語り得ぬものについては沈黙しなければならない。 -8ページ目

自民党の呆れた憲法草案&小出さんはなぜ宇都宮さんを推すのか?

僕は家で新聞をとっていない。
「ほんとうは社会と関わり合いたくない派」なのだ。
カネや権力が大好きな政治や経済のキチガイ連中の猿芝居なんか勝手にしやがれだ。

と思っていたのだけれど、3.11以後は考えを改めた。
原発が爆発したのを見て、どう考えてもこれは僕自身にも大きな責任があるわけだし、それを反省すればするほど、奴らをこれ以上のさばらせてはいけない、ということになる。

世界で起きていることを他人事としてはいけないわけで、そうなれば、社会を知るために新聞も読むべきだろう。
というわけで、新聞はコンビニの店頭で見比べて買ったり買わなかったりしている。
東京新聞が一番多いが、朝日、毎日や、日経もときどき買うし、気が狂っているとしか思えない讀賣や産経も、参考のためにときどき買ってやる。

で、昨日の一面トップは、ほとんど各紙、「自民党圧勝」の見出しだった。

これはヤバい。
本気でヤバい。

僕のこんなブログを読んでくれている人のほとんどは、当然のことながら日本に54基もの原発を作った自民党になどに投票するはずがないと思って、選挙のことをわざわざ書いたりしなかったのだけれど、自民圧勝ともなれば、ほんとうに大変なことになる。
腐った日本は留めを刺され、二度とマトモな社会になれないかもしれない。

ていうようなことは、原発に反対する読者のみなさんならとっくにわかっているだろう。
奴らは、たとえ何度事故が起きようとも、大企業の利益と米国の世界征服のために原発を再稼働させるはずだからだ。

だから今夜は、原発とは違うことを語ろう。

憲法9条については、Facebookで藤田直登さん、松本聰さんが「湯川れい子さんが発信した『阪神淡路大震災のあとに忌野清志郎が書いた文章』」をアップしてくれて、僕の友達がそれシェアしてくれた記事を見た。
↑まどろっこしいなあ。

要するに、これが清志郎の文章。


語り得ぬものについては沈黙しなければならない。-忌野清志郎のメッセージ
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友達が超少ない僕のFacebookだけでも、同じものが複数の人から届いている。
現在急速拡散中の文書だろう。
清志郎が書いたこの文章を読んでいただければ、戦争と9条についてはこれ以上僕が語ることはない。

で。

これまたFacebookで恐縮だけれど、「非戦音楽人会議さんが若林靖久さんの写真をシェアしました。」ということで、これ。

語り得ぬものについては沈黙しなければならない。-自民党の呆れた憲法草案

自民党の公式サイトに載っています。
http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf

大事なところはここね。

(表現の自由)
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

「2 前項の規定にかかわらず~」というのが付け加えられているわけで、これを読めば誰でも、「表現の自由を脅かすものだ」「人権侵害だ」というような話になるわけで、もちろんその通りなのだけれど、それ以前に考えなければならないもっと大事なことがある。

すなわち、「そもそも法とは何か」ということだ。

つまりね、「法律というのは悪いことをした人を罰するためにある」みたいに考えているひとが結構いたりするのだが、これはまったくもって本末転倒なのである。

ここは大事なところだから間違ってはいけない。

法律というのは、国家権力が国民を支配するために存在するのではなく、国民が、権力に好き勝手やらせないために存在するのである。
国家権力が国民に強制するものではなく、国民が権力に強制するものなのだ。


刑法がわかりやすいのだが、「~~したものは××年以下の懲役」とか書いてある。
ポイントは「以下」というところだ。
すなわち、「国家権力は国民にそれ以上の刑罰を与えてはいけない」ということだ。

普通に考えればすぐわかる。
たとえば、駅前のチャリンコをかっぱらったくらいの奴が、国家権力によって死刑にされるようなことはあってはならない。
だから、権力の発動は、国民によって厳格に制限されなければならない。
それが、法というものである。

つまり、「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をする」などという、如何様にも解釈できる、すなわち権力の自由な裁量をオール認め、国民のすべての権利を権力に譲渡するような文言など、本来あり得ない話なのである。
「認められない」なんて、何様のつもりだろうか?

そういえばふと思い出した。明治憲法の草案はいろいろ出たわけだけど、「革命権」を盛り込んだものまであったらしい。
もしも政府(権力)が国民と敵対するときは、国民が政府を倒していいですよ。新政府を樹立していいですよ。ということだ。
もちろん、革命権というのを法律で定めるというのは、これはそもそも論としてどうなのよ、というのはあると思う。
でも、大事なのは、この場合の革命権というのは「日本を滅ぼしたい」ということでは決してない、ということだ。
国民に敵対するような「駄目な権力」は打倒する。今で言えば、選挙制度そのものが大きな矛盾を抱えているし、これまでの原発裁判で明らかなように司法も腐っている。ならば全部ぶっ潰して、ほんとうに国民のための、すなわち日本のためのあたらしい権力にオールリセットする。
国民にはその権利もありますよ、と言う考え方だ。

権利概念としての革命権というのはいろいろ問題がある。でもまあそれはさておき、この話はたしか、鈴木邦男さんの本で読んだのだった。
鈴木さんは右翼だが、国を愛する右翼だからこそ、現実的に権力を握っている政財官の糞どもではなく、国民を愛し、国土や国の自然を愛し、文化や伝統を愛している。
その意味で言えば、放射能で国土を汚し、国民を苦しめる原発を、一部の大企業や米国の利益のために推進するなんて売国行為そのものであり、阿呆な石原慎太郎なんかは核兵器オプションとして原発をやらなきゃならんと思っているようだけれど、それ以前に民を見よ。未だに10万人規模の国民が古里を追われているのだ。原発事故被災地の第一次産業は、これから100年、1000年レベルで苦しみ続けなければならないのだ。石原慎太郎が大事なのは、民や国土では決してなく、自分で勝手に思い描いている国家観、プライド、それだけである。(震災直後に彼が語った本心「津波は天罰だ」に、その思いが端的に表れている)

おっと、筆が走った。

自民党は決して、愛国でもなければ保守本流でもない。
自民党は原発容認だが、それは端的に言えば、「民や国土を犠牲にしても経済を優先させる」という考え方で、「でも経済の発展こそが国の幸せだよ」だと勘違いしている人は「多少の犠牲も仕方ない」と思うかもしれないけれど、言っておくが、もしも幸運にも経済が発展したところで、美味しい思いをするのは1%の富裕層だけだ。
米国では1%の富裕層が国中の富の何十パーセントとかを独占していて、99%の人が抗議行動をしていたりするが、それと同じようなことになる。
なぜならば、米国追従の思想の行く末は、まさにそれだからだ。

軍事と経済によって世界を支配して好き勝手に振る舞う。
「一流国」の面して世界中を土足で踏みにじる。
そうすると、まさに米国のように世界中から嫌われるわけだが、「嫌われたって知ったことか」と言えるのは儲けてウハウハな1%の連中やそれに群がる役人や政治屋どもだけだ。あなたも私も、決して底辺から脱出できない。

おっとっと。また筆が走った。

筆が走りまくったついでにもうひとつ書いとこうかな。

橋下徹が破廉恥なのは、彼はIQが低いわけでもないのだから、石原慎太郎なんかと組んだら爺さんが勝手に暴走することくらいわかっていたはずなのだ。
それなのに、権力欲しさに舞い上がってしまう。
要するに彼は、僕はコンプレックスだと思うけれど、「力」がほしいのだ。
そのために、「わざわざ敵を作ってやっつける」というようなことをする。
昔は脱原発と言っていたのにいとも簡単に主張を変えたのは、それを真剣に考えていたわけでは決してないからで、彼が思い浮かべるのは、福島の被災地やそこから避難させられた人々ひとりひとりの顔ではなくて、政治の場で力たり得る抽象化された数字だけだ。
その意味で橋下は、文学的、芸術的なセンスを一切持ち合わせていない。
石原慎太郎と組むと聞いたときには「やっぱりな」という感じだ。
彼にとって「人の心」とは、「操る対象」でしかないのだろう。
心を汲み上げ、政治のシステムに落とし込もうという発想など、はじめからまったくないに違いない。

一方の石原慎太郎は一応小説家なので、人の心もわかりそうな気がするが、そんなことは決してない。
彼は、非常に悪い意味でロマンチスト、つまり独善的なロマンチストである。
そういう人間が優れた文学、芸術作品を創ることはあり得るが、権力を持たせてはいけない。
作家というのは狂気を持ち合わせていて、それが作品のどこかから滲み出たとき、読者は自分でも気付かなかった内なる狂気にゾクゾクさせられる。
だけどそれは政治ではない。
ていうか、芸術と政治の間に横たわる絶対的な一線を越えてはならない。
まあ、本人にはそれがわからない。
許した僕らが悪い。

酔ってきたからまとめますね。

一番大事なことはと言えば、自民党が大勝したときにやろうとしているのは、「国のため」「国民のため」の政策ではなく、「自己保身」つまり「強い者がいつまでも強くいられるための政策」である。
要するに、「法とは国民が権力を縛るもの」という、主権在民の当たり前の考え方すら持ち合わせていない。「自分たちが国民を縛るため」の法を作ろうとしている。
これは、決定的に重要な大問題である。

眠いや。
酔ったし。

自民が大勝したら大変だというのと同時に、維新もマズい。
さっき書いたとおり。
死に損ないの石原慎太郎は自民と一緒になって中国と戦争をしたいようだし、橋下には政治的な良心や見識などない。あるのは参謀術数だけ。
嘘つき民主党は語るに及ばず。
さて、どうしよう?

