311以後、しばらくぶりに哲学に戻る【その2】 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

311以後、しばらくぶりに哲学に戻る【その2】

前回、『311以後、しばらくぶりに哲学に戻る【その1】』という記事 を書いたのだが、【その2】で何を書きたかったのか忘れてしまった。

ええと、今回は原発には触れません。
だらだら長い哲学じみた話なので、どうぞスルーしてください。

さて。

「馬鹿」というのは、「無根拠」を受け入れられない人のことである。

学生時代だからもう四半世紀も前、僕はそう確信した。
最近、哲学の本などを読み返していて、やっぱりその通りだと思う。

たとえば、「水を熱していたら蒸気になった」というのは、今の科学では「水は1気圧のとき100度を超えると蒸気になる」という法則があり、なかには「それが根拠だ」と言う人もいて、そういうの(自家撞着)にいちいち文句をつけるつもりはない。
しかし、「水は熱すると蒸気になる」というのは、どこまでいっても経験から帰納法で導かれた法則にすぎない

世の中には数え切れない出来事があるが、その中で「もしかしたら、これとこれは関係あるんじゃないの?」というものもある。
つまり、Aという出来事が「原因」で、Bという「結果」になったのではないか? と仮定できるわけだ。
たとえば、水という液体に熱を加える(A)と、ある段階で気体になる(B)、ということが繰り返されれば、Aが原因でBという結果になったのではないかと経験的に推測できるわけで、そんな仮定に基づいて、次は実験をしてみる。
すると、何回実験しても思っていたとおりの関係となった。
これが、因果関係であり、「実証された法則」(α)である。

次に、Cという出来事のあとにDという出来事が起きる場合、CとDは直接関係ありそうにないけれど、「実証された法則」(α)を真だと仮定すれば理にかなう。そこで、何回も実験した結果、Cが原因でDが起こった、という因果関係(「法則αを前提とした法則β」)が実証された。
このようにして、法則γ、δ、ε、ζ…も、同様に法則とされた。

もちろん、ときどき、法則αと矛盾する実験結果や、そもそも法則α、γ、δ、ε、ζ…すべてが前提としている仮定が違うんじゃないの、という場合が出てくる。

前者の場合、たとえば、水を「これだけ」熱していると蒸気になったという法則αにもかかわらず、高い山に登って水を熱してみたらあっという間に沸騰した、では、山に登ったことで何が変わったのかと考えてみる。山は木が多いからなのか、宇宙に近いからなのか、頂上は周りの区間が広々としているからなのか…。
そうして試行錯誤し、いろいろ実験をした結果、気圧の差だと言うことがわかる。
そこで、法則αを修正して、法則α’とする。(「水は1気圧のとき100度を超えると蒸気になる」というふうに)

後者の場合はたとえば、「法則α、γ、δ、ε、ζ…」すべての法則の体系<Z>について、これはもしかしたら、今我々が生きているこの地球上で容易に測定できる出来事のみにしかあてはまらない「特殊」なものなのではないか。
そうやって、古典的な物理学大系<Z>は、特殊相対性理論であり、より普遍的な一般相対性理論<Z’>の中で消化されるわけだ。

量子力学というとちょっと僕には手に負えないが、乱暴に言えば「物の『位置』と『運動量』は初期条件で決定される」というのがそれまでの物理学だったのに対して、これを同時に測定することはできない、という考えだ。
完璧なピッチングマシンがボールを投げ出したとき、ホームプレート上でのボールの「位置」と「運動量」は計算し得る、というのがこれまでの物理学の考え方であったが、宇宙のような大きすぎる対象や、素粒子のような小さすぎる対象にはこれはあてはまらない(不確定性原理)、というわけだ。

また量子力学では、光や電子は、「粒」であると同時に「波」である。
一般的な言語(たとえば日本語)では、「粒」は物の一種であり、「波」は運動の在り方である。カテゴリーが違う。

カテゴリーが同じであれば「これは、リンゴであり、同時にミカンでもある」というのは現実的にも十分可能(リンゴとミカンを掛け合わせた果物はあり得る)だし、「粒であり机であり、パソコンでありミカンでもある」というのも、まったく可能である。(比喩で言っているのではなく、論理の可能性として正当である、ということ)。

ところが、「これは、『ミカン』でもあり『飛ぶ』でもある」というのは、意味のない文章だ(念のため言っておくけれど、「ミカンが飛んでいる」ということでは決してない)。文法的に間違っている。
つまり、「粒であり波である」というのは、我々の日常言語ではあり得ない存在の仕方なのである。

