語り得ぬものについては沈黙しなければならない。 -10ページ目

【7.6総理邸前抗議デモ参加報告】非暴力。だけど「集会の自由」だけは守りきらなければならない

僕は50年近く東京で暮らしてきて、だから毎日のように地下鉄に乗って出かけているわけだが、それでも地下鉄のことはよくわかっていない。
目的地に辿り着くために、どの駅で乗り換えて何番出口で出たら良いのかとか、特に山手線の内側はほんとうに難しいのである。
なので、「総理官邸っていったい何駅?」と聞かれたら、東京都民でもわからない人のほうが多いはずだ。

答は、「国会議事堂前」駅か「溜池山王」駅。
この2つの駅はつながっている。改札を出ることなく乗り換えができる。(なら同じ駅名にしろよと思うのだが、端から端まで歩くと、地下鉄一駅分よりずっと長い距離になる)
で、総理官邸には南北線で来るのなら四谷寄りの車両に乗って山王日枝神社向かいの5番出口を使うのが良いし、渋谷方面から銀座線で来るのであれば、銀座線にも溜池山王駅はあるのだけれど、あえて赤坂見附でホーム向かい側の丸ノ内線に乗り換えて一駅、国会議事堂前駅で降りたほうが、「総理官邸前」交差点には近い。
じつにややこしい。

↓これが地図。
東京メトロwebサイトをキャプチャーしたものを加工した。
番号のついたカメラのようなマークが、地上出口である。
地図の上に書いたテキストの説明は追ってしていこう。

地図だ!


先週は南北線経由だったので5番出口から外に出たのだけれど、(この地図ではわかりづらいが)ほんとうは出口からすぐに東方向にまっすぐ登って「総理官邸前」交差点に辿り着ける道がある。ところがその道は警察によって封鎖されていたので、「国会裏」交差点のほうからぐるっと回って「総理官邸前」交差点に辿り着いたのであった。

それが面倒くさかったので、昨夜は丸ノ内線の国会議事堂前駅で地下鉄を降りた。
ほんとうはもっと早く到着したかったのだけれど、バタバタしてしまい19時を少し過ぎたころだ。

すでの改札の外は人で溢れていた。もちろん、そのほとんどがデモ参加者だ。
本来であれば1番出口か3番出口が「総理官邸前」交差点には一番近いわけだが、警察官がすべての人を4番出口に誘導していた。

国会議事堂前駅4番出口


3番出口が封鎖されてることに対して文句を言っている人もいたが、まあ上は大混雑なのだろうからそれくらいは仕方ないかなと思って、良い子に列に並んで15分くらいかけてようやく地上に出たのだった。

そこまではまあ良い。
だがそこからがいけない。

4番出口を出て左に行けば総理官邸前なのだが、警察官が歩道を封鎖して人々を右にしか行かせないのだ。(地図の①)
右に行っても何もない。
本来、デモというのは物理的に一箇所に集まることに意味がある。
警察はそれをさせまいとしている。

分断や拡散というのは治安出動の基本なので、警察はそのように対応しているわけだが、最初に言ったように、地下鉄の出口というのはとても難しい。
東京都民であっても、また僕のような方向音痴でなかったとしても、土地勘がなかったら警察に誘導されるがままにどんどん遠くへ連れて行かれてしまうだろう。
(実際にtwitter上では、せっかく来たのに「ここはどこ?」状態で声を上げることもできなかった人もいたと聞く)

その頃は、(たぶん)片側3車線の道路の歩道寄り一車線のみを警察は人々に開放していて、カラーコーンと黄色い帯で参加者を規制し、ちょっとでもカラーコーンを蹴飛ばそうものなら、たちまち警察官が駆け寄ってくると言う状態であった。

