雑談。原発関連は後半だけ。 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

雑談。原発関連は後半だけ。

久しぶりの更新にもかかわらずこんな調子で申し訳ないのだけれど、タイトル通り今夜は雑談。つまんないよ。
原発話はこんどまたちゃんと書きますから。

twitterで何か書いてもだいたいがタイムラインの中に埋もれてしまうので、同じtweetを自動送信してくれるサービスをやってみた。(「クラウド型 twitter多機能管理サービス「ツイ助。」」(http://www.twisuke.com/))。
だけどそうするとさあ、連動しているfacebookにも同じ記事が並んでしまう。
うざいなあ。

そういえば思い出したけれど、6月に発売された『機械より人間らしくなれるか?』(http://p.tl/GiUc)という本はなかなか面白くて、「人間ぽい人工知能」を競うチューリングテストの話。

僕は理系のことはまったくわからないのだけれど、哲学の領域でも近年「心の哲学」というのが大きな問題となっていて、まあ簡単にいってしまえば「心とは何か」という問題なのだが(僕的には「何か」と問う前にそもそも「心なんて存在するのか」という問いを立てたいのだが)、理系的にももちろん数学、論理学、コンピュータ工学、あるいは脳科学まで、「心」の問題を最先端の問いとして扱っているわけだ。

経験科学的に「心の理論」を構築できたとしよう。すると、それを工学的に(技術的・現実的に)形にする技術があれば、「心は複製可能」ということになる。
たぶん、そういった意味での「心の複製可能性」とういうのは、それほど遠くない将来に実現できるだろう。

もちろん、科学なんて言うのは所詮帰納的推論に過ぎないわけだから、そこに「絶対」は論理的に、ていうか定義上存在しない。
つまり、これまでの歴史の中で人々が「心」とか「魂」とか呼んでいた「何か」とまったく同じものが科学の力でできると考えるのはたぶんまったく間違っている。
だけど、ほとんどの人を「こいつはロボットじゃなくて人間だ」と、騙せるようなレベルの「心」は、まあ簡単に作れるようになると思う。

そのときに浮かび上がるのが人称問題であったり観測問題であったりするわけだが、それは今度ね。

で。

「心の哲学」の話(文系)の入門書にも、「人工知能」の話(理系)の入門書にも必ず書いてあるチューリングテストというのは、人工知能がどれだけ人間ぽく会話できるか、という実験、ていうか人工知能のコンテストだ。

簡単にいえば、ジャーナリストとか心理学者とか科学者とか、そういった疑い深い人々が何人か呼ばれて、何人かの相手と会話をする。
その会話の相手は、人間もいれば人工知能もいるというわけで、疑い深い人たちは自分が会話した中で、誰が人間で、誰が人工知能なのかを推測する。
で、多くの疑い深い人を上手く騙して「こいつは人間だ」と思わせた人工知能が勝ちになるというわけだ。

この実験では肉体性は関係ないので、会話はコンピュータをつかってチャット形式で行われる。
もちろん、人間の会話というのは(コンピュータの得意とする)筋の通った論理的な話ばかりではない。というかむしろ論理的な話なんかはほとんどない。
突然話題が飛んだり、感情的になったり、相手と意気投合したり、まあそういうのが人間の会話だ。
そんな話にも対応できるのが「いかにも人間的」な人工知能ということになるわけで、さらにそれが、相手(人間)を思いやったり、相手の琴線に触れることを言ったりしたら、こりゃまあ、みんな「彼」は人間だ、と信じてしまうよな。

そんな人工知能のことをbotという。
「ロボット」から「ロ」を取った「ボット」だ。

今や、世界中の多くの人たちがtwitterやfacebook、SkypeあるいはそのほかのチャットサービスなどさまざまなSNSを使っているけれど、じつは現実にその中にもたくさんのbotが紛れ込んでいるんだよ。
で、botと会話するうちに相手に恋しちゃう人もたくさんいるんだな、これが。
ちょっと親切な言葉をかけられたりすると、ころっといってしまう人がじつに多い。
相手は人工知能だと気付かずに告りまくり口説きまくる。そんな人も大勢います。
あなたは大丈夫ですか?

