物書きのはしくれ、鹿島潤のブログです。

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2015-12-24 01:33:46

「テロとの戦争」の先に平和はない。

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「テロとの戦争」ということばが、普通に言われるようになった。
ことばというのは時代とともに変わるものだから、この言い方が駄目だというのではない。ただ、これまでの「戦争」とはことばの意味が違うよ、ということは知っておかなければならない。

つまり、「これまでの戦争」というのは国と国との戦いであったのだ。
だから、敵国の指導者が「負けました。降参です」と言えば、そこで終わりになる。
70年前、日本は降参したわけだが、それゆえ、敵国の作った「ポツダム宣言」を受諾し、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約に日本の代表が署名して、それで許してもらった。
こうして、戦争は終わったわけだ。

ところが、「テロとの戦争」ではそうはいかない。
9.11同時多発テロ攻撃を受けた米国は「テロとの戦争」を掲げ、テロ組織アルカイダの指導者、オサマ・ビン・ラディンを暗殺した。
しかし、それで戦争が終わったわけでもなければ、アルカイダが消滅したわけでもない。
ていうか、イラク戦争を通じてもっと厄介な敵、自称「イスラム国」を産んでしまった。

というわけで、「テロとの戦争」に終わりはない。
だって、講和条約なんかないんだもん。だからそこにはそもそも、勝った負けたの概念すら存在しない。
「イスラム過激派を皆殺しにすれば良い」と言う人もいるかもしれないけれど、それは不可能だよ。殺せば殺すほど、そんな行為を憎む人たちが現れてテロは続く。

つまり、「テロとの戦争」には「勝利」もなければ「終わり」もない。
一度足を踏み入れてしまったら、二度と平和には戻れないのだ。

それが、「以前の戦争」と「テロとの戦争」の決定的な違い。
にもかかわらず、兵士だけでなく一般の人々が犠牲になるという点は、「以前の戦争」と変わらない。

だからもう、「テロとの戦争」とか誇らしげに言うのはやめにしないか、ということだ。

なんで今夜、こんなことを書いたのかというとさ、クリスマスというとジョン・レノンの『Happy Xmas (War Is Over)』を思い出してしまうからさ。

聴け。


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2015-11-22 00:48:15

対案を出す必要もないし、人権に義務は伴わない。

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一昨日の讀賣新聞、辺野古新基地建設問題に関する社説。
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20151119-OYT1T50003.html

例によって一から十まで、さすが安倍政権御用新聞と呼ばれるに相応しい主張なのだけれど、今回言いたいのはこのこと↓。

翁長氏は、辺野古移設に反対を唱えるばかりで、普天間飛行場の危険性除去への言及は少ない。菅官房長官が「翁長氏から解決策を聞いたことは全くない。沖縄県の関係者を含めた、これまでの努力を無視している」と批判したのは、理解できる。
(讀賣新聞11/19社説)

普天間の危険性除去は当たり前の話だ。
安倍晋三君も菅義偉君も「世界一危険な普天間」ということは認めているのだから、そもそもこれは論点にはならぬ。ゆえに、翁長知事がわざわざ言うべき話ではない。

にもかかわらずそんなことをぐちぐち述べるというのは、つまり、讀賣の社説は「辺野古が嫌なら沖縄が対案を出せ」と言いたいのだ。

「対案を出す必要なんてない」

たとえばさ、泥棒が家にやってきて「この金庫を盗まれたくなかったら対案を出せ」と言ったらどうだろう?
ふざけるなと言うことになるよね。

もちろん世の中には、対案を出さねばならない場合も存在するだろう。だけど、「反対するなら対案を出せ」というのは、すべての出来事に通じる普遍的な約束事ではないぞ。

辺野古の対案を沖縄が出す必要がないのは明白で、なぜならば、米国は普天間を泥棒のように奪っていったのである。「盗まれた金庫を返してあげるから代わりに宝石をよこせ。それが嫌なら対案を出せ」という政府の言い分はまったく筋が通らない。

「対案を出せ」問題は、安保法制でも同様だ。
泥棒に対して対案が不要なのと同様、違憲な法律に対案は要らない。ただ単に廃止すればよろしい。

なんていうのかさ、「対案を出せ」とかいう文言が一見もっともらしくて、「そうだよな」と思ってしまう人が多い気がする。
でも、「対案を出せ」的一般論は、決して普遍妥当ではない。

たとえば、「権利には義務が伴う」。
一見もっともらしい。試合に出場する権利を得るためには体重測定やドーピング検査が義務づけられているとか、「権利には義務が伴う」実例も多い。
だが、「基本的人権」には一切の義務は伴わない。言い方を変えれば、一切の義務が伴わないような人間の権利を「基本的人権」という。
つまり、基本的人権に対して義務の概念を持ち出すのは根本的に間違っているのだ。
社会的弱者に対して「自己責任論」などをぶちかます卑怯者は、よく考えたほうがいい。

それから、怠け者の僕は幼少の砌から「努力」ということばがものすごく嫌いだったのだが、そんな好き嫌いは別として、「努力は報われるべきだ」なんていうスローガンも、普遍妥当に値しないことはちょっと考えればすぐわかる。
だって、努力して鍵の構造を解明する金庫破りは報われるべきか? テロリストだって努力しているよ。

つまり、「努力」とは(「素早く」とか「だらだら」とかと同様に)副詞的なことばであって、それ自体に「善い悪い」の価値はないのだ。「善い悪い」を言うとすれば、その目的や行動に対してである。

さっきの讀賣社説の話だと、菅義偉君が「沖縄県の関係者を含めた、これまでの努力を無視している」と言ったそうだが、テロリストの努力同様、駄目な目的や駄目な行動であれば、そんな努力なんか無視されて当然だ。

ついでに言うと、「努力した人が報われる社会」というインチキスローガンを信じてしまっている人が多いからブラック企業がのさばるのだ。ワタミ創業者の渡邉美樹が「24時間365日死ぬまで働け」というスローガンを掲げていてさんざん槍玉に挙がったが、渡邉美樹に限らず、成功した経営者が自分の努力を自慢して従業員に努力を強いる例は数知れない。
でもさ、カネ儲けのために人を家畜のように働かせる奴の「努力」が報われることは善いことなのか?