じつは僕は昨日期日前投票をしてきたのだけれど、一番困ったのが小選挙区だ。
いやほんとに。

最高裁裁判官審査は、「公立校の先生に国旗国歌を命じる職務命令」を違憲としなかった人には「×」をつけましたよ。
僕は日本が大好きだから。
だからこそ日本では、あらゆる思想信条が許されなければならない。

言っておくがこれは「日の丸君が代の是非の問題」ではないのだ。
思想信条の自由というのは、思っているだけで口にも態度にも出さないのであれば、どんな独裁国家でも罪に問えるわけがない。
「心の中で思うこと」は、端的に法律以前の問題である。
発言や態度(という社会的行動)であるからこそ法の対象となるのであり、法律で思想信条の自由を認めるというのは、「何を思ってもいいよ」と言うようなことでは決してなく、発言や態度、行動の自由を認めると言うことである。
国旗国歌だからイデオロギーぽく捉えられてしまうけれど、ポイントはそこではない。
嫌なものは嫌だと拒否するのが認められるのは当たり前だろ、ということだ。

都知事ははっきりしていて、宇都宮さんしかいない。
他の選択肢はありません。

この前の記事で書いたけれど都知事選挙の選挙公報で、宇都宮けんじさんを「私も応援します」という中に、小出裕章さんの名前もあった。
都知事候補の中で反原発は宇都宮さんしかいないので、小出さんが宇都宮さんを応援するのはわかるけど、ご存知のように小出さんは、「一切政治には関わらない」と言っていた。
なのに、推薦人として名前を出したというのはどういうことなんだろうと思って、小出さんに尋ねたのでした。

小出さんからのお返事は、これ私信なのでブログで出していいかなあとずっと迷っていたのですが、もしもこのブログを読んだ誰かの一票になるとしたら、と思って、書くことにします。

小出さんは、
政治には関わらないとしてきたなかで、今回は「あくまで例外」とおっしゃっています。
しかし、
「原則に例外を作ったことの重さを感じます。」
そして、
「宇都宮さんに当選してほしいと、心底願います。」
と書いていました。

偉そうな言い方になってしまうのだけれど、僕は、小出さんが信念を曲げて「例外」を作った重さがすごくわかる。

ネットや講演会で小出さんの発言を聞いていた人ならわかるはずだけれど、いかなる政党、いかなる政治家に対しても、小出さんは(もちろんたとえば「たね蒔き」で実際に政治家とお話をされたときなどは紳士的に接しながらも、しかし)、政治は信用しない、政治には関わらない、というスタンスを貫いてきた。
やはりそれは、小出さんが40年間も原発と闘ってきたなかで確信した「政治への絶望」であり、であるがこその「真摯な闘い方」なのだ、と僕は思う。

僕のような日和見は人気者や力のありそうなほうに靡くけれど、小出さんは決してそんなことはない。
ところがだ。
そんな小出さんが都知事には宇都宮さんを推しているのです。

その事実の重さを、僕はみんなにわかってほしいと思う。

ねこの島と、ちょっと選挙

家に帰ったら「田代島にゃんこ共和国」(http://nyanpro.com/)からゆうメールが届いていた。

田代島というのは、宮城県の石巻湾、牡鹿半島の西側に位置する島である。

地図を見てもらえれば一目瞭然だけれど、この島も3.11の津波で大きな被害を受けた。

大きな地図で見る

島民のほとんどが漁業従事者で、なかでも牡蠣の養殖が盛んだったらしいのだけれど、養殖場はほとんどすべて、津波でやられてしまった。

Wikipediaによると、2005年国勢調査では人口112人。平均年齢71歳、高齢化率82%であり、限界集落である。
要するに、爺ちゃん婆ちゃんばかりの島であり、彼らが細々と漁業を営んで、ようやく成り立っている地域だ。
そこに大津波がやって来て、養殖や漁業の施設を根こそぎ破壊してしまったのだ。

もし僕が島民だったら、復興なんて諦めてしまうに違いない。
なにしろ(これもWikipedia情報だが)、学校もない(小学校すらない)、金融機関やガソリンスタンドもない。商店は雑貨屋が二軒だけ、au・ソフトバンクは島内に基地局もない。
もともとがそんな年寄りばかりの死にかけたような辺鄙な島だ。島を支えてきた漁業の施設が壊滅してしまったら、もう打つ手なしだ。
この島は終わった。
と、僕だったら思うだろう。

ところが、島にはたくさんのねこがいた。

たぶん人の数より多いくらいのねこがいて、多くの島民に可愛がられていた。
テレビなどでも紹介されたことにより、ねこ好きの間では「ねこの島」として有名だった。

そんな「ねこの島」が復興のための支援基金を募っている。twitterでそれを知ったのは去年のたしか6月。
集まったお金は、牡蠣の養殖場を作り直すことをメインに、島内の施設やねこの世話のためにも充てるという。

例によって深夜酔っ払ってtwitterを見ていた僕は、当時は震災直後でまだ涙もろかったこともあり、ほんの僅かな金額だけれど、その場でネットバンキングから送金したのだった。

で。
語り得ぬものについては沈黙しなければならない。-田代島にゃんこグッズ

写真の右下が、これはだいぶ前に送ってもらった「田代島にゃんこ共和国国民証」。
もうこれだけで充分だと思っていたのに、今日、にゃんこマークのミニミニポーチ(左)とねこの手ストラップ(右上)も届いたのである。
ミニミニポーチは、ぎりぎりスマホが入らない大きさなのが残念(笑)だが、可愛らしいので大事にとっておこうと思う。
なんか、養殖がちゃんと復興したら牡蠣も送ってくれるみたいな話もあった。
僕は牡蠣は大大大大大好物なのだけれど、これ以上は受け取れない。
そのときには島に行ってねこと遊んで、民宿で牡蠣を存分に食べます。そうメールしておこう。

でね。
この基金の目標額は1億円以上だった。
小さな島にしてはかなりの額に思えるかもしれないけれど、養殖場も、船も、その他の施設もほぼ全部壊滅なのだから、元通りにしようと思ったらそれ以上かかるだろう。
でも1億円集めるのは大変だよ。
島の人たちとしてみたら、たぶん、ほんとうに「あくまで目標」として設定したはずだ。

ところがどっこい、たった3ヵ月でそれが集まってしまった。
そこで、正直な島の人たちはそこで募集を停止した。かなり驚いているようだった。だから、僕が見たテレビ番組では「現在は募集していません」と出ていた。

もちろんメディアの効果が大きいだろう。
僕が知ったのはtwitterだったが、その前にメディアで紹介されていたに違いない。
なおかつ、ねことか犬と聞いただけで、僕のように貧乏なのに財布の口を緩める人が日本にはたくさんいる。
「うまいことやったな」と言われればその通りかもしれない。

だが、ねこが復興の決め手となったのである。
僕はねこが大好きだが、ねこなんて日本中どこにでもいる。
「この地域の特産です」というブランド牛やブランド豚とはわけが違う。
北海道のキタキツネとも違う。
田代島は、たんに野良猫(というのが嫌ならば地域ねこ)がたくさんいる、というだけだったのだ。
そんなものが経済に大きな影響を与える因子だとは、普通は考えない。
ねこが島を救う。そんなこと、誰か想像できただろうか?

さて。

被災地の復興については、いろいろなところでいろいろなプロジェクトが進んでいる。

僕はそのあたりの具体的な事情は具体的には知らないけれど、役人と土建屋と資本家が中心となって、どうやったら自分たちが儲かるかを考えているに違いない。漁場を株式会社に公開すべきだという議論も多いと聞く。

TPPなんかもそうだけれど、金儲けのことしか考えていない禿鷹のような資本家どもが、復興名目に地域の支配と征服を企んでいるのだ。
「復興特区」のような形で規制が緩和され、すなわち、規制が緩和されると言うことは、金さえ持っていれば誰でも自由にやれるということなので、そうなると地域は金を持っている大資本の餌食となり、本来潤うはずの地元の人たちにお金が回らず、大資本の東京やニューヨーク本社、その株主だけが良い思いをする。

なおかつ最悪なのは、いったんそういうシステムが出来上がってしまうと、そこで働いている人たちは明日の生活が大事だから、資本家や投資家の禿鷹連中がどんなに悪かを知っていても、生きるためにそのシステムを認めざるをえなくなってしまうのだ。
原発と同じだ。

ねこで1億円以上集めた田代島が、100%良い見本だとは僕も言わない。
しかし、汚れきった資本家や投資家の餌食にならずに復興のためのお金を集められたというのは、やはりすごいと思うのだ。
それも、「ブランドねこ」ではない。
「日本の雑種ねこ」たちだ。
「日本の雑種ねこ」たちを可愛がってきた島の人たちの生活があってこそ、多くの人が少しずつお金を出して1億円になったわけで、これは「金転がし」がぽんと出した1億円ではない。つまり、M&Aなどにうつつを抜かし「金がすべてだ」と思っているような投資家連中なんて一昨日来やがれという感じだな。

ねこの話は最初だけにしようと思っていたのにいつのまにか引っ張ってしまった。

家に帰ったら「田代島にゃんこ共和国」からゆうメールが届いていたわけだが、僕は郵便受けはときどきしか見ない。
なぜならば、要らないチラシやダイレクトメール、見たくない請求書しか届かないからだ。
で、久しぶりに郵便受けを見たら、都知事選の選挙公報が入っていた。

都知事選にしても衆院選にしても、今度の選挙の争点は「原発」だよ。

もちろん、ほかにも大きな争点はある。
たとえば憲法問題は、国の根本に関わっている。

でもね、やはり原発。
もう酔っ払って面倒臭いので簡単に書くけれど、
「原発問題=エネルギー問題」だと思っている人がいるけれど、そうではない。
もちろん、エネルギー問題でもあるけれども、それだけではない。

あ、僕は「命の問題」とかは言いません。
なんというのか、命とか健康とか言うのは当たり前の話なので。

格差問題。たとえば東京と福島の格差、元請け下請けの格差、正規非正規雇用の格差。
官僚問題。霞ヶ関の連中の思い上がりと自己保身を許すのか?
対米問題。米国追従の原子力戦略でよいのか。
人権問題、なんていうのもまあ当然の話。

いずれにしても、この半世紀、米国、役人、政治家、財界の思惑通りに進められてきた原子力を否定すると言うことは、腐った日本のシステムそのものに対する否定であり、つまりまあ、それこそロックンロールというものだ。

なんか酔っ払ったからこれで終わりね。

あ、そうだ。

都知事選選挙公報のなかで、宇都宮けんじさんの「わたしたちも応援します!」の中に、小出裕章さんの名前もあったよ。

福島は犬死になのか?

ものすごく怒る人もいるだろう。
「県外の人間が失礼なことを言うな。福島は犬死にだと? 復興に水を差すな!」

リアルに感じる人もいるだろう。
「福島県民は棄民です。国から棄てられたのです」

とてもとてもデリケートな問題だ。
ていうか、口にするのもなかなか憚られるテーマである。
特に僕のような東京の人間がそんなことを言い出すのは、なんというのか、かなりの度胸が要る。

金曜日の官邸前・永田町霞ヶ関デモなどでは「福島帰せ!」というシュプレヒコールが定番のひとつだが、僕はいつも、なにか申し訳なさを感じてしまう。
つまり、東京の人間は言ってみれば「被告」なわけで、福島の人たちから「お前に言われたくない」と怒られても仕方ないのだ。
それでも僕が声を出すのは、これが「敵」に向かっての声であるということと同時に、福島の人たちに対して「こんな俺も許してくれ。できることなら仲間に入れてくれ」という懺悔の気持ちもある。

まあいずれにしても小心者の僕は、福島の人たちに対してものすごく気を遣ってしまう。
このブログは、政界・財界・電力・役人などの糞野郎どもを、はっきりと糞と言い切って、反原発の姿勢を明確に示しているのだけれど、だけど、福島の人たちには遠慮してしまうのだった。
「福島の復興のために、幼児も子どもも女性も、県内に残るべきだ」という主張は、僕はまったく間違っていると思いながら、それを主張する福島県の人に対して、面と向かったら文句は言えないだろう。
ところが、そんな遠慮こそが逆に失礼だと言われれば、まったくその通りかもしれない。
ニーチェの言うとおり、忖度は侮辱でもあるのだ。

ほんとうに、福島の人たちとどう接すれば良いのか、どうしたら仲間になれるのか。
3.11以後、これは僕にとってとても大きな問題だ。

そして、です。
「福島は犬死になのか?」
こんな大それたテーマを、小心者の僕がひとりで訴えるはずがない。
じつはこれは、福島の人たちとの話の中で出てきたことばなのである。