ええとなんでこんな話になったんだっけ?

自動tweetの話だった。

僕が試してみた「クラウド型 twitter多機能管理サービス「ツイ助。」」(http://www.twisuke.com/)というのは、確かに自動的に同じtweetを発信してくれたりはするのだけれど、「1時間ごと」とかそういう「決まったスケジュール」を設定するしかない。
これはまだbotとは呼べんなあ。

「もし僕が365日24時間twitter見てたとしてら、きっとこのタイミングでこれをtweetしたくなるだろう」ということまでやってくれて、初めてbotだ。

僕は哲学的、ていうかわかりやすくいえば「考え方」の次元ではコンピュータやネットワークのこともいろいろ思い浮かべるのだけれど、現実的なネットリテラシーは恐ろしく低いので、ていうかていうか面倒くさくて「リアルなネット」にはあまり関わらない。
だから僕が知らないだけで、もっと「botな」twitter連携ザービスがあるのかもしれないけれど。

ここまで書いたとこで、テレビで「ETV特集 シリーズ チェルノブイリ原発事故・汚染地帯からの報告 第1回(再放送)」が始まったので見てしまった。

僕はずっと東京に住んでいて、土地にも組織にも帰属意識をほとんど持たずに生きてきたのだけれど、ベラルーシでは、チェルノブイリ事故の居住禁止区域のすぐ隣で「いつかこの土地で食べ物を作りたい」と頑張って農業をしている人たちがいる。
そこで問題となっているセシウム137やストロンチウムの半減期はどちらもだいたい約30年で、チェルノブイリ事故からは26年経っているから半分近くに減っているはずなのだが、それでも人間が食べられる基準にはまだまだならない。
だけど彼らは、「孫やひ孫の代には」と思って農業をしているのだ。

僕には申し訳ないけれどそのリアリティはわからない。
でも、「そこにこそリアリティがある」人たちがいるわけだ。

そいえば福島第一原発地元の大熊町では「5年間、住民帰還せず」ということになった。(http://www.jiji.com/jc/eqa?g=eqa&k=2012092100428
そこで、「福島民報」紙などでは「5年は長すぎる」「古里を捨てたくない」といった村民の声を伝えているが(http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2012/09/post_5074.html)、大熊町では昨年の年間積算被曝量が800ミリシーベルトを越える地点もあった(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-10998843161.html)。
かなり甘めに計算して、仮に800ミリシーベルトの70%がセシウム134などの「半減期2~3年以下」の放射性物質で、残りが「半減期30年」レベル以上(セシウム137とか)にしてみよう。
で、これもかなり甘く見積もってその70%は5年経てば消えているとする。
ところが、そんな甘い計算をしたとしても、30年経ってもまだ年間120ミリシーベルト被曝する地域が残ってしまう。
「5年間帰れない」などという甘い問題ではないのだ。
少なくとも数百年単位で、捨てざるをえない土地があるのだ。

こんなことを言うと怒る人もいるかもしれないけれど、「古里」というのは後先の短い爺さん婆さんばかりが住んでいても駄目であって、子どもが生まれ育っていかなければならない。
その意味で言えば、最低でも数百年経たないと「古里」は再生できない。
大熊町にはそんな最低数百年間回復不能な土地があると言うこと。
それは事実として受け入れなければならないと思う。
5年なんていうのは詐欺である。

そういえば、未だに政府のいうように「福島第一原発は廃炉にして更地に戻す」ということを信じている人も多いみたいだけれど、あそこを更地にする技術や経験を、人類は持っていない。
10年以上かけて燃料プールから核燃料を取り出して、あとはチェルノブイリのように石棺にするしかないと僕は思う。
たぶん、僕が生きている間に見ることができるのは、良くてそこまでだ。

おっとまた原発話になってしまった。

9.11に行った「小出さんとだら飲み温泉オフ会」の様子は、ユーストでアーカイブされています。

http://www.ustream.tv/recorded/25332254
http://www.ustream.tv/recorded/25333597
http://www.ustream.tv/recorded/25334860
http://www.ustream.tv/recorded/25336609

