国民に番号を振り分けるような国家と自分の間に心情的無縁を感じる。「その前に死んでよかった」と民族主義者の石井一昌氏があの世から言っている。このかぎりにおいて(そういう国家と自分との無縁を感じるかぎりで)高田先生と同じである。民族主義は国家主義ではなく、況んや軍国主義ではない。ぼくはこれを言いたいのだ、つまり、場合によっては自分で自分に冠することもある「主義」など、ひとつの力点の強調なのであって、その底を穿ってみれば、共通の地下水脈がながれているのだ、「本物」であるかぎり、と。



補記
高田先生と同趣旨と判断できることを、石井氏は「座談会」でもくりかえし言っている。「ここにいる皆さんのように、考える人たちが力をつけたとき、日本は変わります。革命なんかやらなくても、日本は変わる。」「今の日本人は皆、考える力を失くしているんです。相撲だ、ナイターだといって、自分と向き合うことを忘れている。日本人が真に考える力を持ったときに、合意が生まれ力が生まれると思います。今は、本当に行き詰まっていますから、そろそろ、そんな力が出てくるんじゃないでしょうか。」(338、359)『暗殺集団』1998より
 当然のことだが、かんがえる力を各自が養わないかぎり、革命などいくら起こしても元の木阿弥であるのが人間の宿命である。


〔こういう問題にくらべて、うんざりしませんか、日本世間の、ノーベル賞取得への反響。外国の反響は知的に洗練されている。日本ではそれがない。これはわかっていることだからこれ以上言わない。〕








ぼくの本名は古川正樹であるが、この欄を執筆するにあたり、筆名を古川信義とした。正樹を信義と敢えてしたのである。ぼくは正樹という名を、あらためてよい名だと いま思っている。素直で真っ直ぐとし、すっきりとして澄んでいる。ぼくそのものではないか! 信義は、実母と実父のそれぞれの名から一文字をいただいた筆名である。これによって、まだ正常であったころの世界との連続と繫がりをぼくにおいて固定するためである。


ぼくは自分の高貴な本性を よく知悉している。自分のことだから。これを否定するのは悪魔のみである。ぼくはけっしていやしい人間にはなれないのだ。自分の上の権威など、押しつけられたものとしてはぜったいに認めない。ずっとそうであった。王がいるとしたらぼくが王なのである。この感覚は確固としている。所謂権威を敬う振りをして凌いできただけである。だから他を裏切ったことなど無い。裏切るような関係などぼくのなかではもともと存在していないのだから。世人の人間意識こそぼくにはずっと解し難いものであった。ぼくは新しいことなどすこしも企てていない。一貫したぼくをいままで生きてきただけである。ぼくには変化ということがないのだ。ただ不変の自分を知っている。これが人間である。だからぼくは若い。ぼくより年下の人間がどんどんぼくより老いてしまい、同じ人間かと違和感が甚だしい。ぼくは自分の魂を自覚し、その魂に照らされているからだと思う。自分の本に書いたが、自分と自分自身(魂)との間の風通しがものすごくよいのである。それは ぼくがほんとうにかんがえる人間だからだ。世の通念は全くぼくとは無縁だ。正直にぼくを表出すればこういうことである。ぼくは透明で内実がありとても魅力的な人間である。ぼくは自分を愛してやまない。

 教養本質があればわかるだろう。

 7日1時50分