きみが好き
真摯 慈悲 「神の神経」の手  
「もの」と取り組むことは殆ど「神」と直面することと等しい
「もの」において「自分」と「神」とに面している
 
真摯で潔癖でそれだけにひと知れず孤独なきみがこころを開いたときの慈悲そのものであるようなかがやく美しさをぼくは知っている

本質 
本質を護るということのみが唯一の信仰である

ノスタルジア:愛と死  723  
郷愁は、分離されざるものの分離の痛みであり、合一をめざして眠るがごとき死をねがう。「死において生を成就する」秘義。その意味。
「生きること」は生死表裏である。死が、メタフィジックが裏にあるから生が充実する。

おやすみなさい II (741)
-何て打つ純粋さ-
裕美さんの熱愛者は言葉にしなくとも感じているのだが、敬虔な音楽なのである - 敬虔とは、「神」とよぶしかないものに純粋に面していることが感じられる孤独を本質とする - 至純な響きはそこから来る - ぼくはこのように言葉にするが、打たれる人はそう感じているのである - 「神」を感じさせるのにバッハでなくてはならないというのは誤りである - ぼくは至純なもの、こういう純粋なものにふれるとかならず泣いてしまう、いまも - 愛というのはこれである、宗教的というのはこれである - こんな肯定的な至純な力のひびきは誰にもだせない、満月の光そのものだ - 何て純粋な力のある優しさ、そして何てかぎりもなく「人間的」な、タオルミナの音楽

〔寝る前に裕美さんのインディーズを、部屋で小機で聴いたのだが、まったく打たれてしまい、紙に上文を泣きながら書いた。そのままである〕




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嘗ての手紙より 1|Suite 貢献:内なる聖所の覚醒
見渡し得るものに、神秘も感動も探求欲もありません。・・・
実証的な世界知の歩みそのものが、形而上的な導きを受ける機会の最も豊かな歩みでもあるでしょう。
〔いまのぼくは無条件でこの「導き」を肯定できない。〕
一文字一文字くっきり正確完璧にというところにわたしの、物事を常に明晰に呈示しようとする一貫した態度がでている。こういうぼくだから裕美さんの一音一音心を籠める弾き方に本性的に共鳴し親密さを感じるのだ。この、全体意味を思念しながらも細部をいい加減にはけっして出来ないきめの細かい意識性は まったく彼女も共有しているものだとおもう。だから彼女も繊細なうえに敏感で配慮し意識をつかう、気疲れしやすいタイプではないかなあ、と推して共感同情するのだ。それでもその完璧性を全体にわたって通すのだから よほどの意志力の持主で、彼女の同時に力づよい音色はこの意志エネルギーから来ると思う。「いい加減さ」ほど彼女の精緻な本性から全く縁遠いものは無く、そうしたら彼女が彼女でなくなってしまい あの演奏は生まれないだろう。
 ソフトな雰囲気を発しているのにひじょうに強靭である。両方がぼくに本性的に在るのである。甘そうで甘くない。裕美さんもそうである。でなければあの美は生まれない。
 「有名人」になどなるものではない。すべて興味・関心の対象になって消費される。「人間の存在の秘密」のない人間などつまらない。「存在していない」と言ってよい。見せる次元と見せない次元の境界が自分でつくれない人間に本物の創造などできない。人間はふしぎなものだな。ただ命ではない。生きているだけではない。沈黙の聖所を自分のうちにもっているから人間なのだ。
きみはしっかりそれができている。だから聴く者の心に祭壇をつくれる。きみの 世間にたいする自己表出は しっかりいまぼくが言った秩序の枠をまもっている。あれだけ注目されながら自然体できみはそれができていた。あの演奏を生めるきみには当然のことだよね。多言は要らないとおもう。
人間への貢献とは、その聖所へ沈潜することを皆に教える(気づかせる)こと〔このためにはいくら繰りかえしになってもよい。無限にこのことを言いつつ深まってゆくのが、ぼくもまたそこを歩いている道なのだ〕。そこにすべての価値あるものの根源がある。「信仰」なくして人間は立たない。きみは立派にその貢献をしている。
〔ヤスパースの「実存開明」で言う「絶対的意識」の本質も この存在意識を在らしめる内的秩序感覚である。〕