僕はデモの中心部から遠ざけられるなんて御免だったので、4番出口のすぐ近くに留まってビデオを回しながら「再稼働反対!」の声を上げていたのである。

なにしろものすごい人だから、ビデオも手を上げて上から撮らなければならない。
けどずっと手を上げているのも疲れたなあと思ってスイッチを切ったときだった。
人々が雪崩のように車道に出て、たちまち全車線を占拠した。
僕は慌ててビデオの電源を入れたがもう遅い。
その間約10秒。肝心の場面は撮れなかった。

その直後の様子。



きっかけが何であったのかはわからない。
しかしいずれにしても、警察が人々を分散させようとしていることに対して、僕と同様に多くの人が不満を持っていたのであって、だから決壊は当然の成り行きだったし、気がつけば僕も、車道の中心部にいた。

治安活動のメソッドだろう。戦争と同じで、このライン(前線)が崩されたときにはこのラインを守る、という練習を、警察官は常日頃からしているに違いない。
彼らは横並びになって、車道を埋め尽くした人々をこれ以上官邸前には近づけない、という防波堤を張った。
地図の②の場所だ。



↑このように、警察官が並んで車道を分断している。
デモ参加者の中には前線に並んだ警察官に食ってかかる人もいて、小競り合いになりかけた場面もあったけれど、ヒートアップしているのはごく数人だけで、警察もよほどのことがない限り逮捕などはしない方針であったのだろう。丁寧口調で「この先には行かないでください!」と道をふさいでいたのだった。

じつをいうとそんな防波堤を突破するのは簡単なことで、僕は易々と官邸前交差点まで辿り着いたよ。(どうやったのかは書かない)

だけど、警察は死守ライン(地図の③)だけは守り抜いたね。
ていうか、官邸前交差点付近では、車道も解放されていなかった。



↑こんな感じ。

当然、僕が動いたような東→西だけでなく、地図の矢印A、Bのような方向からデモに参加した人も大勢いたはずなのだが、彼らとの合流は決してできなかった。
ていうか、僕は見ていないのでわからないのだけれど、地政学(て大袈裟なものではないが)的には、内閣府下交差点から北上する道は、ずっと閉鎖されていたのかもしれない。

ええとですね。
ここまでは、一参加者として、昨夜のデモにどんな動きが会ったのかという話。

安保世代らしき人の中には、人々が一瞬にして車道を占拠したことに大興奮して「もっとやれやれ!」的に煽っていた人もいるのだが、僕だって二者択一で「警察の味方なのかデモ参加者の味方なのか」と問われればデモ参加者だ。だけど、現場の警察官なんか、べつに敵だとは思っていない。

早い時間には、坂本龍一さんとか、社民党の福島みずほ氏とか、共産党の志位和夫氏とか、いろんな人が来ていたみたいだ。
その中から田中康夫氏の発言を紹介しておこう。



「先週に続いて国民の一人として参加をしている田中康夫です。
前回、この集会が終わった後、私が帰る時に1人の警察官の方がセフティーコーンを片付けながら小さな声で「再稼働反対」とおっしゃっていました。
わたくしと目があったら、彼ははにかんでいました。
そして私の事務所のスタッフも、おそらく別の警察官の方が、同じように小さな声で再稼働反対と話していました」


大飯原発前の抗議行動のときも、最前線で人々に立ち塞がる警察官の中に
「ほんとうに申し訳ない。ほんとうに申し訳ない」
と、小声でつぶやいていた人がいたと聞いた。

我々は現場の警察官と敵対する必要などない。
もちろん、警察というのは「現実の国家権力」そのものではあるけれど、我々が目指しているのは武力による国家転覆、クーデターなどではないからだ。

単に「原発をやめろ」と言っているのだ。

ところが、我々がネット上で、あるいは個別の運動で何を言っても、政府、電力、官僚、財界、マスメディアを含めた原子力ムラの連中は、盲なのか聾なのか、人々の声をまったく無視して、ひたすら再稼働に向けて突き進んでいる。
だから我々は、集まって、目に見える形での抗議行動をしなければならないのだ。

