建部大社


近江国栗太郡
滋賀県大津市神領1-16-1
(P有)

■延喜式神名帳
建部神社 名神大 の比定社

■社格等
[旧社格] 官弊大社
[現在] 別表神社

■祭神
日本武尊
[相殿] 天明玉命
[権殿] 大己貴命
*相殿神は天照大神とするものもあるものの、滋賀県神社庁のデータに従っています。当社公式HPには相殿神の記載無し。


琵琶湖に隣接する郡のうちもっとも南に位置する「栗太郡」、現在の「瀬田」に鎮座。日本三大橋、近江八景と賞される「瀬田の唐橋」の東すぐ側。東岸真ん中辺りの「神崎郡」から遷座したとされます。
◎創建は社伝によると、景行天皇四十六年に神勅により、日本武尊の后 布多遲比売命(フタヂヒメノミコト)が、御子である稲依別王とともに神崎郡建部郷に日本武尊の神霊を奉斎したのが始まりであるとしています。
◎布多遲比売命(両道入姫皇女とも)とは、安国造の祖である意富多牟和気(オホタムワケ)の娘。和泉国大鳥郡の大鳥羽衣濱神社に鎮まっています。その安国造とは、日子坐王が天之御影神の娘である息長水依姫を娶って生まれた、水穂真若王を始祖とする氏族(御上神社に関連記事)。ちなみに兄は丹波道主王
◎神崎郡建部郷に関しては、紀の景行天皇四十三年の条に(皇子の日本武尊の)功名を録しようと「武部」を定めたとあり、名代部(天皇直属の部民)として設けられました。各地に散見されますが、そのうちの主要な一つかと思われます。当地は、稲依別王を祖とする建部君が拠点とした「武部」。彼らが三年後に創建したというのが当社であるといえるかと思います。
◎時代は降って天武天皇 白鳳四年(675年)、国府所在地の当地に遷座させたと社伝では示しています。ところが当地に国府が設置されたのは、発掘調査の結果、奈良時代中期以降と出ています。つまり社伝とはまったく整合しないことに。
◎天武天皇による遷座で、しかも近江国ということは、これはやはり壬申の乱を抜きにして考えられないと思います。紀には「瀬田の唐橋」においての決戦があまりに事細かに生々しく記載されています。
天武天皇には感じるものがあったのではないでしょうか。伊勢の神宮と同様に。だからどうしてもこの地で祀る必要があったのではと。
◎以下はあくまでも個人的な想像に過ぎないものであり、大変恐縮しつつ記しておきます。この決戦において大分君稚臣(オオキダノキミワカミ)が、圧倒的不利な状態の中、決死の覚悟でたった一人で「瀬田の唐橋」を越え敵陣に挑んだと記されます。結果はもちろん大海人皇子軍(天武天皇)の勝利となったのですが。この勇猛果敢な戦士に天武天皇は日本武尊の勇姿が重なった、あるいは日本武尊が乗り移ったと思ったのではないかと。だから是が非でも、この地に日本武尊を祀る必要があった…などと想像を逞しくしています。

*写真は2016年5月撮影のものです。