もっともらしいスローガンこそ気をつけなければならないと言うことだ。

ちょっとばたばたしちゃってさ、ブログもお休みだったのだけれど、ときどきは書かなくちゃと思いました。
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2015-10-23 02:21:42

傾いたマンション問題とセックス・ピストルズ

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横浜市の「傾いたマンション」問題。

「報道ステーション」で杭打ちを行った旭化成建材の記者会見やってたが、彼らの言い分が、なんかものすごく変だった。
ニュース動画探したけれど見つからないので記憶で書くが、データ改ざんをしたとされる現場管理者に対して、旭化成建材の幹部クラス(要するに記者会見に出てくるような奴)が、
「彼は事務処理に関して雑なところがあった」
みたいなことを言っているのだ。

おいおいちょっと待てよ。
まるで、旭化成建材の幹部は「悪いのはその担当者で、自分だって被害者だ」と言わんばかりじゃないか。

データを改ざんしたとか嘘をついたとか、そういった個人の責任を問うことはもちろん必要だ。だが、「たまたま悪い奴がいて、そいつの責任だ」とさせてはならない。

ゼネコンの孫請けのような形で仕事をしている土建関連会社の人が、今回の事件について「フツーによくある話だろ?」と言っていた。
きちんとした裏がとれていないので具体的なことは書けないけれど、「工期を延長するなんてあり得ないからな」と言う。
たとえば、用意した杭の長さが足りないということが現場で発覚しても、工期を延ばし新しい杭を発注したりすれば、会社は儲けにならないばかりか大損で、やっていけないというわけだ。

つまり、今回の事件に関して言えば、会社(旭化成建材)が、担当者の首を切ったり彼に賠償を請求したり刑事責任を問うことはあるのだろうが、そんなことじゃ再発は防げませんよ、ということである。

もちろん、旭化成建材だけの話ではない。
個人を罰しても、システムが変わらない限り、再び不正をする奴がどこかの会社で必ず現れる。

これは、下請け孫請けといった利益配分構造の問題かもしれないし、業界で慣習化された別の問題が温床なのかもしれない。
いずれにしても、個人に責任を押しつけて一件落着としてはいけない。
問うべきは(社会)システムである。

なんだか、中学生に社会科を教えるような基礎的な話なのであるが、どんな事件でも「現場の個人や一部の跳ね上がり分子の責任」で片付けてはいけないというのは、何度でも再確認すべき問題だ。

いくらでも例は出せるけれど、たとえば「イスラム国」だってそうだよ。
米国は「イスラム国」の自称カリフ、アブ・バクル・アル・バグダディを暗殺するために毎日、ドローンを飛ばして空爆を行っている。
なので、ウサーマ・ビン・ラーディンのときと同様、いずれ米国はバグダディを殺すであろう。だが、これもウサーマ・ビン・ラーディンのときと同様、彼を殺したからと言って中東のテロがなくなるわけではない。
システムを根本的に変えていかない限り、すぐに誰か別の人物がテロ組織の主導者になるのは目に見えているのだ。
そうやって、蟻地獄にはまっていく。

ええとさあ。
この一週間くらい、なんかすごくバタバタしていて(あ、これは僕の個人的な話)、そうすると無性に、筆のゆくまま的テキトーな文章を書きたくなる。
今夜もその一環なので、雑な文章でごめんよ。

でも。「個人の責任」「組織の責任」「システムの責任」あるいは「国家の責任」「国民の責任」といった話は大変重要なので、今度時間があるときにきちんと書きます。
それに絡んで、「SEALDs奥田君はなぜスターなのか問題」といった、みんなが興味津々の話もきっとあるよ。

というわけで、悪いがここからは別件。

3チャン(Eテレというのは昭和の俺には今でも馴染まない…)の「ミュージック ポートレイト」と言う番組( http://www.nhk.or.jp/portrait/ )で、みうらじゅんさんと関根勤さんが、それぞれの「人生の10曲」を語っていた。これがまた、僕の琴線直撃なのでした。

みうらさんは1958年生まれで僕よりも5つ年上だけど、まあだいたい同じ時代を生きてきた人だと言える。
1980年代にイラストレーターとしてそこそこの成功を収めていたみうらさんだったが、「これでいいのかな」と自問していたという。

というのは、みんなにわかりやすく僕が翻訳したことばであって、番組でみうらさんはそこのことを、「俺はNo Futureの側じゃなかったのか?」ということばで語っていた。

ごめん、これは若い子にはわからないかもしれないのだけれど、思春期にSex Pistolsをリアルタイムで聞いた我々にとって「No Futureの側かどうか」は、己の生き方を考える上で決定的に重要な問いである。
今の子にもわかるように翻訳するのはとても難しいのだけれど、直訳すれば「お前はパンクか?」と聞いている。

俺は死ぬまでNo Futureの側にいたいぞ。
ていうか、じゃなきゃ生きてる意味ないじゃん。

酔っ払ったので今夜はここまで。

聴け。

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2015-10-09 00:09:31

「一億総活躍」を気持ち悪いと思うか? 思わないか?

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「一億総活躍社会」だってさ。

「自分で『私は活躍している』という人はいない。『活躍』というのは『あの人は活躍している』などというように、他人を『評価』することばだ」
というようなことを、どこで読んだか忘れてしまったけれど、誰かが書いていた。
まったくその通りである。

『活躍』というのは、自己評価ではなく他者評価。
つまり「一億総活躍社会」というのは、全国民に、政府の思惑通りにカネを稼いだり、子どもを教育したり、爺ちゃん婆ちゃんの世話をしたりしてほしい、という話なのである。

この前も安倍晋三君たちは「女性活用」とか言ってさ、「活用」ってその人を「使う側」のことばじゃん。それを指摘されて「活躍」に改めたんじゃなかったっけ?

