『日本国紀』読書ノート(171) | こはにわ歴史堂のブログ

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171】「騙し討ち」がプロパガンダならば「自衛のための戦争」もプロパガンダである。

 

「日本軍は緒戦だけは用意周到に作戦を練っていたが、大局的な見通しはまるでなかった。そもそも工業力が十倍以上も違うアメリカとの長期戦は一〇〇パーセント勝ち目がなかった。しかし、ハル・ノートを受け入れれば、日本は座して死を待つことになる。」(P386)

 

「ハル・ノート」に重点を置いて、日米開戦時の説明をする言説が多いのですが、「ハル・ノート」の内容が日本に対して過酷なものであろうとなかろうと、日本はすでに戦争の準備をし、真珠湾攻撃が進行中でした。

そもそも、「ハル・ノート」が出される前に、日本が提示したものも、アメリカにとっては受け入れられないものでした。

前にも申しましたように、日米交渉といっても、しょせん大国のエゴをすりあわせようとする日本とアメリカの帝国主義的角逐です。

戦争を開始して敗戦したからといって、「ハル・ノート」の内容が日本を追い込んだとか、日本は戦争をするつもりは、本当はなかったとか、「弁解」する必要があるのでしょうか。

11月5日の御前会議で以下を決定しました。

 

 一、帝国ハ現下ノ危局ヲ打開シテ自存自衛ヲ完フシ大東亜ノ新秩序ヲ建設スル為、

   此ノ際対米英蘭戦争ヲ決意シ、左記措置ヲ採ル

 (一)武力発動ノ時期ヲ十二月初頭ト定メ陸海軍ハ作戦準備ヲ完整ス

 (二)対米交渉ハ別紙要領ニ依リ之ヲ行フ

 

別紙の「要領」は甲案と乙案があり、25年間「北支蒙疆ノ一定地域及海南島」への駐兵が含まれていて、甲案は仏印以外へは武力進出しない、蘭印からの必要物資の獲得について協力し、資金凍結前の状態にして石油の対日供給を再開し、日中和平に干渉しないように要求するものでした。

野村大使はハル国務長官に甲案を提出しました。

日本側は「ハル・ノート」を最後通牒だ、と、説明しますが、アメリカにすれば甲案はアメリカの要求をすべて退けているのに等しく、アメリカ側は甲案を最後通牒と見做しても不思議ではない内容です。

「ハル・ノート」にせよ「甲案」にせよ、双方のエゴの衝突で、どちらか一方が正しい、不当だ、というようなものではありません。

「しかし、ハル・ノートを受け入れれば、日本は座して死を待つことになる。」ということに本当になったでしょうか。

「ハル・ノート」・「甲案」を読めばわかりますが、アジアで膨張する日本の帝国主義とアメリカ帝国主義の全面的なぶつかり合いです。

アメリカ帝国主義は日本帝国主義に対して、「円ブロック」と日本の獲得物を精算し、対英米協調路線への回帰を迫り、すでに出されていた「大西洋憲章」に見られるように「反ファシズム・反膨張主義」の理念で書かれていて、簡単に言えば「ポツダム宣言」の原型でした。

結局、日本は敗戦し、「ハル・ノート」を受諾する以上の広範な要求を「ポツダム宣言」で受け入れてしまうことになりました。

現在、日本は台湾も朝鮮半島も植民地ではなく、東南アジアも満州国も中華民国も支配下にはありませんが、世界有数の経済大国になりえています。

そのことをふりかえっても「満蒙は日本の生命線」というプロパガンダが虚構であったことは明白で、「ハル・ノート」を受け入れることは「座して死を待つことになる」ということも戦争遂行を正当化する当時のプロパガンダの一種にすぎないのです。

 

さて、プロパガンダと言えば…

日本の真珠湾の奇襲攻撃について。

 

「しかし有史以来、宣戦布告をしてから戦争を行なったケースは実はほとんどない。」

「アメリカは何度も戦争をしているが、そのほとんどの場合、宣戦布告なしに攻撃を行なっている。つまり真珠湾攻撃を卑怯なやり口と言い募ったのは、完全なプロパガンダなのである。」

 

と説明されています。

でも、これを言い出したら、「侵略ではなく自衛のための戦争だった」(P387)という理論もプロパガンダになりませんか。

有史以来、とは言いませんが、これは侵略戦争だ、とか、今から侵略します、て戦争始めた国は無いでしょう。「自国民の保護」「自衛」「膺懲(懲らしめる)」「解放」という説明はみなプロパガンダになります。

 

「…ダグラス・マッカーサーは、昭和二六年(一九五一)、アメリカ上院軍事外交合同委員会の場において、『日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのものだった』と述べている。つまり侵略ではなく自衛のための戦争であったと言ったのだ。」(P387)

 

これ、よくマッカーサーが日本の戦争は自衛戦争だったと言った、としてよく引用される話なんですが、1951年5月の上院軍事外交合同委員会、というのがポイントなんです。

実は、マッカーサーは、日本の占領中から「大統領選挙」に出ることを考えていて、実際、ウェスコンシン州での「共和党」候補の一人に名乗りをあげたことがあります。

結局指名されませんでしたが、当時の政権は、トルーマン「民主党」政権です。

もともと太平洋戦争中から、トルーマンとマッカーサーはなにかとソリが合わなかったのですが、共和党の大統領候補の予備選候補となったところから「対立」が始まっていました。

朝鮮戦争勃発後も、トルーマンは、マッカーサーの政治的言動を不快に考えていたところもあり、中国の参戦への甘い見通しと、敗戦を機会に(原爆使用発言も含めて)トルーマンはマッカーサーを1951年4月に解任しています。

解任後も、共和党はマッカーサーを民主党政権の「攻撃」に使えると考えて、民主党の「太平洋戦争」中の諸政策を批判するのに利用していました。

ローズヴェルト政権、トルーマン政権の戦争政策・外交を批判する、という文脈で、民主党政権が唱えてきた「日本の軍事行動は侵略である」という説明を批判する流れをうけての「委員会」でのこの発言であった、ということに留意すべきです。

このころ、同時に共和党政権は、ローズヴェルトの戦争政策を批判するため、さまざまな言説を用いましたが、これが「ルーズベルトの陰謀」の温床となっているのです。

発言元の多くは対立していた共和党の元大統領や議員の発言で、そこに見られる日本に有利な発言をつまみ食いして、「陰謀論」が構成されている場合が多いのです。