大和国添下郡 新城神社






◆ 「真の持統女帝」顕彰
 ~反骨と苦悩の生涯~ (14)






少々体調を崩したり、
負荷の大きいテーマ記事を起こしていることもあり、

ちょっぴり間隔が空いてしまいました。


歳のせいでしょうかね…。


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■過去記事
(1) … プロフィール 1
(2) … プロフィール 2
(3) … 出生~父天智天皇崩御
(4) … 壬申の乱 1
(5) … 壬申の乱 2
(6) … 壬申の乱 3
(7) … 天武天皇即位
(8) … 泊瀬斎宮と神宮派遣
(9) … 天武天皇と陰陽道
(10) … 「龍田 風神」「廣瀬 大物忌神」・外交
(11) … 軍事と国防
(12) … 「吉野の盟約」
(13) … 律令制定の詔と政権移譲

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「天武帝御影」(「集古十種」より) 
*画像はWikiより



■ 「複都制」構想

どうやら天武天皇は「複都制」を真剣に考えていたようです。紀には以下の数ヶ所にその様子が見られます。

*天武天皇五年(676年)十一月一日の条
━━(天武天皇は)新城に都を進める。予定地内の田園は公私を問わず耕さなかったため皆悉く荒れた。然れども遂には都を造らなかった━━

*十一年(682年)三月一日の条
━━(天武天皇は)小紫 三野王と宮内官大夫等を新城に遣わせその地形を見た━━

*十一年(682年)三月十六日の条
━━(天武天皇は)新城に行幸する━━

前回の記事でも示したように、実質的に天武天皇から鸕野讚良皇后への政権移譲が行われたと思われます。それは天武天皇十年(681年)に律令制定の詔を発した時のこと。

以降の政策は鸕野讚良(持統天皇)主導のものであるということになります。

それまでは夫の天武天皇を前面に立て、後方から手綱を引いていた鸕野讚良皇后が、容赦なく前面に出てくることになったと。つまり「複都制」を目指したのは鸕野讚良皇后ではないかと。



◎新都「新城(にいき)」

ここまでは「複都制」などというワードは一切記されていません。遷都しての「新都」なのか、「複都」のもう一方の都なのかは分かりません。後にそのワードが登場することによる推測です。

候補地として上がるのが、大和国添下郡「新木村(にきむら)」。現在の奈良県大和郡山市新木町(にきちょう)。平城京南端とされる「羅城門」より少し南外れ。その跡地には新木神社が鎮座します。

これがまた大変にビミョーなところでして…

地名「新城(にいき)」とも取れるし、
普通名詞「新しい城(都)」とも取れるし。
混じっている可能性だって十分に有り得る。

この事に対して真っ向から挑んだような研究は、ネット上で軽く見る限り見当たりませんでした。
私自身は何となく両方が混じっているのかな~などと思っています。きっと私の知らない
どこかで立派な研究がなされているのでしょう。

上記3ヶ所で言うなら、五年のものは「新しい城」で、十一年の2つは地名「新城」なのではないかと。

十一年三月一日は、派遣され地形を調べさせています。または同年同月十六日は「行幸」とあり、どちらも地名「新城」であろうと。

これに対して何ら前触れもなく「新城」と記される五年の方は、「飛鳥浄御原宮」の近く、引いてはそれをも含む広大な土地であろうと考えます。

持統天皇三年にも「新城を見る」という記述があり、これは明らかに「藤原京」のこと。「新城」は地名であるとは必ずしも言えないということが分かります。

「公私を問わず田を耕さなかったため、皆悉く荒れた」とありますが、即位後は天災が続いていたことが影響しているのでしょうか。ましてや「壬申の乱」で国力は疲弊していたでしょうし。



◎「複都制の詔」

*十二年十二月十七日の条
━━(天武天皇は)詔した。「都城や宮室は一箇所というわけではない。必ず二つは造られるものだ。故に先ず難波を都にしようと思う。役人たちは皆その土地を請うように」━━

これがいわゆる「複都制の詔」と呼ばれるもの。
・孝徳天皇 … 難波宮・飛鳥の宮
・天智天皇 … 近江大津京・飛鳥の宮
これらを指して都城や宮室は一つではないと詔したと思われます。


