愛するあまり、なつかしさのあまり、死をねがうというのは、人間だけであって、形而上存在である証である。分離の生より死をねがうということ。分離を超越しようとする意志の証である。愛とは根源においてひとつであるという感情であり、それが満たされない状態を非本来的状態とみなす。愛の本来的状態への超克が、死を存在への通路とみなすにいたる。それが死をねがう意識の実相である。郷愁は、分離されざるものの分離の痛みであり、合一をめざして眠るがごとき死をねがう。「死において生を成就する」秘義。その意味。

「生きねばならぬ」はそれ自体のみでは空虚である。「生きること」は生死表裏である。死が、メタフィジックが裏にあるから生が充実する。高田先生の言葉にそれを感じないか。先生は、〈照応を感じられればおたがいに会わずともよい〉態度で交友した。そのかわり「仕事」をしたのだ、孤独のわざを。淋しくて会いにゆくという態度は何ら本質意味をもたず問われもしない。ぼくも先生もそういう態度が居座っている。日本教師がこれを会得しうれば大改革だ。
(ヴァレリーは「生きることを試みなければならぬ」と詩に書いたのだ〔「海辺の墓地」全訳をこの欄でわたしは果たした : 628 ヴァレリー「海辺の墓地」訳・註解あるいは随感 〕。ここにはかなり繊細なふくみがあるとぼくは感じる。)



述べてきたことがおのずから重なりあい意味を支える。ぼくは意図しない。





落ち着いて文をつづれる時間帯が夜中だ。それをすると昼間が頭の働きが本調子でない(いまの状態なりに)。この二律背反を解消すること。休みにも生活にもならない。寝ようとしても、寝ることへの空しさから起きていてしまう。彼女のために寝よう。自分のこといがい関心がない。これがいちばんよい。






タルコフスキー「ノスタルジア」は上の諸観念をイマージュにおいて内感的に確認させる稀有な作品である。絵画と同じで本質は科白にではなく映像の直接印象にある。動く絵画として御覧になるとよい。辻氏が重視していた理由が了解されてきた。