目黒に帰ってきて、地元のアイリッシュパブでビールを飲んだ。
その店では福島出身の人が働いていて、僕は彼とよく原発について、あるいは福島の人たちのことについて話をする。
彼が言うには、お店の常連さんの中にも官邸前集会に参加している人がたくさんいるそうだ。
僕のように、集会のあとこの店に飲みに来る人も多いらしい。

で、デモ参加者の中にも、いろいろな意見があるという話になった。
ちょっとでも緊迫した場面になると、「怖い」と引いてしまう女性もいるらしい。
もちろんそれも当然の話だ。
人々が警察官の制止を無視して車道を占拠するような状況というのは、国内では少なくともこの40年間、見たことがない人のほうが圧倒的に多い。
人が車道に出ること自体はたしか非合法ではないと思うのだけれど、警察の制止を振り切れば公執(公務執行妨害)に問われるかもしれない。
混乱した状況に恐怖を感じる女性がいるのも当然だ。

だけど、我々のデモ参加者の99%以上は平和的な抗議行動を望んでいるし、警視庁も(少なくとも今のところは)武力制圧をしようとはしていない。
だから、「怖い」と思う人はもちろん最前線に出てくることはない。ただ、歩道からでも、遠くからでも良いので、今ここで何が起きているか、それを見届けてほしいと僕は思う。

逆に、このデモは甘すぎると思う人もいるようだ。
主催者が警察の用意したマイクで「今日はこれでおしまいです。解散してください」と呼びかけるなど、まったくおかしい、というわけだ。

この話を始めると長くなるのでここでは書かないけれど、僕は、暴力の連鎖は避けるべきだと思う。
これは「暴力は絶対に良くない」というような倫理観などではない。
たとえば、今まさに殺されるという状況であれば暴力もへったくれもない。
ただやはり、戦略的に言っても今は非暴力のほうが力があると思うのだ。
野田佳彦はほんものの悪人だと僕は思うが、それでも少なくとも、我々は今、軍事独裁政権の武力弾圧に対して闘っているのではないからだ。

「再稼働反対」と小声でつぶやく現場の警察官がいるのだから、僕は彼らも味方にしたいと思う。

これは持久戦だ。
(一点突破全面展開ではない)
だから、粘り勝ちを手にしなければならない。

ところで、現場の警察官は基本的には紳士的で、国会議事堂前駅のトイレとかにもいちいちひとりずつ警察官がいたのだが彼らは私服、それもポロシャツにジーンズというような格好で腕に「警視庁」の腕章をつけていただけだった。
警察権力の力を誇示しないという方針だろう。
僕はそれは良いことだと思うのだが、「これだけは許せない」ということもあった。

実際に自分が目にしたわけではないので正確ではないのだが、
最初のほうに書いたように、国会議事堂前駅では警察によって、4番出口からしか出られないようになっていた。
その4番出口をも、警察が封鎖したというのだ。
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65813862.html

「混雑しているから」などの理由で何百人もの人々をデモに参加させないようにしたらしい。
聞いたところによると、人々からは「開けろ!」コールが鳴り響き、「なぜ封鎖するのか」という問いにも、現場の警察官は「上からの指示で…」としか言えなかったそうだ。

「上からの支持」であるならば、どんな法令に基づいた指示なのか?
というか、いかなる法令に基づくものであったとしても、人々をデモに参加させないというのは、憲法第21条で認められた「集会の自由」に反する明確な違憲行為である。
これだけは、徹底的に抗議すべきである。

【日本国憲法第21条】
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。


↑次回、遅めの時間からデモに参加する人は、これ暗記ね。

【全文引用】国会事故調報告書は、「はじめに」だけでも必読だ。

昨夜は18時頃まで新宿で打ち合わせがあり、その後立ち飲みのもつ焼き屋で本を読みながらひとりでだらだらと生ビール、レモンサワー、日本酒、酎ハイ+梅干しなど飲んで、22時くらいに家に帰り、仕事メールの返信とか雑務をしたあと、さらに焼酎緑茶割りなどを延々と飲み続けながら、さっきアップした
『野田佳彦は、日本を駄目にしようとしているばかりか、人間社会そのものを否定している。』
を書いたのであった。

