◆ 「真の持統女帝」顕彰
~反骨と苦悩の生涯~ (15)
飛鳥時代というのは
生まれて初めて歴史に興味を持った時代です。
まだ小3の頃
生まれ育った同じ橿原市に都があったこともあり、自転車で行ける範囲に古代の史跡だらけ。
すっかり虜に。
何度も書いていますが…
当時の土曜は半ドン。
土曜の午後は橿原考古学博物館へ自転車を走らせるのがお決まり。
こうして「歴男」に仕立て上がりました。
今あらためて
当時のワクワク!ドキドキ!を
思い出しつつ記事を進めています。
~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
■ 「日本書紀」編纂事業
記紀は天武天皇の時世から事実上、編纂事業が開始したとされます。先ずは「日本書紀」から見ていきます。
◎「帝紀」と「上古の諸事」を記し定める
天武天皇十年(681年)三月に「日本書紀」編纂の直接の出発点ではないかとされる記述があります。これは律令制定を命じた二月に続いてのこと。安定した政権が続くことで、国家の基盤を作り上げていこうとする意欲が垣間見えます。
━━天皇は大極殿にて詔した。川嶋皇子・忍壁皇子(オサカベノミコ)・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下の上毛野君三千(カミツケノノキミミチヂ)・小錦中の忌部連首・小錦下の阿曇連稲敷・難波連大形・大山上の中臣連大嶋・大山下の平群臣子首(ヘグリノオミコビト)に命じて「帝紀」及び「上古諸事」を記し定めさせた。大嶋・子首は筆を執り記録した━━
大極殿に意欲おいて詔を発し、錚々たる面子を動員して事業を行おうとしています。内容が内容なだけに…ということもあるのでしょうが、敢えてこの大事業を成し遂げようという意欲が窺えます。
◎「古事記」の序文
一方「古事記」には序文に、天武天皇の勅撰の書と捉えられる記述があります。
━━天武天皇は詔した。「朕は耳にする。諸家が所有する帝紀及び本辞は実際とは異なっており、虚偽が加わっている。今こそ改めないと、あと幾年で本当のことが分からなくなってしまう。これは我が国の経緯、王化(君主の徳化)の大きな基である。したがって帝紀を撰録し旧辞を討覈(詳しく調べること)し、偽りを削って真実を定めて後世に残したい」と。時に稗田阿禮という舎人がいた。人と為りは聰明。目にすれば口ずさみ、耳に入れば心にきざむ。天皇は阿禮に天皇系譜や先代の旧辞を読み習わせることを勅語した。ところが天皇は薨去してしまい、頓挫したままとなっている━━
これは先の「日本書紀」編纂の「直接の出発点となった」、天武天皇の詔と相応するものではないかと思われます。
稗田阿禮という人物は「古事記」を暗誦したという以外は、事蹟や経歴がまったく知られません。非実在説や、他の誰かが稗田阿禮という名に仮託したなどという説もあったりします。もちろん本当に天武天皇に仕える者であったのかも不明。
そもそも「正史」が、同時期の内容で、同時期に編纂されるというのは、常識からしてあり得ません。
目的を異にした、或いはどちらかが「正史」であってどちらかが「正史」ではないということに。そしてこの序文が「日本書紀」のことを指すと考える以上は、「古事記」は「正史」ではないと考えます。さらに言うなら、「古事記」が天武天皇により編纂が企画されたというのも怪しいかと。
◎「日本書紀」編纂の意義
「古事記」序文に記されるものが、本来の「日本書紀」編纂の意義ではないかとしました。これが編纂の直接の出発点であろうと。
「日本書紀」の完成は、その後の持統天皇、文武天皇、元明天皇を経て、元正天皇の御宇にまで下ります。養老四年(720年)のこと。およそ40年をかけての大事業となりました。扱いは神代から持統天皇まで。
これまで記してきたように、詔が発せられた時には既に、天武天皇から鸕野讚良(持統天皇)へと政権運営は移されていたのだろうとしてきました。この詔が天武天皇主導によるものか、鸕野讚良主導によるものか、判断はしかねます。
ただし編纂に当たっては、持統天皇の影響が大きく及んでいると思われます。もちろん持統天皇までで扱われていないこともその理由の一つ。これについては間もなく突入する即位後のところで触れていきます。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。