奈文研 藤原京跡資料館の持統天皇像






◆ 「真の持統女帝」顕彰
 ~反骨と苦悩の生涯~ (12)






これまでは夫の天武天皇主導の記事ばかりでした。妻の鸕野讚良(ウノノサララ、持統天皇)は背後から見え隠れしている程度。

今回ははっきりと鸕野讚良の思惑が出ています。

夫を操る恐妻?


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■過去記事
(1) … プロフィール 1
(2) … プロフィール 2
(3) … 出生~父天智天皇崩御
(4) … 壬申の乱 1
(5) … 壬申の乱 2
(6) … 壬申の乱 3
(7) … 天武天皇即位
(8) … 泊瀬斎宮と神宮派遣
(9) … 天武天皇と陰陽道
(10) … 「龍田 風神」「廣瀬 大物忌神」・外交
(11) … 軍事と国防

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■ 「吉野の盟約」

天武天皇八年(679年)五月五日、いわゆる「吉野の盟約」というのが行われました。

明らかに鸕野讚良(持統天皇)の意向が反映した、このテーマ記事にとっては重要なもの。大意ながら紀の記述全文を掲載します。

━━五月五日、天武天皇は吉野宮へ行幸した。六日、天皇は皇后(鸕野讚良)・草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子(志貴皇子)に、「朕(私は)、今日汝等と庭で盟い(誓い)、千年後の事無きを欲す。どうだろうか」と詔した。皇子等は口を揃えて「明らかに理にかなったことです」と申し上げた。すると 先ず草壁皇子尊が進んで盟った。「天神地祇及び天皇は証を立て給へ。私の兄弟は長幼併せて十余りいるが、各々異腹から生まれました。然れども同じ腹からであろうと、違う腹からであろうと、ともに天皇の勅に従い、相助け合い、忤う(逆らう)ことはありません。若し今より以降、この盟い通りにならないのなら、身は滅び子孫は絶えるでしょう。忘れることも失うこともあろうはずはありません」と。残りの五皇子も相次いで盟い合った。そこで天皇は「朕の男(息子)たちはそれぞれ違う腹から生まれた。然れども一人の母から産まれたように慈しもう」と言って袂の紐を解き広げ、包み込むように六皇子を抱き、「若しこの盟いに違う(たがう)ことをするのなら、忽ち朕がその身を滅ぼそう」と言った。皇后も盟い、天皇と同じようにした(六皇子を抱いた)。七日、天皇の車駕(しゃが、馬にクビキを付けて引く車)は都へ還った。十日、六皇子は共に大殿前で天皇を拝礼した━━

なるべく原文に近い状態で意訳してみました。
六皇子のプロフは下のWiki引用の画像より。


*Wikiより引用


大津皇子の母である大田皇女は鸕野讚良の姉。本来なら天武天皇の皇后となる予定であったものの、大津皇子4歳の時に崩御。

高市皇子の母である尼子娘とは胸形徳善の娘。徳善は宗像大社を奉斎した宗像氏(「胸形」などの表記有り)。

忍壁皇子の母である宍人カジ媛娘(シシヒトノカヂヒメノイラツメ)は、天武天皇の後宮。宍人氏は大彦命の血を引くとされます。

川島皇子と志貴皇子はともに天智天皇の子。



注目点をいくつか挙げておきます。

◎わざわざ「吉野宮」で行われた。
◎6皇子のなかで草壁皇子にのみ、尊称「尊」が付されている。
◎天武天皇が千年後の安寧までを願った。
◎全十余兄弟姉妹がいるなかでこの六皇子が選ばれた(15歳以上が選ばれたか?)。
◎天智天皇の皇子が2人含まれている。
◎真っ先に草壁皇子が盟った。
◎天武天皇が六皇子をそれぞれ抱きしめるほどの異常ぶり。
◎持統天皇も同様に抱きしめている。



「壬申の乱」という古代の「天下分け目の戦い」の大騒動の末に即位した天武天皇。既に8年が経ち、落ち着いてきたところでのこの儀式。

「壬申の乱」の起点となった特別な地。この場所こそが相応しいと考えたのでしょう。

「儀式」と解したいと思います。
鸕野讚良によって仕組まれた…。



さあ!見ていきましょう!

この顔ぶれをみれば、それが皇位継承に関することだというのは、直ぐに全員が把握できたことでしょう。

実はこの六皇子の中に天武天皇の実子である磯城皇子が含まれていません。おそらく幼年であるため外されたのだろうと。

そして天智天皇の2皇子が含まれています。これは皇位継承の可能性があると判断されたからでしょう。

当時はまだそういう時代。

天武天皇ですら、崩御直前の天智天皇から次代天皇に指名されています。それを一旦断り吉野へ遁世したわけですから。



天武天皇は問いかけます。「どうだろうか」と。
千年先まで継承争いの無いようにしたいのだが…と。

絶体専制君主として振る舞っていた天武天皇が、臣下の六皇子に問いかけるというのは尋常ではありません。

でも反論など無いのは百も承知。

敢えて問いかけることにより、六皇子それぞれから「天皇は正しいことをおっしゃってます」という言葉を引き出したかったのではないかと思うのです。

皇子たちは答えます。「理實灼然」と。
「おっしゃられる通りです」と。

この言葉を引き出したかった!