↑この記事は是非読んでほしい。

僕は、学部レベルではあるが、ちょっとは哲学を勉強した。
専門的な用語を使って申し訳ないのだけれど、考え方のベースは分析哲学で、特にウィトゲンシュタイン(僕的には20世紀最大の哲学者)に「やられた」派である。
分析哲学やウィトゲンシュタインについてここでいろいろ書くつもりはない。
ただ、哲学のことは何も知らないという人も「豆知識」としてでも憶えておいてほしいのは、ウィトゲンシュタインという人は「ことば」に徹底的にこだわったということだ。

僕は、もう30年以上毎日文章を書いているわけだけれど、「文章ってなに?」「ことばってなに?」というのが30年前から常に「問い」としてある。

「ことばは真実を語れるのか」
「ことばは他人に伝わるのか」
「言葉にできない感情や、みんなが「心」ということばでしか呼べないものとはなにか」

などなど。

もちろん、「ことば」をいくら分析してみたところで、決して「真実」(があるとすればだ)には近づけないのは当然の話だ。
でも、我々の思想やコミュニケーションが「ことば」(広義の意味で)に頼っている以上、哲学も「ことば」で表明するしかないのであって、であれば「ことば」を問い詰めなければならない。

おっと、
ごめん、こんなこと書こうと思っていたのではなかったよ。

先ほどアップした前回の記事で書いたとおり、野田佳彦や官僚、電力の連中の「ことば」は、誰が聞いても「逃げ道を用意してやがる」「嘘ついてるな」と思わせるものばかりで、そこには誠実さや、正直さはかけらもない。

だから、昨日(7/5)、国会の福島原発事故調査委員会の報告書がついに上がってくるというニュースを聞いたときも、あまり期待していなかったのだ。

報告書提出後も、報道によってはその中で取り上げられている「事故後、東電が現場から全面撤退すると言ったのは事実かどうか」なんていう話を今更記事にしていて、でも僕としてはそんなことどうでもいい。
つまり、いわゆる「言った言わない」の話で、正直僕は興味ない。
というか、数百~せいぜい二千文字の新聞原稿の中で「言った言わない」問題を取り上げる新聞社のほうがどうかしている。

東電が全然撤退すると言ったか言わないかは事故後の話であって、それ以前に、
「事故はなぜ起きたのか」を解明することこそ、事故調の使命である。
それを踏まえて、「何がいけなかったのか」「ではどうすべきか」の議論の叩き台にすべきなのがこの報告書なのである。

と、まあ、
全然期待せずに、さっき、報告書ダイジェスト版を読んだのだけれど、はっきり言って驚いた。
つまり

「おおおおお! よくぞ書いた!」という感じだ。

ここに、「報告書」の最初に掲載された「はじめに」という部分を全文引用する。

野田佳彦をはじめとするクズ政治家どもや、自分と所属官庁の保身しか考えない糞役人、財界の中枢に君臨する東電の馬鹿役員、阿呆社員どもが、犬のうんこ以下のレトリックを駆使して、滅茶苦茶な日本語を使っているのとはまったく対照的に、この文章は、平易で、かつはっきりしている。

期待していなかった分評価が高いのかもしれないし、正直今酔っているので、きちんとした感想は書けない。

とりわけ、
「新卒一括採用、年功序列、終身雇用といった官と財の際立った組織構造と、それを当然と考える日本人の「思いこみ(マインドセット)」があった。」と言う部分は、過去の電力、財界への批判とはなっているものの、日本でも新自由主義が台頭した21世紀において、それでも原発事故は起こるべくして起こったという事情に言及しておらず、残念なことである。

