。」(P451)

 

と説明されていますが、これは首相としての議会での公式発言ではまずありません。

自由党両院議員総会での発言で、南原繁も、いわば「場外乱闘」の形でこれに応えた「論戦」でした。まぁ、政治家と学者の対決、そして吉田茂のキャラクターも相まって、マスコミは面白おかしく書き立てましたが、「全面講和」と「単独講和」は両者とも真摯な論戦を展開しています。

ちなみに「曲学阿世の徒」とは「学を曲げて世に阿る者」という意味で「インチキ」という意味はありません。

当時の国際情勢から考え、当時の日本の人々の思いから考えると、「牽強付会」とはとてもいえません。

どちらも「理」がある論争ですが、私も個人的には吉田茂、佐藤栄作が進めた「単独講和」がよかったと考えています。だからといって一方の理論を貶んだり、一方の世論の考え方を否定したりはしません。

 

「戦後わずか六年で、日本の言論界はこれほどまでに歪んでしまっていたのだ。」(P451)

 

とありますが、むしろヨーロッパのオーストリアのように冷戦のまっただ中で非同盟・中立を実現した国もあるので、「全面講和」「非同盟・中立」は絵空事ではありませんでした。

当時の政府は「一方を選択した」というだけのことです。

 

「そこでスターリンは日本のコミンテルンに『講和条約を阻止せよ』という指令を下したといわれている。」(P450)

 

という言説にいたってはまったく根拠がありません。

そもそもの前提として、アメリカとソ連は、すでに「アメリカによる日本支配の優先権」と「ソ連による東ヨーロッパの優先権」をBargain(取引)しています。

ソ連のほうも、折り込み済みで、「…しかし日本の独立は、ソ連にとっては非常に都合の悪いものだった。独立した日本が西側の自由主義に加わるのは明白だったからだ。」というのはこういった「裏の外交」をふまえていない説明です。

結果としてソ連は、日米安全保障条約を非難しながら、北方四島を実効支配したままでいられましたし、東アジアにおける中・朝への影響力を担保する外交カードを握れました。

むしろソ連にとってはこの段階では、「単独講和」をしてくれたほうが都合がよい側面もあったのです。

 

『日本外交史27 サンフランシスコ平和条約』(西村熊雄・鹿島研究書出版)

『講座日本歴史11・12』(歴史学研究会・日本史研究会編・東京大学出版会)

『日本通史Ⅲ 国際政治下の日本』(宮地正人・山川出版)

『シリーズ昭和史№11』「サンフランシスコ講和」(佐々木隆爾・岩波ブックレット)

 

 

204】中国共産党の「土地革命」を誤解している。

 

「中国大陸では蔣介石率いる国民党と毛沢東率いる中国共産党が内戦を再開し、昭和二四年(一九四九)に中国共産党が勝利して『中華人民共和国』が生まれた。」(P448)

 

と説明されています。そして中国共産党が勢力を得た理由を「一村一焼一殺、外加全没収」と呼ばれる方法にある、として

 

「具体的には、地主を人民裁判で処刑し、全財産を没収した上で、彼の土地を村人に分け与え、その代わりに村人から何人かの若者を中国共産党に兵隊として差し出させた。こうして力を得た中国共産党は、国民党に勝利して全土を支配すると、土地はすべて国家のものであるとして、農民から土地を奪い取った。」(P448)

 

と説明されています。どうも、百田氏は、いろいろ誤認されていて時系列も誤っています。

前回、説明した「ソ連」の説明でも誤解があり、1945年~1948年、1949年以降の説明が混同されています。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12451390843.html

 

「無理矢理共産化して、ソ連の衛星国家とした。」(P448)1949年の「スターリン主義」時代の話で、1945年~1948年は、東欧諸国は概ね、ナチスから解放し、戦争を終結させてくれたソ連の赤軍を受容し、共産党を含む連立政権を建てているんです。

百田氏のイメージする「ソ連の衛星国」は1949年以降で、ここから非民主的な個人崇拝、独裁的な共産党政権が出現していきます。

中国の場合も、段階的に理解しないと、誤った説明になります。

まず、1927年、第一次国共合作が崩壊すると、共産党は「武装蜂起」を図ります。

毛沢東らは井崗山に入り、山岳地帯を中心にゲリラ戦を展開していきました。そして山賊や夜盗の類いの集団を糾合し、彼らを共産党式に組織化していきました。「毛沢東は夜盗の親玉で共産党は山賊集団だった」という言説で批判する人たちはこのときのことを一面的にとらえて説明しているだけです。

