◆ 「真の持統女帝」顕彰
 ~反骨と苦悩の生涯~ (9)





今回は「天武天皇と陰陽道」について。
ついにこの分野に取りかかります。


陰陽道はやや苦手な分野でして…
いや!苦手などと言っちゃイカン!

自身も勉強しつつの記事作成となります。

この冒頭文を書いているのは、この記事を作り始めて既に一週間が経過してからのこと。

分からないことも多くて
四苦八苦しながら記事を少しずつ進めています。腰痛で敬神活動ができないなか進めてきました。まだあと数日かかりそうな状況ですが。

この記事を作り終える頃には
2ランクほどはレベルUPしていそうです。

避けて通られない分野なので
ちょうどいい機会になります。


記事は私と同等レベルの方にも
分かるようにしていきたいと思います。


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■過去記事
(1) … プロフィール 1
(2) … プロフィール 2
(3) … 出生~父天智天皇崩御
(4) … 壬申の乱 1
(5) … 壬申の乱 2
(6) … 壬申の乱 3
(7) … 天武天皇即位
(8) … 泊瀬斎宮と神宮派遣

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「遁甲盤」(画像はWikiより)




◎天武天皇と「天文・遁甲」

━━天文遁甲を能(よ)くす━━

これは天武天皇即位前記、
━━天渟中原瀛眞人天皇(天武天皇) 天命開別天皇(天智天皇)同母弟也 幼くして曰くは大海人皇子 岐㠜の姿(頑丈な姿)をして生まれし 及び壮年には雄々し神武(神のように武勇)なりき━━

冒頭のこの後に続く一文。簡単な出自紹介と屈強な容姿の後に、いきなり「天文遁甲」に通じていたと。これは天武天皇を表現するに最重要なことであると理解できます。



◎「天文・遁甲」とは

「五帝」と称される中華文明深源に関わる神話上の帝王の最初、「黄帝」が天神より授かった方位術を「奇門遁甲」と言います。紀元前2697年にこの術を基に中国を建国したことが始まりと伝わります。


この術に従って戦うと「必ず勝利を収める」ことから、歴代の軍師の秘伝となります。諸葛孔明の活躍は有名なところ。

この「奇門遁甲」のおおもととなるのが「天文遁甲」という占星術。自身の出生日時を法則に照らし合わせて行う占星術と言われています。


日本では推古天皇十年(602年)に、百済の僧觀勒が「天文・遁甲・暦書」を伝えたとあります。



◎壬申の乱の奇跡の大勝利

この戦でいかに神懸かって大勝利を収めたのかについては、これまで触れてきた通り。これは天武天皇が「必ず勝利する」という「天文遁甲」を駆使したからと言えそうです。

もう一度言います。
「天文遁甲」は「必ず勝利する」のです。



◎「式盤」の使用

*天武天皇元年六月二十五日(推定)
━━「横河」に到着しようとする時、黒雲が現れて広がり天を覆った。天皇はこれを怪しみ「式」を執り、「これは天下が二分されるという天象だ。しかし最後には私が天下をとるであろう」と占った━━

天武天皇は自ら「式盤(ちょくばん)」で占っています。
これは「記号によって描き出された象の背後にある意味を総合的に解読すること」であり、天皇の陰陽道的知識は非常に高度なものであったはずと言えます。これが「天文遁甲を能くす」。

これはこのシリーズの5回目の記事(壬申の乱 2)に掲載したもの。ただしそこではまだ「式盤」を執って占ったとは、敢えて書いていませんが。

これまで渡来人から知識はもたらされていたものの、それを操った初めての天皇が天武天皇。他に桓武天皇が用いたくらいでしょうか。

まだ壬申の乱は始まったばかり。吉野から命からがら脱出し、ようやく気分的にも落ち着きつつあった頃と言えるでしょうか。持統天皇もここまでは同行しています。



◎「天文・遁甲」の習得

壬申の乱においては上記のように、吉野から命からがら脱出し名張・伊賀への強行軍。これほどの高度な術をその間に習得できようはずもありません。事前に習得していたと見るべきかと思います。

誰から学んだのかについては諸説あり、高向王(参照 → 河内国錦織郡 高向神社)や大友村主高聰などが挙げられているようですが詳細は不明。

天智天皇が重病に伏し、次代の天皇を…という時にそれを辞退し吉野へ遁世した大海人皇子(天武天皇)。
この時に「虎に翼をつけて放てり」と言われています。これは「天文・遁甲」を能くする天武天皇を恐れてのことかと思います。つまり戦を起こせば「必ず勝利する」天武天皇を、自由にしてしまったということではないかと。



◎「陰陽道」の管理

壬申の乱に大勝利し即位した天武天皇は、陰陽道の管理に乗り出します。

壬申の乱はクーデターであったと言われます。敗者となった大友皇子が実は即位していた(弘文天皇)とされるのもその理由の一つ。

陰陽道の管理に乗り出した理由は2つ。
*一つは、陰陽道が政権転覆の強力な術と成り得ること。これは自身が実証しました。
*もう一つは、陰陽道を元にした律令国家体制の確立。

このもう一つについて触れておかねばなりません。

たいていの場合、クーデターにより成立した国家は脆弱な基盤であるもの。
ところが天武朝は「必ず勝利する」という「天文・遁甲」を術にし、奇跡的な大勝利を成し遂げたことにより、カリスマ性を身に纏いました。また乱の最中において、どんどん大海人皇子軍に帰順していくという稀有な現象が起こっていきました。