要するに、本人のことなんかどうでも良いのである。「使う側」がどう「活用」するか、国がその人の「活躍」をどう評価するか。それが大事だというのが、安倍政権のまさに本質である。

前回のブログでも書いたけれど
安倍晋三君にとって「国民」とは、ひとりひとりが人格や尊厳を持つ他者ではなく、十把一絡げなのだろうと僕は思う。かつて左翼セクトが、信奉する思想に基づいて「階級」をひとまとめに「我々」と呼んだのとまるで同じだ。
ということだ。

僕はさあ、「一億総なんとか」というのはほんとうに気持ち悪いと思う。
だいたい「活躍」なんかしたくないのだ。
安倍晋三君に「君は活躍してるね」なんて言われるのは真っ平御免なのはもちろんのこと、誰にも「活躍」なんて思われなくてよいから、好きなことを好きなようにしていたい。

東京大学宇宙線研究所の梶田隆章さんがノーベル物理学賞を受賞した。
彼が行っているのは「基礎研究」である。つまり、「製品化」などの形ですぐに役立つ「応用研究」ではなく、もっともっと基本的なこと、考えの根底を問う研究である。
しかし、基礎研究はなかなか評価されない。「活躍」しているとは見なされないからだ。
梶田さんのように脚光を浴びる人は稀であり、基礎研究に関わる多くの人は暗闇の中で悶々と研究を続けている。

そういう話をすると、「今は大変でもやがて一花咲かせばいいじゃん」という人がいるが、それは間違っている。
10000人のうち9999人は、「一花」なんて咲かないのだ。
それでも、10000人が好きなことを好きなようにやっているからこそ、どこかで一輪の花が咲くのである。

「一花咲かすこと」や「活躍すること」よりも、ずっとずっと価値があるのは「好きなことを好きなようにやること」。

ていうかさ、繰り返しになるけれど「一億総活躍」なんてほんとうに気持ち悪いと僕は思うよ。
「人間には二種類ある」というありきたりの文言を使うぞ。
「『一億総活躍社会』なんて気持ち悪い、と思う人と思わない人」
これは、じつに核心を突いた線引きなのではないかな。

「一億総」にまとめられて喜ぶ人の神経がわからない。
理屈を言えと言われれば如何様にも語るけれど、それ以前に、身体中の毛穴からウジ虫が湧き出てくるような嫌な感じ。
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2015-09-25 02:11:50

SEALDsスピーチの主語「わたし」と、安倍晋三君の「わたし」はどう違うのか?

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高橋源一郎さんが朝日新聞の論壇批評に「2015年「安保」のことば 「わたし」が主語になった」という文章を寄せている。( http://digital.asahi.com/articles/DA3S11979946.html
SEALDsの子たちに代表される、若い人たちの安保法案反対運動が、一貫して「わたし」を主語にして展開されているという新しさについて書かれた短い文章だ。

そうそう、まさに同感!

SEALDsのデモでは、メンバーの若い子がステージに上がってスピーチをする。それはほぼ一人称で貫かれ、最後は「2015年×月×日、わたしは戦争法案に反対します」のように、個人の宣言でまとめられる。
これはやっぱすごい。

僕は1963年生まれなので、60年安保も70年安保も当事者として関わってはいない。ただ、高校生だった1970年代後半にも左翼セクトの残党みたいな奴らがいて、生徒会とか新聞部の対外的な活動の中でそんな連中にもしばしば接していた。
で、彼らが社会について語るときの主語は「人民」とか「我々」だった。
「我々」というのは一人称だが複数形だ。僕はこれには当時からものすごい違和感があったのだ。

つまり(まあ僕が安易に断じるわけにはいかないが)、昔の学生運動の「主体」は「我々」という「一人称複数」だった。でも、「一人称複数」ってなんだよ? 「我々」っていったい、誰と誰と誰のこと?
そう質問すると彼らは「学生や労働者階級や~~~」みたいなことを言ってくるのだが、果たして、そんな「我々」は実在するのであろうか?

結局のところ、マルクス・レーニンの思想で革命の「主体」とされたのが労働者階級であり、学生も階級的には労働者と一緒だよな、というような考えに基づいて、「我々」というのが、あたかも実体のある存在のように語られていたのである。

だが、これは断じて言っておかねばならないが、何らかの思想によって措定された「我々」など、単なる「後付け」にすぎない。
「我々」とは「わたし」がいて「あなた」がいて「彼」「彼女」がいて…というふうに、「わたし」から出発して広げていくべき概念である。階級論で規定された人々を「我々」と称するのは、逆立ちした考え方だ。

さっき書いたようにSEALDsの子たちのスピーチは必ず「わたし」が主語になっている。中心メンバーの奥田愛基君が参院地方公聴会で「私たちはこの国の在り方について、この国の未来について、主体的に一人ひとり、個人として考え、立ち上がっているのです」と述べたことからも( http://iwj.co.jp/wj/open/archives/264668 )、彼らが意識的に「わたし」「個人」として政治の問題を捉えていることがわかるだろう。
日本の社会運動の中で「わたし」がここまで戦略的に打ち出されたこと。それがまさに新しいのだ。

とはいえ、「わたし」「個人」という考え方は、近現代を通じて熟成されてきたもので、当然のことながらそんなに新しい考え方ではない。
西洋では独裁君主を打倒する戦いの中でその概念は明確化され、日本でも黒船後、天賦人権説、自由民権運動などを通じて広がっていった。
もちろん日本では明治大正昭和を通じて、輸入された西洋個人主義がちゃんと理解されない面もあり、だから「一億玉砕」みたいな馬鹿な戦争もやったのだけれど、現代の民主主義国家ではどこでも、「個人の尊厳」こそがその基盤として位置づけられている。

「個人」というのはまず「わたし」のことだ。だから「わたし」を主語に社会にコミットメントしよう、というSEALDsの発想は至極真っ当なのだが、日本ではそんなムーブメントが反権力運動として広く社会化されることはなかったのである。すごいぞ!