共産党式組織化は、きわめてシンプルで、「打富済貧」、つまり富める者から奪い貧しい者へ施す、をスローガンにし、「三大紀律」を徹底したものでした。

「行動は必ず指揮に従う」「人民の者は絶対に奪わない」「土豪から取り上げたものは分配する」というもので、これを徹底させ、民謡風軍歌にまでして広く歌わせています。こうして地主の土地を没収し、農民に分配する、という「土地革命」を勧めていきました。そして「工農紅軍」が組織されることになります。

「三大紀律」が徹底されたからこそ、共産党は地方の農民たちの支持を得て勢力を拡大できたのです。夜盗や山賊の集団なら、民衆の支持を得られていません。

ですから、「農民から農地を奪い取った。」などという説明は誤りで、「地主から農地を奪い、農民に土地を分け与えた」と説明すべきです。

しかも、これらは国共内戦が始まる1945年より前、日中戦争が始まる前の話です。そして「一村一焼一殺」などというスローガンはこの時、使用していません。

社会主義的色彩の濃いこれらの政策は、日中戦争が始まると国民党と手を組むときの障害になります。そこで共産党は、「土地革命」を「分配」から「減租」に切り替えます。

日中戦争が終わり、国共内戦が始まっても、「一村一焼一殺」などという方法をとっていません。

共産党はソ連の軍事・経済援助を受けて勢力を拡大する一方、国民党の腐敗や蔣介石の独裁的な政権運営に対してアメリカが距離を置き、共産党は国民党以外の諸民主勢力を糾合することに成功します。

共産党が「中華人民共和国」を建てたわけではなく、実は、国民党抜きの「連立政権」として人民政治協商会議が開かれて、「中華人民共和国」が成立しているんです。

共産党を含む諸派と連合して、日本軍国主義と戦う、そして日中戦争後は、共産党を含む民主諸派と連合して国民党と戦う…

これが人民戦線方式です。

ですから、1949年、中華人民共和国が成立してから1954年くらいは、共産党独裁国家でもなく、主席毛沢東、総理周恩来とする諸派連立政権です。

実際、制定された臨時憲法にも、「共産党の指導」「社会主義」という文言は一切出てきません。副総理・閣僚の半数は非共産党なんです。

1950年になってから「土地改革」を始めますが、「富農経済の保護」を打ち出し、「穏健で秩序ある改革」でした。

このため、農業生産高は一気に増加し、工業生産も順調に伸びていきます。

ところが…

1952年、突如、毛沢東は「社会主義国家建設」を唱え始めます。翌年、ソ連型の社会主義計画経済をモデルにした第一次五ヵ年計画を開始し、農業の集団化に取り組み出しました。ここからが、百田氏が説明するような苛烈な、土地の収奪、集団化が始まっていくのです。百田氏は、この話と国共内戦前にも共産党が力をつけた背景を混同して説明されておられます。

ここから閣僚ポストはすべて共産党が握り、毛沢東は自己の政策に反対する勢力を次々に粛清し、スターリン主義を模した独裁体制に入っていくのです。

 

社会主義経済の柱は二つで、一つは「生産手段の公有化」、もう一つは「計画経済」です。1954年以降、中華人民共和国は共産党一党独裁体制となり、この二つを性急に進めていって、毛沢東は失敗することになります。

 

ソ連と中国の、1945年から1956年までの政策を混同して誤解された説明となっているようです。

 

さて、朝鮮半島で二つの国、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の成立(1948)の話もされています。そして、

 

「朝鮮半島と中国大陸に共産主義国家が誕生したことで、極東でも冷戦状態が生まれた。皮肉なことに、このことがその後の日本の命運を分けた。日本を東アジアにおける共産主義の防波堤にしようと考えたアメリカは、日本を農業国にしようというそれまでの政策から、工業国に戻す方針に転換したのだ。」(P449)

 

と説明されていますが、不正確です。

いわゆる「逆コース」として、「…その後、官公庁、大企業、教育機関などから共産主義者およびそのシンパの追放を勧告した(レッド・パージ)。これにより一万数千人以上の人が様々な職場から追放された…」(P436)と百田氏自身が説明している通りの動きになりますが、「日本を農業国にしようというそれまでの政策から、工業国に戻す方針に転換したのだ。」(P449)という説明は不正確です。

GHQは日本を「農業国」にするつもりはありませんでした。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12451233156.html

 

何より、1946年8月に「経済安定本部」が設置されています。

この官庁は、「ニューディール派官僚」とよばれる1930年代のローズヴェルト政権の「ニューディール政策」を勧めたメンバーから成り立っているものです。

そして推進されたものが「傾斜生産方式」で、「鉄鉱、石炭産業の復興を推進力として他産業を発展させる」というものです。1947年から輸出も再開されましたし、政府主導の「計画造船」が開始され、造船業も復活していきます(もともと軍艦製造などの技術を日本は持っているので、ここを足がかりに産業を発展させていきます)

これらは1947年1月に創設された復興金融公庫による基幹産業への資金供給が背景にありました。