このようにして成立した天武朝。
自らは専制君主として、強烈なカリスマ性を発揮しつつ中央集権国家を築き上げます。

*「中央集権国家」とは、あらゆる権限と財源が天皇に一元されている国家のこと。

一切の大臣を置かず皇族を臣下とし天皇直属としました。つまり自らがほとんどすべてをやってのけています。

「天皇」という名称は天武天皇の時に初めて用いられたとされます。これは「地上の覇者として天に通じようとする」という意図があったもの。

━━古代中国で最高神、神格化された北極星(天皇大帝)を指す語━━(Wikiより)

こうして天武天皇は専制君主として、陰陽道の管理を行っていきます。



◎「陰陽寮」と「占星台」の設置

*天武天皇即位四年(674年)春正月(一月一日)

━━大学寮(ふむやつかさ)の諸学生(ふむやわらわ)・陰陽寮(おんみょうのつかさ)・外薬寮(とのくすりのつかさ)…(中略)…たちは薬及び珍しい物を献上した…(中略)…一月五日、初めて占星台を興した━━(大意)

「陰陽寮」という一機関が登場しました。
しかも「設けた」ではなく、彼らが「献上しに来た」と。つまり既に設置済みであったということになります。いつ設置されたかは記されていません。

先代の天智天皇十年正月の条に、「角福牟(ロクフクム) 陰陽に於ひて閑ずる」とあります(「閑」は通ずると訳しました)。これは百済系渡来人を一気に役職に任命した記述のなかのこと。角福牟という渡来人を「陰陽」に任命したと。

つまり先代の天智天皇の晩年(この年の十二月に崩御)、この時点でまだ「陰陽寮」という官職は存在しないと考えていいのかと思います。そうすると「陰陽寮」が設置されたのは天武天皇が即位してからであろうと考えます。



◎「陰陽寮」とは?

「占い・天文・時・暦の編纂を担当する部署」のこと。上の紀の記述だけでは詳細は分かりません。奈良時代、平安時代と時が降るに従い整えられていったものと思われます。

「陰陽道」とは、
━━陰陽五行思想を起源として、天文学や暦の知識を駆使し、日時や方角、人事全般の吉凶を占う技術━━(Wikiより)



◎「占星台」とは。

ネット検索をかけていると「瞻占台(せんせいだい)」というのが多く出てきます。
これは新羅の善徳女王代(632~647年)に築かれたと「三國遺事」の記述にあるもの。高さ10m前後(資料により異なる)の徳利型の円筒形石造物であると。

これは意外でした…。
天智天皇の「漏刻台」(=水時計)のイメージがあったため、階段状のもっと平べったいものとの先入観を持っていました。現在の天文台に似た形だったのですね。先入観は怖い…。

天智天皇の「漏刻台」は、
━━斉明天皇六年夏五月、皇太子(後の天智天皇)は初めて漏剋(=漏刻)を造った。これを使い民に時を知らせた━━

━━天智天皇即位十年夏四月、漏剋を新しい台に置いた。初めて漏剋を用い、初めて候時(とき)を打ち、鐘鼓を鳴らした。この漏剋は天皇が皇太子であった時に初めて自らが製作したものである━━(大意)

斉明天皇六年の記述は飛鳥でのこと。これは「飛鳥水落遺跡」のこと。一方の天智天皇十年の記述は近江でのこと。つまり「漏剋」は移されています。



(天智天皇の「漏刻台」跡とされる「飛鳥水落遺跡」)



天武天皇の「占星台」の遺構は未だ発見されていません。様式も形状ももちろん不明。既に発見されている天智天皇の「漏刻台」とはどう違うのか?

「占星台」は「飛鳥京」にあって然るべきなのでしょうが、もう発掘調査など隅々まで行われたはずのでは?

これらに対して明確な解答を出されているサイトを見つけました。ここでは天智天皇が作った「漏刻台」を使っていたとあります。リンクを貼っておきます。↓↓↓




◎持統天皇と「天文・遁甲」

さて…天武天皇が「天文・遁甲を能くす」ということは分かりましたが、持統天皇はこれをどう見ていたのでしょうか。

高度な陰陽道的知識を身につけていた天武天皇。それに則りあらゆる目前の政策等の事柄を進めていたわけで、いくら持統天皇であってもそこに口を挟む余地はなかったのだろうと思われます。

また大柄で屈強な体躯(遺骨からも判明している)、まさにボス、親分的な存在であったのかもしれません。



ここからは個人的、勝手気ままな妄想と判断して下さいませ。

そういう「デキル男」ほど、家の母ちゃんにはタジタジ…というのが世の常ではないかと。
夏目漱石…野村監督…落合博満…佐々木健介…キムタク…枚挙に暇がありませんが。

よく分からない高度な術を駆使してごちゃごちゃとやってる夫を、どっしりと見守っていた?そんな感じもします。

「横河」で「式盤」を用いて占った際に「天下を取る」と出たことで、後は貴方の好きにしなさいと、軍から離れた…。

いざ夫が失敗した時には自ら乗り出す!

ところが失敗どころかトントン拍子に大成功を収めていったので、乗り出す機会はなかった…そんな感じもしています。