『日本国紀』読書ノート(172) | こはにわ歴史堂のブログ

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

172】占領地での軍政は共存共栄とはほど遠く、大東亜会議でのフィリピン・ビルマの「独立」を誤認している。

 

「日本はアジアの人々と戦争はしていない。日本が戦った相手は、フィリピンを植民地としていたアメリカであり、ベトナムとカンボジアとラオスを植民地としていたフランスであり、インドネシアを植民地としていたオランダであり、マレーシアとシンガポールとビルマを植民地としていたイギリスである。日本はこれらの植民地を支配していた四ヵ国と戦って、彼らを駆逐したのである。」(P392)

 

かなり「独特な」リクツで、帝国主義列強間の戦いを理解していない説明としか言いようがありません。

以前にも、武士どうしの戦いで民衆とは戦っていないという不思議な説明をされていましたが、ここにも一部通じるリクツなのでしょうか。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12426578988.html

 

そもそも植民地支配からの「解放」という説明は明確にプロパガンダ、というか欺瞞で、それは史料的にいくらでも証明できます。

19411120日、大本営政府連絡会議は、「南方占領地行政実施要領」を策定していて、どう読んでも「解放」と支配国の「駆逐」が目的できなく、次の支配国に「とってかわる」ための戦いであったことがわかります。

 

「占領ニ対シテ差シ当タリ軍政ヲ実施シ、治安ノ恢復、重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保ニ資ス。」という方針を掲げ、「国防資源取得ト占領軍ノ現地自活ノ為民生ニ及ボサザルヲ得ザル重圧ハ之ヲ忍バシメ、宣撫上ノ要求ハ右目的に反セザル限度に止ムルモノトス」、「原住土民ニ対シテハ皇軍ニ対スル信倚観念ヲ助長セシムル如ク指導シ、其ノ独立運動ハ過早ニ誘発セシムルコトヲ避クルモノトス」と定めていました。

「重要国防資源ノ急速獲得」こそ日本が遂行したこの戦争の根本目的であったことはすでに百田氏も繰り返し強調しておられました。

そもそもなぜ、「重要国防資源ノ急速獲得」が必要であったかといえば、日中戦争に軍事的・政治的・経済的にゆきづまっていたにもかかわらず、最大輸入先のアメリカや東南アジアを支配していたイギリスなどと対立したからでした。

アジア太平洋戦争は、「自存自衛」と「大東亜新秩序建設」と称して、戦略物資獲得のために東南アジアを「排他的経済圏」に収めようとしたものでした。

さらに、

「軍政」の基本的事項も、19411212日の関係大臣会議で「南方経済対策要綱」としてまとめられました。

戦略物資および農産物の開発、獲得にあたっては、「極力在来企業ヲ利導セシメ」とし、この方針に基づいて三井・三菱・住友などの財閥、およびその傘下の企業が占領地に進出していきました。これらの経済・開発要員はフィリピン・マレー半島・スマトラ・ジャワ・英領ボルネオ・ビルマに1943年6月までに4万人を超えています。

人の移動を占領地に行う、まさにこれを「植民」地化といいます。

占領地の通貨にはいわゆる「軍票」と、南方開発金庫が発券した「南方開発金庫券」で、これらは無制限に濫発され、占領地に激しいインフレを巻き起こします。

現地での開発、獲得に際してのマイナス分は、現地の住民への経済的負担によって解消する、という典型的な「植民地経済」が導入されています。

「解放」どころか「新しい植民地支配者」が入れ替わったのが現状でした。

 

「『大東亜共栄圏』とは、日本を指導者として、欧米諸国をアジアから排斥し、中華民国、満州、ベトナム、タイ、マレーシア、フィリピン、インドネシア、ビルマ、インドを含む広域の政治的・経済的な共存共栄を図る政策だった。」(P392)

 

という説明は、これらの事実をふまえれば、虚しく響きます。

 

「昭和一八年(一九四三)には東京で、中華民国、満州国、インド、フィリピン、タイ、ビルマの国家的有力者を招いて『大東亜会議』を開いている。実際に昭和一八年(一九四三)八月一日にビルマを、十月十四日にフィリピンの独立を承認している。」(P392)

 