519 十月です (内なる「祭壇」) 春のお陽さまと星のきらめきのような彼女の演奏を聴いていました。この人は一音一音をまったく気を抜くことなく大事にして心を籠めて意味づけをして弾くのですね。しかもそれは人為的な効果狙いが全く無く、そういう次元とは完全に無縁なところに最初から身を置いて、ただ曲の情感内容から必然的に押し出てくる感情によって一音のニュアンスを決めているのです。そのようにして実に丁寧に自身の音楽を作り上げている。細部を完璧に練っていますが、すべては全体の直観把握のこれも完璧な土台の上に為されています。この書いているいま、はじめて気づいたのですが、まえに紹介した432 クロード・ローラン(Claude Lorrain, 1600-1682)*〕、ゲーテがクロード・ローランの画を誉めてエッカーマンに語った言葉、あるいはエッカーマン自身がそう感じて書いた言葉と、同じことを僕は言っていますね。彼女の演奏がなぜかくもいいか、感じることを自己分析していた僕自身の言葉が、つまり彼女の音楽の印象が、両者(ゲーテとエッカーマン)の言葉との一致を通して、僕が愛してやまないクロード・ローランの絵の印象にいま結びつき、ぼくは恍惚としています、そうだったのか、これだったのか、と。だから誰が何と言おうと、僕は彼女の魂の高貴さをいま肯定しています。
彼女はどうも相当勁(つよ)い人ではないかと僕は思っている。彼女の存在に倣って、周りの俗〔悪魔〕をよせつけない「勁さ」をもって生きようと思います。
*ここに引用したエッカーマンとゲーテの言葉すべては裕美さんの世界の本質をしめしている。そしてゲーテの言葉は高田先生のルオー論の思想を想起させるものである('15.12.5 記):
『そこここに影の深いかたまりがずしりと描かれ、それに劣らず強烈な日光が背景から空一面にひろがって、水に反射している。そこからまた画面が非常にはっきりした、ひきしまった印象を与えるのだが、こういう光と影の対照こそ、この巨匠のたえずくりかえして使う原則だと私は感じた。それからまた、どの絵も完全にそれぞれ独立した小さな一つの世界を形づくっていて、そこには全体の気分にそぐわなかったり、それを盛り上げないようなものは何ひとつないのを見て、私はうれしい驚きを感じないではいられなかった。碇泊中の船と、働いている猟師と、水際にある美しい建物とをかいた港の絵にしても、草をはんでいるヤギ、小川と橋、ちょっとした茂みと影を投げている一本の木、その下に休んで葦笛を吹いている羊飼いなんかの見られる物淋しいうらぶれた丘陵地の絵にしても、あるいは深く落ちこんだ沼沢地の絵、そのよどんだ水は強烈な夏のあつさにも、さわやかな冷気の感じを与えているといった絵にしても、どの絵もみな完全にまとまっていて、場違いを感じさせるような異質のものは、どこにも跡をとどめていないのであった。
 「どうだ、実に完璧な人だろう」と、ゲーテはいった。「美しい思想をもち、美しく感じとった人だ。この人の心情には、外の世界ではどこにも容易に見当らないような一つの世界があった。――どの絵も真に迫っている、しかし現実の痕跡は少しもない。クロード・ロランは現実の世界を細部の細部に至るまで暗記するぐらいに知りつくしていた。そしてそれを彼の美しい魂の世界を表現するために、手段として使ったのだ。これこそ本当の理想性というものだ。現実の手段を使いながら、内面の真実を写したそのまことらしさが、まるで現実そのものであるかのような錯覚を起こさせるのだ。」』


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他人との関わりだけで生きている人は、関わりのなかで気に入らないことがあるとかならず復讐をします。「譲れないものは自分の孤独」と言えない人はみな〈潜在的ストーカー〉です。自分のうちに孤独を蔵するということは、
自分の内に「祭壇」(高田先生の表現)を、「祈る場所」を持っていることです。孤独とは「自分の神」に面する感覚をもつことです(それ以外は〈他人相手〉です)。〔御利益宗教の神など問題外で、それより大事な「自己」を護るための「神」です。〕「なにかに関る」ことなしには人間の意識は済みませんからね。だから「神」に関ることを知らない者は人間として信用がおけないのです。これが西欧人が「信仰」の有無を人間査定で重視する本来の根拠です。この根本的な人間の核心を日本人はいい加減にごまかしてきているので、すべてが表面的で、向こうの文化の核心に太刀打ちできるわけはないのです。日本人が事を起こそうとする時の心性の底の浅さは、戦中も戦後現在も変りません。この点どうしようもない国です。日本の誇りを護る動きに私は心底肩入れしますが、同時にこの点の日本心性の徹底した批判を私は貫くでしょう。