とはいえ、
福島原発事故を「歴代及び当時の政府、規制当局、そして事業者である東京電力による」明確な「人災」と位置づけ、それが、国民の命を守ることよりも組織の利益を守ることのほうが重要だという「入社や入省年次で上り詰める「単線路線のエリート」たち」が安全を軽視した結果起こった事故である、という事実を、この報告書は明確に打ち出した。
もちろん我々にしてみればそんなことわかりきった話であるが、政府も官僚も電力も、311以後それを一切認めてこなかったわけで、これが国会事故調から出されたという事実は大きい。

(国会事故調の報告書はhttp://naiic.go.jp/report/からすべてDLできる。なお、以下の引用文で、赤い文字や下線、大きな文字などに加工したのは、すべて僕(鹿島)である)

……………………

福島原子力発電所事故は終わっていない。

これは世界の原子力の歴史に残る大事故であり、科学技術先進国の一つである日本で起きたことに世界中の人々は驚愕した。世界が注目する中、日本政府と東京電力の事故対応の模様は、世界が注目する中で日本が抱えている根本的な問題を露呈することとなった。
想定できたはずの事故がなぜ起こったのか。その根本的な原因は、日本が高度経済成長を遂げたころにまで遡る。政界、官界、財界が一体となり、国策として共通の目標に向かって進む中、複雑に絡まった『規制の虜(Regulatory Capture)』が生まれた。
そこには、ほぼ50 年にわたる一党支配と、新卒一括採用、年功序列、終身雇用といった官と財の際立った組織構造と、それを当然と考える日本人の「思いこみ(マインドセット)」があった。経済成長に伴い、「自信」は次第に「おごり、慢心」に変わり始めた。入社や入省年次で上り詰める「単線路線のエリート」たちにとって、前例を踏襲すること、組織の利益を守ることは、重要な使命となった。この使命は、国民の命を守ることよりも優先され、世界の安全に対する動向を知りながらも、それらに目を向けず安全対策は先送りされた。そして、日本の原発は、いわば無防備のまま、3.11 の日を迎えることとなった。

3.11 の日、広範囲に及ぶ巨大地震、津波という自然災害と、それによって引き起こされた原子力災害への対応は、極めて困難なものだったことは疑いもない。しかも、この50 年で初めてとなる歴史的な政権交代からわずか18 カ月の新政権下でこの事故を迎えた。当時の政府、規制当局、そして事業者は、原子力のシビアアクシデント(過酷事故)における心の準備や、各自の地位に伴う責任の重さへの理解、そして、それを果たす覚悟はあったのか。この事故が「人災」であることは明らかで、歴代及び当時の政府、規制当局、そして事業者である東京電力による、人々の命と社会を守るという責任感の欠如があった。

この大事故から9か月、国民の代表である国会(立法府)の下に、憲政史上初めて、政府からも事業者からも独立したこの調査委員会が、衆参両院において全会一致で議決され、誕生した。今回の事故原因の調査は、過去の規制や事業者との構造といった問題の根幹に触れずには核心にたどりつけない。私たちは、委員会の活動のキーワードを「国民」「未来」「世界」とした。そして、委員会の使命を、「国民による、国民のための事故調査」「過ちから学ぶ未来に向けた提言」「世界の中の日本という視点(日本の世界への責任)」とした。限られた条件の中、6か月の調査活動を行った総括がこの報告書である。

被災された福島の皆さま、特に将来を担う子どもたちの生活が一日でも早く落ち着かれることを心から祈りたい。また、日本が経験したこの大事故に手を差し伸べてくださった世界中の方々、私たち委員会の調査に協力、支援をしてくださった方々、初めての国会の事故調査委員会誕生に力を注がれた立法府の方々に深い感謝の意を表したい。

東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)
委員長 黒川 清

野田佳彦は、日本を駄目にしようとしているばかりか、人間社会そのものを否定している。

僕はtwitterはほどんとやらない。

世間に公開しながら140文字単位のコミュニケーションを行う、というのは性に合わないのである。
まあ要するに、僕のネットリテラシーの低さということかもしれない。
前にも書いたかもしれないけれど、昨年の4月には、斉藤和義さんの反原発ソング『ずっとウソだった』をtwitter上で批判した人(twitterではある程度の影響力があろう方)に対して、4000文字くらいの反論を書いて、取得したばかりのtwitterアカウントから140文字単位に分割し@で送りつけた。
書いた内容については今でも間違ってはいないと思っているけれど、やり方はいけなかった。そりゃ迷惑だろう。
主張の是非以前に、(僕はそのときはそうは思っていなかったのだが)結果的に嫌がらせのような行為になってしまったのは反省している。ご迷惑おかけしました。

