「飛鳥浄御原令」編纂の詔が出されたとされる、飛鳥浄御原宮の「エビノコ大殿」(右下の手前の建物)。
橿考研附属博物館の展示模型







◆ 「真の持統女帝」顕彰
 ~反骨と苦悩の生涯~ (13) 







今回は「律令」のお話となります。


難しい?

いや、簡単にします。
目指すは一般中学生レベル!


当ブログはあまりに拡散し過ぎるのを望まず、なるべく細々とやっておりますが、
ここだけはちょっとだけ多くの方に見て頂きたいかな~という思いもありますもので。


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■過去記事
(1) … プロフィール 1
(2) … プロフィール 2
(3) … 出生~父天智天皇崩御
(4) … 壬申の乱 1
(5) … 壬申の乱 2
(6) … 壬申の乱 3
(7) … 天武天皇即位
(8) … 泊瀬斎宮と神宮派遣
(9) … 天武天皇と陰陽道
(10) … 「龍田 風神」「廣瀬 大物忌神」・外交
(11) … 軍事と国防
(12) … 「吉野の盟約」

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■ 律令

天武天皇即位十年(681年)、律令制定を命じる詔が発令されました。そして成立したのが「飛鳥浄御原令」。ところがこれは天武天皇の存命中には成立しませんでした。



◎「律令」とは

こちらでは究極に簡潔に表現することを良しとしたいと思います。

━━奈良時代・平安時代にあった、現在の言葉で言うところの「法律」━━

さすがに「法律」を知らない者はおらんでしょう。小学生ですらも日常会話の中で「ホーリツ」という言葉を使うでしょう。

大人なのでもう少し詳しくしておきましょう。
「律令」は「律」と「令」から成ります。
*「律」 … 概ね現在の刑法に該当
*「令」 … 刑法以外のもの(行政法・商法・民法など)

つまり、
「律」とはやっちゃいかんことを取り締まるためのもの、後ろ向きなこと。
「令」とはこうしていきましょうという、前向きで建設的なこと。

「律令」を用いた統治制度を「律令制」、
「律令」で統治される国家を「律令国家」と言います。

「律令」は中国では魏晋南北朝時代という、日本では古墳時代頃から発展し、隋唐時代に最盛期となります。
隋や唐に追い付き、対等の外交を行いたい日本が「律令」を取り入れるのは、当然の流れでした。



◎日本最初の「律令」?

文献上に見られる日本最初の律令は「近江令」。もちろん天智天皇の治世に成立したもの。成立は668年(天智天皇七年、即位元年)頃とされます。

これは「藤氏家伝」と「弘仁格式」に記されています。ところが「近江令」は記紀には記されておらず、また時代背景からも鑑みて、存在しないという説も有力。

*「藤氏家伝」とは藤原氏に伝えらた、藤原氏の古代の歴史が記されたもの。
*「弘仁格式」とは平安初期に編纂、施行された「三大格式」の一つ。「格式」とは「律令の補助法令、いわゆる取説」(Wikiより)のこと。

もし「近江令」が実在しないとなると、「飛鳥浄御原令」が日本最初の「律令」となります。

ところが…
「飛鳥浄御原令」は、「律令」のうちの「令」があるのみ。大宝元年(701年)に成立した「大宝律令」で完成することになります。
遣隋使が始まった600年からは、およそ100年かけて完成に至りました。

ただし…
「飛鳥浄御原令」が頒布される直前に、草壁皇子が崩御しています。この動揺の中で「令」のみが前倒しで頒布されたという説もあります。



◎既に鸕野讚良が…?

前回の記事(吉野の盟約)において、草壁皇子に次代天皇を確約させたという定説は誤りで、次代天皇は鸕野讚良(持統天皇)となることを暗に確約させたのではないかと書きました。

草壁皇子は「皇太子」となりますが、「摂政」ともなります。この「摂政」というのは鸕野讚良に対してのものではないかと。
既に天武天皇は弱っており、実権は鸕野讚良の手に。それを補完するための措置ではなかったのか?ということです。

「飛鳥浄御原令」編纂の詔が出された同日に、草壁皇子が皇太子となり、「摂政」となっています。

紀の記述を見ていきましょう。

━━天武天皇即位十年二月二十五日、天皇と皇后は大極殿に居て親王・諸王及び諸臣に詔した。「朕は今更に律令を定め、法式を改めようと思う。それを作って修めなさい。公務に支障をきたさないよう、手分けして行いなさい」と。
この日、草壁皇子尊を皇太子とし、すべての政治の実務を摂させた(「摂政」とした)━━

天武天皇が政務に関わる者全員を召集して発した詔。天皇は「現人神(あらひとがみ)」ですから、発する言葉はすべて「詔」となるのですが、この詔は極めて重要なものであることが察せられます。

原文は「朕更欲定律令改法式」と記されます。
*「律令」 … 定
*「法式」 … 改
つまり「法式」というものは存在し改修しようとしたが、「律令」は存在しないので定めようとした、ということになります。

皇后が同席しています。「同席」というよりは「同列」という表現が正しいのかも。そして「詔」は天武天皇から発せられたのではなく、天武天皇と皇后の両者から発せられています。

「律令」編纂の詔と同日に草壁皇子を皇太子とし、「摂政」としたと。
「摂政」についての記述は、厩戸皇子(聖徳太子)が「摂政」となった時のものと極めて相似しています。

つまりは…
既に天武天皇は体調が弱ってきており、自身はまだ天皇ではありながら実権は鸕野讚良(後の持統天皇)に移すことになった。

だから、同列にて詔を発したことになっているように思います。

そして草壁皇子の「摂政」については、天武天皇の「摂政」ではなく、鸕野讚良の「摂政」であったと考えます。



◎結論として…

この詔は「飛鳥浄御原令」の編纂に取りかかりなさいというものだけではなく、

実質のトップは鸕野讚良に代わりましたよ!
という詔であったと考えます。

そしてこの「飛鳥浄御原令」を用いた、鸕野讚良(持統天皇)の新しい国家を目指そうとしたものであろうかと思います。

そしてこれは鸕野讚良の考えで、鸕野讚良主導で行われたものと考えています。これはこのテーマを通じて徐々に明かしていきたいと思います。

*まだこの時は「飛鳥浄御原令」という呼称はありません。




*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。