プラハの街並になぜリルケを感じるのであろうか。この街は中世的であると同時に近代的であり、メルヘン的であると同時に甘くない。近現代の人間の運命と悲劇に浸透しつつ世界内部空間の観念と感覚を追求した詩人の重面性にかさなるのである。


さて、まったくべつのことであるが、人間ありのままでいられるわけがない。ぼくがほんとうにありのままを出したらぼくと儀礼的にでも付き合う人間など一人もいなくなってしまう(本心で愛する人以外は)。誰でもそのはずなのに自己暗示的にいい子ぶってるに過ぎない。それが自分だと思っている。仮面人間でも生きることはできるのだからそれもいいだろう。しかし少なくとも他者の面前で感謝感謝を唱えるのはやめろ。黙ってやれ。


グーグルがぼくの欄の検索で、「形而上的アンティミスム」と「集合的容喙現象」のテーマ別紹介をしてくれている。この両つはまさしくぼくの欄の陽と陰の二主題である。内容的に適切な配慮に感謝したい。


日本は、遺品回収業者なるものが成立して大手を振ってチラシを各戸に配るほど反人間的な国である。「人間、人にとって狼(ハイエナ)」とはこういう事である。この種の者共は屠殺すること全く奨励すべきである。国は倫理的観点からこの人非人業種を潰せ。

人間の最大の悪徳は、他者への愛の無い関心である。


感謝という言葉・感情は、発生状態では純粋で高いものであるが、人がこれを技術的に意識し始めると最も卑しい観念へ変質する。これに気づかない人が意外なほど多いのは不思議に思われる。


意識的であるべきは、感謝よりも誠実である。愛と誠実。なぜ誠実を言わない、感謝よりも。そこに精神の怠惰がみえているではないか。愛と誠実である。ヤスパース的に換言すれば「実存と理性」である。人間は意識存在なのだから即自状態と対自状態の間を運動する存在である。愛と意志の存在なのだ。


悪魔が存在することを教えるスピリチュアリズムは世間受けしないだろう。しかしこれが真実なのだ。此の世ではどんな精神的に優れた者も、同時に生活しようとする限り、一時的混乱や退落は避けられない。そこを執拗に突いてくる悪魔は決して人間の向上のための試練などかんがえておらず、全面的に倒そうとする。およそ悪魔の存在を否認する者はまさにその否認によって悪魔に屈服させられるだろう(これについてはアンドレ・ジッドの考察がある)。〈悪魔の外応〉を判断し粉砕する意志力の修練はどうしても必要であり、自己への忠実と誠実の力しかこれに打ち勝てないことを経験は教えるだろう。デカルトの言うマラン・ジェニ(狡知邪悪な霊神)は実在すると認めよう、これを否定(拒否)するために〔そうしなければ、此の世では誠実さの果実にさえも悪魔が介在するという現実よって身を滅ぼす〕。


誠実であったのであれば自他を赦すべきである。誠実が挫折することは、集中と公平という相反する本質(自己欲求)をもつ誠実自体の宿命だからである。この場合、ゆえに、「誠実であった」ということは、誠実の挫折への自責意識を引き受けたということを含む。沈黙はこの意識を含んでいなければならない。



読者へ
今でも私の他欄への訪問は少ないですが、そのうちそれもぱったり止み、お返し印もしなくなると思います、自分に落ち着いたら。そういう人いますよね、尊敬してます。