そんなわけで、140文字じゃ僕は駄目だ。
大飯原発occupy行動のときは、まさにリアルタイムの問題だったのでいろいろtweetもしたが、普段、twitterではアメブロを「更新しました」が自動的に掲載されるくらい。
このブログもマイナーなので日々のアクセス数は、さすがに数十には落ちないにせよたいてい数百単位なのだが、Twitterに関して言えば、僕をフォローしてくれている人はたったの30人だ。
広めようとしていないし、そもそもたいしたことを書いていないのだから仕方がない。(興味のある方はどうぞ。@jun_kashima ほんとうにたいしたことは書いていませんよ)

まあそんなわけで僕は、twitterはほとんど書かないのだけれど、他人の140文字のやりとりを見ていると、気分が悪くなることがよくある。

有名人とか、あるいは一般の人でもブログなどで自分の考え方のベースを表明している人のtweetであれば、その文脈の上で140文字を理解できる。
ところが、普段何を言っているのかまったくわからない人が、揚げ足取りとか誹謗中傷としか思えないような140文字の発言をしている。
原発推進か反対かにかかわらず、そういう奴がたくさんいる。
「あなた、理論にもなっていないよ。もうちょっと勉強したらどうですか?」みたいな感じで、一見丁寧ことばを使いながら、相手を追い詰めようとするわけだ。
ほんとうに嫌な感じだ。

でも、正直言って僕がtwitterで議論とか始めたら「うるさいよ馬鹿。人生一からやり直せ」くらいは書きそうなので、だからこそtwitterで議論はしないのだけれど。

あとは匿名性の問題。

僕はネットの匿名性を否定したりはしない。
発した内容に価値があれば、実名であろうが匿名であろうが関係ない。
逆に「匿名だからこそ語れる価値ある情報」というのもある。
でも、情報価値のないこと、単なる嫌がらせのようなことを述べるときの匿名というのはほんとうに薄気味悪いし、原発推進反対を問わず、たとえばステアカ、コピペで個人攻撃を繰り返すような輩は、市中引き回しにすべきだとさえ思う。
そんな意味では、僕はネットに関して寛容ではないのだ。

大飯原発を巡って野田佳彦は、再稼働は「私の責任で」と繰り返し、「お前の言う責任とは何だ?」「事故が起きたらお前が責任を取れるのか」と散々突っ込みを入れられた。
それについての社民党の福島みずほ氏の質問が、これ
で、こちらが野田佳彦の回答

(責任というのは)「内閣の首長である野田内閣総理大臣がこれに関与し責任を持って判断を行うという趣旨で述べたものである。
なお、原子力損害の賠償については、原子力損害の賠償に関する法律(昭和三十六年法律第百四十七号)において、原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものである場合を除き、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めを負うこととされている」


これまたびっくりの詭弁である。

「責任を持って判断する」というのは「結果責任を負う」という意味である。
「Aという行為をする」と判断するというのは、「Aという行為をしないこともできた」にもかかわらず、「敢えてAと言う行為をする」と判断したいうことに他ならない。
そして実際に野田佳彦は、「再稼働しない」という選択肢があるのにもかかわらず、「再稼働」という判断をしたのだ。