『てつがくカフェ@ふくしま』という活動がある。(http://blog.goo.ne.jp/fukushimacafe
「てつがく」と言っても、平仮名で書いてあるとおり、学問としての「哲学」ではなく、「社会の話、生き方、価値、愛や恋、病気や死など、いろいろな問題を深く議論しよう」という、専門家ではなく一般の人々が参加する集まりで、全国各地、ていうか世界のさまざまな場所で催されている。
「@福島」でも、3.11以前から企画されていたものの、震災の影響でスタートはそのあとになった。

小心者の僕でも「てつがく」をきっかけにすれば、少しは福島の人たちと話ができるかもしれない。
そう思って、今年の春からできるだけ参加させていただいている。

で、開催はだいたい16時~18時。その月のテーマについての議論をするのだが、その後、参加できる人は飲み会となる。
オヤジと言われればまったくその通りなのだが、やっぱ僕的には、人と親しくなるためには酒の席が必要だ。
そんなわけで23日も、福島の人たちと深夜まで梯子酒であった。

そこで話に出たのが「福島は犬死になのか?」という問いなのである。

毎月行われる『てつがくカフェ@ふくしま』のテーマは、震災とは直接関係のないもののほうが多い。
23日は「自分の身体は自分のものか」だったし「愛と恋」がテーマだったこともある。
「震災があったから震災のことだけ語る」というのでは哲学にならない。
つまり、あえて乱暴な言い方をすれば、「震災や原発事故はそんなに大事な話なのか?」と批判的に議論できてこそ、哲学というものなのだ。

でも、3月には震災の話をする。福島と、原発の話をする。

そこで、来年3月10日に開催される「てつがくカフェ@福島特別編」では、どんなテーマ設定が良いだろうか、という話を飲みながらしていたのであった。

「福島に未来はあるのか」
まあそんな方向だろうなという話にはなっていた。
でも、もっと問いをシャープにしたい、ということになった。
僕的にはなんかこう、「角が立つ」テーマがいい、と思った。

この前福島で行われたあるトークイベントに、東京で反原発運動をやっている人が来て「福島の人はもっと声を上げなければ駄目だ」とぶち上げたら、福島のおばちゃんが「東京から来て偉そうに言うな」となって紛糾したらしい。

良いことだと思う。

つまり、相手を慮って言いたいことも言わずに、なんとなく角が立たないようにやってきたというのが、たとえばやっぱり、「文句を言われる前に自主規制してしまうマスメディア」とか、そういう日本の風潮で、そこに根付いた日本のシステムの象徴とも言えるのが原発であるし、であるのなら「言いたいことは言っちまえよ」をすべきだと思うのだ。

僕は『てつがくカフェ@ふくしま』の主催者ではないから、もちろんテーマを僕がきめるのではない。
でも、主催者の人たちとの話でそういう方向が出てきて、僕は、なんというのか、気合いを入れて臨みたいなという感じなのだった。

「福島は犬死になのか?」

僕の今考える答は、「このままだと犬死になる」である。
そして、その可能性は高い。

地震・津波だけであれば、天災として「仕方なかった」ともいえるだろう。
でも、原発事故は人災だ。
犯人の責任を問い、二度と繰り返さぬようにしなければならない人災だ。
つまり、責任追及や再発防止が為されぬのであれば、被害はまったくの「理不尽なやられ損」であり、これをまさに「犬死に」という。
ところが、すでに、「誰も責任を取らない」方向は明確だし、安全対策が為されぬまま(ていうか、原発に安全対策は不可能だ)全国の原発再稼働を認める勢力が次の政権を取ろうとしている。

酔っ払ったなあ。
11時間ほど前から酒を飲んでいるのである。
中野の小さなライブハウスでパンクバンドの大音量を聞きながらテキーラとかがぶがぶ飲んで、そのままずっと飲みっぱなしだ。
こうなると「てにをは」も怪しいが、まあいいや。

僕は福島に行くと、「福島民報」「福島民友」という地元紙二紙を買うことにしている。
東京で新聞を見ていると「震災なんていつのこと?」みたいな気になってしまうけれど、被災地では震災関連が一面トップの場合が多い。
当たり前だ。
東京の人間が忘れるのが早すぎるのだ。
たった、1年8ヵ月前の出来事だ。
あのときみんな、日本は変わらなくてはならない、と思ったではないか。
なにかしようと思ったではないか。

で。
『てつがくカフェ@ふくしま』当日、11/23の「福島民報」「福島民友」ともに、一面トップは、放射能汚染土壌などの「中間貯蔵施設」の問題である。
汚染された土壌などは、どっかにまとめなくてはならない。
それが、福島県内に作られる「中間貯蔵施設」だ。
その場所についていろいろ揉めたりしている。
そういう話だ。

もちろん、「中間貯蔵施設」を、どこにどうやって作るのかは大きな問題だ。
だけど、もっと大事なことがある。

「中間貯蔵施設」というのは、「ある期間置いておくところ」であって「最終的に埋めたりする場所=最終処分場」ではない。
僕の記憶では、政府は「福島県を最終処分場にはしない」と約束しているのだけれど、まあ、約束したかしていないかはともかくとして、果たして日本のどこかに最終処分場があるのだろうか?

被災地からの瓦礫搬入、処分の問題で全国いろいろな場所で抗議運動が行われているが、そんな瓦礫は、少なくとも政府は「放射能の問題はない」と言っている。
ところが、汚染土壌は、国でさえ認める「放射能に汚染されたゴミ」である。
そんなものの「最終」処分場を引き受ける自治体など、あり得ないだろう。

要するに、先の目処が立たないまま「中間」という名前だけがついている。
これは、「中間」ではなく「最終」になる可能性が大きい。ていうか、福島県内を「最終」にしないのであればどこをどうやって「最終」にするのか、誰か教えてほしい。

そんな、いい加減極まりない「中間」ということばを、新聞も平然と使っている。
「福島民報」「福島民友」だけでなく、たぶん全メディアが、政府の言うまま「中間」ということばを使っているのだろう。
だからみんな「これは中間なんだな」と思ってしまうし、思おうともする。

僕が許せないのは、そういった、ことばの欺瞞だ。

ことばは、社会そのものであり、責任そのものである。

そこから目をそらして、角が立たないようにやっていく、なんていうのは、責任の否定であり、社会(あるいは国家と言ってもいい)の否定である。

ほんとうに日本は腐っていると思う。
日本がこんな調子であれば、僕は、福島は犬死にするだろうと思う。

石原慎太郎や橋下徹は、自分が糞野郎だということに気付いているのだろうか

いろいろな意味でこの世界に嫌気がさしていたのはもともとそうだった。

「世界」というのは、「世界各国」というような現実的な意味を超えて、まずはあらゆる存在ということ。
そもそもそういう感じでいた上に、現実世界を支えているシステムの、あまりのくだらなさ、凡庸さに対して、僕はかつて、学生時代ていうか17~20歳くらいの間、ものすごく腹を立てていたのだけれど、腹を立てれば立てるほど、自己矛盾に突き当たる。

まあここではこの話には立ち入らないが、ちょうどその頃、つまり1970年代の最後から80年代の頭の日本では、なんというのか、もちろんそれでも頑張っていた人もいたわけだけれど、だけど、戦後の反体制的な運動は、各論ではなく総論として「やっぱ駄目じゃん」ということになっていって、これは僕の記憶だけかもしれないが、モノを書く人たちの多くも、行動ではなくことば遊びをするようになってしまった。

彼らを責めているのではなく、僕自身がそうだった。

記憶が曖昧なので間違っているかもしれないが、80年代の幕開けに

欲しいなら何もかも、その手にできるよ A TO Z
海に浮かんだ光の泡だと、おまえは言ってたね

という、まさにその後の日本を予言した『TOKIO』(沢田研二)の歌詞を書いた糸井重里さんが、当時、「社会主義者って言うことばはあるけれど、資本主義者ってないよね。僕は資本主義者になろう」というようなことを言っていた。

あえて「資本主義者」を標榜する。
そんな闘いしかできないような時代なのかもしれない。
当時の僕はそう思って、たとえば「差異」という当時流行ったことばのように、なにか小さな隙間を見つけて世界を笑い飛ばそう、というような感じでいたのである。

ほんとうは、この前読んだ『科学の限界』(池内了著・ちくま新書)の感想を書こうと思っていたのだった。
読んだ本についていちいち書いていたらきりがないけれど、今月の新刊だし、原発問題の欺瞞について、池内さんが語る以上に、言うべきことがあるからだ。

ところが、なんとなくテキトーに前振りを書いていたら、全然別の話になってしまった。

ということです。

でね。

去年の3月、原発が爆発するのをテレビで見て、しばらくは唖然とするしかなかったのだけれど、次第に怒りがふつふつと沸いてきた。

僕は普段、あまり怒らない。
怒るというのは、くだらないことだからだ。
怒ったって疲れるだけだ。

でも、原発に対して本気で怒ったのは、これはつまり、僕のせいだからだ。

カッコいい言い方をすれば、「これだけの大問題をスルーして生きてきた自分自身に腹が立った」ということにもなろうが、きっと、もっともっと感情的な問題だ。

たとえば、定年退職後に奥さんから三行半を突きつけられて熟年離婚。
このとき奥さんに対して「俺はお前たち家族のために身を粉にして働いてきたんだ! その気持ちがわからないのか!」と本心から怒るのであれば、単純である。馬鹿だとも言える。
ところが、自分が「フリをして」生きてきた場合、つまり、家庭や会社を大切にする、という「大義」に、本気で納得するわけでもなく「まあそれでいいか」と妥協して生きてきた場合。
もうちょっと言えば、自分が愚かでくだらない人間であるが故に、自分でちゃんと考えずに、他人の、あるいは世間的なモノサシをとりあえず是として生きてきた場合。
そいつを否定されると、「ちょっと待てよ。それはないだろ」と、倒錯した怒りが沸いてくるだろう。
奥さんに
「子どもが成人するまでは、と、これまでずっと我慢してきましたが、この先はもうあなたと一緒には生きていけません」
とかなんとか言われたら、でもそれって俺だって「フリ」してただけだなんて言えないじゃん。
つまり、自分の非を認めたくないからこそ、「お前が悪い」と激怒する。

…わかってくれるかなあ。

僕の原発に対する怒りは、正直それに近い。
ほんとうに身勝手な怒りなのである。

でも。

少しだけ自慢させていただくが、僕はそういう、自分の「糞野郎ぶり」については、ちゃんとわかっている。
世の中には、自分が糞野郎ではなく神や正義の遣いのように勘違いしている人たちも大勢いるが、少なくとも僕は、そこまで破廉恥ではない。

今夜はほんとうに、テーマとか何も考えずに、酔った勢いで思いつくままに書いているのだけれど、「自分が糞野郎ではなく神や正義の遣いのように勘違いしている人」といえば、まず思い浮かぶのは石原慎太郎だな。
政局や保身にしか興味のない国会議員の糞どもや、単なる歯車に過ぎないくせにいい気になってる糞官僚ども。
そんな恥知らずな連中に日本は任せられない、というのはよくわかる。
ところが、石原慎太郎自身が恥を知っているようには、僕には決して思えない。