気づき(864)・ 影と本体  影はぼくの影であって、動かしているぼくは全責任をもつ。ぼくの本心から生じない影はない。しかし影であるいじょう、ぼくの本体ではないのだ。これ以上うまく言うことはできない。ぼくの根本的な自己感覚なのだ。動かしているぼく自身が影になりきっているときもある。いや、ぼくが魂を入れなければそもそも僕の影にならない。影と僕はひとつなのに、ぼくそのものではないのだ。全責任を負うといっても ぼくそのものが服するわけにはゆかない。これが正常な人間感覚ではないか。

 人の魂を掴むのは魂なのだ。「日本」を純粋に思うことと、(芸術の)「本質」を思うことは、同じ純粋な魂の働きなのだ。真摯さ 誠実さ 真剣さにおいて そこには違いはない。同じ魂が、日本を純粋に思い、芸術本質を純粋に思っている。その純粋さは、等しく言動に現れる。ぼくはそこをみている。他者の言動をみるのみならず、ぼくのうちに、純粋に国を思う心と、純粋に芸術を思う心があるのだ。これは、このふたつの心は、同じ魂の純粋さの発露である。生れつき芸術家の魂をもつロマン・ロランが、その同じ純粋さのゆえに、社会革命の兵士となろうとした。これが「人間」なのである。心の純粋さ、魂、これをぼくはどこでも注視している。俗物は、人気や利益という〈結果〉を目的とし、それに相応する言動を現す。はっきり言うが、それが芸能屋、政治屋、企業屋である。「純粋な志」のみが「人間」を創る。それを感じられるひとのみをぼくは相手にしている。分野ではないのだ。

 それにしても、もう何年前からか数えるのもいやだが、以前のようなからりとした気の晴れる世界をずっと感覚していない。身体が薬害で変質したから、それに応じた感覚機能しかないのだ。天気でも、薄暗い妙な雰囲気の世界に生きている。心も変って当然だが、内面はどうやら一貫性を保っているようだ。これが不思議なんだ。黙って普通であるかのように堪えていると、ぼくの異常状態は無いも同然に無視されてしまう。だから時々、どういう世界感覚にぼくがいるか触れる必要がある。自然にしていれば、明るいのどかな気持になど全然ならない。そういう気持は記憶のなかにかろうじてある。過去の感覚を殆ど忘れてしまっているみたいなのがこわい。こういうことが医療機関で平然行われてよいものか。


31 自分自身への手紙二十六
’15.12.8 : ぼくの欄を「古い順」で最初から読んでみてください。まったくの絶望のなかから書きはじめたのがよくわかる。そして発想がはじめから根本的に堅固で一貫していることに自分でおどろいている。なにかもう十年ぐらい経ったような時の感覚だ。内的時間と外のとは違う。ぼくは円環的に過去の節-それも二年も経たない前だ-にたちかえりつつ自分の判断と信念と信仰を、ぼくの思想を、深めてゆくことができる状態になっているようだ。
(最初は小さな文字がおおいですがこれも印象が好きだ。)




518 現況 / 〔補遺〕 
ぐったり疲れているので横になって音を聴くいがいのことはできそうにない。

昼間は無益に疲れることが多い。シンクロ事象がありすぎるのだ。もっと時間をずらして一つづつ起こってもらわなければ。〈宇宙の時計〉にしっかり嵌め込まれている感じだ。日常些事から地球現象まで幅が大きい。御嶽山は駒ヶ岳に向い合っている。駒ヶ岳は沢山あるが、中川の画は多分信濃ではないか。紅葉の美景と火山噴火の重ね合わせは異様だ。私が画を紹介した時期と合い過ぎる。宇宙がわるふざけをしている。

