◆ 「真の持統女帝」顕彰
 ~反骨と苦悩の生涯~ (16)







日本史専攻の高校生なら必須!
中学生も必須?

今回はそういう大事なものを取り上げます。


当時はまだ天武天皇の人物(神)像を、
頭中には描ききれてはいませんでした。

丸暗記した記憶がうっすらとあります。


~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
■過去記事
(1) … プロフィール 1
(2) … プロフィール 2
(3) … 出生~父天智天皇崩御
(4) … 壬申の乱 1
(5) … 壬申の乱 2
(6) … 壬申の乱 3
(7) … 天武天皇即位
(8) … 泊瀬斎宮と神宮派遣
(9) … 天武天皇と陰陽道
(10) … 「龍田 風神」「廣瀬 大物忌神」・外交
(11) … 軍事と国防
(12) … 「吉野の盟約」
(13) … 律令制定の詔と政権移譲
(14) … 複都制構想
(15) … 「日本書紀」編纂事業

~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
■ 「八色の姓(やくさのかばね)」

天武天皇(鸕野讚良の主導ですか)が晩年に制定した氏姓制度。氏の再編作業の一つとされます。



◎「八色の姓」を詔する

「日本史小辞典 改定新版」山川 には以下のように示しています。

━━684年(天武十三年)十月に制定されたカバネ。「諸氏の族姓を改めて 八色の姓を作りて 天下の万姓を混(まろか)す」という詔に始まり、真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)という8種のカバネが制定された。これらのうち、実際に賜ったのは真人・朝臣・宿禰・忌寸の4種(前年から賜っている連も八色の姓の一つか)であった。制度の目的は,大化前代以来の氏族制度を、氏族系譜上の天皇家との距離を基準にして、天皇中心のものに再編成して新たな身分秩序を形成することと、律令官人制を導入するにあたって、上級官人になりうる氏族層の範囲や、中央貴族と地方豪族の区分を確定することであった━━

図で示すとこのようになります。上段が旧来のもの、下段が新しいもの。

臣・連・伴造・国造・県主
 ↓↓↓
真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置

新しい枠組みで再編されているため、単に名称が変わったというだけではありません。



◎「八色の姓」の意義

既に山川の「日本史小辞典」に表されていますが、そこだけに焦点を当ててみます。

*壬申の乱後の豪族の姓を整理
これは「大化の改新」後の政治的変動で、従来の姓の序列が変動したため。

紀の天智天皇三年(664年)の段に、中大兄皇子が「冠位二十六階」を制定しています。その中に「大氏(おほきうじ)・小氏(ちひさきうじ)・伴造」に関する記述があります。これらがそれぞれ「大氏=朝臣」・「小氏=宿禰」・「伴造=忌寸以下」に対応することから、「八色の姓」の原案とする説もあります。


*皇親政治

「日本史事典」旺文社より引用。

━━皇親を重視し皇親政治の道を開き,古代天皇制国家の確立をはかった━━


これは「八色の姓」に限らず、天武天皇が即位した時から一貫したもの(鸕野讚良が主導した可能性も)。その一つとみなされます。




◎「氏」と「姓」

ちょっとおさらいをしておきましょうか。何となく分かっているようで、何となく分かっていなさそうな言葉でもあるので。


*「氏」

同一血族の集団。


「精選版 日本国語大辞典」は以下のように示しています。

━━古代において、血縁あるいは擬制的血縁集団の成員が大王への貢納奉仕を前提に他と区別するために唱える名称━━


確かにそれはそうなのですが…。
「大王への貢納奉仕」だけではなく、他と争うために…など、いろんな場面で、他の血縁集団との区別するために名乗ったのであろうと思います。