*十三年二月二十八日の条
━━浄廣肆(じょうこうし、官位名) 廣瀬王・小錦中 大伴連安麻呂及び、判官(まつりごとひと)・録事(ふびと)・陰陽師・工匠等を畿内に遣わして相応しい土地を視て占わせた。この日に三野王と小錦下 采女臣筑羅(ウネメノオミツクラ)等を信濃に派遣し地形を看させた。この地に都を造ろうとしたのか━━

先ず畿内への派遣。スペシャリストたちが同行しており、具体的に進めようとしていることが窺えます。
同日には信濃へも派遣。紀の編纂者が驚き、「え?こんな所に?」と、正史であるにも関わらず感情を述べています(笑)


*十四年三月九日の条
━━天皇、京師(みやこ、=都とすべく飛鳥一帯の地)を巡行し宮室の地を定められた━━

この一文は重要なものだと考えており、意外とスルーされ過ぎているのではないかと思うのです。これは「藤原京」造営の端緒なのでは?と。
ここでは既に「宮室の地を定められた」と記しています。


*十四年四月十一日の条
━━三野王等は信濃国の地図を進上した━━

*十四年十月十日の条
━━軽部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂を信濃に遣わし、行宮を造らせた。思うに束間温湯への行幸であろうか━━

「束間温湯」は松本市北東部にあるという「浅間温泉」ではないかとされているようです。ここでも信濃の複都制を疑っており、「温湯」だろうとしています。

地図まで進上させていることを考えれば、本気だったのであろうことは疑いないところ。病気の「湯温」治療という意味合いもあったのかもしれませんが、ここは東国支配を考えてのことでしょうか。信濃の「複都制」構想は断念したようです。



◎「五畿七道」による統治構想

「五畿」とは大和国・山城国・河内国・摂津国・和泉国の五国のこと。
「七道」とは都を基準として、東(東海道・東山道)、西(山陽道・西海道)、南(南海道)、北(北陸道)、北西(山陰道)に放射状に編成された道。

エリアごとによる統治ではなく、「道」を主体として道沿いごとに統治をしようというもの。天武天皇の御世から始まったとするのが有力。

これは天武天皇十四年(685年)九月十五日の条によるもの。
━━直廣肆 都努朝臣牛飼を「東海」使者と為し、直廣肆 石川朝臣蟲名を「東山」使者と為し、直廣肆 佐味朝臣少麻呂を「山陽」使者と為し、直廣肆 巨勢朝臣粟持を「山陰」使者と為し、直廣参 路眞人迹見を「南海」使者と為し、直廣肆 佐伯宿禰廣足を「筑紫」使者と為し、各々に判官一人、巡察国司と郡司を付け百姓の消息を調べさせた━━

辺境の「北陸」を除いた「六道」が揃っています。天災が多く、百姓の逃亡離散に手を焼いていたのでしょう。
この「畿内七道」による統治構想を考える時、より東方で東国統治をということになったのだと思います。

時系列で言うなら、この後すぐに信濃行宮へ使者が遣わされています。



◎推移から追ってみると…

*天武天皇五年十一月一日
飛鳥に大きな都を造ろうとしたが断念

*十一年三月一日
新しい都を造ろうと「新城村」へ派遣

*同十六日
天武天皇自ら視察

*十二年十二月十七日
「複都制の詔」発令、難波を都にしようとする

*十三年二月二十八日
畿内の土地検分へスペシャリストを派遣、信濃へ派遣

*十四年三月九日
天皇自ら飛鳥を視察し宮室の地を定める

*十四年四月十一日
使者が信濃の地図を進上

*十四年十月十日
信濃に行宮を設置

このように見ていくと、「難波宮」は既に宮として機能していたため除くとして、「新城村」や信濃の方はいずれも断念。「藤原京」が運用されるのは持統天皇の御世になってから。「複都制の詔」はほとんど機能しなかったと言えます。

持統天皇は三年九月十日に「新城」の視察を行い、五年十月二十七日には「新益京(藤原京)」に使者を派遣し地鎮祭を行っています。その間に他所の視察や情報提供などをまったく行っていません。

これを鑑みると、「藤原京」の構想は持統天皇の政策、「複都制」は天武天皇の政策だったのではないかと考えます。
事実上持統天皇に移譲していたものの、天武天皇の「こだわり」だったのではないでしょうか。



「難波長柄豊碕宮」の復元模型(大阪歴史博物館)
*画像はWikiより


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