◆ 「真の持統女帝」顕彰
~反骨と苦悩の生涯~ (4)




記紀編纂事業は、先代であり夫であった天武天皇より下されました。
(紀は元明天皇の命によるという説有り)

ところが完成を見る前に天武天皇は崩御。そして持統天皇も崩御してしまいました。それだけ大変な事業であったわけですが…。

天武天皇と持統天皇との意向が大いに反映された史書であることは間違いありません。

編纂中に何度も目を通しては修正を命じていたのではないかと思うのですが。


~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
■過去記事
(1) … プロフィール 1
(2) … プロフィール 2
(3) … 出生~父天智天皇崩御

~*~*~*~*~*~*~*~*~*~


壬申の乱と同年に出生した鸕野讚良(ウノノサララ、持統天皇)が、いろんな政変を目にしつつ育ち、大海人皇子(天武天皇)と17歳で結婚。

祖父を失い、姉を失い、28歳の時には父天智天皇が崩御。ここからは彼女の激動の人生の幕開け。

今回はここからです。
紀を元に一つ一つ丁寧に詳細を綴っていきます。

(関係の薄いものも含みますが…)



◎天智天皇が崩御

*天智天皇十年(671年)十月十七日
天智天皇は大病に伏します。同母弟の大海人皇子を枕元へ呼び寄せ、皇位を継ぐように委ねます。ところがこれを固辞しその日のうちに出家します。
(注)天智天皇が即位したのは天智天皇七年(661年)のこと。それまで空位であったが記述では先代斉明天皇崩御後から天智天皇元年となっています。

*天智天皇十年十月十九日
大海人皇子が吉野宮入り。この時「虎に翼を着けて放ったようなものだ」などと囁かれました。

*天智天皇十年十二月
天智天皇崩御

*天武天皇元年(672年)三月十八日
郭務悰(唐の百済進攻軍が筑紫に派遣していた使者)に天智天皇崩御を報告。郭務悰等は喪服姿で東を向いて拝みました。

*天武天皇元年三月二十一日
郭務悰は再拝して書函を送り供物を献上しました。

*天武天皇元年五月十二日
郭務悰に甲冑弓矢を与えました。

*天武天皇元年五月二十八日
高麗から使者を通じて貢物がありました(天智天皇に対しての供物)。

*天武天皇元年五月二十八日
郭務悰等は帰りました。



◎いよいよ壬申の乱が始まる!

*天武天皇元年五月
臣下が天皇に奏上、「私用で美濃に赴くと朝廷(大友皇子、弘文天皇の近江京のこと)が美濃・尾張国司に命じて天智天皇陵を造るため人夫を定めさせていましたが、彼らに武器を持たせており危険です」と。
また別の者は、「近江京(弘文天皇の都)から大和の都まで所々に監視を置いています。菟道守橋(宇治川に架かる橋の管理者)に命じて吉野宮へ食糧を運ぶのを遮ろうとしています」と。
大海人皇子は視察者を送り事実を確認、「皇位を譲り隠遁したのは、病を治癒し百年生きようと思ったからだ。このまま身を滅ぼすわけにはいかない」と言いました。

*天武天皇元年六月二十二日
大海人皇子は村国連男依(ムラクニノムラジオヨリ)、和珥部臣君手、身毛君広(ムゲツキミヒロ)に詔しました。「近江朝廷は朕に危害を加えようとしている。お前達三人は美濃国へ向かい、安八郡の湯沐令(ゆふのながし)の多臣品治(オオノオホムヂ)に協力し軍隊を起こし、急いで不破道を塞ぎなさい。朕はすぐに出発する」と。
(村国連男依 → 各務原市の手力雄神社の記事参照)

*天武天皇元年六月二十四日
東国へ向かおうとする大海人皇子に臣下が申し上げました。「兵を持たずに向かうのは大変危険です」と。皇子は村国連男依を呼び戻そうとします。(以下略)
この日に皇子は出発。急いでいたので乗り物にも乗らず歩いて行きました。そこへ鞍付きの馬に乗る県犬養連大伴に出会いそれに乗り、鸕野讚良は輿に乗せて後をついて行きました。「津振川」(津風呂川)に到着し、ようやく「車駕」(天皇の乗り物)が着き、それに乗ったのでした。



◎獣道を山越え

ようやく鸕野讚良が出てきたので、ここで一旦切ります。

「津振川」の伝承地は津風呂春日神社
現在でこそ社前に「津風呂湖」が満々と水を蓄え穏やかに佇んでいますが、これは津風呂ダム建設によりできた湖。かつては急斜面の山腹。背後の「矢治峠」も急斜面であり、他に道はなかったの?というほどの急峻な獣道。這いつくばって登らねばならない程。しかもそれを自力で峠越えをしたというから、どんだけ急いでいたのかがよく分かります。

これに根を上げずに付いてきた鸕野讚良。彼女も皇子同様、この切羽詰まった状況をよく理解していたようです。文面を追う限りでは、輿に乗るまでは皇子とともに峠を歩いて越えたと捉えられます。



◎実は「出陣」ではなく「逃亡」?

紀の記述を細かに載せたのは、この時点で「出陣」したのではなく、追っ手から逃げていたのではないかと思われるから。

大海人皇子は大友皇子軍の追っ手から桜の木の根元に隠れ、難を逃れたと桜木神社の伝承にあります。

もしこれが史実であるなら、乗り物に乗らずに急峻な獣道を駆け登ったというのにも納得。紀には隠された歴史なのではないかと考える次第。

「吉野川」沿いに大きく迂回して進軍する手もあったはず。例えばよく使われていたルートであろう、「菜摘」を経由し「国栖」に出てから北上していけば良かったのではないかと。

この「命からがら逃亡劇」に付いてきたのが鸕野讚良。彼女もまた皇子同様に乗り物にも乗る間もなく命からがらに…。死の淵にまで直面したのではないかと。