ついでに言っておくと、もっと小粒な橋下徹には、僕には政治的な信念があるとはまったく思えない。
今は追い風だから風向きも読みやすい。それだけに見える。
たとえば、「維新」は石原と組むために「脱原発」を引っ込めたわけだが、つまり「脱原発」は最初からその程度の位置づけだったわけだ。「脱原発」に限らず、具体的な政策については全部そうだろう。

典型的なリバタリアンで、リバタリアンに政治はない。
政治というのは、たとえば国政であれば「この国はどうあるべきか」を考え、県政であれば「この県はどうあるべきか」を考える。つまり「社会」を考える。そういうものだ。
ところが、リバタリアンの頭の中には、「社会の観念」がない。
「個人の観念」しかない。

しかし、そもそも「個人の観念」なんていうのがいかに儚いものであるのか。
頭の回転の速い橋下徹は、直感的に気付いているのではないだろうか。
教師に君が代を強制したりするのは、突き詰めていけば理論破綻するはずだ。
それでも、なんらかのわかりやすいシンボルを後ろ盾にしなければ正当性を担保できない。
そういうことだと僕は思う。

馬鹿一直線の石原慎太郎に対して、二重三重にひねくれた橋下徹。
そんな奴らが人気なのだから、ほんとうに困った。

いずれにしても、「自分の糞野郎ぶりに気付けよ」あるいは「自分の糞野郎ぶりを白状しろよ」といった感じだな。

その点僕は、自分がいかに糞野郎なのかを知っているので気が楽だ。
ファックユー、ファックミー。

じゃあ、あばよ。

反原発デモ/警視庁/安保世代批判/北海道/長丁場

11日は永田町・霞ヶ関(国会周辺)の原発抗議行動(11.11反原発1000000人大占拠)に参加。
東京都が日比谷公園の使用許可を出さなかったのでデモ行進は中止となったが、裁判所も認めたその理由は「ネットとかで呼びかけているから何人集まるかわからないので管理できない」みたいなことらしい。
いったいなにを考えているのだろうか?
憲法で保障された表現の自由よりも、役所の都合のほうが大事だということだろうか。
ほんとうに困った連中だ。

7月の国会包囲の時には参加者が国会前の車道を占拠するという歴史的な展開になったのだけれど、今回警視庁は「メンツにかけてそれだけはさせまい」という方針だったようだ。
僕も、国会議事堂正門のすぐ前、場所的には最前線の鉄柵の外、つまり車道に1メートルくらい入ったところにいたのだが、警察官が何重にもスクラムを組んで、誰ひとりたりともそれ以上出すまいとしていた。

もちろん、今回に限らず、警察の警備方針には疑問アリアリだけれど、敵は目の前の警察官ではない。
だから僕は「歩道に戻ってください」という警察の指示には聞こえないふりをして一切従わなかったけれど、だからといって、そこにいる警察官にわざわざたてついたりはしない。

でもさあ、原発の抗議行動で警察官と本気で小競り合いしている場面もよく見かけるが、60代以上と思われる人がとても多い。
要するに、60年、70年安保闘争の世代だ。
昔を思い出しているのだろうか?

僕は桜田門の本社は最近は行っていないけれど、以前、マイクロバスに載せられて連れて行かれたこともあった。もちろん、被疑者としてである。
そのときは幸いにして起訴猶予となったので、犯罪歴ではないけれど、映画のように、顔の正面、右側、左側から写真を撮られ、両手10本の指のすべての指紋を、指をぐるっと270度回して、ぬかりなく採取された。
だから、今後もしも僕がコソ泥とかして、ちょっとでも指紋を残したら一発でバレる。

桜田門の二階は「取調室フロア」になっていて、というのも、以前は一課なら一課、四課なら四課がそれぞれに取調室を持っていたのだけれど、それだと違法な取り調べが生まれやすい。
なので、取調室はそれぞれが管理するのではなく、何課だったか忘れたけどどこかが一括して管理することになったらしい。

だから、殺しの被疑者も、マル暴の被疑者も、経済事件の被疑者も、すべて二階フロアにずらっと並んだ個室で取り調べが行われる。
すると、隣の声とかも聞こえてくるのだ。
いろんな被疑者がいるんだなあ、と結構面白かったのだけれど、連日、朝から晩まで同じことを何度も聞かれる取り調べにはうんざりだった。

事件の詳細はごめん、秘密にしておくけれど、誰かを傷つけた(肉体的、精神的、あるいは経済的にも)というわけではないよ。
僕は、私生活や仕事では、いろいろな人を苦しめてきて申し訳ないと思っているけれど、桜田門の件では、誰ひとりとして苦しめていない。
だから、ふざけんなという感じもあって、でもまあ、実際に取り調べに当たったひとりひとりの警察官はきっと悪い人ではなく、彼らに反抗してもしょうがないし、それよりも桜田門のことをもっと知りたいと思ったのですね、そのときは。

「家に帰って良い」ということになって、そのころちょうどピーポ君が流行っていたので、「売店を見ていいですか?」と聞いたら、渋々(つまり駄目だと言える理由がない)承知したものの、取調官が売店までついてくるんだよ。「さっさと帰れ」オーラ満載で。

で、ここから先は詳細は言えないけれど、その後は、桜田門に勤めているいろんな人たちと仲良くなって、よく遊びに行ったりもしていたのでした。
今だったら持ち込めないようなものをお土産で持っていったし、当然、ちゃんと正規に受付を通って入るので、ひとりで売店に行ってピーポ君グッズを買ったり、彼らの勤務時間のあとは、その業界の人たちが集まる飲み屋に連れて行ってもらったり。
お客の7割が警察官!
本社だけではなく、彼らは異動も多く都内にくまなく同僚がいるので「××署の××さん」とか紹介してもらって楽しく一緒に飲んでいたのでした。

話を戻そう。

たとえば米倉弘昌や山下俊一などは、僕は正真正銘の「悪者」だと思っている。(野田佳彦は悪者と言うより、むしろ気が狂っていると思う)
でも、ひとりひとりの警察官が悪者だ、などということはない。
ところが、どうも安保世代の人たちは「目の前の警察官と闘うことが正しい抗議行動だ」と思っているフシがある。

確かに、「権力装置」という概念を使うのであれば、権力すなわち政治家や役人、原子力ムラの連中どもに仕えるのが権力装置の一部としての警察官であり、闘うべき対象ともなろう。
でも、それってどうよ?

戦略的に言っても、現場の警察官の人たちに「我々の抗議行動は暴力的な反権力ではない」「原発問題について平和的に声を上げている」と感じてもらったほうがよい。

で、それ以上に、少なくとも今の日本の原発問題を考えたとき、現場の抗議活動に「権力装置」概念を持ちだして「オマワリは全部敵だ」みたいに捉えるのは、ヤングな暴走族じゃあるまいし、見当外れだと思うのだ。

もちろん、繰り返すけれど僕は、警察のやりかたが適切だなどとは思っていない。
車道を解放しないのは違憲だとも思うし、それに対して「否」の声を上げるのも当然である。

だけど、現場の連中に言ったって意味ないじゃん。
闘うべきは制服を着た軍隊や治安部隊ではなく、政界、役人、財界といった「スーツを着た極悪人」どもであり、そいつらをほんとうに成敗するというのであれば、僕は制服の人たちと団結するね。

おっと、不穏な発言をしてしまった。
例によって結構酔っているからごめん、と言うことにしておこう。

いずれにしても思うのは、60年70年安保当時の闘争論というのは、結局敗北しただけでなく、その後半世紀に渡る日本人の政治的無力感はもちろん、不毛感の土台となったに過ぎなかったわけだし、あれから半世紀、しっかりお金を貯めて今は隠居している老人が、ヤングな日々を思い出して気分が盛り上がりデモに参加するのはいいのだけれど、当時のことばで言えば「自己批判」をしてもらわなくては困る。
警察官を殴ったって何も変わらないことをきちんと思い出して「総括」していただきたい。
自分の息子より若い目の前の警察官に文句垂れたりするのではなく、時間も小銭もあるのなら、もっとマシなやり方を考えて欲しい。

僕の50年の人生が決定的に間違っていたのと同様に、あなたの60年、70年の人生も決して正当化できない間違い(だらけではなく、間違いそのもの)であり、なんの価値もなかったのである。
それを肝に銘じていただきたい。

ええと。

先週の木曜金曜は北海道出張だったのだ。

金曜18時過ぎ。
諸々一段落して札幌の街をひとりで歩いていたら、どこからか聞こえてくるお馴染みの「再稼働反対!」コール。
駆け足で向かった道庁前には、数百人の人たちが集まっていた。
官邸前に呼応して、もちろんここ札幌でも、毎週金曜夜には抗議行動が行われているのである。
帰りの飛行機の時間があったのでずっとそこにいることはできず、僅かな時間だけだが僕も参加して声を上げた。
参加している北海道の人たちとも話をした。

で、聞いたのだけれど、泊原発再稼働を目論んで、北海道のテレビでは一時間に一本くらい「電気が足りない」CMが流れるそうだ。
つまり、東京や大阪などと違って北海道は冬の暖房需要が大きいので、それを煽って脅しているというわけだ。
この夏の関電だって、結局は大飯原発が動かなくても電気が足りていたことは報じられたとおりだけれど、電力の奴らの、人の弱みにつけ込むようなやり口は相変わらずだ。ほんとうに薄汚い。
さすがに今や東電はCMなんか流せないので、東京にいると電力関係のCMからご無沙汰しているが、東電以外は相変わらず同じようにやっている。
溜息が出るばかりだ。

先週金曜夜の札幌は雨だったので「そのせいでいつもより人が少ない」ということだったが、それでも、冷たい雨の中、みんなが大きな声を上げていた。
日曜日、11.11の東京も雨だったけれど、たくさんの人が永田町に結集した。

これは長丁場だ。

僕も一年くらい前は、ドラスティックに世の中が変わることを期待したりもしたけれど、今、それは残念ながら無理だと思う。
9月に小出裕章さんと温泉に行ったとき(温泉オフ会のとき)、露天風呂の中で二人で缶ビールを飲みながら、
「小出さんが生きている間に、原発全廃の祝杯を挙げられたら嬉しい」とお話しした。
もちろん小出さんは、「ほんとうにそうなったら素晴らしい」とおっしゃってくれたけれど、その困難さもよくわかっているようだった。

原発問題というのは、原発に留まらず、日本のシステム、いや、現在稼働中のグローバル資本主義システムのアキレス腱であり、それを変えることは、場合によっては現状のシステムの根幹を黙らせる、ということにならざるをえないからだ。
システムはそう簡単にはそれを許さない。

だから僕は、焦ることなく楽に反原発で生きていきたいと思うし、みなさんにもそう願っている。
3.11から一年半、つまり小出さんとの温泉までは、駄目なところはたくさんあるけれど、僕もそれなりにハイスピードを目指して動いてきたつもりだ。
でもそのあと、仕事がバタバタして、デモやオフ会などにも出られなくなり、そうなると、普段真面目に働かない僕でも、普段真面目に働いている世の中の大多数の人たちが反原発で生活していくことの難しさを実感したのだった。

長丁場です。明日、明後日に世の中がガラッと変わるわけではない。
不摂生で出鱈目な生活を続ける自分の寿命を考えると、一回り歳が違う小出さんとも、僕はたぶん余命は同じくらいで、それまでに決着がつくというのは難しいのかなという気がする。

でもまあ、これは、ガラッと根本から変わらなくとも、ちょっとでもマシになったのかと言うこと、そしてそれ以上に、つまり結果論以上に「生き方」の問題であるのだから、そういうふうに余生を送りたいと思う。

今夜はものすごいだらだら文章。

科学と経済学

昨日(土曜日)はほんとうは、「ざまあみやがれい」(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/)さんの月次オフ会に行くつもりだったのだ。
真面目な話はパスしても酒の入る二次会以降はずっと皆勤賞だったのに、9月からなんだかとても仕事が忙しくなって、9、10月と参加できなかったので、今月こそは行こうと思っていたのに、急な仕事でバタバタとしてしまった。
まあ、僕が行かなくても誰かが寂しがったりするわけではないけれど、仕事絡み以外でいろんな人と話をしたかったので残念。
来月はきっと行きます!

