神楽岡神社 (大宇陀松山地区 上新)


大和国宇陀郡
奈良県宇陀市大宇陀上新1093
(P無し、道の駅「宇陀路大宇陀」から徒歩5分余り)

■祭神
天照大神


城下町として形成された「重要伝統的建造物保存地区」に指定されている、大宇陀「松山地区」内に鎮座する社。当社は小高い丘の上に座し趣ある街並みを一望できます。
◎創建由緒等は不明ながら、原初の姿を示唆する記述がいくつかの古書に見られます。
「大和志料」には「新神楽岡神社」と記されています。これは当社北北東に鎮座する春日神社を「神楽岡神社」とするため。そして松山城に「神楽石」というものがあったという記述も。その春日神社はかつての松山城の麓に鎮座しています。
◎「宇陀旧事紀」という書には、「春日神社には天児屋根命を祀り 阿貴山の峰に神楽石 麓に天の瓊矛と称する長さ十四尺の霊宝石あり」と記されているようです。この「霊宝石」というのは、春日神社境内の瑞垣前に横たわる「天の瓊矛(ぬぼこ)」ではないかと思われます。長さも目測で4m余りくらい、記述に符号しそうです。
◎以上2書の上げた記述を擦り合わせると、「阿貴山」の峰と麓の2箇所に霊石があり信仰の対象であった、峰の方は当社に、麓の方は春日神社となった。そして当社は春日神社の南方に降ろされた、ということになるかと思います。
◎ところが「大和志料」は非常に気になる記述を上げています。「春日若宮裕範ノ記」を引き、天正十三年(1585年)に神楽岡の神を阿紀神社の傍らにある塚に移したと。そして移した地を「新神楽岡」と称し、また「高天原」とも称するとも。
これによると阿紀神社の旧社地である「高天原」(現在記事改定作業中でリンクには飛びません)に該当するように見受けられます。
◎紀の天武天皇即位元年六月の条(実際の即位は翌年二月)に、壬申の乱で吉野宮を出立した大海人皇子(後の天武天皇)は、その日のうちに「菟田吾城(阿騎野)」に到着し、「甘羅邑(かむらのむら)を経て「大野」(現在の室生口大野の辺りか)に到着したと記されます。
この「甘羅邑」が当地ではないかとする説も。つまり「かむら」が「かぐら」に転訛したと。
◎江戸初期の「宇陀町絵図」には当社地が「大将軍」と記され、さらに背後の「附山」には「御劔原」というところも。ご神体は石なのか劔なのか、またはそれらに宿る神霊だったのかもしれません。
◎以上を見る限り情報が錯綜しており、原初の姿からその後の経緯も不明と言わざるを得ません。社名からも元伊勢「宇太阿貴宮」と関わる由緒深き社であるかと思われます。

◎境内万葉歌碑は、「ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とぞ来し」━柿本人麻呂━
「草を刈るような荒野ではあるが、黄葉のように神去った草壁皇子の形見であると思ってやって来た」の意。

*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。


「薬の道」(伊勢街道)から当社への参道があります。



神門の扉に丸ガラスがあり、ご本殿を仰ぐことができます。



万葉歌碑

狛犬は幕末の名工、丹波佐吉によるもの。


「西山岳」と背後に「音羽山」