さて。

さっき「個人主義」と書いたが、このことばにはネガティブなイメージもつきまとう。「自分勝手」「利己的」というようなものだ。
たとえば、株転がしで巨額の富を得て「カネ儲けの何が悪い?」と開き直るような下品な連中がいる。彼らなんかはどう考えたって「自分勝手」「利己的」であるが、どうやらそんな新自由主義思想も「個人主義」をベースにしているようだ。
しかしそんな主張は、長い歴史の中で積み重ねられてきた「個人」の思索から都合の良いところだけつまんで「俺にはカネ儲けの自由がある」と強弁しているにすぎない。

そもそも「個人」の概念はどのようにして成立、成熟し得たのか?
歴史的には、独裁君主に抗うための「我々」の確立ということももちろん言えるだろう。
しかし、もっと大事なのは、この「わたし」を出発点にしたときに、家族、友人はもちろん、世界中のわたし以外の誰かも「わたし」と同様の人格や尊厳を持つ「他者」であるという認識の共有。
つまり、「〈わたし〉は、この〈〈わたし〉〉だけじゃない!」
ということが広く自覚されたとき、「この〈〈わたし〉〉もあの〈わたし〉も、同じ「個人」なのだ、ということになったということだ。
これが現代の民主主義、立憲主義を支える基本思想である。

だから、「俺が儲けて何が悪い」と弱者を踏みにじって平気な顔をしているような奴は、まあそれも「個人主義」の傍流だとは言えるけれど、現代の人権思想からは遠くかけ離れている。

ええと。
今夜はあんまり酔わないうちに書き上げたいなあ。

安倍晋三君だ。

先の大戦について、国会質疑でも「あの戦争は間違っていた」とは決して言おうとしない安倍晋三君だったが、戦後70年談話では嫌々ながら「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「お詫び」と言ったキーワードを盛り込んだ。
ほんとうはそんなこと言いたくなかったのだろう。まるで心のこもっていないその演説に、多くの人がそう感じた。
で、これまたみんなの指摘するところだが、あの談話には主語がない。
SEALDsの子たちのスピーチが、「わたしは」と一人称主語で語ることによって発言主体としての責任を明確化しているのとは対照的だ。まさに卑劣。みっともないったらありゃしない。

ところがそんな安倍晋三君が、一人称単数の主語で語ることもある。

「我々が提出する法律についての説明はまったく正しいと思いますよ。私は総理大臣なんですから」(5月20日国会党首討論)

これぞファシストのイカれたナルシシズムそのものだが、こんな大それたことを言えるのも「このわたし以外に尊厳はない」ともでもいうような「他者の否定」、すなわち「社会の否定」である。フツーのひとは恥ずかしくてそんなこと言えないよ。

あとさあ、安保法制案を正当化するに当たって何度も何度も「国民の命と平和な暮らしを守り抜くために必要な法制」と繰り返してきたが、僕が記憶する限りこの文脈の中で安倍晋三君は「国民ひとりひとりの~」とか「すべての国民の~」とか言ったことがない。

安倍晋三君にとって「国民」とは、ひとりひとりが人格や尊厳を持つ他者ではなく、十把一絡げなのだろうと僕は思う。かつて左翼セクトが、信奉する思想に基づいて「階級」をひとまとめに「我々」と呼んだのとまるで同じだ。

「美しい国」だとか「強い国」だとか言っているが、そんな漠然とした形容詞の奥にはものすごく不気味な国家観があって、その思想においては国民ひとりひとりの人格や尊厳などどうでも良いのだろう。
そういう考え方を全体主義という。中国や北朝鮮と同じだ。

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2015-09-19 10:12:32

【違憲法案可決】 それでも僕らはこんなに元気なんだぜ!

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14日から最大の山場を迎えた安保法制案の参院採決。国会前では連日、激しい抗議行動が続いた。
昼間から参加することはなかったけれど、僕も今週は毎晩参加した。もういい歳こいてるのでずっと立っているのはやっぱしんどい。そこで、夜遅めにやって来たり途中で一時離脱してネットカフェで2時間ごろごろしたり。みなさんごめんなさい。

ていうかさ、歳とると涙腺が緩む。
15日の夜は雨がざんざん降っていて、若い子たちがびしょ濡れになりながらもコールを続ける姿を見て、なんかうるうるきちまったよ。

僕はSEALDsの子たちの親の世代だが、日本をこんなふうにしてしまったのは我々の責任である。
高校生の頃はとりあえずマルクス主義なんかも勉強したのだが、ときは1970年代後半。僕はいろいろ手を出していたおかげで他の高校生よりは政治や社会のことを学んでいたつもりだったが、左翼セクトの連中にはうんざりだったし、民青も嫌だ。市民運動もセンスねえなあ。つーかマルクス主義もう終わってんじゃん、という感じで、1980年代に入った頃には、政治はもう語らないということにしていたのだ。
そうしてバブル時代も楽しく過ごした。
雑誌編集者として、お立ち台ギャルのパンチラ特集とか作ってたしさ、まだ20代のくせに会社のカネで一晩中ハイヤー借り切って青山や六本木で飲み歩いたりしていた。

だが、そんなふうに政治から目を反らしている間に、日本の劣化はどんどん進んでいた。そして、気付いたときには、立憲主義もポツダム宣言も知らない、小学校低学年のクラス委員程度の馬鹿が首相になって、嘘で固めた違憲法案を強行採決しようとしているのだ。