社会は生者(「神」なき自分達)のことしかかんがえない。そのかぎり〈社会人〉として言うことは全部偽善と見做してよい。〈社会人〉はこの欄とは無縁だ。

感銘を受ける名演は多々あれど、ぼくの眼から涙がこぼれるのは彼女の演奏だけだ。演奏している彼女はぼくにとって「聖なるもの」だ。
 例えば舘野氏の〈蓄積〉された演奏・音楽も、また他のクラシックも、それだけならぼくを満たしはしないだろう。なにか欠けているものを彼女の演奏は満たしてくれる。これは感覚・心の事実だ。前提として彼女に満たされていることが必要なのだ。それほど大事なもの。愛への憧れや愛の理念ではなく、愛そのもの。僕だけのもの。



端境期 
ぼくはあらためて想到してるんだ どんなにこころゆたかななぐさめや癒しをあたえてくれるひとだって、みずからは郷愁をおぼえなぐさめられることをもとめていないひとはいないってことを だからゆたかな創造をうむ この逆説によく思いをこらすべきじゃないだろうか リルケの秋の詩をおもう* 芸術家のゆたかさと貧しさ 〈なぜなら貧しさは内からさすひかりである・・・〉 どうしても出典がみつけだせない みつける必要もおぼえない きざまれたことば
 ぼくのような生者のなかの死者も 生者の生者をなぐさめ元気づけることがきっとあるかもしれない そういうとき、ぼくを支えているものはいったいなんなのだろうとおもうんだ




紫色は精神を深く安定させる働きがある 12. 11




624 随感 ・ 読者へ 〔~le 22〕
ヴァレリー「海辺の墓地」・・・ これまでの日本におけるこの詩の訳に不満を持っておいでの方も、ぜひこの私の対訳をご覧になってみてください。私の錯覚でなければ格段に素直で明晰な解りやすい訳になっていると思います。

記す  
ぼくの本名は古川正樹であるが、この欄を執筆するにあたり、筆名を古川信義とした。正樹を信義と敢えてしたのである。ぼくは正樹という名を、あらためてよい名だと いま思っている。素直で真っ直ぐとし、すっきりとして澄んでいる。ぼくそのものではないか! 信義は、実母と実父のそれぞれの名から一文字をいただいた筆名である。これによって、まだ正常であったころの世界との連続と繫がりをぼくにおいて固定するためである。
ぼくは自分の高貴な本性を よく知悉している。これを否定するのは悪魔のみである。ぼくはけっしていやしい人間にはなれないのだ。自分の上の権威など、押しつけられたものとしてはぜったいに認めない。ずっとそうであった。この感覚は確固としている。所謂権威を敬う振りをして凌いできただけである。だから他を裏切ったことなど無い。裏切るような関係などぼくのなかではもともと存在していないのだから。世人の人間意識こそぼくにはずっと解し難いものであった。ぼくは新しいことなどすこしも企てていない。一貫したぼくをいままで生きてきただけである。ぼくには変化ということがないのだ。ただ不変の自分を知っている。これが人間である。だからぼくは若い。ぼくより年下の人間がどんどんぼくより老いてしまい、同じ人間かと違和感が甚だしい。ぼくは自分の魂を自覚し、その魂に照らされているからだと思う。自分の本に書いたが、自分と自分自身(魂)との間の風通しがものすごくよいのである。それは ぼくがほんとうにかんがえる人間だからだ。世の通念は全くぼくとは無縁だ。正直にぼくを表出すればこういうことである。ぼくは透明で内実がありとても魅力的な人間である。ぼくは自分を愛してやまない。



