科学と経済学 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

科学と経済学

昨日(土曜日)はほんとうは、「ざまあみやがれい」(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/)さんの月次オフ会に行くつもりだったのだ。
真面目な話はパスしても酒の入る二次会以降はずっと皆勤賞だったのに、9月からなんだかとても仕事が忙しくなって、9、10月と参加できなかったので、今月こそは行こうと思っていたのに、急な仕事でバタバタとしてしまった。
まあ、僕が行かなくても誰かが寂しがったりするわけではないけれど、仕事絡み以外でいろんな人と話をしたかったので残念。
来月はきっと行きます!

というわけで、ノートパソコンを持ち込んで、最初はコーヒーショップ、最後は居酒屋でカチャカチャ仕事をしていたのだけれど、途中で本屋に寄ってしまった。

買ったのに読んでいない本がたくさんあるので本屋に行くのはそれを全部読み終わってから、と決めていたのに、仕事をしていると苛々するので、どうしても気休めに本屋とかに入ってしまう。
で、なんとなく気になった本を買ってしまうのだけれど、一日で読める軽いものにしておこうと、昨日買ったのは新書二冊。
科学と経済学。

これがじつは、僕が立ち向かうべき(と自分で考えているだけだけど)ふたつの大きな問題なのであった。

もちろんどちらも、具体的な問題や詳細な議論については、僕がちょっと本を読んだくらいでは専門に勉強してきた人にかなうわけがない。

ただ僕としては、具体的な議論はともかくとして、「そもそも論」として科学や経済学の正当性(あるいは正当性の限界)を問いたいのだ。

科学については、「科学哲学」と言われる学問の領域もあって、一時期少し勉強した。
これは、東大の物理学を出たあと哲学に入り直した、僕の尊敬する現代日本の哲学者、故・大森莊藏さんが、執拗なまでに「科学」を問うていたから、というのが大きい。

ちょっと横道にそれるけれど、「色」というのはモノに当たった光の反射を網膜がキャッチしてそれを情報として脳に伝えたもの、ということに科学ではなっている。
だから、同じモノを見たとしても、赤い光が当たっているときと青い光が当たっているときとでは、人には違う色に見える。
アンド(&だよ)、光というのは、可視光線ということばがあるように、人間に見える光と見えない光とがある。
でも。
だとするとだよ。
そもそもモノに「色」なんてあるのだろうか?
とても雑な言い方になるけれど、「色」なんて、人間が、脳に入ってきた情報を都合の良いようなことばにしているだけなのではないのか。

3年くらい前だけれど、東大で視覚を科学的に研究している人の講演会があったので、僕はこの質問をするために出かけていった。
で、講演が終わったあと、僕はその教授(だったか名誉教授だったか、とにかくその分野の第一人者の方)のところに駆け寄って、さっき言ったような話をして、
「ということは、モノにはそもそも『色』はない、と言って良いのでしょうか?」
と尋ねた。
その先生は、5秒くらい考えたけれど(たぶん僕の理解度を探っていたのだと思う)、
「そう言って良いです」
と答えた。

ほらそうだ。
思った通りだ。

言っておくけれど僕は別に、「モノに色はない」という科学の考え方を否定するわけではないよ。
つまり、「科学のことば」には、我々の日常言語(普段話していることば)と、別のルールがあるのだ。(完全に別のことばだと言っているわけではない。この話は長くなるのでしないけれど)

でもさあ、モノに色がないとしたら、世界は無色だということになる。
想像できるだろうか?
想像しようとすると、一面灰色とか、一面黒を思い浮かべてしまうけれど、それとはまったく違う。つまり、灰色や黒さえない。

何が言いたかったのかと言えば、要するに「科学のことば」というのはそういうものなのである。
それが正しいとか間違っているとか、そんな問題ではない。そもそもそんなことを問うこと自体が間違っている。
単にそういうものなのだ。

だからこそ、「科学のことば」すなわち「科学」には、自ずと限界がある。
その底には、完全を立証できない数学的な理論と有限回の経験的な事実しかないのだから当然なのだけれど。

例によって酒を飲みながらだらだら書いていたら間延びして面倒臭くなってきた。
あと大事なことは、
「科学では決して正義を語ることはできない」
と言うことなのだけれど、これは昔の記事『311以後、しばらくぶりに哲学に戻る【その2】』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11157697411.html)とか、『論理学、数学、そして「駄目な人」「弱い人」。』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11176701522.html)とかを読んでください。

一般向けの科学哲学の最近の本としては
とか。

この本のことはブログで書いたつもりでいたけれど、検索しても出てこなかった。
書かなかったのかな。

いずれにしてもさあ、「科学技術は発展させるべきだ」と言う人がいる。(科学と技術はまったく違うのだけれどここではそこに立ち入らない)
そんな人が「だから原子力は続けるべきだ」などと言う。
夢でも見ているのではないかと思う。

確かに科学技術の発展で「便利」にはなるかもしれない。
でも、「便利さ」と「正さ」は違う。
「科学技術の発展で真理に近づく」というような命題など宗教的信念に過ぎないのだし、そもそも、もし仮にそうだとしても、それは「正義」や「善」の問題、すなわち、「善い社会」や「善い生き方」とは別な話である。

と、まあ。

科学については、思うところを少しは語れるのだけれど、経済はまるっきりわからないのであった。
ただ、経済成長を無条件に是として話をする人が多いので、それはやっぱり違うと思うので、経済学についても、その根っこを捕まえたいと思っている。

疲れてきた。
ていうか、今寝てたよ。

じゃあ。