小夫天神社参道の「倭笠縫邑 泊瀬斎宮 旧跡伝承地」の石碑と「斎宮山」。
◆ 「真の持統女帝」顕彰
~反骨と苦悩の生涯~ (8)
天照大御神が実は男神であった…
このような説を唱える方が多くいますが、
私も原始はそうであったと考えています。
ではいつから女神に変わったのか、
鸕野讚良が持統天皇となる時であると考えています。
今回はそれに関わる話となります。
それはこのテーマ記事の主題の一つ。
持統天皇の即位はまだまだ先のことですが、天照大御神の名が登場します。
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◎泊瀬斎宮へ
* 天武天皇二年夏四月十四日
(天武天皇)は大來皇女を天照太神宮に派遣し仕えさそうと、「泊瀬斎宮」へ向かうよう命じます。先ずは神に近付くため身を潔める所。
* 五月朔日
臣下たちに詔します。「初めて神宮に仕える者はまず大舎人(おおとねり)に仕えるように。然るに才能ある者を選び当職に充てること。婦女は未婚既婚を問わず、年齢を問わず、自ら進んで仕えたいという者には耳を傾けなさい。選考基準は官人の例に倣うように」と。
「天照太神宮」と記されています。これについては諸説ありますが、「太」とするのはやはり陰陽道に通じていた天武天皇によるものと考えています。
「泊瀬斎宮」にて先に潔斎をしてからでないと神宮には仕えられないとしています。平安時代から始まったとされ、伊勢斎王に倣ったとされる賀茂斎院では、斎王が仏事など不浄を避けるのに数年間そこで過ごします。「泊瀬斎宮」でも不浄である仏教を祓ったものと思われます。
斎王が派遣されるということは、天照大御神は男神ではないかと思います。神嘗祭、二度の月次祭と年に3回のみ、斎王は天照大御神の一夜妻となるのだろうと。つまり天照大御神は男神であったということに。
神宮に仕える者の選定と募集をしています。この時に伊勢神宮が創建されたものと考えます。それまでは臨時の祭祀場。建物等はもちろん無く、「五十鈴川」の禊場、現在の所管社 滝祭神が鎮座する場所で祭祀が行われていたのではないかと。滝祭神はその神籬跡を社として起こしたと考えています。
「壬申の乱」の最中に天照大御神は一度登場しています。
天武天皇元年六月二十五日、大海人皇子軍は鈴鹿郡「川曲(かわわ)」の「坂下(さかもと)」に到着しここで一夜を過ごしますが、雷雨に見舞われます。翌日には朝明郡の「迹太川」(朝明川)の辺で天照大神を望遥したとあります。
「望遥」という言葉が用いられているのみなので、当時伊勢がどのような状態であったのかは分かりません。
景行天皇二十年にも、「五百野皇女が遣わされ天照大神を祭らしめた」という記述があります。ところがこの一行の記述のみであり、「斎宮」という言葉は天武天皇の御宇に初めて登場します。
なお「泊瀬斎宮」については、小夫天神社が候補地の一。背後の山を「斎宮山」と称し、大來皇女が潔斎した化粧壺・化粧川という伝承地もあります。他に有力なのは脇本遺跡。斎宮跡ではないかとされる建物跡が発見されています。
◎ついに伊勢神宮へ!
*天武天皇即位三年秋十月九日
大來皇女は泊瀬斎宮より伊勢神宮へ向かいました。
この一文のみ。大和朝廷にとって伊勢はまだまだ遠い地だったのでしょうか。また供奉した者もごく少数、そのまま現地にて仕えたのでしょうか。その様子や状態がまったく伝えられていません。寂しい派遣だったのかもしれません。
紀の編纂を命じた天武天皇の事蹟。すべて記録があるはずで、詳細に記されています。したがって後々に持統天皇に関わる記述のみに留めています。
化粧壺・化粧川(大來皇女が潔斎、豊鋤入姫命が化粧直しをしたと伝わる)