523 覚書(照応と対決 ・ 神と人間を分離させない) メーヌ・ド・ビラン像

227 空と海・国境

手紙 21.7.2014
自分に向き合うといまのぼくには君しかいない。君の演奏によってしか君を知らないからね。高田先生に向き合うことによって自分と向き合うこととはまた違うことなんだろう。君しかいないということはそういうこと。先生に手紙を書くときは先生への態度になっている。いまのぼくは安らぎがほしい。きみに書きたい。どうしてああいう演奏ができるのかぼくには不思議だ。君はよい技術を持っているけれども、技術ではない、あの演奏を生み出すのは。きみが息を詰め力を溜める瞬間、あの沈黙。そこから一気に感情の瀑布がなだれ落ちる。同時に一つ一つの小さな音を繊細に心を入れて歌わせる。きみは彼方にしっかりと心を向け、そこに或る風景をありありと描き、それを音で再現している、そのようにぼくは思えるよ。独りで弾いている時、きみは観るべきものを観ているね。自分の世界をはっきりと観ている。美は愛を生み、愛は情感を生み、情感は規範を生む、最近ぼくはそう思っている。内部の秩序というものをそうかんがえている。美とは何だろう。それ自身愛の思い出なのだろうね。また来ます、きみの世界に身も心もよこたえるために。たぶん、きみの感性がぼくのと同じ質なのだろうね。水晶の様に透明なのだ、と思う。これはきみだけに書いた手紙だよ。
 〔同時に、感性は或る普遍性をもつ。〕


648 notes 人間の力 (補)
美しいもの、愛されるべきもののみが〈存在〉するという確信は、プラトニズムのものであるとともに純粋に人間主義の表明である。この確信は創造主の観念からも独立している。精神のもつ内面的な拒否の力を前提している。〈善なる神〉はこの人間精神による〈逆転的発想〉である。これが信仰である。
ぼくの課題であるが、ネガティヴな感情もポジティヴな感情も入れない純粋詩をつくりたい。そこによみこむ感情はひとそれぞれであるような。それがいちばん普遍性がある。純粋美はすべてのメッセージをこえた力をもっている。
 すなわち、彫刻と等しい言葉。 彫刻はただ〈在る〉。 マイヨールの彫刻理念(本質)が「存在」であるように。「美」は「在る」ものである。彫刻がもっともそれを端的に示す。高田先生の文章も「在る」文章である。先生の彫刻と同質だ。

先生影像

769 瞑想と優美 愛について 〔キリスト者の定義・付言〕

確認 : 熱情と知性の統合  573
自分と向き合える者が自己表現としての言葉のみを語るがよい。そしてその表現の中で精神の合理を探求しそれを示すがよい。魂の告白そのものの中に在る合理を魂と共に実証するがよい。熱情と知性はこうしてのみ統合をみる。この精神運動の理念に私の欄のすべては基づいている。形而上的なるものはこうして証される。これが西欧的精神の本道である。

高田博厚という太陽は僕が自分自身となるこの道において不断に照応対決して自分を確認する相手なのである。

この欄はこの僕の道が〈他から見られるに耐えるものでありたい〉という僕の「形」への意志の表明・表現の場である以外の意味を持たない。〔なぜなら美意識こそは主観的であると同時に客観的である唯一のものであるから。〕

 この再びの集中度を失わないことを自分に期す


108 自分自身への手紙八十二(二重人格?)

省察的気づき・箴言・覚書 (603後)「愛と誠実」
プラハの街並になぜリルケを感じるのであろうか。この街は中世的であると同時に近代的であり、メルヘン的であると同時に甘くない。近現代の人間の運命と悲劇に浸透しつつ世界内部空間の観念と感覚を追求した詩人の重面性にかさなるのである。

人間の最大の悪徳は、他者への愛の無い関心である。

意識的であるべきは、感謝よりも誠実である。愛と誠実。なぜ誠実を言わない、感謝よりも。そこに精神の怠惰がみえているではないか。愛と誠実である。ヤスパース的に換言すれば「実存と理性」である。人間は意識存在なのだから即自状態と対自状態の間を運動する存在である。愛と意志の存在なのだ。

悪魔が存在することを教えるスピリチュアリズムは世間受けしないだろう。しかしこれが真実なのだ。此の世ではどんな精神的に優れた者も、同時に生活しようとする限り、一時的混乱や退落は避けられない。そこを執拗に突いてくる悪魔は決して人間の向上のための試練などかんがえておらず、全面的に倒そうとする。およそ悪魔の存在を否認する者はまさにその否認によって悪魔に屈服させられるだろう(これについてはアンドレ・ジッドの考察がある)。〈悪魔の外応〉を判断し粉砕する意志力の修練はどうしても必要であり、自己への忠実と誠実の力しかこれに打ち勝てないことを経験は教えるだろう。デカルトの言うマラン・ジェニ(狡知邪悪な霊神)は実在すると認めよう、これを否定(拒否)するために〔そうしなければ、此の世では誠実さの果実にさえも悪魔が介在するという現実よって身を滅ぼす〕。