若い子たちにはほんとうに申し訳ない。僕には子どもはいないが、一晩中必死にコールを続ける若い子たちの姿に、何度も涙が出そうだった。

そしてついに、9月19日午前2時過ぎ。安保法制案は参院本会議で可決され、成立と言うことになった。

その瞬間僕は、デモ最前列、SEALDsがコールを行っているステージのすぐ横にいた。どうでもいい話だが、若い子はiPhoneばっかなんだなあと思ったのは、みんなネット中継で国会を見ているからタイムラグがあるのだ(iPhoneにはテレビ~ワンセグ/フルセグがない)。だから僕は、ステージの上の子たちに見えるようにスマホを掲げていて、それゆえ、可決のときの彼らの表情を間近で見ていたのだ。

泣き出したり悲鳴を上げる子もいるんじゃないかと心配していた。
しかし彼らはタフだった。すぐさま怒濤のコールが始まった。

今見る限り、「デモの参加者は怒りを露わにした」的な報道が多い。
確かにみんな怒っている。憤っている。
だが、報道に感じられる悲壮感はものの2分で消えていった、というのが現場のほぼ中心にいた僕がまさに身体で感じたことだった。

ますます元気が出てきたのである。
確かに採決の結果は出た。しかし、そこにあったのは打ちひしがれた悲壮感などでは決してなく、新たなスタートに立った人々の爽快な気分であったとも言えるだろう。

僕は運動家でもなく、3.11以後の反原発や反特定秘密保護法、辺野古新基地反対のデモしか参加したことはないのだけれど、参院本会議可決後から朝の5時まで2時間半、こんなにも晴れ晴れと力強いデモは初めてだ。

報道を見て暗く沈んでしまった人も多いとは思うのだけれど、デモの最前列は全然そんなムードじゃなかったよ。
ちょっとかなり眠いのだけれど、それだけは伝えようとパソコンに向かっているのである。

若い子たちが泣き出すんじゃないか心配したと書いたけれど、正直に言うと自分が泣くんじゃないかと思っていた。
だけど、若い子たちの迫力に、僕もどんどん元気が出てきた。こんなときにこんな気分になるなんて、自分でもちょっとびっくりだ。

つまり、負けたなんて思っていないのである。ていうか負けていない。

これで安倍晋三君はますます追い詰められることになる。
素直に国民の声を聞けばいいのに意地を張るから、火に油を注いでしまった。
この流れは止まらないよ。
安倍晋三君には、国民に怯えびくびく生きる日々が待っているはずだ。どんなに自己中でアタマの悪い安倍晋三君でも、国民をなめるとどうなるか、思い知らされるはずだ。
彼が祝杯を挙げていられるのも連休中だけだ。週が明けたら、その日何人の人々が採決後も朝まで抗議を続けたか聞いてみるんだね。数百人レベルじゃないよ。爺ちゃんの岸信介が国民の抗議を受けて退陣したのに対し、安倍晋三君は居座るつもりだが、それがどれだけ無謀なことかわかるはずだ。
世論調査でもきっと、内閣支持率は危険水域と言われる20%台を叩き出すだろう。
つまり、国民の支持を得られない自衛隊の海外派兵なんかできっこないし、違憲訴訟の準備もすでに始まっている。

現場の感じというのはいないと伝わらないかもしれないので、ほんとうは映像をアップしたかったんだけど、眠くて今は無理。ずっと撮っていたので今度時間があったらね。

そのかわり写真を一枚。
採決2時間半後の午前4時47分。
僕らはみんな、こんなに元気なんだぜ。

2015年9月19日午前4時47分
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2015-09-17 07:16:14

【安保法制案強行採決阻止】 集まれ! 僕らの声は届くのだ

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国会前のデモは結局朝の5時まで続いたので声がガラガラだ。
まあ、20代の子たちほど体力のない僕は、途中二時間ほど赤坂のネットカフェで休んだあと、セブンで差し入れ買ってタクシーで国会前に戻ったという軟弱なオッサンなんだけどさ。

さて。
「デモなんか意味がない」とか「国会議事堂に声上げてどうすんの?」とか言う人がいる。直接行動による民主主義の実現というのをまるで理解していないわけだが、その話は長くなるので今はやめよう。

SEALDsの奥田愛基君が言ってたこと。
「以前は野党の議員と話をしても『どうせ強行採決で決まっちゃうよ』みたいな感じだった。だけど今夜は、野党議員が身体を張って強行を阻止している」
そう、野党議員もだらしなかったのだ。数の力で負けるに決まってると諦めていたのだ。
だが、彼らの気持ちを変えていったのが、まさに民意である。
世論調査の結果などはもちろん、連日行われる国会前のデモが、寝惚けた野党議員を目覚めさせた。これは間違いない。

昨夜、国会前では「安倍は辞めろ」「強行採決絶対反対」など、いつものシュプレヒコールに加え、「野党は頑張れ」コールが鳴り響いた。
国会の中でも、その声はちゃんと聞こえている。野党議員のtweetには「聞こえています!」が飛び交った。

こんな状況の中で、野党がだらしない姿を見せるわけにはいかないだろ? こっちは雨の中びしょ濡れになりながらも声を上げているのだ。
また、与党議員といえどもマトモな神経を持っていれば、そんな状況の中で強行なんかしたくないはずだ。

いいかい?
僕らの声は届くのだ。

本日も国会前抗議行動は続きます。
一度来てみろ。

国会前での注意事項としては、無理をしないこと。
18時~21時くらいはものすごい人で、前のほうは身動きできないくらいになる。ぎゅーぎゅー詰めだ。だから自信のない人は無理して前に来ようとしないこと。
また、昨夜も逮捕者が10人以上出た。現場に来ると警察の過剰警備にムカついて、ついつい熱くなりがちだが、敵は目の前の警察官ではない。落ち着こう。
警察官も熱くなっていて、「部隊は下がれ」の命令を聞かない馬鹿マッチョも多い。車道封鎖を無理して決壊させようとしないこと。最前列近くの車道側は特に荒れるので、内側を歩こう。