今だから言いますが、場所は京大原子炉実験所からクルマで20分の犬鳴温泉。
17時30分に京大原子炉実験所に小出さんを迎えに伺って、18時からは缶ビールを飲みながら露天風呂、19時から6~7時間の長丁場ユースト生中継となったわけですが、じつに良い集まりでした。

翌日、小出さんにお礼のメールを送ったのですが、その返信を紹介します。

楽しい集まりでした。  小出

鹿島さん

 おはようございます。
 一昨夜はすっかりお世話になりました。
 調子に乗って飲みすぎはしましたが、楽しい集まりでした。
 
 参加してくださった皆さんが、それぞれの個性的で力がある方々で、私ももっとやらなければと思いました。

 お元気で、ご活躍ください。

                        2012/9/13  小出 裕章


「私ももっとやらなければと思いました。」だって。
何をおっしゃる小出さん!
小出さんの40年間の活動に、我々がどれだけ力づけられたことか。


ええと。

ほんとうに今夜は雑談です。

2ヶ月以上前なのだけれど、「もちろん原発はないほうがいいけれど、今の日本や世界のことを考えたら仕方ないのではないか」という方から丁寧なメールをいただいて、その反論を書かなければと思っていました。
政治、経済、社会、文化etc.あらゆる方角から考えて、原発を肯定できる理由はひとつもない、ということを書こうと思っていたのですが、ごめんなさい、それを書くのはかなり体力の要る仕事で、また今度にさせてください。
酔っ払ってべらべら喋るのであればいつでもできるのですが、それとはきっと違うので。

さて。

金曜日のデモは、反原連の官邸前抗議集会が20時に終わると、多くの人がぞろぞろと霞ヶ関方面に歩いてくるので、経産省テント広場のあたりで知り合いに会える。
先週(21日)も結局デモ後6人くらいで飯(僕はビール)に行ったのだけれど、みんなだんだん疲れてきている。
つまり、不毛な闘いに思えてくるのだ。
30年前に、闘うことの不毛さにお手上げして資本主義者になってしまった僕は、今度こそ本気で闘おうと思っているわけだけれど、それでも疲れてくる。

でも気を取り直す。

こう言うことを言うと怒られるかもしれないけれど、我々の求めている全原発の速やかな廃炉は、今すぐには無理かもしれない。
だが、権力の中枢が存在する永田町、霞ヶ関では、今や「抗議が日常的」な状況になっている。

あのあたりはもちろん繁華街ではないので、金曜の夜だってほとんど人が歩いていないのが当たり前の光景だったのだ。
ところが今は、金曜の夜は人だらけだ。
渋谷センター街の人混みよりはずっと人口密度は低いけれど、目黒のメインストリート権之助坂くらいの人通りはある。
集会に参加してシュプレヒコールを挙げている人だけではなく、なんとなくテント広場前にたむろしている人や、ちょっと離れたところで一服している人、ギターを弾いて反原発ソングを歌っている人など、さまざまな人がいる。

これはとても大事なことなのだけれど、反原発の意思表示は人それぞれだ。
首都圏反原連のやり方がおかしいと思う人もいるし、かといって経産省前の火焔瓶テツさんにも同調できない人もいる。
それでもやっぱり、金曜日の夜は集まってくるのだ。
勝手に歌を歌ったりビラを撒いたり人々に話しかけたりしているのだ。

要するに、権力中枢の地が解放されようとしているのだ。

権力は(現場を仕切る警察も)その意味にまだあんまり気付いてはいない。
彼らにとって一番怖いのは、「組織化された組織」ではなくて、「だらだらやってくる連中」だということがわかっていない。

だから僕も、あんまり悲観ぜずに、だらだら闘おうと思っている。

いずれにしても今夜も泥酔なのですが、あと、関係ないけど今は、いきなり勃発した現実的な問題にどう対応するかということと、レスの来ないメールについて心配しています。

昨夜CXでやっていた「東北ライブハウス大作戦」の番組を観てしまい、なんとなくいろいろな曲を聴きながらyoutubeをぐるぐる回っていたら、なぜか辿り着いたのが南佳孝の『スローなブギにしてくれ』。
1981年の曲。

あれから30年だよ。
この悲しみがわかるかい?