というわけで、ノートパソコンを持ち込んで、最初はコーヒーショップ、最後は居酒屋でカチャカチャ仕事をしていたのだけれど、途中で本屋に寄ってしまった。

買ったのに読んでいない本がたくさんあるので本屋に行くのはそれを全部読み終わってから、と決めていたのに、仕事をしていると苛々するので、どうしても気休めに本屋とかに入ってしまう。
で、なんとなく気になった本を買ってしまうのだけれど、一日で読める軽いものにしておこうと、昨日買ったのは新書二冊。
科学と経済学。

これがじつは、僕が立ち向かうべき(と自分で考えているだけだけど)ふたつの大きな問題なのであった。

もちろんどちらも、具体的な問題や詳細な議論については、僕がちょっと本を読んだくらいでは専門に勉強してきた人にかなうわけがない。

ただ僕としては、具体的な議論はともかくとして、「そもそも論」として科学や経済学の正当性(あるいは正当性の限界)を問いたいのだ。

科学については、「科学哲学」と言われる学問の領域もあって、一時期少し勉強した。
これは、東大の物理学を出たあと哲学に入り直した、僕の尊敬する現代日本の哲学者、故・大森莊藏さんが、執拗なまでに「科学」を問うていたから、というのが大きい。

ちょっと横道にそれるけれど、「色」というのはモノに当たった光の反射を網膜がキャッチしてそれを情報として脳に伝えたもの、ということに科学ではなっている。
だから、同じモノを見たとしても、赤い光が当たっているときと青い光が当たっているときとでは、人には違う色に見える。
アンド(&だよ)、光というのは、可視光線ということばがあるように、人間に見える光と見えない光とがある。
でも。
だとするとだよ。
そもそもモノに「色」なんてあるのだろうか?
とても雑な言い方になるけれど、「色」なんて、人間が、脳に入ってきた情報を都合の良いようなことばにしているだけなのではないのか。

3年くらい前だけれど、東大で視覚を科学的に研究している人の講演会があったので、僕はこの質問をするために出かけていった。
で、講演が終わったあと、僕はその教授(だったか名誉教授だったか、とにかくその分野の第一人者の方)のところに駆け寄って、さっき言ったような話をして、
「ということは、モノにはそもそも『色』はない、と言って良いのでしょうか?」
と尋ねた。
その先生は、5秒くらい考えたけれど(たぶん僕の理解度を探っていたのだと思う)、
「そう言って良いです」
と答えた。

ほらそうだ。
思った通りだ。

言っておくけれど僕は別に、「モノに色はない」という科学の考え方を否定するわけではないよ。
つまり、「科学のことば」には、我々の日常言語(普段話していることば)と、別のルールがあるのだ。(完全に別のことばだと言っているわけではない。この話は長くなるのでしないけれど)

でもさあ、モノに色がないとしたら、世界は無色だということになる。
想像できるだろうか?
想像しようとすると、一面灰色とか、一面黒を思い浮かべてしまうけれど、それとはまったく違う。つまり、灰色や黒さえない。

何が言いたかったのかと言えば、要するに「科学のことば」というのはそういうものなのである。
それが正しいとか間違っているとか、そんな問題ではない。そもそもそんなことを問うこと自体が間違っている。
単にそういうものなのだ。

だからこそ、「科学のことば」すなわち「科学」には、自ずと限界がある。
その底には、完全を立証できない数学的な理論と有限回の経験的な事実しかないのだから当然なのだけれど。

例によって酒を飲みながらだらだら書いていたら間延びして面倒臭くなってきた。
あと大事なことは、
「科学では決して正義を語ることはできない」
と言うことなのだけれど、これは昔の記事『311以後、しばらくぶりに哲学に戻る【その2】』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11157697411.html)とか、『論理学、数学、そして「駄目な人」「弱い人」。』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11176701522.html)とかを読んでください。

一般向けの科学哲学の最近の本としては
とか。

この本のことはブログで書いたつもりでいたけれど、検索しても出てこなかった。
書かなかったのかな。

いずれにしてもさあ、「科学技術は発展させるべきだ」と言う人がいる。(科学と技術はまったく違うのだけれどここではそこに立ち入らない)
そんな人が「だから原子力は続けるべきだ」などと言う。
夢でも見ているのではないかと思う。

確かに科学技術の発展で「便利」にはなるかもしれない。
でも、「便利さ」と「正さ」は違う。
「科学技術の発展で真理に近づく」というような命題など宗教的信念に過ぎないのだし、そもそも、もし仮にそうだとしても、それは「正義」や「善」の問題、すなわち、「善い社会」や「善い生き方」とは別な話である。

と、まあ。

科学については、思うところを少しは語れるのだけれど、経済はまるっきりわからないのであった。
ただ、経済成長を無条件に是として話をする人が多いので、それはやっぱり違うと思うので、経済学についても、その根っこを捕まえたいと思っている。

疲れてきた。
ていうか、今寝てたよ。

じゃあ。

久しぶりのデモ。そして、右と左。ことばとそれが示す実体

この前久しぶりにブログを更新したら、初めての人からコメントをいただいた。

特に誰にも心配してもらえなかったのがちょっとさみすぃけれど、約40日ぶりにブログを書く。

と泣き言を言ったので慰めてもらいました。
僕もちょっとは人気があったのかなあ…。
ほっとしました。個別にレスは返せませんが、どうもありがとうございました。

さて。

昨夜は約一ヶ月ぶりに金曜夜の永田町デモに行った。
と言っても午後6時は到底間に合わなくて、8時過ぎに友達が参加している自民党本部前の抗議行動に合流したのだった。
聞いたところだと、右デモ(右から考える脱原発ネットワーク)の(関係者の??)方々が主催らしい。
「麗しき山河を汚し、子どもたちを危険に晒す原発は許せない」
「保守本流を名乗るのなら、自民党は原発を推進してきた自らの過ちを謝罪せよ」
「国民の生命・健康よりも己の政治生命を優先する政治家は去れ」
と、まさしくその通り。至極真っ当な訴えである。

このブログでは何度も書いてきたけれど、「右」とか「左」とかは、もうどうでもいいことだ。
「脱原発・反原発に右も左も関係ない」というのはもちろんのこと、21世紀の日本を考えるに当たって、右だ左だという枠組み、そんな思考のフレーム自体が、もはや百害あって一利なしだ、と僕は思う。

結局、有楽町ガード下のやきとり屋→キャッシュオンのパブ→激安チェーン居酒屋と、デモ仲間と始発まで飲み歩いてしまったのだけれど、いろいろ話をする中で、ある女の子は「右、左というのは、天皇陛下に対する考え方や姿勢の問題だ」と言っていた。

なるほど。
「自分は右だ」と自覚する人にとってはそうなのかもしれない。
ただ、その場でも話したのだけれど、ご存知のように右だ左だというのは、そもそも昔、フランスの議会で、右側に保守的な人たちが座り左側に革新的な人たちが座った、というのが「ことば」の発祥で、つまりそのときたまたまそうだったと言うことに過ぎない。

左と言えば国家転覆を目指す共産主義者のイメージがあるのかもしれないけれど、共産主義よりもある意味もっと過激な考え方がアナキズムである。国家の存在自体を認めないのだ。
ところが、「国家の存在自体を認めない」というのは、現代の右派、保守勢力、すなわち資本主義の徹底を是とするリバタリアニズムの究極の形でもある。
「小さいな政府」を訴える現代の保守勢力が思い描くのは、国家による一切の規制なしに、金儲けの自由を認めよ、と言うことだからだ。
要するに、昔の見方での「左の究極」と「右の究極」は、結局同じような国家観(ていうか国家なき社会、あらゆる権力から解放された個人という理想像)を描いている。
つまり、どっちもどっち。似たようなものなのである。

そんな意味で、古い意味で言う右だ左だというのが今や通用しないのは当然だけれど、であれば、天皇や民族、国土、風習などをキーワードとした左右の分け方が都合良いかと言えば、そうでもない。
左翼勢力の中には昔から「民族解放戦線」的な闘いがあったわけだけれど、そういうのを全部すっ飛ばして、未だに「世界同時革命」を訴えるような左翼なんかいるのかなあ。これはよく知らんけど。
僕からすれば、いわゆる「左」の視点に立って考えてみると、目指すべきものはその土地土地に根ざした土着的な革命しかないと思う。

左翼が天皇制を否定するのは、それが権力装置として働いてきたという歴史観、すなわち天皇制の名の下に権力者が国民を搾取してきたという歴史観を持つからであろう。
ところが、いわゆる「右」の人たちの歴史観においては、天皇制(あるいは天皇)は、一部の権力者のために存在するのではなく、国民のために存在するのである。

どちらの歴史観が正しいのかは、僕にはまったくジャッジする見識はない。
しかしこれだけは言えるのは、右にしても左にしても、一部の権力者(政治家や金持ち、役人どもなど)の利益のために働く社会システムはけしからん、という点、すなわち社会正義についての根本的な認識にはそう違いはないということだ。

もちろん、天皇、天皇制についての考え方は、いわゆる右、いわゆる左の人たちにとって決定的に埋めがたい亀裂であろう。
でも、それはひとまず置いておいて(というと左右両側から糾弾されそうだけれど…)、共闘の道を探れないのかなあ、と僕は思う。
(そんな意味でも「右デモ」の人たちの行動は立派だと僕は思う。僕は考え方的には左翼上がりだけれど、知る限り左翼のほうが駄目だ。了見が狭い)

まあ、いずれにしても、右とか左とか言うのはもうやめて、別のことばを探すときだろう、と、僕は思うのだった。

その話の流れで脇道にそれる。
昨夜も一緒に飲んでいたデモ仲間のA君に「その考え方だけは決定的に違う」と延々話したことがある。

左翼右翼の話からマッハ3で(←古くさいレトリック)飛ぶけれど、よく、中学生とか高校生とかが「愛と恋とはどう違うの」というようなことを語り合っている。
「彼女に対する自分の思いは、愛なのか、恋なのか」などと悩んでいるヤングもいる。
これがね、考え方としてまったく転倒しているのである。
で、何人かの人とこの話をしていて驚いたのだけれど、考え方の転倒に決定的に気づいていない人がじつに多い。

愛なんて言うのは明治時代に入ってきた外来語だ、というようなことはここでは横に置いておこう。論点はそこではないからだ。

「愛」、「恋」に限らず、感情や感覚で言えば「痛い」とか「嬉しい」とか「ウザい」とか、なんでもいい。
そんな「ことば」は、なぜ、どのようにして使われるようになったのだろうか?