ところが、我々の日常言語を基に誕生し、発展した論理学、さらにそれを洗練していった数学。そこでは、「粒であり波である」ということが、文法的にも正しく表現し得る。
日常言語では恐ろしく不適当であっても、数式ではできるのだ。
もちろん、我々の言語である数学(日常言語ではなくとも)で表現された「仮定」が、実験の積み重ねで「実証」されれば、それが「法則」とされる。

科学の法則というのは、言語(日常言語から数学まで)で仮定された論理を、有限回の実験によって証明したものである。
ていうか、ただそれに過ぎない。

先月、名古屋大学とウィーン工科大学のチームが「量子力学の不確定性原理には欠陥があり得る」ことを、実験で証明し、ニュースになった。(http://mainichi.jp/select/science/news/20120116ddm003040063000c.html
何が大事なのかと言えば、「実験でわかった」ということである。

量子力学というのはある意味懐が深いというのか、なんでもありというところもある。
僕は昨日は横浜に行って靴を買い、中目黒でワインをちょっと飲んで徒歩で帰って、今、焼酎甲類に梅干しを入れて炭酸で割って飲んでいるのだけれど、横浜に行かなかった可能性もあるし、行っても靴を買わなかった可能性もあるし、横浜に行って靴を買ったけれど中目黒でワインを飲まなかった可能性もあるし、横浜に行って靴を買い中目黒でワイン飲んだけれど徒歩ではなくタクシーで帰った可能性もあるし…と考えると、「こうでなかった」可能性は無限にある。

この例は「昨日」という過去のことで、過去、現在、未来などという時間論を取り込むと話が複雑になりすぎるのでそれは無視して話をするが(ついでに言っておくと人の意志の問題もここでは棚上げする)、僕がもし昨夜ワインを飲まなかっただけで、世界の在り方はまったく違っていたはずだ。

「僕がもしワインを飲まなければ野田政権は崩壊しただろう」というような大袈裟な話ではないよ。「風が吹けば桶屋が」というような大層なことを言わなくとも、初期状態が同じなのに僕が今いる場所が1ミリ違っただけで、決定論的世界観は致命的なダメージを受ける。

決定論的というのは、古い考えの科学主義のことだ。
世界(もちろん地球上の国々のことではなく、人の脳味噌の中から全宇宙まで)は因果律に支配されており、Aという出来事が原因でBという出来事が起こるということの積み重ねであるとすれば、すべては予め決められている、ということになってしまう。

それに対して、「そんなことはないよ」と量子学は言う。
世界の認識というのは重ね合わせでしかありえない。ニュートン力学的なレイヤーだけではなく、ほかのレイヤーもいろいろある、ということだろう。
だから量子力学は、決定論ではなく確率論の話をすべきだ、ということにもなる。

それゆえ量子力学では「如何様にもあり得る」ということを全肯定した「多世界論」というのも成立する。
世界は分岐し、無限に存在するのだ。
SFのような話だけれど(それが真剣に論じられているというのが理論物理学の素晴らしいところだ)、そういう「多世界」世界観も可能なのだ。

でもなぜ、みんながそうは信じていないのかというと、これは実験によって証明されないからである。

現代の物理学は、高度な数学テクニックを駆使して理論を構築したりする。
なので実験が追いつかない。
実験をしようとすると、地下にもの凄く長いトンネルを作って、その中で素粒子を飛ばすとか、とてつもなくお金がかかる。
だから、毎レース、第四コーナーを回っても「理論」と「実証(実験によって実際にそうかどうか明らかにする)」のどっちが先にゴールするのかわからないような状況に常にあるのだ。
理論が先走ることもあれば、実験でそれが覆されることもある。

しかし、「論理」(仮定)は如何様にできても、それが実験で証明(実証)されなければ、法則にはなり得ない。

多世界論を鼻で笑う人もいるが、そういう人の大抵はくだらない常識に毒されている。
じつは多世界論、あるいは(話は飛ぶけれど)様相論、可能世界論というのはちゃんと洗練されていて、まったくもってもっともな話だったりするわけだ。
でも、実証(実験によって、あるいは事実によって証明)されなければ「法則」にはなり得ない。