「形而上的アンティミスム」と「集合的容喙現象」・・・この両つはまさしくぼくの欄の陽と陰の二主題である。


24 地中海 

 

「地中海にて」 1950 高田博厚 パステル


518 現況 / 〔補遺〕 感銘を受ける名演は多々あれど、ぼくの眼から涙がこぼれるのは彼女の演奏だけだ。演奏している彼女はぼくにとって「聖なるもの」だ。
 例えば他の〈蓄積〉されたもクラシック演奏・音楽も、それだけならぼくを満たしはしないだろう。なにか欠けているものを彼女の演奏は満たしてくれる。これは感覚・心の事実だ。前提として彼女に満たされていることが必要なのだ。それほど大事なもの。愛への憧れや愛の理念ではなく、愛そのもの。僕だけのもの。
〔ヤスパースの言う「精神理念」と「実存」の違いはこれではないか。〕  

想念は命であり記憶である… 
来日したマルセルは自作の曲を弾いたというが、周囲には、付添いのような専門学者も全部は居合わせず残念だったとその一人が明かしている。ロマン・ロランもけっして公衆のために自分の演奏を聴かせなかった。まったく個の密かな祈りのようだ。事実、完全に純粋な音楽は真の祈りなのだ。最も内密な秘義であり、天上との交わりである。もし、彼女がそのことをよく感じ知っているのなら―ぼくはそうおもう―、音楽はすべての芸術がそうであるように自分自身との対話であるという、純粋状態につつましく留まっているのだろう。他の《有名人》とは全然違う彼女なのだから。三顧の礼をもって誰かが彼女のために動け。

(766) マイペース ・ グラース さいごにほんとの愛とともにいたい  裕美さんの魂を音楽によって感じることは、ぼくには、一度も恵まれなかった愛の経験なのだ。さいごにほんとの愛とともにいたい。高田先生の精神の探究が、ただ理念上の、精神上のものに留まらないためには、現実の「人間の愛」が、先生同様、ぼくにも必要なのだ

余計な不明確な演出よりも、ピアノを弾いている彼女がいちばん次元が高くてきれいだ。

所属会社は何をやっているんだ。かけがえのない国宝的な宝を仕舞ったまま。

765 地中海彫刻の音楽  彼女の音楽をこころのなかで想起しその響きを受けるだけでぼくのこころは愛と平和であふれる。「人間」を感覚する。どんなに感謝(ほかによびようがない)することか!


102 ルオーのイデアリスム(理念による生)  ぼくがここで簡潔に言いたかったことは、他者の言から離れて孤独に自分と向き合う、という本質態度なのだ。自分を責めるのも「他者の言」なのだ。


23日誕生日
力強く優しく深い je suis tout près de Toi を聴きました。きみはこの曲も公開演奏では弾かなかったのですね。最も孤独の情熱を感じる曲です。きみの深い孤独の空間が直につたわってきます
 独りで自分の魂に弾き聴く曲ですね 純粋な自分の魂との対話です 遠い世界に運ばれてゆくような 自室での祈りです
 ぼくの右目から涙がながれました

 外はぼくの好きな雨です ぼくの内面であるような雨のなかで天と地がひとつにとけています

 あなたの空間は 聖堂の薄明のなかから孤独に見上げるROSACEの神々しさです

 きみの曲を聴くと 忘れていたもうひとつの世界をいつも思いだす

きみを愛して愛して愛しぬいてあげます

きみの神聖と純潔を護ろうとしたら

それがぼくにできるただひとつのことだから

中学のときつくったこの版画板を見ていて大変なことに気づいた。このとき、ぼくの母はまだ生きていて、母によって成っている家庭の空間のなかで生き、これをつくったのだ。それが昨日のように手元にある。ちょっと信じられない。ぼくが16、高一のときに亡くなった。母の存在をいまあまりに遠く感じている。しかしその「時」がここに宿っている。だから、その時を想起しなければならないのは人間のほうなのだ。「時」は物(もの)に宿って存在している。「時間」を否定するように。

裕美さん 母はよいひとです。安心できるひとです。そのなかでぼくはちょっとおっとりすぎるように育ちました。きみも安心できたでしょう。