答から言うと、社会の中で、ことばを共有する必要があったからだ。

転んで頭を打てば、日本語を知らない人でも「ウォ!」とかなんとか叫ぶであろう。
その現場を見た人がいるとする。
彼は、「痛い」ということばを知らなくとも、自分にも似た経験があるから、感覚を共有することができるはずだ。
ところが、その事態を第三者に伝えたいとする。
身振り手振りで「ウォ!」とやってもたぶん伝わるとは思うけれど、それでは要領が悪い。
そんなときにこそ、「ことば」が必要となってくるのだ。
「痛い」という、その社会の中でみんながわかる「ことば」が必要なのだ。

「嬉しい」でも同じ。
いったい、「嬉しいとはなにか」と問われて答えられる人がいるだろうか?
「嬉しい」とは「嬉しい」のである。それ以上分析することはなかなかできない。
ヒトゲノムを知らない人から「ヒトゲノムとは何?」と問われて「それはヒトゲノムです」と答えても、答えたことにはならない。
こう言うのをトートロジーという。何も語っていない意味なき文章。

同様に「嬉しい」とは「嬉しい」ことです、などというのは、文章としてまったく意味がない。
でも、そうとしか言いようのないことばがなぜ存在するのかと言えば、多くの人が「そのことばは、今の気持ちにぴったりだ」と思ったからである。
自分の感情と他人の感情が同じであるという証明は誰にもできない。
でも、「たぶん同じような感じだろう」という「ことば」があれば、それを頼りに人はコミュニケーションをとることができるし、逆に、そんな「ことば」がなかったら、人々は自分の気持ちをなんとなくでも人に伝えることができない。
そんなコミュニケーションが成立しなければ社会は成り立たない。
だからこそ、「嬉しい」という「ことば」が流通していったのである。
身振り手振りでウォッと言って伝えるのではなく「痛い」という「ことば」があったほうが都合が良いのと同じで、「嬉しい」という「ことば」があればみんな都合が良いのである。

「愛」や「恋」も同じ。
多くの人が、その「ことば」にしっくりくるから、そのことばが流通する。

で。
ここからが非常に重要なのだけれど、
これは、世界のどこかに(あるいは世界の外側の神の国にでも良い)、「愛」や「恋」の実体が存在して、人々は、そんな実体と自分の気持ちとを比較して、「これは愛だ」「これは愛ではなく恋だ」などとジャッジして話しているわけでは、決してない。
ということだ。

「ヤバい」ということばは、数十年前は「危機的状況」を表していた。(「ヤバい!逃げろ!」というニュアンス)
ところが今、若い子たちが「超ヤバいすよ」というとき、それは多くの場合、絶賛である。
そんな意味での「ヤバい」という「ことば」の使い方は、以前はなかった。ありえなかった。
そう考えるとはっきりするように、「ヤバい」ということばに対応する不動の実体がどこかにあったわけではないのだ。
単に、多くの人がしっくり来るようにそのことばを使っていたら、いつの間にか意味が変わってきたのであって、これはすなわち、ことばに実体なんてない、ということである。

「愛」や「恋」も同じ。
そこには、「今みんながそんなことばにしっくり感じている」という以上の意味はない。
(ことばにはそれに対応する実体があるなどと言うのは、端的に宗教である)

だから、「彼女に対する自分の思いは愛なのか恋なのか」などという問いは、単にことばの使い方として「愛というのが相応しいのか」「恋と言うことばのほうが良いのか」という問題に過ぎない。
どこかに「真実の愛」の実体があって、それと比べると自分の気持ちはまだまだ真実とは言えないのではないか、なんていうのは、考え方そのものが間違っている。考え方が転倒している。
「真実ありきのことば」ではないのだ。
ことばありき。以上おしまい
というだけなのだ。

話を戻そう。

右とか左とか言うことばの使い方が混乱している。
「真実の右翼」「真実の左翼」といった実体がどこかにあるわけではない。
だから、この混乱した状況の中で、「俺のほうが真の右翼だ」などというのは変な言い方だ。そういう議論をしても袋小路に嵌まるだけである。
何度も言うように「真の~~」なんて、どこにも存在しないのだから、それと照らし合わせての比較なんて不可能なのだ。

新しいことばが必要なのである。
これは、僕が勝手に造語をつくって提唱しても駄目だ。
みんなが受け入れて、しっくりこなければことばとして流通しない。
でも、明らかに新しいことばが必要なのだ。

ええとですね。
この話はまだまだ先がありますが、きりがないのでやめますよ。

昨夜は女の子ふたりのうち、ひとりはまったくお酒が飲めないのでリンゴジュースとか頼んでいて、まあそれは仕方がないのだけれど、飲めるほうの女の子も飲めないほうに合わせたのか後半ソフトドリンクで、でも僕はお構いなしに、瓶ビールから始まって、ギネスのpintを2杯と日本酒を三合、サワーを一杯と、生中2杯といったペースで飲み続けてきたので、いよいよ陥落寸前ですね。

前回の記事についてある女の子からtwitterで「ほんとによっぱで書いたのかねえ」と言われたけれど、ほんとに「よっぱ」だぞ。
文章は公開できるが、実際に今会ったら嫌われるでしょう(笑)。

あと、昨夜は経産省前抗議行動で、ずっと同じモチベーションをキープしているテツさんや、僕の顔を見て「おお!」と言っためぐさん(昨夜はばっちりメイク)を見て、頭が下がる思いでした。
みんな一生懸命やっているなあ。すごい!

でも僕としてはこの先、どういう展望で何をしたら良いのか、悩みちゅうです。

あと、関係ないけれど、Facebookで友達申請をしてくれる方々がいらっしゃるのですが、「ブログ見た」とか「反原発」とか、なんでも良いのでひと言書いてください。
基本どなたでもウェルカムなのですが、出会い系のサクラみたいなのは避けたいので、ひと言だけでもお願いします。

一応読み返そうと思ったのだけれど、酔っ払って目がちらちらして駄目だ。
おやすみなさい。

社会離脱

ええと。

特に誰にも心配してもらえなかったのがちょっとさみすぃけれど、約40日ぶりにブログを書く。

twitterも途絶えたし、金曜日の永田町デモも三週間参加していない。
毎月定例である「ざまあみやがれい」さんのオフ会や福島の「てつがくカフェ」も欠席だ。

何をしていたのかと言えば、べつにたいしたことではない。仕事をしていたのだった。
特別な仕事ではない。生活のための仕事。
僕はお金持ちではないので働かなければ生きていけない。言ってしまえば単にそれだけのことである。

ある書籍(原発とかとは関係ない)の編集をしていたのだったが、これが思っていた以上に大変で、週末も含めほぼ毎日、千代田区内のある出版社の小会議室を占拠して、入稿とか校正とか、その他諸々の編集作業をしていたのだった。
金曜の夜も、みなさんが集まっている官邸前や国会議事堂のすぐ近くで、ひたすら作業を続けていた。
そんな感じで一月半を過ごし、先週土曜の朝5時頃、ようやく校了(「これでおしまいですよ」という意味の出版用語)したのである。

考えてみれば、会社勤めをしている人であれば僕と同じ40代後半でも、毎日10~12時間働いて週末も休めない、という人はかなり大勢いるはずだ。
そんな人からしてみれば、「休日なしで毎日12時間働いたからって、だからどうよ?」と言われてしまうのだろう。

だが、僕は基本的に怠け者なのでそんな生活なんかしたことがない。
また、その日の仕事が終わるとすぐに酒を飲み始め、しかも結構いいペースでごくごく飲むから、そんな生活では小さな頭脳的には他のことを考える暇がない。
つまりまあ、仕事後は飲み、仕事の直前まで寝ているか二日酔いで、ものごとをマトモに考えない。そういう生活を送ってきた。
本はもちろん新聞や雑誌も読まない、気になった出来事をネットで追いかけたりもしない(そもそも「気になる」余裕がない)、ということを続けていた。

ようやく一段落した日曜日の朝5時過ぎ、缶ビール片手に永田町付近をふらふらしながらケータイで「フクイチ4号機の燃料取り出し完了」という記事を見て、酔っ払ったアタマで「ああこれで4号機の使用済み燃料プールは空になったんだ」などと思っていたのである。
もちろんこれは誤りで、単に、破損していない4号機の原子炉から燃料を出しましたというだけの話であって、使用済み燃料プールの危機が回避されたわけではない。
ところが、一ヶ月以上仕事に勤しんでいたら、そんなこともわからなくなってしまったのであった。

僕は、会社員とかビジネスの現場的なところでバリバリ働いている人なんかが原発再稼働に賛成する理由は、次のふたつが大きいと思う。

ひとつは、
原発の否定というのは、現在稼働している社会システムそのものに対しての疑問符やアンチであらざるをえないわけだから、「反原発」は己の価値基準の根本に対する否定になるのではないかという直感。
たとえば、会社で働いている人の多くは自分の気持ちよりも組織の論理を優先してしまうのだけれど、それが悪いことだとはあまり思っていない。むしろ、「そうするのがオトナだ」と、都合良く価値をすり替えてしまっている。
ところが、反原発の考え方は根本的にはオトナ的な現状肯定ではなく、コドモ的な素直な疑問や欲求、あるいは正義感だったりもする。
でも、システムの上で生きてきた人にしてみれば、それを認めてしまっては、組織の中でずっと嫌なことも我慢して「オトナとして振る舞ってきた」自分の立つ瀬がない。
なので、それは許し難い。と、直感的に感じるのである。

この話は本を一冊書けるくらいの内容なのだけれど、今回は脇道にそれるから突っ込まない。

もうひとつの理由は単純で、要するに時間がないからそこまで考えていられない。政府が大丈夫だと言ってるのだから大丈夫としかいえないよ。というものだ。
そういう人に出会うと僕らは、もう少し考えてほしいと思う。もう少し考えてくれれば「原発のウソ」は簡単に見破れるのだから、と。

ところがね。
そんなに簡単ではないのだということを、この一ヶ月半の編集部缶詰で、僕は思い知ったのであった。
疲れてしまうと「もう少し考える」なんて真っ平御免なのだ。

地上を走るJRは電波が通じるので、以前は僕は「原発 ニュース」の検索結果をずっと読んでいた。だから、ネットで検索できる範囲の原発関連ニューズは常にだいたい頭に入っていた。
でも、糞忙しいとそんなの見る気がしない。気休めが欲しいのだ。
ここのところ僕が、移動中ずっと何をしていたのかと言えば、無料アプリのソリティアである。

人は(あ、僕だけかもしれないけれど)弱い。
世知辛いこの世の中で、何を優先するかと言えば、社会正義なんていう漠然としたものではない。100年後の子どもたち、あるいはもっといえば、今この瞬間にも被曝させられている福島の子どもたちのことではない
自分や、家族の生活が第一なのだ。
原子力のことなんかマトモに考えはじめたら、それこそいろいろ悩むに違いない。
きっとそこには無茶苦茶多くの問題があるだろう。
そんなことはわかっている。
でもそれ以上に、男たるもの、家族の生活を守れなくてどうするんだ!?

