『日本国紀』読書ノート(132) | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

132】日露戦争は植民地にされてきた人々に自信を与えたが失望も与えた。

 

歴史の評価をするときの姿勢として、それは

 

「(A)であるが(B)である」というものでなければならない。

 

とは、言いませんが、多面的に、一見このように見えるが実はそうである、あるいはこうではないか? と懐疑するところに、社会科学としての側面があるんじゃないかな、と思っています。

 

(A)だけを説明して、(B)を説明しないのは、社会科学ではなくプロパガンダになってしまう場合もあるでしょう。

 

インドの元首相ネルーの言葉が紹介されていて、

 

「インドのネルー首相は十六歳の時、日本の勝利を聞き、『自分たちだって決意と努力次第ではやれない筈がないと思うようになった。そのことが今日に至るまでの私の一生をインド独立に捧げさせることになったのだ』と語っている(P321) 

 

十六歳の時に思ったのが「自分たちだって決意と努力次第ではやれない筈がないと思うようになった。」という気持ちで、「そのことが今日に至るまでの私の一生をインド独立に捧げさせることになったのだ」と思ったのは首相になってからの回顧だと思います。

 

が、しかし この話には続きがあります。

以下、『父が子に語る世界歴史』(みすず書房)によると、

 

「日本の勝利がいかにアジア諸民族を勇気づけたことか…しかし、それはすぐに失望に変わった。」

「一握りの侵略的帝国主義グループにもう一国を加えたというに過ぎなかった。」

 

と、記されています。

日露戦争の勝利がアジアの諸民族に独立の勇気をもたらしたが、それは新たな帝国主義国、日本の誕生によって大きな失望に変わった…

こう考えたアジア諸国の人々は少なくありませんでした。

教科書もこの事実をふまえ、

 

「ヨーロッパの大国ロシアに対する日本の勝利は、アジア諸民族の民族的自覚を高めたが、その後の日本は、むしろ欧米列強とならんで大陸進出を進めた。」

(『詳説世界史B』山川出版・P324)

 

そして、その後の国際的な関係をふまえて、

 

「日露戦争後、日本とイギリスは日英同盟を維持しながら、それぞれロシアと1907年に日露協約・英露協商を結んだ。これにより、日本の大陸進出は容易となった。」(同上)

 

と説明しています。

 

単に「失望」を日本は与えただけではありません。実際、「行動」も起こしています。

ベトナムでは、ファン=ボイ=チャウを中心に、フランスからの独立と立憲君主制の樹立をめざす組織が生まれました。この組織が「維新会」で、明治維新後にめざましい近代化を実現し、日露戦争に勝利した日本の姿に鼓舞されて、日本からの軍事援助を得ようと交渉したり、日本に留学生をおくって新しい学問や技術を学ぼうとする動きを推進したり(「東遊運動」)しました。しかし、日本はフランスと歩調をあわせてこれを弾圧し、留学生を国外へ退去させています。

 

「…長らく欧米の植民地にされてきた中東やアフリカの人々にも大きな自信を与え…」(P321)と胸を張って言えるものではなく、「世界の植民地で民族運動が高まることに」なったのに、それを抑圧する側にまわっていることを忘れてはいけません。

 

「バー・モウは『日本の勝利は我々に新しい誇りを与えてくれた。歴史的に見れば、日本の勝利は、アジアの目覚めの出発点と呼べるものであった』と語っている。」(P321)

 

と説明されています。

ビルマのバー=モウは、ビルマの独立のためにはイギリスに対抗して日本と手を結び、日本の協力を得るためには大東亜会議にも出席して日本を賛辞し、敗戦が濃厚になると日本に亡命し、独立後には日本の植民地支配を批判しています(『ビルマの夜明け-独立運動回想録』太陽出版)

バー=モウについては、彼がどの立場にあるときの発言なのかを精査しないと鵜呑みにはできません。

 

また、「バルチック艦隊が日本の聯合艦隊によって壊滅させられたニュース」をヨーロッパにいたときの孫文が聞いて語ったことを紹介し。

 

「此の報道が欧州に伝わるや、全欧州の人民は恰も父母を失った如くに悲しみ憂えたのであります。英国は日本と同盟国でありましたが、此の消息を知った英国の大多数は何れも眉を顰め、日本が斯くの如き大勝利を博したことは決して白人種の幸福を意味するものではないと思ったのであります。」

「列強諸国の間で日本に対する警戒心が芽生え始めたのも、この頃からであった。」

 

と、説明されています。

 

この孫文が語った話は、実は19241128日、神戸高等女学校で神戸商業会議所の5団体におこなった「大アジア主義」講演演説の一部です。

 

ここだけ切り取ってしまうと、「政治家の発言を一部切りとって紹介している」のと同じで、全文の概意は、「東洋は王道、西洋は覇道。東洋の先端を走っている日本は近代化を進めて素晴らしいが、それが最近では行き過ぎて覇道になっちゃっているよ」、「自分の革命運動をソ連は理解してくれたのに、なんで同じアジアの日本は支援してくれないの?」ということも言外にこめながら、「日本海海戦で勝ったときの欧米と同じ反応を、日本は今、していないか?」「日本はアジアの国のはず」として、「欧米覇道の鷹犬となるか、東洋王道の干城となるか」と日本にせまっているものです。

ぜひ、全文を読んでほしいと思います。

(『孫文選集』社会思想社)

(『孫文講演』「大アジア主義」資料集-192411月 日本と中国の岐路-)

 

以下は誤りの指摘ではありません。

 

「列強諸国の間で日本に対する警戒心が芽生えたのも、この頃からである。」(P322)

 

と説明されていますが、日本に対する警戒心は日清戦争の時から「芽生え」ていました。ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世やフランスが、「黄禍論」を唱え始めたからです。

この「懸念」が欧米諸国にとって「現実」となったのが日露戦争以降でした。