『日本国紀』読書ノート(187) | こはにわ歴史堂のブログ

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187】東京裁判は「報復措置」の一つではない。

 

「極東国際軍事裁判」と題してP413からP414にかけて説明が行われています。

まず、冒頭、「連合国軍は占領と同時に日本に対して様々な報復措置を行なったが、その最初は『極東国際軍事裁判』(東京裁判)であった。」と説明されています。

 

「報復」と考えていたのは、アジア太平洋戦争中の戦争指導者たちです。

終戦末期から彼らは「戦犯」となることをおそれ、ポツダム宣言に対して「戦争犯罪人の裁判は日本の手でおこなう」という条件を付けようとしていたことからも明らかです。

ポツダム宣言に第6項に「日本国民ヲ欺瞞シ之ヲして世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ、永久ニ除去セラレザルベカラズ」とし、さらに第10項には「吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ、又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザル…」と明言し、「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ、厳重ナル処罰ヲ加へラルベシ」としています。

ポツダム宣言を日本は受け入れ、降伏文書に調印したのです。日本政府はこれを履行する義務があり、GHQとマッカーサーにはこれらの占領目的を達成する責務がありました。これを「様々な報復措置」と説明するのは一方的です。

 

「これは裁判という名前は付いてはいたが、『罪刑法定主義』という近代刑法の大原則に反する論外なものであった。わかりやすくいえば、東京裁判では、過去の日本の行為を、後から新たに国際法らしきものをでっちあげて裁いたものだった(事後法)による判決。」(P413)

 

と説明されています。

これはもっともよく説明される「東京裁判」批判の一つです。

実は、「国際法」というものは、いわゆる各国の個別の法とは異なり、普遍的なものにしかもともと適用できないものです。国の伝統・文化・価値観によって成立している法は、刑罰・罪状について、同じ犯罪でも刑罰は異なります。

よって、「罪刑法定原則」というのは適用しにくいもので、人権や平和、侵略、など「抽象的なもの」を対象にするしかありませんでした。

日本の戦争が国際的にみれば三国同盟によってナチス・ドイツの「追随者」(新体制運動にも表れている)としての戦争とみなされ、1945年6月のロンドン会議においてドイツの方式に倣って戦争責任を裁くことが決まりました。

「戦争指導者の戦争責任」を裁く「先例」は実は第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約第227条にあり、これに基づいてドイツ皇帝を裁く特別法廷が開催される予定でした。しかし皇帝の亡命先のオランダが引き渡しを拒否したため、開催されなかっただけです。

東京裁判で、日本側弁護人高柳賢三は、パリ不戦条約の「国際紛争解決のための戦争の否定」は「自衛戦争」には該当しないと主張をしていますが、戦争の計画・準備・開始・遂行、及びその共同謀議は、国際法に反する、という考え方は第一次世界大戦後、ひろく国際的には通用していた考え方で、具体的な刑事罰をともなっていなかっただけなのです。

「人道に対する罪」「平和に対する罪」は、国際法上は、第一次世界大戦後、国際的な合意として存在していたといえます。

「判決文」は、「本裁判所には平和に対する罪などを定めた裁判所条例を審査する権限はない」という立場をとり、55の訴因のうち、判決で認定を与えられた訴因は10にしぼられ、そのうち8つは「平和に対する罪」に属するもので、残りの2つは「通例の戦争犯罪・人道に対する罪」でした。

絞首刑判決を受けた、板垣征四郎・木村兵太郎・土肥原賢二・東条英機・広田弘毅・松井石根・武藤章の7人は、訴因第54条の「通例の戦争犯罪を命令、授権もしくは許可した罪」か、訴因第55条の「故意または不注意によって戦争法規違反の防止義務を怠った罪」のいずれかで有罪と認定されました。

「侵略戦争の共同謀議」はなく、「日本軍の犯した残虐行為に対して責任を負うべき地位にあった」という点で有罪となっています。

この点、ナチスの戦犯とは明確に異なるところで、日本側の弁護団の主張は通っているというべきでしょう。

 

「ただ、この裁判の判事の中で国際法の専門家であったインドのラダ・ビノード・パール判事は、戦勝国によって作られた事後法で裁くことは国際法に反するという理由などで、被告全員の無罪を主張している。」(P414)

 

これもよく取り上げられる言説ですが…

パール判事が問題にしたのは、「本裁判所には平和に対する罪などを定めた裁判所条例を審査する権限はない」という考え方で、「審査する権限はある」という点を主張し、東京裁判が国際法上に立脚しているか議論すべきと主張したのです。

訴因5455に関して言うと、パール判事は、「南京大虐殺」を東京裁判で認定していて、「パールが東京裁判は国際法に反すると主張した」という方々はこの点をなぜか触れられません。

インドのパール判事とフィリピンのジェラニラ判事は東京裁判では「異質」の存在でした。

ジェラニア判事はパール判事の意見を非難し、判決の量刑は寛大すぎて犯された罪の重大さに適していない、とより重い刑を主張し、原爆などに関してもパール判事は、原爆投下は戦争犯罪だ、と訴えたのに対して、ジェラニラ判事は原爆の使用は正当だと主張しています。

アジアの判事の判決がこのように大きく二つに分かれた点が興味深いところです。

 

私も、実は東京裁判にはいくつかの点で疑問を感じている一人です。日本の戦争指導者たちに「戦争責任」があったことは間違いなく、東条英機もこの点ははっきりと口供書で主張しています。しかし、以下の点で疑問を感じざるをえません。

検察官が、イギリス・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・中国など「被害国」から選ばれているのはわかりますが、判事を選出した11ヵ国に第二次世界大戦中の中立国から1ヵ国も選ばれていません。

そして28人の被告をみればわかるように、軍で被告とされたのは陸軍に偏っているということ(半数近くが陸軍軍人)、太平洋戦争開始時の閣僚の比率が高いということです。財閥関係者は逮捕されたものの、戦犯としては訴追を免れています。

 

以下は蛇足ですが…

(以下『東京裁判』赤澤史朗・岩波ブックレット「シリーズ昭和史№10」による)

 

「死刑判決を受けた七人の『A級戦犯』は、昭和二十三年(一九四八)十二月二十三日、絞首刑で処刑された。この日は皇太子の誕生日であったが、この日を処刑の日に選んだところに、連合国の根深く陰湿な悪意がうかがえる。」(P414)

 

と百田氏は説明されているのですが…

実は、東京裁判の「判決」後、処刑までには以下の経緯がありました。

弁護団はマッカーサーに「再審査」の申し立てをおこなっていることをご存知でしょうか。マッカーサーはこれを受け入れ、19481123日、裁判当事国11ヵ国の代表を集めて意見聴取しました。ここでカナダ・インド・オランダの代表は被告たちの減刑を求めています。しかし、他の8ヵ国は判決を支持しました。

こうしてマッカーサーは、1124日に「一週間以内に」刑を執行することを命じました。

ところが弁護団は粘ります。1129日、アメリカ連邦裁判所に訴えたのです。

これによって刑の執行は一時延期されました。しかし、アメリカ最高裁判所は、連合国の機関として設けられた軍事法廷は管轄外である、としてこの訴えを退けました。これが1220日です。

1124日の段階で、マッカーサーの決定を受け入れていたら、「皇太子の誕生日」が処刑の日にならなかったのに… という話です。