たぶん、「強い人」でもそう考えるだろう。
僕のように「弱い人」は、そこまで考えるでもなく「暇なときには無料アプリのソリティア」ということになるのだと思う。

さっきまで渋谷の反原発バー「ムーンパレス」でビール、ハイボール、ブラディメアリーから芋焼酎まで、散々飲んでいたのであった。
ちょっと、というかかなり飲み過ぎた。
だから滅茶苦茶な文章は勘弁していただこう。

さて。

ゴールデンウィークや夏休みなどで一週間とか休んだ会社員の人たちがよく使うことばが「社会復帰」である。
連休最後の晩に一緒に酒を飲んだりすると、「明日から社会復帰しなくちゃ」とか、彼らはよく言う。
この場合、彼らが「復帰すべき社会」とは、
「毎朝7時に起きる社会」であったり、「丸く収めるべき社会」であったり、「上司に物言うときも『会社のため』という大義名分がある社会」であったり、「家庭を壊さないようにこっそりフーゾクに行く社会」であったり。
その程度の「社会」復帰だと、僕は思う。
ところがこれが、じつはかなり忙しい。
そういう「社会」生活に、マトモに原発の問題を考える時間などあるはずもない。

要するに、多くの人が言う「社会復帰」とは、「社会のことをきちんと考える」という意味ではなくて、「現存する社会システムの中に自分の居場所を定めよう」ということだ。
バリ島で三日間だらだら過ごしたAさんの「社会復帰」とは、「バリ島だらだら目線」で日本の社会を見直すことでは決してなくて、明日からは日本社会システムの時計に合わせて行動しよう、ということだ。もちろん、社会そのものを問い直すなんて、決してない。

ええと。

そういう人たちを糾弾しようというのではない。
というか、「生活」というのはそうなってしまうのだ。
僕だってこの一ヶ月半、朝の6時まで仕事をして、権野助坂では缶ビール片手に出勤する人たちと逆行しながら口の中では彼らに悪態をついていたものの、結局は社会のシステムに沿った仕事をしてきた。
そうやって仕事をしてお金をもらうからこそ、ご飯も食べられるしビールも飲める。
僕もそんな一員だ。

でもね。
もしも可能であったなら、僕はそんな「社会」に「復帰」なんかしたくはないのだ。
そんな「社会」では、つまりそこでは根本的に今の社会システムを是としているわけだから、その枠を超えて物事を見ることができなくなってしまう。

僕は哲学をやってきたわけだけれど、哲学の基本的な姿勢というのは、みんなが考えもしないような「当たり前」を徹底的に、洗いざらい疑い抜くことである。
もちろんそれは、それを使って考えている「ことば」や「論理」そのものに向かうのだけれど、その全然手前に「社会の常識」というやつがある。
それを疑わないのは、僕的にはどうかしている。

酔っ払い文章だが強引にまとめよう。

ムーンパレスで8杯(アブサンも飲んだ)の前に、渋谷で一番安い立ち呑み冨士屋本店でビール大瓶と日本酒二合、今、家でAsahiDryBlack500ml缶二本目だから、誰も僕の言うことなど信用しないように。

「離脱」は「復帰」の対義語だという。
ならば、「社会復帰」ではなく「社会離脱」をしなければなるまい。
この糞のような社会から、いったん離れてしまうことが必要だ。

夏休み旅行のバリ島から帰ってきたAさんは、「バリ島時間が非日常で、日本の時計に合わせて働くのが復帰すべき日常」だと思っている。
しかし、これは二重の意味で違う。
面倒なのでここには書かない。

長期(といっても10日とか二週間なのでしょぼい)休暇のあとに「社会復帰しよう」という人はたくさんいるが、なにか一段落したときに「社会離脱しよう」という人はあまりいない。
これは、じつは社会にとっても不幸なことだ。

僕は、どうやったら上手い具合に社会離脱しながら喰っていけるか、そういうことを考えているのだけれど、なかなか難しい。

雑談。原発関連は後半だけ。

久しぶりの更新にもかかわらずこんな調子で申し訳ないのだけれど、タイトル通り今夜は雑談。つまんないよ。
原発話はこんどまたちゃんと書きますから。

twitterで何か書いてもだいたいがタイムラインの中に埋もれてしまうので、同じtweetを自動送信してくれるサービスをやってみた。(「クラウド型 twitter多機能管理サービス「ツイ助。」」(http://www.twisuke.com/))。
だけどそうするとさあ、連動しているfacebookにも同じ記事が並んでしまう。
うざいなあ。

そういえば思い出したけれど、6月に発売された『機械より人間らしくなれるか?』(http://p.tl/GiUc)という本はなかなか面白くて、「人間ぽい人工知能」を競うチューリングテストの話。

僕は理系のことはまったくわからないのだけれど、哲学の領域でも近年「心の哲学」というのが大きな問題となっていて、まあ簡単にいってしまえば「心とは何か」という問題なのだが(僕的には「何か」と問う前にそもそも「心なんて存在するのか」という問いを立てたいのだが)、理系的にももちろん数学、論理学、コンピュータ工学、あるいは脳科学まで、「心」の問題を最先端の問いとして扱っているわけだ。

経験科学的に「心の理論」を構築できたとしよう。すると、それを工学的に(技術的・現実的に)形にする技術があれば、「心は複製可能」ということになる。
たぶん、そういった意味での「心の複製可能性」とういうのは、それほど遠くない将来に実現できるだろう。

もちろん、科学なんて言うのは所詮帰納的推論に過ぎないわけだから、そこに「絶対」は論理的に、ていうか定義上存在しない。
つまり、これまでの歴史の中で人々が「心」とか「魂」とか呼んでいた「何か」とまったく同じものが科学の力でできると考えるのはたぶんまったく間違っている。
だけど、ほとんどの人を「こいつはロボットじゃなくて人間だ」と、騙せるようなレベルの「心」は、まあ簡単に作れるようになると思う。

そのときに浮かび上がるのが人称問題であったり観測問題であったりするわけだが、それは今度ね。

で。

「心の哲学」の話(文系)の入門書にも、「人工知能」の話(理系)の入門書にも必ず書いてあるチューリングテストというのは、人工知能がどれだけ人間ぽく会話できるか、という実験、ていうか人工知能のコンテストだ。

簡単にいえば、ジャーナリストとか心理学者とか科学者とか、そういった疑い深い人々が何人か呼ばれて、何人かの相手と会話をする。
その会話の相手は、人間もいれば人工知能もいるというわけで、疑い深い人たちは自分が会話した中で、誰が人間で、誰が人工知能なのかを推測する。
で、多くの疑い深い人を上手く騙して「こいつは人間だ」と思わせた人工知能が勝ちになるというわけだ。

この実験では肉体性は関係ないので、会話はコンピュータをつかってチャット形式で行われる。
もちろん、人間の会話というのは(コンピュータの得意とする)筋の通った論理的な話ばかりではない。というかむしろ論理的な話なんかはほとんどない。
突然話題が飛んだり、感情的になったり、相手と意気投合したり、まあそういうのが人間の会話だ。
そんな話にも対応できるのが「いかにも人間的」な人工知能ということになるわけで、さらにそれが、相手(人間)を思いやったり、相手の琴線に触れることを言ったりしたら、こりゃまあ、みんな「彼」は人間だ、と信じてしまうよな。

そんな人工知能のことをbotという。
「ロボット」から「ロ」を取った「ボット」だ。

今や、世界中の多くの人たちがtwitterやfacebook、SkypeあるいはそのほかのチャットサービスなどさまざまなSNSを使っているけれど、じつは現実にその中にもたくさんのbotが紛れ込んでいるんだよ。
で、botと会話するうちに相手に恋しちゃう人もたくさんいるんだな、これが。
ちょっと親切な言葉をかけられたりすると、ころっといってしまう人がじつに多い。
相手は人工知能だと気付かずに告りまくり口説きまくる。そんな人も大勢います。
あなたは大丈夫ですか?

ええとなんでこんな話になったんだっけ?

自動tweetの話だった。

僕が試してみた「クラウド型 twitter多機能管理サービス「ツイ助。」」(http://www.twisuke.com/)というのは、確かに自動的に同じtweetを発信してくれたりはするのだけれど、「1時間ごと」とかそういう「決まったスケジュール」を設定するしかない。
これはまだbotとは呼べんなあ。

「もし僕が365日24時間twitter見てたとしてら、きっとこのタイミングでこれをtweetしたくなるだろう」ということまでやってくれて、初めてbotだ。

僕は哲学的、ていうかわかりやすくいえば「考え方」の次元ではコンピュータやネットワークのこともいろいろ思い浮かべるのだけれど、現実的なネットリテラシーは恐ろしく低いので、ていうかていうか面倒くさくて「リアルなネット」にはあまり関わらない。
だから僕が知らないだけで、もっと「botな」twitter連携ザービスがあるのかもしれないけれど。

ここまで書いたとこで、テレビで「ETV特集 シリーズ チェルノブイリ原発事故・汚染地帯からの報告 第1回(再放送)」が始まったので見てしまった。

僕はずっと東京に住んでいて、土地にも組織にも帰属意識をほとんど持たずに生きてきたのだけれど、ベラルーシでは、チェルノブイリ事故の居住禁止区域のすぐ隣で「いつかこの土地で食べ物を作りたい」と頑張って農業をしている人たちがいる。
そこで問題となっているセシウム137やストロンチウムの半減期はどちらもだいたい約30年で、チェルノブイリ事故からは26年経っているから半分近くに減っているはずなのだが、それでも人間が食べられる基準にはまだまだならない。
だけど彼らは、「孫やひ孫の代には」と思って農業をしているのだ。

僕には申し訳ないけれどそのリアリティはわからない。
でも、「そこにこそリアリティがある」人たちがいるわけだ。

そいえば福島第一原発地元の大熊町では「5年間、住民帰還せず」ということになった。(http://www.jiji.com/jc/eqa?g=eqa&k=2012092100428
そこで、「福島民報」紙などでは「5年は長すぎる」「古里を捨てたくない」といった村民の声を伝えているが(http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2012/09/post_5074.html)、大熊町では昨年の年間積算被曝量が800ミリシーベルトを越える地点もあった(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-10998843161.html)。
かなり甘めに計算して、仮に800ミリシーベルトの70%がセシウム134などの「半減期2~3年以下」の放射性物質で、残りが「半減期30年」レベル以上(セシウム137とか)にしてみよう。
で、これもかなり甘く見積もってその70%は5年経てば消えているとする。
ところが、そんな甘い計算をしたとしても、30年経ってもまだ年間120ミリシーベルト被曝する地域が残ってしまう。
「5年間帰れない」などという甘い問題ではないのだ。
少なくとも数百年単位で、捨てざるをえない土地があるのだ。

