美濃国二宮 伊富岐神社






◆ 「真の持統女帝」顕彰
~反骨と苦悩の生涯~ (6)





つい先日、5回目の記事を上げたばかりですが…

紹介記事を上げる神社のストックが枯渇しているため、サクサクと上げていきます。

「壬申の乱」の3回目。


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■過去記事
(1) … プロフィール 1
(2) … プロフィール 2
(3) … 出生~父天智天皇崩御
(4) … 壬申の乱 1
(5) … 壬申の乱 2

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*天武天皇元年六月二十六日
朝明郡の「迹太川」(朝明川)の辺で天照大神を望遥しました。この時、不破の関へ視察を送っていた者が帰還、「関にいたのは山部王・石川王(敵将)ではなく大津皇子(天武天皇皇子)でした」と報告。そして周辺の人物を次々と従軍させることに成功しました。
天皇は喜びましたが、さらに村国男依が戻ってきて「美濃国の兵3000人が不破道を塞ぐことに成功しました」と報告有り。そして東海、東山の軍隊を次々と起こし東国入り。
近江軍にも大海人皇子軍が東国入りしたとの報告がありました。まさかの事態に近江京内は驚き震え騒ぎました。大友皇子は吉備国や筑紫国に使いを遣り、ある限りの兵を起こそうとしました。



「不破道」を塞いだ時点でもう勝ったも同然?

近江軍(大友皇子軍)はこれで西国だけの軍隊だけに絞られ、大海人皇子軍は東国の軍隊を編入することができました。「関ヶ原の戦い」と同じようになったのですが…
西国軍は既に「白村江の戦い」で疲弊していたのです。

また「不破道」の東国側は美濃国。製鉄鍛冶の盛んな地域であり、南宮大社伊富岐神社など鍛冶神を祀る神社があまた鎮座しています。大海人皇子軍は美濃国を抑えることにより武器を容易に調達できるようになったと思われます。



*(同日)
ところが吉備国・筑紫国の従軍の画策は失敗に終わります。さらに近江朝の大伴連馬來田と吹負の兄弟は大和国にいましたが、ともに大海人皇子に従軍します。



筑紫の栗隈王は元大海人皇子側の者。おそらくは東国の大海人皇子軍と吉備・筑紫国とで連携されれば挟み撃ちにあうこととなり、それを防ぐために画策したのだろうと思います。

大伴氏と言えば古代の名門軍事氏族。既に勢力は衰えてはいたものの、この氏族と組することによる影響力は図り知れないと思います。ところがこちらも大海人皇子軍に従軍…。

もう既に結果が見えてる!
「不破道」を塞いだ時点で勝利確定!



*天武天皇元年六月二十七日
大海人皇子は鸕野讚良を桑名郡家に留めて不破入りします。その日に不破入りし、軍事の責任者として皇子の高市皇子を抜擢。この後は概ね連戦連勝となります。

*天武天皇元年七月二十三日
大友皇子が自害する。



このテーマ記事はあくまでも持統天皇(鸕野讚良)についてであり、「壬申の乱」について記すものではありません。したがって大友皇子自害までの怒涛の進軍の様子は割愛致します。

いずれは別のテーマで触れることになるのでしょうが。

注目点は…
◎世紀の大決戦にもかかわらず、わずか1ヶ月余りで決着したこと。
◎東国西国問わず多くの有力者が次々と見方したこと、また大友皇子軍の有力者は悉く殺害されたこと。

◎大海人皇子側には多くの有能な軍臣がいたのだろうとは思いますが、やはり大海人皇子は抜群だったのでしょうね。
戦いの指揮を取ったのは大海人皇子で間違いないと考えます。

◎大海人皇子は即位後、強力な中央集権国家を造り上げていきます。天皇による専制政治と言ってもいいかと思います。
これは上述のように有力者が次々と従軍し、敵将は悉く殺害された、つまり天武天皇(大海人皇子)に対してたてつくような者が存在しないため為せた業かと思います。



ここまでで「壬申の乱」は一通り終了。

天智天皇の崩御より俄に慌ただしくなり、大海人皇子と鸕野讚良はほとんど着のみ着のまま、命からがら吉野宮を脱出、壬申の乱が始まりました。

矢継ぎ早に次々と手を打ちます。なかでも真っ先に「不破道」を塞いだのが功を奏し、一気に方がつきました。大海人皇子の傑出した鬼才ぶりが窺えます。

「壬申の乱」で鬼才ぶりを発揮したのは大海人皇子ですが、そもそも「壬申の乱」を起こしたのは鸕野讚良ではないかという考えも。戦略にも関わっていた可能性はあります。

壬申の乱が起こらなければ大友皇子に皇位継承されたわけですが、その次は葛野王(カドノオウ)が既定路線。葛野王は大友皇子と十市皇女の間の御子。十市皇女は大海人皇子の娘、つまり大海人皇子の孫が次代の皇位継承であったわけです。

もちろん大海人皇子自身が皇位を継承したいと強く願ってもいたのでしょうが、それよりももっと強く願ったのは鸕野讚良ではなかったのかと。つまり大海人皇子に皇位を継がせることにより、自分の子である草壁皇子に皇位を継がせることができると。

そう考えると「壬申の乱」を起こした事実上の張本人は、鸕野讚良であるとも考えられます。また鸕野讚良も傑出した鬼才、細かい戦略は別として、「不破道」を塞ぐという大きな戦略を編み出したのも鸕野讚良ではないかとも考えられます。


「壬申の乱」の最終決戦の地となった「瀬田唐橋」近くに鎮座する建部大社。天武天皇により当地に遷座。