僕の悪い癖は、前書きが長いと言うことだ。
いつも飲みながら書いているので、どんどん酔っ払う。

ここまで前書き。

で、本題。
を書く頃には酔いが回っていてまともな文章が書けない。
まあいいか。

いずれにしても科学というのは、仮定→実験→実証ということだ。
水の沸点から量子力学に至るまで、それは変わっていない。
「仮定」が「論理的にあり得る」としても、「実証」、すなわち「実験してみたら実際にこうだったよ」がなければ、仮定は仮定のままで、法則にはなり得ない。
みんなが信じている物の道理は、単に経験的にそうだった、というだけの話なのである。

その一番わかりやすい例として、科学を挙げたのであったが、そんなものは、たかだか経験に基づくものでしかない
仮定を立てて100万回実験しても同じ結果になりました、
という帰納的な事実にすぎず、1,000,001回目(百万一回目)に、まったく違う結果になるかもしれないという可能性を否定することは、科学には原理的にできない

これが科学の本質であり、宿命的な限界である。
「神」のような「絶対者」を信じていないのであれば当然である。

もちろん僕は、科学を全否定したりはしない。
つまり、科学そのものを「善」だ「悪」だというつもりはない。
だけど、いつだったか、自然科学をやっている人が
「世界(もちろん宇宙も含めて)にはそもそも秩序がある。我々はそれを一歩ずつ明かしている」
というようなことを言っていて、心の底から驚いた。
人間にはそんな力はない、という意味ではない
「世界(宇宙もすべて)にはそもそも秩序がある」なんて、なにを根拠にそんなことを言っているのだろう?
神を措定しない限り、それは言えない。

要するに、すべては無根拠なのである。

おっと。「馬鹿」と「無根拠」の話であった。

「無根拠」を受け入れ、正視することができるか?

それができないような奴が、ほんとうの馬鹿だ。
無根拠の深淵を直視できずに、何とか理屈をつける奴のことである。

前回(だったか)、ニヒリズムのことを書いた。
世の中には絶対的な価値なんかない。だからどうでもいいよ、と、すべてを投げ出す姿勢をニヒリズムのように言った。
これはちょっと違っていて、前回書いたときも、「相対主義を突き詰めればくだらないニヒリズムになんかならない」と言ったつもりだが、別のことばでもう一度書いておこう。

相対主義を突き詰めることができないような馬鹿、つまり、無根拠の深淵を直視できないような中途半端な奴が、現状を追認する自分だけを許し、へらへらと他人を馬鹿にしている。

僕には、哲学を語るだけの力はないし、ちゃんと哲学をしている人から見たら幼稚園レベルの文章だろう。
けれど、なるべく平易なことばで書こうと思っている。
「カントにおける物自体」とか「ヘーゲルの言う観念」とか言い始めると、知らない人はさっぱりわからないし、中途半端にわかっている人が自分の勝手な概念地図の中にそれを置いて語り始めると収拾がつかない。
だから、手に負えるところだけ書く。

でも、ここでは少しだけ専門的なことばを使わせてもらうけれど、僕が不勉強で知らないだけなのだと思うが、英米の分析哲学、もっとはっきり言おう、ウィトゲンシュタインの流れの哲学の中に、原発を止めるだけの力はあるのだろうか?

そんなことを言って笑われるかもしれないのは百も承知だ。
僕自身、大陸系の哲学に馴染めなかったのは、ことばの使い方もあるけれど、同時に、そんなことばで世界に現実的にコミットメントすることに、かなりに違和感があったからだ。

このブログのタイトル『語り得ぬものについては沈黙しなければならない』(Whereof one cannot speak, thereof one must be silent)は、ご存知のように、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の最後のことばである。
『論理哲学論考』は、明確な階層構造(ツリー構造)になっていて、
1 「世界とは、そうであることのすべてである」(僕が最も好きなこの翻訳は永井均『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書))から始まって、
1~7の第一階層の下に、1.xxxxのように、第五階層くらいまで連なっていたりする。

ところが、第一階層「7」だけは、
7 「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」(Whereof one cannot speak, thereof one must be silent)
以上、それだけである。下の階層はない。

こういうセンチメンタルな書き方をすると「馬鹿か」といわれるかもしれないが、ウィトゲンシュタインはずっと、「語り得ぬもの」を「語り得ぬ」としたまま生きて、死んだ。
それは、ことばの(端的な)外側だからである。

もちろんこれを「生き方」とイコールで結ぶことには、僕はかなりの抵抗がある。
でもそれでも、「ことばの(端的な)外側」のことなんか考えもしないような連中が牛耳る、つまり無根拠の深淵に立ち止まったこともないような馬鹿どもがしたり顔で(あるいはニヒルに)追認するシステムに対して、哲学が黙っていてはいけないとも思うのである。