一般にはこの「吉野の盟約」により、鸕野讚良の子である草壁皇子に皇位を継承させることを確約、兄弟間で絶対に揉めることの無いようにさせたとされます。

これは違うと考えています。
(後ほど…)



「儀式」はクライマックスを迎えます。

なんと!
袂の紐を解き一皇子ずつ抱き締めたのです!

六皇子は虚をつかれたことでしょう。
「え!あの天武天皇が、我々にこんなことまでして下さる!」



実は本当のクライマックスはここではないのです。

この後、鸕野讚良が同じことを六皇子にしているのです。これこそが本当のクライマックス。



戻りましょう。

草壁皇子を次代天皇に選ぶ「儀式」ではないというところに。



結論から先に述べておきます。

この「儀式」は次代天皇候補に鸕野讚良を含めたというものだと考えます。


定説を思っきり覆してやります!(笑)

いや!
定説も何もちゃんと見てないやろ!…と。

ご立派な研究者さん方たち
あなたたちの目は伏穴ですか?…と。



以下、鸕野讚良を次代天皇の一候補に含めるという「儀式」であったと考えられる理由を挙げます。


◎理由1
鸕野讚良が同席していること。

確かに一心同体が如くいつも天武天皇の傍らにいました。「壬申の乱」の際も一緒に出立しました。でもこの「儀式」に同席する必要などまったくないのです。

冷静に考えると普通なら「奥方」であるはずの皇后が、こんな「儀式」にしゃしゃり出てくるのはおかしいのです。


◎理由2
「吉野の盟約」は非公式なもの。

いくら「吉野宮」というのが天武天皇にとっては大変に感慨深く、特別な地であるからといっても、ここは都ではありません。

正式な決め事はなされなかったのです。


◎理由3
天武天皇と同じことをした。

「皇后之盟 且如天皇」という一文、見逃してないですか?ちゃんと見てますか?
鸕野讚良は天武天皇と同じことをしたのです。

つまり袂の紐を解き、一皇子ずつ抱きしめたのです。真のクライマックスはこちら。

相手は若き男性、熟女からこんなことをされたら…と、普通ならこうなるのです。いくら多少の血縁関係があろうと、若い性には逆らえません。

それを承知でやってのけているのです。

六皇子たちは度肝を抜かれたことでしょう。
反論の余地も何も無し、ただただ絶句。

恐ろしいお方です。

この行為により、鸕野讚良が皇位継承の一候補に含められただけに留まらず、もう次代天皇は「鸕野讚良一択」が如くの雰囲気となったことでしょう。


◎理由4
草壁皇子は本当に立太子したのか?

天皇になるためにはまず皇太子となり、正式に次代天皇であることを世に認めさせてから。

紀には天武天皇十年二月二十五日になってようやく立太子したとあります。ずいぶん日が経ち過ぎてませんか?

「盟約」というのはあくまでも「口約束」でしかありません。その間に何かあったらどうするのでしょう。現に天武天皇は九年11月に大病を患っています。


◎理由5
草壁皇子は鸕野讚良の摂政となった?

天武天皇十年二月二十五日、草壁皇子が皇太子になったという記述ですが、そこに「立草壁皇子尊爲皇太子 因以令攝萬機」とあります。意訳は「草壁皇子を皇太子に立てた。因りて萬機(すべてのまつりごと)の攝(ふさねおさめ)をさせた」。

これは推古天皇の御宇の聖徳太子が摂政となった時の、「立厩戸豊聰耳皇子爲皇太子 仍錄攝政 以萬機悉委焉」とほぼ同じ記述。

聖徳太子は皇太子となるも即位はしていません。これを天武天皇に当てはめるのなら、草壁皇子は天武朝の政治全権を任される摂政となったということ。

ところが以後も天武天皇は執政しています。ということは政治は既に概ね鸕野讚良に委ねられていて、次代天皇は鸕野讚良というのが既定路線。草壁皇子はその補佐役として摂政となったのではないかと。推古天皇と同じく女性天皇ですし。

でも補佐役がまったく必要ないほどの政治力を持っていたのですが。



以上、大きな理由を5つだけ挙げてみました。細かい理由はまだまだあるのですが。


これが真相であるのなら「吉野の盟約」は、
鸕野讚良が企画し、
鸕野讚良が脚本台本を練り、
鸕野讚良が夫を主役かの如く振る舞いつつ、
鸕野讚良が主演女優を演じた。

そして鸕野讚良の思い描いた通りに事が運ばれた…となったわけです。



思い描いた内容というのは
「次代天皇は鸕野讚良である」ということ。



いやはや…

大したお方です…。


「吉野宮」の様子。*吉野歴史資料館より(2019年6月撮影)



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。