昨夜は、参院での採決はおろか、委員会での締めくくり質疑の開催も、その前に行われるわずか10分間の理事会も阻止された。

もう一度言おう。
僕らの声は届くのだ。
集まれ!
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2015-09-16 04:11:58

【安保法制案】 反対を表明しないのは賛成と同じである。

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東日本大震災のときの海上自衛隊の災害派遣活動とその後を追ったドキュメンタリー作品『ポセイドンの涙』は、3月の「ヒューマントラスト渋谷」での上映を皮切りに、大阪、広島、長崎など各地を回り、いよいよ9月19日からの二週間、キネカ大森(東京 http://www.ttcg.jp/cineka_omori/ )での上映が劇場公開の最後となる。

僕と、大島孝夫さんの共同監督作品だ。9月26日には劇場での登壇も監督登壇も予定されているから、時間があったら見に来てね。( http://www.is-field.com/poseidon/

撮影期間中は海上自衛隊の隊員たちにまさに密着していたのであった。自衛隊のドキュメンタリーはいろいろあるが、居酒屋で酒飲んでる隊員の本音を撮影したような作品はほとんどないぞ。

この作品では海幕広報に全面協力していただいた。だから市ヶ谷の防衛省にもたびたび足を運び、空港のようにX線による手荷物検査と金属探知機を受けてから重要施設にも出入りしていた。各地の基地でカレーライスも食べたし、艦内での撮影では機密とされる計器類などが映らないようカメラアングルも考えた。(軍事に機密事項があるのは当然である。だが、為政者の好き勝手に秘密を定め、しかも未来永劫開示しないというのが特定秘密保護法の問題である)

というわけで僕は自衛隊が、というか自衛隊員の人たちが好きなのだ。

みんないい人だったよ。
海幕広報の担当者Sさんや共同監督の大島さんは、撮影現場で隊員たちの話を聞くたびに泣いていたが、作品至上主義で冷徹無比な僕にしてみれば現場で泣くなんて考えられなかった。
ところが最後の撮影で恥ずかしながらついに泣いた。隊員たちの災害派遣活動に、ほんとうに心打たれるものがあったからだ。
まあそんな気持ちがどこまで伝わるかはわからないけれど、ぜひ見に来てね。9/19~キネカ大森( http://www.ttcg.jp/cineka_omori/ )で最後の劇場公開だ。

と、宣伝を行ったのも、僕の考えていることをあらためてきちんと伝えたほうが良いと思うからである。

馬鹿なネトウヨとかがさ、「安保法制に反対するのは自衛隊嫌いなサヨク」とか、もっとひどいのになると「支那の手先」とか、愚にもつかないくだらないことを言っているが、お前らもうちょっとちゃんと考えろ。

昨日は参院の公聴会で「SEALDs」の奥田君がまさに的確な発言をしていたのだが、ニコ生中継を見ていたら、馬鹿どもが「中国に帰れ」とか言っていた。ほんとうに糞のような連中だ。他人の悪口言うのなら自分の名前も晒せよな。

僕は奥田君とかの父親のような年齢だが、SEALDsに賛同し応援したくて、7月からは皆勤賞で国会前のデモに参加している。
ていうか安倍晋三君の安保法制案は、まるでお話にならないからである。

これはいろんな人が言っているので今更書かないが、安倍晋三君のやろうとしていることは民主主義、立憲主義の否定であり、独裁そのものだということだ。
国際政治学者とか名乗る安倍晋三君のお友達連中は、中国の脅威とかを持ち出して「現実を見ろ」と言う。まるで安保法制案に反対するのは現実が見えていないかのごとき物言いだ。
しかし、はっきり言っておきたいが、安倍晋三君が目指しているのは「現実の独裁」だよ。中国に対抗するためには独裁政治も許して良いと言いたいのだろうか?

僕は、安全保障の議論はきちんとすべきだと考える。憲法9条は素晴らしいが、国民投票の結果改正するのならそれも良かろう。
だが、安倍晋三君が目論む卑怯な解釈改憲は断固許されない。

『ポセイドンの涙』の撮影で多くの自衛隊の人と話をした。階級もさまざまだ。人間的に素敵な人、人格者がたくさんいた。
彼らは、万が一日本が不当な武力攻撃を受けた場合には、命がけで闘ってくれるだろう。
津波や洪水と言った自然災害でも身の危険を顧みず救助に当たるだろう。
僕は、自衛隊員のメンタリティは、そんな人道主義だと信じている。それが、これまで60年、誰ひとりとして殺すことのなかった、世界に誇る日本の自衛隊である。
だからこそ、安倍晋三君やその極右仲間の利己的国粋主義で、自衛隊員を戦地に送るな、と言っておきたい。

さてと。
酔っ払ってきたのでそろそろ本題を書かねばなるまい。

安倍晋三君の身勝手な安保法制案は今日(16日)にも参院委員会で強行採決されようとしている。
すべての世論調査で圧倒的過半数が今国会での成立は駄目と言っているにもかかわらずだ。

でね。
言いたいのはこれだ。

みんな、反対なら態度で示してくれよ。

気持ちは反対だけれど何も言わない何もしないというのは、結果的に現状追認、つまり賛成としてカウントされてしまうのだ。

僕は、政治的な問題のすべてに国民が意志表示すべきだとは考えない。政治家や役人に勝手にやらせたほうが良い問題が大半だ。
しかし、国のありかたの根本に関わる問題は別である。
安保法制がまさにそれだ。

