(「吾城」に推定される阿紀神社の境内)





◆ 「真の持統女帝」顕彰
~反骨と苦悩の生涯~ (5)





気が付けば5回目の記事。

金山彦神社金山媛神社の藤森宮司と春に三年ぶりに再開。このシリーズ企画物の記事を起こす発端になったのですが…

月日が経つのは早いもので、今年も終盤戦に。もうすぐ一年が過ぎ去るのか…。


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■過去記事
(1) … プロフィール 1
(2) … プロフィール 2
(3) … 出生~父天智天皇崩御
(4) … 壬申の乱スタート

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前回の記事より、壬申の乱に突入しました。

とはいっても出陣というよりは、とにかく命からがら追っ手から逃げ延びただけ?なのではないかという見方もできると記しておきました。

つまり本当の挙兵というのは、今回の記事のどこかからではないかと。



*天武天皇元年六月二十四日(続き)
女官十人を含む総勢三十人余りで菟田の「吾城(あき)」に到着。「甘羅(かむら)村」を過ぎると、美濃から美濃王を呼ぶなど従者を増やすことに成功。「大野」に着く頃には日が暮れ、夜中に「隠郡(なばりのこほり)」に到着。「隠駅家(なばりのうまや)」を焼き、天皇が東国入りするから参り出て従うようにと命じるも、誰一人として出て来ませんでした。


吾城 … 阿騎野(参照→阿紀神社)
甘羅 … 神楽岡か(参照→神楽岡神社)
大野 … 現在の室生口大野か
隠郡 … 現在の三重県名張市

吉野から宇陀郡を抜け、一気に伊賀国名張郡まで。車でも2時間は軽くかかるかな?もちろん山越えもしていますし、とんでもない強行軍です。

隠郡での詔が挙兵宣言であり、実質の壬申の乱スタートではなかったかと思うのですが…。



*天武天皇元年六月二十五日(推定)
鈴鹿郡に入り多くの軍隊が集結。500人の軍隊で「鈴鹿山道」を塞ごうとしました。「川曲(かわわ)」の「坂下(さかもと)」に到着すると日が暮れました。皇后(持統天皇)が疲れたので輿を留めしばし休息。夜になると雨が降るも休息していられないので進軍。雷雨に見舞われ、駕(天皇の乗り物)の従者は衣裳が濡れたせいで、寒さに耐えられなくなります。三重郡家に到ると家屋を一軒焼き、暖を取りました。

川曲 … 現在の鈴鹿市河田町、川曲駅の周辺かと思われます。「坂下」は不明。

六月二十五日とは記されていないものの、内容からしてそうであろうと思います。
鈴鹿山脈の南端辺りのなるべく平坦な道を通り、山脈越えをしたのでしょうが、大変な山道。輿に乗っていたとは言え、持統天皇も大層お疲れになったものと想像されます。

常識的に考えるのなら、このような強行軍に皇后(天武天皇はまだ即位していない)が付いて来るはずはないのですが。
やはりこれは吉野に追っ手が迫り、命からがら脱出。そのままここまでお伴してきたと考えてみたくなります。

進軍するにつれ、どんどんと従軍が合流していきます。直接は関係ないので省略していますが、天武天皇は次々と手を打っています。ひょっとしたら司令塔は鸕野讚良(持統天皇)だったのでは?と密かに考えています。


(「甘羅」に推定される神楽岡神社の境内より)

(阿紀神社の禊場)