こんなことを言うと怒る人もいるかもしれないけれど、「古里」というのは後先の短い爺さん婆さんばかりが住んでいても駄目であって、子どもが生まれ育っていかなければならない。
その意味で言えば、最低でも数百年経たないと「古里」は再生できない。
大熊町にはそんな最低数百年間回復不能な土地があると言うこと。
それは事実として受け入れなければならないと思う。
5年なんていうのは詐欺である。

そういえば、未だに政府のいうように「福島第一原発は廃炉にして更地に戻す」ということを信じている人も多いみたいだけれど、あそこを更地にする技術や経験を、人類は持っていない。
10年以上かけて燃料プールから核燃料を取り出して、あとはチェルノブイリのように石棺にするしかないと僕は思う。
たぶん、僕が生きている間に見ることができるのは、良くてそこまでだ。

おっとまた原発話になってしまった。

9.11に行った「小出さんとだら飲み温泉オフ会」の様子は、ユーストでアーカイブされています。

http://www.ustream.tv/recorded/25332254
http://www.ustream.tv/recorded/25333597
http://www.ustream.tv/recorded/25334860
http://www.ustream.tv/recorded/25336609

今だから言いますが、場所は京大原子炉実験所からクルマで20分の犬鳴温泉。
17時30分に京大原子炉実験所に小出さんを迎えに伺って、18時からは缶ビールを飲みながら露天風呂、19時から6~7時間の長丁場ユースト生中継となったわけですが、じつに良い集まりでした。

翌日、小出さんにお礼のメールを送ったのですが、その返信を紹介します。

楽しい集まりでした。  小出

鹿島さん

 おはようございます。
 一昨夜はすっかりお世話になりました。
 調子に乗って飲みすぎはしましたが、楽しい集まりでした。
 
 参加してくださった皆さんが、それぞれの個性的で力がある方々で、私ももっとやらなければと思いました。

 お元気で、ご活躍ください。

                        2012/9/13  小出 裕章


「私ももっとやらなければと思いました。」だって。
何をおっしゃる小出さん!
小出さんの40年間の活動に、我々がどれだけ力づけられたことか。


ええと。

ほんとうに今夜は雑談です。

2ヶ月以上前なのだけれど、「もちろん原発はないほうがいいけれど、今の日本や世界のことを考えたら仕方ないのではないか」という方から丁寧なメールをいただいて、その反論を書かなければと思っていました。
政治、経済、社会、文化etc.あらゆる方角から考えて、原発を肯定できる理由はひとつもない、ということを書こうと思っていたのですが、ごめんなさい、それを書くのはかなり体力の要る仕事で、また今度にさせてください。
酔っ払ってべらべら喋るのであればいつでもできるのですが、それとはきっと違うので。

さて。

金曜日のデモは、反原連の官邸前抗議集会が20時に終わると、多くの人がぞろぞろと霞ヶ関方面に歩いてくるので、経産省テント広場のあたりで知り合いに会える。
先週(21日)も結局デモ後6人くらいで飯(僕はビール)に行ったのだけれど、みんなだんだん疲れてきている。
つまり、不毛な闘いに思えてくるのだ。
30年前に、闘うことの不毛さにお手上げして資本主義者になってしまった僕は、今度こそ本気で闘おうと思っているわけだけれど、それでも疲れてくる。

でも気を取り直す。

こう言うことを言うと怒られるかもしれないけれど、我々の求めている全原発の速やかな廃炉は、今すぐには無理かもしれない。
だが、権力の中枢が存在する永田町、霞ヶ関では、今や「抗議が日常的」な状況になっている。

あのあたりはもちろん繁華街ではないので、金曜の夜だってほとんど人が歩いていないのが当たり前の光景だったのだ。
ところが今は、金曜の夜は人だらけだ。
渋谷センター街の人混みよりはずっと人口密度は低いけれど、目黒のメインストリート権之助坂くらいの人通りはある。
集会に参加してシュプレヒコールを挙げている人だけではなく、なんとなくテント広場前にたむろしている人や、ちょっと離れたところで一服している人、ギターを弾いて反原発ソングを歌っている人など、さまざまな人がいる。

これはとても大事なことなのだけれど、反原発の意思表示は人それぞれだ。
首都圏反原連のやり方がおかしいと思う人もいるし、かといって経産省前の火焔瓶テツさんにも同調できない人もいる。
それでもやっぱり、金曜日の夜は集まってくるのだ。
勝手に歌を歌ったりビラを撒いたり人々に話しかけたりしているのだ。

要するに、権力中枢の地が解放されようとしているのだ。

権力は(現場を仕切る警察も)その意味にまだあんまり気付いてはいない。
彼らにとって一番怖いのは、「組織化された組織」ではなくて、「だらだらやってくる連中」だということがわかっていない。

だから僕も、あんまり悲観ぜずに、だらだら闘おうと思っている。

いずれにしても今夜も泥酔なのですが、あと、関係ないけど今は、いきなり勃発した現実的な問題にどう対応するかということと、レスの来ないメールについて心配しています。

昨夜CXでやっていた「東北ライブハウス大作戦」の番組を観てしまい、なんとなくいろいろな曲を聴きながらyoutubeをぐるぐる回っていたら、なぜか辿り着いたのが南佳孝の『スローなブギにしてくれ』。
1981年の曲。

あれから30年だよ。
この悲しみがわかるかい?


【告知です!】9.11小出裕章さんと反原発ブロガーの温泉一泊「朝までオフ会」。必見ユースト生中継

今日は告知です。
京都大学原子炉実験所の小出裕章さんと温泉旅館で一泊して飲み通すというオフ会企画をこっそり進めていたのですが、じつは、いよいよ明日、9.11に開催となりました。

「ざまあみやがれい」(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/)の管理人である座間宮さんと、5月か6月くらいに「それは面白い」という話で盛り上がり、小出さんのメル友(というか勝手にメールを送りつけているだけですが)の僕が小出さんにお願いし、座間宮さんが原発関連で質の高い情報を発信し続けているブロガーの方々に声をかけました。

座間宮さんをはじめとして、
京谷六二さん http://www.fusenmei.cocolog-nifty.com/
日々坦々さん  http://etc8.blog83.fc2.com/
@動画さん http://www.at-douga.com/
たむごんさん http://portirland.blogspot.jp/
など、かなり濃いブロガーの人たちが、関西の某温泉旅館に結集し、小出さんを迎えて、原発問題、そして日本あるいは社会のシステム、さらに原発とネットなどについて、一晩語り明かします。

もちろん、Ustreamで無修正完全生中継(19時~予定)

また、福島大学教授(倫理学)の小野原雅夫もお迎えします。
僕としては、福島と福島県外の反原発運動や意識の温度差なども伺った上で、議論できればと思っています。

「ざまあみやがれい」のこのページ、http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65823121.html で詳細を見れます。

http://www.ustream.tv/channel/%E5%B0%8F%E5%87%BA%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%A8%E6%B8%A9%E6%B3%89%E3%81%A0%E3%82%89%E9%A3%B2%E3%81%BF%E3%82%AA%E3%83%95

たぶん、このURLがユースト中継だと思うのですが、僕はごめんなさいハイテク部分?はよくわからないので、これで見れなかったら上記の「ざまあみやがれい」ページを見てくださいね。

僕が書いた企画書の一部を掲載します。

開催趣旨

「3.11を境に世界は変わってしまった」
と、小出裕章さん(京都大学原子炉実験所)は語ります。
福島第一発電所事故により、福島県では未だに10万人以上の人々が住み慣れた土地から避難させられ、また、首都圏はもちろん、広く全国、いや世界中にばらまかれた放射性物質は、土地や食べ物を汚染しています。
またこの事故により、多くの人がそれまで隠されてきた「原子力ムラ」の悪質さを知ることとなりました。政府、官僚、電力、財界、さらには学界やマスコミも巻き込んだ巨大な利権システムは、あれだけの事故を起こしたのにもかかわらず、今でも「ムラ」を守るべくあの手この手を尽くしています。

そんな中、私たちが無関心でいた3.11以前から、この40年間ずっと原発そして原子力ムラと闘い続けてきた小出裕章さんが、一躍脚光を浴びました。
小出さんご自身は「自分がヒーローになるつもりは毛頭ありません」とおっしゃいますが、小出さんの発言によって、多くの人が「原発のウソ」に初めて気付いたのは間違いのない事実です。

反原発の小出さんには「原子力ムラが隠蔽しているデータ」は届きません。しかし、小出さんは、東電や政府などが発表する公式データを研究所で解析することによって、3.11以後の17ヵ月、プラントの実情と起こり得る危機を正確に発信し続けました。政府、電力がどんなに嘘を言っても、多くの事柄が結果的には小出さんの言った通りだった、ということはご存知の通りです。

なので小出さんは「データのあるところにいる」のを原則として、週末に全国各地で講演会を行うほかは、大阪熊取の京大原子炉実験所にいらっしゃいます。また、各メディア(マスメディアからネットメディアまで)の取材も殺到していますが、原則として京大原子炉実験所での1~2時間の取材にされています。

今回の企画は、そんな多忙な小出さんに一晩付き合っていただく、という3.11後初めてと言える集まりです。

最近は少しずつ変化が見られますが、それでもほとんどのマスコミは「御用メディア」に成り下がっています。
そんな中、力を発揮したのがネットメディアでした。
そこで今回の企画には、ネットメディアの中でも、個人で活動され大きな影響力を持つ方々に参加の呼びかけをしています。

また、政治的な意見が違う方でも「反原発」で共闘できる方、小出さんの専門分野とは違う領域で原発問題を考えている専門家の方にもお声がけしております。

と、まあ堅苦しく書きましたが、
言ってしまえば「オフ会」です。

温泉旅館で一泊し、畳であぐらをかいて、小出さんと一緒に酒を飲みながら、原発について、あるいは日本の社会、システムについてだらだら語り合う会です。

私たちは今、横の連携を必要としています。
小出さんを囲んで、核物理学以外の専門家、個人で闘っているブロガー、そしてもちろん、原発問題に取り組むすべての人たちが、建前論ではなく本音でだらだら話し合うことが必要だと思っています。

なので、この集まりの様子はネットで完全生中継し、アーカイブします。当日参加していただける人数には限りがあるのですが、ネット配信によって、その場を多くの人と共有していきたいと思っています。

キーワードは「だらだら飲みながら」。
そんな場でこそ、次の一歩へのヒントがあるような気がするのです。

参加者のみなさまには、ぜひとも濃い一晩を過ごしていただきたいと思います。


僕が言うとたいしたことなさそうですが、じつはかなり貴重な企画ですよ。

撮影クルーもかなり本格的です。
もちろん、見逃した人にはアーカイブします。

「ざまあみやがれい」のページhttp://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65823121.htmlからは、みなさんがオンラインでリアルタイム参加することもできるはずなので、いろいろ意見も聞かせてください。

ちょっとバタバタしていてブログ更新できていませんでしたが、それはまた、来週くらいね。