と説明されていますが、この誤認を丁寧に説明したいと思います。まず、フィリピンとビルマを例にあげられているので、私もビルマとフィリピンについて説明したいと思います。

 

ビルマの場合、まず、アウンサンらは、日本軍に接触してビルマ独立の確約を得て日本軍に協力することになり、彼らは独立義勇軍を結成します。

以後、日本軍とともにビルマ国内で活動していきました。

しかし、ビルマを占領した日本は軍政をしき、ビルマ独立を引き延ばします。

すでに海戦前に「南方占領地行政実施要領」を、開戦直後には「南方経済対策要綱」を定めてビルマは軍政をしくことを決めていながら、アウンサンと「独立の約束」を

して彼らを利用したのです。

そして軍政施行後、バー=モウ長官とするビルマ中央政府は日本軍司令官のもとでの傀儡政権でした。独立を認めたのは、日本の戦局が不利になっていった1943年8月になってからのことです。

それでも、軍事・外交・経済はビルマを占領している日本軍の管理下にありました。

占領下のビルマでは軍票の濫発による経済混乱が起こり、泰緬鉄道建設のための労働者の動員が行われました。仏教の盛んなビルマでの天皇崇拝の強制はビルマの人々の強い反発を生みます。

日本の敗戦が見え始めた1944年8月、アウンサンは抗日統一戦線の結成を発表しました。1945年3月、アウンサンの指揮する人民独立軍が、日本軍とそれに味方するバー=モウ政権に対して武装蜂起し、5月、連合軍の力を借りること無くラングーンを自力解放することに成功したのです。

 

セイン=ウィン国防大臣が来日した時の発言は、多分に日本の経済援助とのひきかえのサービス・トークの色合いが強く、「わが国の独立の歴史において、日本と旧日本軍による軍事支援は大きな意味があった。」(P446)というのは、まさに日本が独立を約束してアウンサンの協力を引き出し、ビルマ占領までの時期の話にすぎないのです。

来日して現在友好関係にある国の大臣に対して、抗日統一戦線を結成して独立運動を展開した話などは当然しません。

こういう政治家の「社交辞令」は近現代史の歴史記述はあまり意味をなしません。

 

当初の日本軍によるアウンサンらへの協力、そして彼らの戦後の独立戦争で大きな役割を果たしたことは否定できませんが、最終的には、日本は彼らの「打倒の対象」となったことを説明すべきでした。

 

フィリピンの場合は、さらに明白です。

フィリピンはすでに長い独立運動のもと、1935年にアメリカから10年後の独立を約束されていました。

すでにフィリピンにはM=L=ケソンを大統領とする政府が成立していたのです。

コレヒドールの戦い後、ケソン大統領はオーストラリアに脱出してアメリカへの亡命を余儀なくされました。

マニラを占領した日本は規定通り、「軍政」をしきます。

日本の占領下のフィリピンでは、やはり軍票・南発券の濫発で経済が混乱し、「南方占領地行政実施要領」・「南方経済対策要綱」に基づいたサトウキビ・綿花の強制作付けがおこなわれました。

いわゆる「バターン死の行進」(バターン半島で降伏した捕虜を炎天下収容所まで60㎞の道のりを歩かせた事件)では、多くのフィリピン兵・アメリカ兵の捕虜・民間人が犠牲になっています。

これらの支配・圧政に対して、元フィリピン兵は山中にこもってパルチザン活動をおこない、1942年3月には抗日人民軍フクバラハップが結成されています。

戦争末期、これら抵抗勢力の一掃がおこなわれましたが、多くの住民が巻き添えとなって犠牲となりました。

「大東亜会議」の開催と、独立の約束は、1943年3月ですが、その前月、ガダルカナル島の敗戦と撤退があり、日本は軍政を転換せざるをえない状況にあったのです。

「独立」の話もありましたが、同時に「マレー、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土」と宣言されているのです。

結局、石油・天然ゴム・スズなどの戦略物資が産出される地域の独立は認めていません。

独立、といっても「形だけ」のものであることは、「此ノ独立ハ、軍事・外交・経済等ニ亙リ帝国ノ強力ナル把握下ニ置カルベキ独立ナル点特ニ留意ヲ要スル」という1942年7月8日の「軍政総監指示」に明かです。

(防衛庁防衛研究所戦史部編纂「南方の軍政」)