阿紀神社


大和国宇陀郡
奈良県宇陀市大宇陀迫間252
(P有)

■延喜式神名帳
阿紀神社 鍬靫 の比定社

■旧社格
県社

■祭神
天照皇大神
[合祀] 天手力男命 秋田比売命 邇邇杵命 八意思兼命 天水分神 菅原道真 金山彦神 金山姫神 日臣命 大国主命 月夜見命 和多津見命 品陀別命 事代主命 須勢理毘賣命



元伊勢「宇太阿貴宮」(秘志野宮)の有力な候補地。「宇陀川」の支流「神戸川」の西側畔、高原地帯である宇陀市大宇陀「迫間」の丘陵地に鎮座。標高は400m近く。通称は「神戸明神」。
◎江戸初期の「和州旧幽考」には「宇陀の町より4・5町坤の方に、俗に皇太神御鎮座の跡とて小社有り。其所の名を神戸といへり」とあります。「大和志」では当社を「神戸明神」と呼んでいることから推定されています。また境内には、天照大神の本地仏である大日如来が据えられた大日堂という仏教施設が明治まであったということも理由の一つ。
◎「皇大神宮儀式帳」によると天照大神の御霊は「美和の御諸宮」を出て、当地にて4年間鎮まった後に「佐々並多宮(ささはたのみや)」に遷されています。一方「倭姫命世記」では「倭笠縫邑、丹後国吉佐宮、伊豆加志本宮、紀伊国奈久佐浜宮、吉備国名方浜宮、弥和乃御室嶺上宮、宇多秋宮、佐佐波多宮」の順。
◎ご祭神に見える秋田比売命については、今のところ手がかり無しの状態。社名由来となった姫神と思われ、当地の地主神といったところでしょうか。「倭姫命世記」には采女 香刀比売(カトヒメ)が地口・御田を献上した記されます。
◎一方で社伝によると神武東征の砌、熊野から宇陀まで進軍し、当地にて大和に向かって天照大神を祀るとその勢いにより賊軍に勝利することができたと。そういった霊地に倭姫命が4年間鎮めたのかもしれません。
◎現社地へは平安時代または天正年間(1573~1592年)に遷座されたと伝わります。その旧社地というのは南東50mほどにある「高天原」
大海人皇子(後の天武天皇)が鸕野讃良皇女(ウノササラノヒメミコ、後の持統天皇)と草壁皇子と共に「壬申の乱」の折、吉野から「阿騎野」(大宇陀一帯)を経て近江へと向かったと。その思い出深い地に、持統天皇の和風諡号「高天原廣姫」から「高天原」を取り名付けたというもの。
◎その「高天原」へは持統天皇が遷座させたと伝わります。その原初の鎮座地というのが、西方300mほどの「照巣」という地。倭姫命の祭祀場であったと伝わります。
◎境内には万葉歌碑が設けられています。
「阿騎の野に 宿る旅人 寐も寝られやも いにしへ思ふに」━柿本人麻呂━
「古(いにしへ)を思うと寝ようにも寝られない」という意の歌。有名な「ひむがしの野に かぎろひの 立つ見えて…」の一連の歌。これは人麻呂が軽皇子(文武天皇)の阿騎野の狩りに連れて来られたときに詠んだ歌。「古」とは草壁皇子が、御子である軽皇子を連れて「阿騎野」に狩りに来ていたということ。持統天皇も薬猟(薬草摘み)に訪れていることから、やはり当地は思い出の地であったということでしょうか。
◎神武東征時に天照大神に戦勝祈願を行った霊地であり、倭姫命はその霊地にて再び天照大神の御魂を鎮め祭祀を行い、また大海人皇子も戦勝祈願を行った…。後に持統天皇は麓の小山(丘陵)に降ろし、思い出の地で祭祀を行った…。さらに後世には「禊場」であった現社地に遷された…と。一連の個人的思量を「照巣」の記事内にて掲載しています。

*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。





立派な能舞台が設けられています。

この禊場が太古からのものだったのかもしれません。




境内社の配置は元伊勢によく見られるいびつなもの。通常はご本殿に背中を向けるということは無いのですが。




こちらが万葉歌碑。


境内から旧社地 「高天原」を。