*「姓」
氏族の尊卑を表すための階級的称号のこと。つまるところ氏族の差別化をしたということ。立派な氏族だ!取るに足りない氏族だ!…ということ。

「デジタル大辞泉」を見てみましょう。

━━上代、「氏」を尊んだ称。「氏」そのもの、または朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)など、「氏」の下に付けてよぶものをいう。また、両者をあわせたものをも「かばね」とよぶ。狭義には、朝臣・宿禰などのことをさす。古代の「かばね」には、臣(おみ)・連(むらじ)・造(みやつこ)・君(きみ)・直(あたえ)など数十種あり、氏の出自によるものと、氏の職業に与えられたものとがある━━


「氏」と「姓」の違いを端的に表すのなら…
・「氏」 … 血縁集団が勝手に名乗ったもの
・「姓」 … 大王(天皇)から与えられた称号



◎「八色の姓」の内わけ

それでは、それぞれの「姓」を見ていくことにします。

*真人(まひと)
最高位に位置付けられた姓。基本的には継体天皇の近親と、それ以降の天皇・皇子の子孫に与えられました。

「真人(しんじん)」は、老荘思想・道教において人間の理想像とされる存在。いわゆる「仙人」といったところ。道教に通じていた天武天皇(鸕野讚良)ならではの由来かと思います。なお天武天皇の諡(おくりな)は「瀛真人(オキノマヒト)」。

十月一日に下賜。
守山公・路公・高橋公・三国公・当麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・羽田公・息長公・酒人公・山路公

すべて「公」が付されています。もちろんそのままの意味と捉えて良かろうかと思います。

*「朝臣(あそん・あそみ)」
第2位に位置付けられた姓。皇族以外の臣下では最上位に当たります。主に「壬申の乱」で功績のあった氏族に下賜されています。

Wikiには以下のように。
━━従来の臣や連、首、直の上位に位置する姓を作ることで、姓に優劣や待遇の差をつけ、天皇への忠誠の厚い氏を優遇し、皇室への権力掌握をはかったと思われる━━

十一月一日に下賜。
大三輪君・大春日臣・阿倍臣・巨勢臣・膳臣・紀臣・波多臣・物部臣・平群臣・雀部臣・中臣連・大宅臣・粟田臣・石川臣・桜井臣・采女臣・田中臣・小墾田臣・穂積臣・山背臣・鴨君・小野臣・川辺臣・檪市臣・柿本臣・軽部臣・若桜部臣・岸田臣・高向臣・宍人臣・来目臣・犬上君・上毛野君・角臣・星川臣・多臣・胸方君・車持君・綾君・下道臣・伊賀臣・阿閉臣・林臣・波弥臣・下毛野君・佐味君・道守臣・大野君・坂本臣・池田君・玉手臣・笠臣

各氏族の詳細を書きたくて、
うずうずしてますが…止めておきます(笑)

すべてに「臣」と「君」が付されています。
・「臣」 … ヤマトの地名を冠した豪族。かつては大王家(後の天皇)と並ぶ地位を占めていた。
・「君」 … 主に有力な地方豪族。国造に多く見られる。「大三輪君」などのように、ヤマトの地名を冠した豪族もある。

*「宿禰(すくね)」
第3位に位置付けられた姓。

著名なところでは武内宿禰、野見宿禰、蘇我石川宿禰、玉田宿禰・葦田宿禰(共に葛城氏)など、武内宿禰を祖とする氏族、武人に多いように思います。野見宿禰も「角力(現在の相撲に近いもの)」で名が知られますし。 

十二月二日に下賜。
大伴連・佐伯連・阿曇連・忌部連・尾張連・倉連・中臣酒人連・土師連・掃部連・境部連・桜井田部連・伊福部連・巫部連・忍壁連・草壁連・三宅連・児部連・手繦丹比連・靫丹比連・漆部連・大湯人連・若湯人連・弓削連・神服部連・額田部連・津守連・県犬養連・稚犬養連・玉祖連・新田部連・倭文連・氷連・凡海連・山部連・矢集連・狭井連・爪工連・阿刀連・茨田連・田目連・少子部連・菟道連・小治田連・猪使連・海犬養連・間人連・春米連・美濃矢集連・諸会連・布留連