自民党が選挙で勝ったからと言って、国民は「全権委任」「白紙委任」はしていない。

だから、自民党支持者や公明党支持者であっても、「景気のことを考えて投票はしたけれど、安保法制案は違うんじゃない?」と思うのならば、きちんと表明しなければならない。
それをしないと賛成だと見なされるぞ。心の中で「反対」と思っているだけでは駄目なのだ。

デモに参加するのもいいし、SNSで「いいね!」するだけだって良いのだ。

思ったことは堂々と口にできる。それが日本という国の素晴らしさではなかったのか。
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2015-09-14 03:11:14

馬鹿で卑怯な安保法制答弁~分析なき「総合的判断」の非論理性

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安保法制案はそもそも違憲なのだが、それをさておいても悪法である理由のひとつは、まるでザル法だからだ。歯止めというものがまったくない。

安倍政権の嘘や馬鹿っぷりは戦後最悪であるが、仮に彼らが言っている「自衛隊員のリスクは増大しない」とか「米国の戦争に巻き込まれることはない」とかを信じるとしよう。
ところがどっこい、この法案が通ってしまうと、未来の政権が何をしでかすかわかったもんじゃない。

安倍晋三君や日本会議の仲間たち、あるいは法案に賛成な人たちはそのことを理解しているのだろうか?
今はいい気になっている安倍政権だが、安保法案、TPPの失敗、改善しない景気、消費増税、進まない被災地復興、戻らない拉致被害者、原発再稼働、普天間新基地問題などなどで、実は虫の息だ。長くは続かない。
ヒロイズムに酔っているだけのアタマの悪い裸の王様、安倍晋三君は気付いていないのだろう。君は、自分にだけでなく今後成立するあらゆる政権に、好き勝手を許そうとしているのだよ。いつの日か極左政権ができるかもしれないが、安倍晋三君は、誰であれ未来の権力者に「戦争の自由」を保証しようとしているのだ。

昨夜はNHKスペシャル「緊急生討論10党に問う~どうする安保法案採決」を見た。
自民党からは高村正彦君が参加していたのだが、民主党や共産党に細かいことを突っ込まれると、国会審議同様に「総合的に判断して云々」を繰り返している。

さて。
「総合」の対義語はなんでしょうか?
意外とみんな知らないのだけれど、答は「分析」だ。

でね、「総合」と「分析」の関係の話を始めるとものすごく大変な哲学の話になってしまうので、大雑把に言うよ。

「分析」をする人がなぜ「分析」をするのかというと、どこかで「総合」したいなあと思っているからである。
たとえば、地震のデータを緻密に「分析」している人は、いずれこの「分析」が実を結び、地震のメカニズムの解明や予知といった成果に「総合」されればと願っている。
分析哲学だってそうだ。分析哲学というと「細かいことばっか言いやがって」と思う人もいるが、じつは古くからの哲学の王道中の王道である形而上学と格闘している。
つまりね、広辞苑で「総合」を引くとこう書いてある。
(2)〔論〕原理から出発してその帰結に至ること。公理から出発して定理を証明する数学の提示法はその典型。⇔分析。
要するに究極を突き詰め、そこから総合したい。世界を一気に語りたい。
分析哲学とはそういうことなのだが、まあ、この話に深入りするのはやめよう。

いずれにしても「分析」を語る人は、「総合」を夢見て闘っている。
地震学者の例で言えば、彼は、データを「分析」しながら、どこかに「総合」の糸口がないか考え続けているのだ。
つまり、「分析」と「総合」は、単なる「反対ことば」でなない。我々の知性は、常に両極を思考するが、「分析」なくして「総合」はない。小さな地震のデータまでも詳細に「分析」してこそ、地震のメカニズムや予知と言った「総合」的判断が成立するのだ。
ややこしい言い方をしてごめんねだが、考えてみれば単純なことだよな。これが我々の「論理」の立て方である。

ところが。
安倍晋三君や高村正彦君の言う「総合的に判断」には、それを支える「分析」がまるでない。
もちろん本人たちはいろいろ「分析」しているつもりなのだろう。でも、もしもきちんと「分析」できていれば、何を聞かれようが野党の質問にしどろもどろになったり、答弁が人によって違ったり二転三転することなどないのだ。つまり、「はじめに答えありき」で、まったく「分析」できていないということである。だが、「分析」のない「総合」などあり得ない。彼らの言うことがまるで非論理的で出鱈目なのはそういうことである。

分析なき「総合的判断」というのは、論理性や正当性を無視して「俺たちの判断は正しいのだ」という単なる傲慢な独りよがりだぞ卑怯者め。
ていうか最初の話に戻るけどさ、「法理上は大量破壊兵器も弾薬として運べるが政策上それはしない」とか言ってていいの? 君らがやらなくても未来の政権の誰かがやるぜ。
天下のザル法は自分の首を絞めるかもしれない。それくらいは考えろよ馬鹿。
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2015-08-14 04:35:24

沖縄ブラックホーク・ダウン~"We got a Black Hawk down"

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沖縄県うるま市伊計島沖約14キロで、米軍ヘリが墜落した。
沖縄での米軍機の墜落は、1972年の本土復帰以降43年間で46回目。要するに毎年墜ちるというような状況である。

ちょうど11年前の8月13日には、なんと大学の構内に米軍ヘリが墜落した。沖縄国際大学には今でも、墜落で焼けたアカギの樹が残されている。

沖国大ヘリ墜落現場01

下の写真のように、校舎をこれだけ焦がすほどの事故だったのだ。
沖国大ヘリ墜落現場02

町のど真ん中での墜落事故。民間人に死亡者、負傷者が出なかったのは奇跡的だと言えよう。近くの民家、保育所などにも事故機の部品が落下しているのだ。

で。

ここは日本国内なのだから、当然、日本の警察や消防が駆けつけて、救命、消火、事故調査に乗り出すと思うでしょ。
ところが米軍がそれを阻止したのである。
米軍は、大学関係者も沖縄県警も現場に立ち入らせず、事故機と、さらに墜落現場の土まで掘り起こして持っていってしまった。

