福島は犬死になのか? | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

福島は犬死になのか?

ものすごく怒る人もいるだろう。
「県外の人間が失礼なことを言うな。福島は犬死にだと? 復興に水を差すな!」

リアルに感じる人もいるだろう。
「福島県民は棄民です。国から棄てられたのです」

とてもとてもデリケートな問題だ。
ていうか、口にするのもなかなか憚られるテーマである。
特に僕のような東京の人間がそんなことを言い出すのは、なんというのか、かなりの度胸が要る。

金曜日の官邸前・永田町霞ヶ関デモなどでは「福島帰せ!」というシュプレヒコールが定番のひとつだが、僕はいつも、なにか申し訳なさを感じてしまう。
つまり、東京の人間は言ってみれば「被告」なわけで、福島の人たちから「お前に言われたくない」と怒られても仕方ないのだ。
それでも僕が声を出すのは、これが「敵」に向かっての声であるということと同時に、福島の人たちに対して「こんな俺も許してくれ。できることなら仲間に入れてくれ」という懺悔の気持ちもある。

まあいずれにしても小心者の僕は、福島の人たちに対してものすごく気を遣ってしまう。
このブログは、政界・財界・電力・役人などの糞野郎どもを、はっきりと糞と言い切って、反原発の姿勢を明確に示しているのだけれど、だけど、福島の人たちには遠慮してしまうのだった。
「福島の復興のために、幼児も子どもも女性も、県内に残るべきだ」という主張は、僕はまったく間違っていると思いながら、それを主張する福島県の人に対して、面と向かったら文句は言えないだろう。
ところが、そんな遠慮こそが逆に失礼だと言われれば、まったくその通りかもしれない。
ニーチェの言うとおり、忖度は侮辱でもあるのだ。

ほんとうに、福島の人たちとどう接すれば良いのか、どうしたら仲間になれるのか。
3.11以後、これは僕にとってとても大きな問題だ。

そして、です。
「福島は犬死になのか?」
こんな大それたテーマを、小心者の僕がひとりで訴えるはずがない。
じつはこれは、福島の人たちとの話の中で出てきたことばなのである。

『てつがくカフェ@ふくしま』という活動がある。(http://blog.goo.ne.jp/fukushimacafe
「てつがく」と言っても、平仮名で書いてあるとおり、学問としての「哲学」ではなく、「社会の話、生き方、価値、愛や恋、病気や死など、いろいろな問題を深く議論しよう」という、専門家ではなく一般の人々が参加する集まりで、全国各地、ていうか世界のさまざまな場所で催されている。
「@福島」でも、3.11以前から企画されていたものの、震災の影響でスタートはそのあとになった。

小心者の僕でも「てつがく」をきっかけにすれば、少しは福島の人たちと話ができるかもしれない。
そう思って、今年の春からできるだけ参加させていただいている。

で、開催はだいたい16時~18時。その月のテーマについての議論をするのだが、その後、参加できる人は飲み会となる。
オヤジと言われればまったくその通りなのだが、やっぱ僕的には、人と親しくなるためには酒の席が必要だ。
そんなわけで23日も、福島の人たちと深夜まで梯子酒であった。

そこで話に出たのが「福島は犬死になのか?」という問いなのである。

毎月行われる『てつがくカフェ@ふくしま』のテーマは、震災とは直接関係のないもののほうが多い。
23日は「自分の身体は自分のものか」だったし「愛と恋」がテーマだったこともある。
「震災があったから震災のことだけ語る」というのでは哲学にならない。
つまり、あえて乱暴な言い方をすれば、「震災や原発事故はそんなに大事な話なのか?」と批判的に議論できてこそ、哲学というものなのだ。

でも、3月には震災の話をする。福島と、原発の話をする。

そこで、来年3月10日に開催される「てつがくカフェ@福島特別編」では、どんなテーマ設定が良いだろうか、という話を飲みながらしていたのであった。

「福島に未来はあるのか」
まあそんな方向だろうなという話にはなっていた。
でも、もっと問いをシャープにしたい、ということになった。
僕的にはなんかこう、「角が立つ」テーマがいい、と思った。

この前福島で行われたあるトークイベントに、東京で反原発運動をやっている人が来て「福島の人はもっと声を上げなければ駄目だ」とぶち上げたら、福島のおばちゃんが「東京から来て偉そうに言うな」となって紛糾したらしい。