すべて「連」姓。「新撰姓氏録」にいう「神別」氏族に多いように思います。来目臣は「朝臣」で、大伴連は「宿禰」となったのが面白いところ。

*「忌寸(いみき)」
第4位に位置付けられた姓。

国造系氏族(大倭連・葛城連・凡川内連・山背連)、渡来系氏族(難波連・倭漢連・河内漢連・秦連)、元「直」姓など。

翌(天武十四年、六四八年)六月二十日に下賜。
大倭連・葛城連・凡川内連・山背連・難波連・紀酒人連・倭漢連・河内漢連・秦連・大隈直・書連

この「忌寸」姓、いろいろと調べても語源は出て来ないのですが、どう考えても「忌」という語を見過ごせずにはいられません。

今頃になってあらためて…考え直してみると…
「忌」は「神聖な」という意味にも用いられるのです。例えば「忌火」など。
「寸」は古語辞典等を見ても「長さの単位」など、現在とほとんど変わらぬ使われ方をしたとしか見当たらないので、「忌」という大それた言葉を和らげる(抑える)言葉なのでしょうか。

*「道師(みちのし)」
第5位に位置付けられた姓。
下賜の記録が無いため詳細は不明。

*「臣」
第6位に位置付けられた姓。
下賜の記録無し。それまでの「臣」姓のうち、「朝臣」姓になれなかった氏族ということかと。

*「連」
第7位に位置付けられた姓。
「八色の姓」詔後に下賜された記録はないものの、詔前に四度に渡り下賜(個別の下賜は除く)。

天武天皇十年四月十二日に下賜。
錦織造小分(ニシコリノミヤツコオキダ)・田井直吉摩呂(タイノアタイヨシマロ)・次田倉人椹足(スキタノクラヒトムクタリ)・次田倉人石勝(イシカツ)・川内直県(カフチノアタイアガタ)・忍海造鏡(オシヌミノミヤツコカガミ)・忍海造荒田(オシヌミノミヤツコアラタ)・忍海造能麻呂(オシヌミノミヤツコヨシマロ)・大狛造百枝(オオコマノミヤツコモモエ)・大狛造足坏(オオコマノミヤツコアシツキ)・倭直竜麻呂(ヤマトノアタイタツマロ)・門部直大嶋(カドベノアタイオオシマ)・宍人造老(シシヒトノミヤツコオキナ)・山背狛烏賊麻呂(ヤマシロノコマノイカマロ)

十年十二月二十九日に下賜。
舍人造糠蟲(トネリノミヤツコヌカムシ)・書直智徳(フミノアタイチトク)

十二年九月二十三日に下賜。
倭直(ヤマトノアタイ)・栗隈首(クルクマノオビト)・水取造(モイトリノミヤツコ)・矢田部造(ヤタベノミヤツコ)・藤原部造・刑部造(オサカベノミヤツコ)・福草部造(サキクサベノミヤツコ)・凡河内直(オオシカフチノアタイ)・川内漢直(カフチノアヤノアタイ)・物部首・山背直(ヤマシロノアタイ)・葛城直(カズラキノアタイ)・殿服部造(トノハトリノミヤツコ)・門部直(カドベノアタイ)・錦織造(ニシコリノミヤツコ)・縵造(カズラノミヤツコ)・鳥取造(トトリノミヤツコ)・来目舍人造 クメノトネリノミヤツコ)・檜隈舍人造(ヒノクマノトネリノミヤツコ)・大狛造(オオコマノミヤツコ)・秦造(ハダノミヤツコ)・川瀬舍人造(カワセノトネリノミヤツコ)・倭馬飼造(ヤマトノウマカイノミヤツコ)・川内馬飼造(カフチノウマカイノミヤツコ)・黄文造(キフミノミヤツコ)・蓆集造(コモツメノミヤツコ)・勾筥作造(マガリノハコヅクリノミヤツコ)・石上部造(イソノカミベノミヤツコ)・財日奉造(タカラノヒマツリノミヤツコ)・泥部造(ハヅカシベノミヤツコ)・穴穗部造・白髮部造(シラカベノミヤツコ)・忍海造(オシヌミノミヤツコ)・羽束造(ハツカシノミヤツコ)・文首・小泊瀬造(オハツセノミヤツコ)・百済造・語造