このヘリの部品には、放射性物質「ストロンチウム90」が使われている。
放射線はモノを通過する。その通過の影によって(レントゲン検査のように)目には見えないモノの内部がわかる。機体には「ストロンチウム90」の出す放射線でローター(羽)の傷や劣化などを点検する機能がついていたのだ。

軍用ヘリが墜落した場合、軍はただちに機体を回収する。あるいは、敵地などで回収が不可能な場合には機体を爆破する(ヘリには爆破装置がついている)。軍事機密があるからだ。沖縄国際大学ヘリ墜落事件のとき、米軍が機体だけじゃなく墜落現場の土まで持っていったのは、放射線物質が飛散したのを隠すためだ。

市街地にヘリを墜落させて、その上放射能汚染の証拠隠滅を図るなんて、米軍はあまりにも身勝手じゃないか!
と思う人もいるかもしれないが、それより悪いのは日本政府である。
日本は「日米地位協定」によって、米軍のそんな行為を認めているのである。

長くなるので詳しくは書かないけれど、「地位協定」というのは二国間の権利や義務などの地位を定めた協定。
70年前の戦争に負けた日本は、米国が圧倒的に有利な「地位協定」を結んだ。それによって今でも、日本国内での米軍の好き勝手が協定上許されている。

沖縄以外の本土にいるとあまり感じないかもしれないけれど、米軍基地だらけの沖縄ではそんな理不尽が今でも日常だ。

一昨日の米軍ヘリ墜落事件も同様である。
日本の領海内で航空機の重大事故が起きたのだから、本来、海上保安庁が乗り込んでいって捜査すべきことである。これが民間機なら、国交省の出番でもある。

ところが米軍は、とっとと事故機を持っていってしまった。
日本政府は「事故機を見せろ」「現場検証させろ」というような、当然の権利も主張できない。
主権国家として、これはいかがなものか?

第二次大戦の敗戦国と言えば、悪の枢軸、日独伊であった。というわけで、イタリアやドイツも、米国と不平等な地位協定を結んだ。しかしどちらの国もその後協定の改定によって徐々に不平等をなくしている。

ドイツでは、米軍機に対しても他の航空機同様にドイツ国内法が適用され、飛行禁止区域や低空飛行禁止が定められている。イタリアでは、駐留米軍が軍事訓練や演習を行う際には必ずイタリア政府の許可が要る。ところが日本だけは未だに、米軍機はどこをどのように飛んでも良いという不平等地位協定を変えようともしない。
どうしてこんな無様な状況になっているのかというと、政府も国民もずっと「それでよし」としてきたからである。

安倍晋三君は「戦後レジームからの脱却」などというが、ほんとうに戦後レジームから脱却したいのであれば、まずは日米安保条約、地位協定の見直しから始めるべきなのだ。
それをせずに米国との集団的自衛権を認めるというのは、まさに米国の犬になると言うことである。

「国があるからこそ国民がいる」のではなく、「人々が認めてこそ国が成立する」のであるから、僕は誰かに「非国民」って言われたって全然平気だよ。でももし「非国民」ということばを使うとすれば、安倍晋三君こそまさに非国民の極みではないか。日本を米国に売ろうとしているのだ。
「安保法制は日本の安全のために必要だ」と反論する人もいるかもしれないが、米国の下請けになることが日本の安全か?
また、安倍晋三君は単なる行政府の長にすぎない。にもかかわらず全権委任でも受けた気分なのだろうか、立法府を完全に無視し、国会での法案審議前に米国国会で日本国内法の成立を勝手に約束したわけだ。どう考えたって日本の国会が先だろ? こういうのこそ売国奴と言うべきではないか。

さてと。

例によって酔っ払って書いているので、文章に脈絡がなくてごめんよ。

一昨日伊計島沖に墜ちた米軍ヘリは「MH-60L」、通称「ブラックホーク」。米陸軍の特殊部隊「デルタ・フォース」の装備である。

"We got a Black Hawk down.
We got a Black Hawk down"

米軍の有名な無線交信だ。
1993年10月3日、ソマリア内戦に介入した米軍は、「デルタ・フォース」など特殊部隊の急襲で敵中枢を捕らえる作戦を実行に移した。

無血の30分で終わるはずであった。しかし「ブラックホーク」二機が撃墜され作戦は失敗。"We got a Black Hawk down"はそのときの交信だ。「モガディシュの戦闘」と言われる市街戦で、米兵18人が死亡。市民の死者は数百人とも千人以上とも言われる。

それを映画化したのがリドリー・スコット監督の『ブラックホーク・ダウン』。
東西冷戦後、国家間ではなく対ゲリラ戦へと様相を変えた戦争の現場だ。


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戦争映画の名作は、極限を描く。だからこそ、観るとほんとうに戦争は御免だと思わされる。
日本の戦争映画は情緒的に軍人の「生き様」を描く作品も多いが、『ブラックホーク・ダウン』はそんな感傷を排して最前線を冷徹に描く。だからこそ怖さが伝わってくる。

安倍晋三君の安保法制案に反対する人を「平和ボケ」とか言う人がいるが、『ブラックホーク・ダウン』を観なさい。「平和ボケ」とは戦争のリアリティを想像できない人のことだ。こんな戦争に加わりたいか?
現状の日米不平等安保体制の中で、地球の裏側まで行ける集団的自衛権を認めるというのは、法理上それを許すと言うことである。いくら「政策上ありえない」と言ったところで、「法」とはそういうものではない。

沖縄でMH-60L「ブラックホーク」が墜ちたと聞いたとき、まっ先に頭に浮かんだのが、"We got a Black Hawk down.We got a Black Hawk down"の交信であり、そして、その後の地獄絵であった。
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