良いことだと思う。

つまり、相手を慮って言いたいことも言わずに、なんとなく角が立たないようにやってきたというのが、たとえばやっぱり、「文句を言われる前に自主規制してしまうマスメディア」とか、そういう日本の風潮で、そこに根付いた日本のシステムの象徴とも言えるのが原発であるし、であるのなら「言いたいことは言っちまえよ」をすべきだと思うのだ。

僕は『てつがくカフェ@ふくしま』の主催者ではないから、もちろんテーマを僕がきめるのではない。
でも、主催者の人たちとの話でそういう方向が出てきて、僕は、なんというのか、気合いを入れて臨みたいなという感じなのだった。

「福島は犬死になのか?」

僕の今考える答は、「このままだと犬死になる」である。
そして、その可能性は高い。

地震・津波だけであれば、天災として「仕方なかった」ともいえるだろう。
でも、原発事故は人災だ。
犯人の責任を問い、二度と繰り返さぬようにしなければならない人災だ。
つまり、責任追及や再発防止が為されぬのであれば、被害はまったくの「理不尽なやられ損」であり、これをまさに「犬死に」という。
ところが、すでに、「誰も責任を取らない」方向は明確だし、安全対策が為されぬまま(ていうか、原発に安全対策は不可能だ)全国の原発再稼働を認める勢力が次の政権を取ろうとしている。

酔っ払ったなあ。
11時間ほど前から酒を飲んでいるのである。
中野の小さなライブハウスでパンクバンドの大音量を聞きながらテキーラとかがぶがぶ飲んで、そのままずっと飲みっぱなしだ。
こうなると「てにをは」も怪しいが、まあいいや。

僕は福島に行くと、「福島民報」「福島民友」という地元紙二紙を買うことにしている。
東京で新聞を見ていると「震災なんていつのこと?」みたいな気になってしまうけれど、被災地では震災関連が一面トップの場合が多い。
当たり前だ。
東京の人間が忘れるのが早すぎるのだ。
たった、1年8ヵ月前の出来事だ。
あのときみんな、日本は変わらなくてはならない、と思ったではないか。
なにかしようと思ったではないか。

で。
『てつがくカフェ@ふくしま』当日、11/23の「福島民報」「福島民友」ともに、一面トップは、放射能汚染土壌などの「中間貯蔵施設」の問題である。
汚染された土壌などは、どっかにまとめなくてはならない。
それが、福島県内に作られる「中間貯蔵施設」だ。
その場所についていろいろ揉めたりしている。
そういう話だ。

もちろん、「中間貯蔵施設」を、どこにどうやって作るのかは大きな問題だ。
だけど、もっと大事なことがある。

「中間貯蔵施設」というのは、「ある期間置いておくところ」であって「最終的に埋めたりする場所=最終処分場」ではない。
僕の記憶では、政府は「福島県を最終処分場にはしない」と約束しているのだけれど、まあ、約束したかしていないかはともかくとして、果たして日本のどこかに最終処分場があるのだろうか?

被災地からの瓦礫搬入、処分の問題で全国いろいろな場所で抗議運動が行われているが、そんな瓦礫は、少なくとも政府は「放射能の問題はない」と言っている。
ところが、汚染土壌は、国でさえ認める「放射能に汚染されたゴミ」である。
そんなものの「最終」処分場を引き受ける自治体など、あり得ないだろう。

要するに、先の目処が立たないまま「中間」という名前だけがついている。
これは、「中間」ではなく「最終」になる可能性が大きい。ていうか、福島県内を「最終」にしないのであればどこをどうやって「最終」にするのか、誰か教えてほしい。

そんな、いい加減極まりない「中間」ということばを、新聞も平然と使っている。
「福島民報」「福島民友」だけでなく、たぶん全メディアが、政府の言うまま「中間」ということばを使っているのだろう。
だからみんな「これは中間なんだな」と思ってしまうし、思おうともする。

僕が許せないのは、そういった、ことばの欺瞞だ。

ことばは、社会そのものであり、責任そのものである。

そこから目をそらして、角が立たないようにやっていく、なんていうのは、責任の否定であり、社会(あるいは国家と言ってもいい)の否定である。

ほんとうに日本は腐っていると思う。
日本がこんな調子であれば、僕は、福島は犬死にするだろうと思う。