『日本国紀』読書ノート(79) | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

79】日本は、列強の、最後に残されたターゲットではなかった。

 

やはり、世界史に関する説明や、語句に対する使い方が正確ではありません。

 

「日本が鎖国政策をとり、世界に背を向けて『一国平和主義』の夢をむさぼっている間に、世界はヨーロッパ人によって蹂躙されていた。」(P213)

 

前にも申しましたが、べつに鎖国の目的が世界に背を向けるためでもなく、ましてや当時も今もありもしない概念「一国平和主義」などというものが鎖国の目的ではありませんでした。

 

鎖国は、キリスト教の禁止と幕府による貿易独占が目的でした。

世界に背を向けていたのではなく、16世紀から17世紀にかけての世界情勢が日本の鎖国政策と(偶然に)重なりあったからです。

まず、オランダの独立、イギリスとの対立からスペインやポルトガルが力を失い、すでにあったアジアのスペインやポルトガルからの拠点では、商業活動とその現状維持がせいいっぱいでした。

かわってオランダが進出してきますが、一次産品が豊富にある地域は軍事力で占領して「原料供給地」としますが、人口も多く、住民に一定以上の文化や購買力がある地域は「市場」としました。イギリスも同様で、なんでもかんでも植民地化していったわけではありません。

この世界の状況の中で、貿易の制限をおこないながら、スペイン船の来航を禁止し、ポルトガル船の来航を禁止し、長崎の出島でのオランダとの交易体制へと繋げていきました。巧みな「外交」だったといえます。

 

そもそも日本は「鎖国」という保護貿易の中で、自国の産業を発展させ、260余年の中で開国したときには世界に通用する(国際競争力の高い)製品を作り出せたのです。

19世紀にアジア地域が列強の「原料供給地」にされていった中で、植民地化をまぬがれたのは、この鎖国による経済力の向上の成果だったともいえます。

 

「…その後、イギリス・オランダ・フランスがそれに続き、十八世紀までに、世界のほとんどを植民地化していた。」(P213)

 

細かいことが気になるぼくの悪いクセ、ですが…

 

たぶん「十八世紀まで」ではなく「十九世紀まで」の誤りだと思います。

いや、「十九世紀まで」だとしても、世界のほとんどは植民地になっていません。

世界史の教科書などでも、地図が出ていますが、18世紀の半ばでも、まずアフリカはほとんど植民地になっていません。

西海岸はセネガルやベニンなど面というよりほぼ拠点的に植民地となっているだけです。南アフリカも現在の南アフリカ共和国の半分くらいの地域しかオランダの植民地になっていません。

東海岸ではマリンディ・モンバサ・キルワの3港市しかポルトガルの植民地(植民市)になっていません。

西アジアはオスマン帝国がありましたし、インドでは、フランスはシャンデルナゴル・ポンディシェリ、イギリスもカルカッタ・マドラス・ボンベイという都市しかおさえられていません。ほとんどはムガル帝国です。

スリランカ、ジャワ島はオランダ、フィリピンはスペイン、マラッカはポルトガルでしたが、アジアの大半、オーストラリアなどのオセアニアなどもまだ植民地ではありません。

あまりにも百田氏のイメージだけで1617世紀の世界が語られすぎだと思います。

 

「ヨーロッパから見て極東に位置する日本は、最後に残されたターゲットであった。」(P213)

 

とありますが、「ターゲット」であったとしても、捕鯨基地や薪水給与地、あるいは巨大な中国市場の貿易拠点としての利用くらいで、植民地化の可能性はかなり低かったといえます。

 

「家光が『鎖国令』を出した頃は、日本はヨーロッパの国々も簡単には手を出せない国力(武力)を持っていたが…」(P213)

 

と説明されていますが、17世紀は、べつに日本に軍事力があったから植民地化をまぬがれたわけでもなく、鎖国で世界に背を向けていたわけでもありません。

19世紀に開国しても植民地化されなかったのは、江戸時代に培われた経済力・市場価値が、当時の日本の独立に大きく寄与していたからです。

 

以前に「鎖国」が現在、教科書や学校での授業でどのように説明されているかをお話しいたしました。

また添付しておきますのでよければご覧ください。入試もこの枠組みで出題されるようになっています。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11844170594.html