十二年十月五日に下賜。
三宅吉士(ミヤケノキシ)・草壁吉士(クサカベノキシ)・伯耆造(ハハキノミヤツコ)・船史(フネノフヒト)・壱伎史(イキノフヒト)・娑羅々馬飼造(サララノウマカイノミヤツコ)・菟野馬飼造(ウノノウマカイノミヤツコ)・吉野首・紀酒人直(キノサカヒトノアタイ)・采女造(ウネメノミヤツコ)・阿直史(アトキノフヒト)・高市県主(タケチノアガタヌシ)・磯城県主(シキノアガタヌシ)・鏡作造

「連」姓といえば、物部氏や中臣氏などの超有力氏族がいました。ところが「八色の姓」が制定され、超有力氏族は「朝臣」となりました。そして「連」姓は第7番目という下級の位置付けに。

渡来系氏族にも多く下賜されています。「馬飼」に関わる伴造のような氏族にも。彼らは「連」姓を賜り大喜びしたものの、ぬか喜びに終わってしまった…。



◎錯綜状態だった?

渡来系氏族たちがぬか喜びしたということは、逆に物部氏や中臣氏などには相当な落胆があったはず。それまで足でこき使っていたような氏族と同格になったわけですから。

彼らに「連」姓を下賜したわずか一年後に、「八色の姓」を制定し、「朝臣」姓を「連」姓から抽出して、全8姓のうちの第2位に位置付けました。

どうやら「八色の姓」は大きな構想の中で詔されたものではなく、突発的に出されたものではないかと思うのです。
即位してから強力な皇親政治を断行。壬申の乱の論功行賞や近江側についた氏族の処遇、その他時代を経ることによる氏姓の乱れ等もあり、日々天武天皇(鸕野讚良)は氏族の扱いに苦心していたでしょうから、突発的とはいっても思慮を尽くした上でのことと思いますが。



◎冠位十二階と四十八階

翌(天武天皇十四年、六四ハ年)一月二日、爵位の改正が行われました。十二階は諸王より上の位(皇族)、四十八階は諸臣の位。

*「冠位」と「姓」
「冠位」は人物に対してのもの、「姓」は氏族に対してのもの。
そもそも中国では人物に対して「冠位」が設けられていました。これを日本風に持ち込んだのが聖徳太子の「冠位十二階」。日本風というのは人物に対してではなく、概ね氏族に下賜されたということ。時代を経てふわふわっとした状態で何となく、「冠位」と「姓」とが同じようなものとして同居していました。

天武天皇は「ハ色の姓」を制定し、氏族に対して「姓」を与えました。そして制定された冠位十二階と四十八階、こちらは人物(個人)に対して与えたもの。
血縁集団の団結力を重視しつつも、個人の能力を活用したい。この2つの制度を以て天武天皇(鸕野讚良)の理想像が確立されたのではないかと思います。

この2つの制度も奈良時代を経て平安時代になると、藤原氏が上位を独占してしまい、やがて形骸化していったのですが。


さて…

この制度の首謀者は天武天皇?鸕野讚良?
はっきりとは言えないものの、後の持統天皇の政治力から鑑みて、やはり鸕野讚良が首謀者ではないかと思うのですが。






今回はここまで。

また難しい内容のお話になったのですが、避けては通れないものなので。

だんだんと天武天皇の最期が近付いてきております…。


石室内の様子(復元)
橿原市藤原京資料室にて放映されるビデオ映像より



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。