たとえば刑法では、「責任能力」が問題とされる。
よく知られるように、刑法39条では心神喪失の場合には刑法上の責任を問えない、ということになっている。
簡単にいってしまえば、精神的な障害などで、物事の是非、善悪を考えることができないような場合の行為には責任を負わせないと言うことだ。
これは逆に言えば、心神喪失(あるいは心神耗弱など)ではない場合、「包丁を持っているが、それで目の前の人を刺したりはしない」という判断が可能であったにもかかわらず、「持っている包丁で目の前の人を刺そう」と判断して、その結果彼が死ねば殺人の罪に、怪我をすれば傷害の罪に問われるということだ。
責任を取って刑務所に入ったり、被害者への賠償をしなければならない、ということだ。

まあ、刑法の例を持ち出すまでもなく、「判断の責任」とは「結果の責任」。これが日本語の「責任」ということばの、ごく一般的な意味なのである。

野田内閣総理大臣がこれに関与し責任を持って判断を行うという趣旨で述べたものである
などというのは、とてもズルい言い方だ。
「原発再稼働は内閣総理大臣が判断をする」というのが日本の制度であれば、「国政の責任者として判断する」という意味は、言わずもがなである。
原発再稼働に限らず、首相が行ったすべての行政的な判断は「行政の長、責任者としての判断」であることは当然の話だ。
それなのに、国民に向けて敢えて「責任」ということばを使い、しかも何回も連発するというのは、その発言の意味は「私が、立場上(制度上)の判断責任者です」以上のものがあると言うことにほかならない。
つまり野田佳彦は、「判断の責任は、結果の責任」という、日本語として当たり前な「責任」の意味を自覚した上で発言しているとしか考えられない。

ことばというのはそういうものだ。
どんな単語を言ったか言わないかとか、そんな些末な問題ではなく、言い方や回数も含めての「ことばの使い方」が、それこそ「ことばの意味」なのだ

ええと。

何が言いたかったのかというと、野田佳彦の「責任」発言はもちろん、政治家の答弁、官僚の作った文章、東電の記者会見などなど。
原発事故ではっきりしたのは、彼らはなにかを「正確に伝えよう」などとは微塵も思っていないと言うことだ。
何を突っ込まれてもあとから言い訳ができるように考えたり、実際に野田佳彦のように「明らかに日本語としておかしい」言い訳を平気でする。

もちろん、「ことば」は(原理的に)万能ではあり得ない。
なので、誤解される可能性(危険性)を完全に排除することは不可能である。

でも、それでも(もちろんたとえば文学であればあえて誤解を招きやすい表現を使うというレトリックもあるが)、「多くの人に伝えたいこと」「多くの人に伝えるべきこと」を語るのならば、こそこそと小賢しい小細工を施して責任を逃れられるようにするのではなく、誠実に、正直に語るべきだ。
これは、倫理観の問題であると同時に、もしもことばの誠実さ、正直さを否定してしまったら、そもそも人間社会は成り立たない
その意味で、野田佳彦は日本を駄目にしようとしているばかりか、人間社会そのものを否定しているように思えてしまうのである。

twitterの話だった。

要するに、「ことばに関して無神経」なのが僕は許せない。

毒にも薬にもならない「代官山なう」だったらいいよ。また、誰々の発言が面白い!素晴らしい!などと褒めるのであれば、別にどういう書き方だって気にならない。
しかし、他人の発言に対して反論を述べるのであれば、議論のルールを考えるべきである。

ルールと言っても、もちろんこれは条文化されたようなものではない。
そういえば「ネチケット」なんていうくだらないことばもあったが、そんな低次元な問題でももちろんない。

「売国奴」「人非人」というような罵詈雑言を投げかけるのは、街で他人の顔にいきなり唾をかけるような非社会的(反社会的とは違う)行為であり、「ネチケット」のような低次元ルールで断罪されるべき低次元な問題だ。(もちろん、それを充分承知の上で言うのなら別だけれど)

僕が言いたい「議論のルール」とは、まずは、ことばの意味(概念や使い方)を相手となるべく共有すべく発言しようと言うこと。
これは、個々の単語の意味だけではない。言い回しとか言い方も含めて、できる限り誤解されることのないように、誠実に、正直に語り合う「土俵」を作ってから、その上で議論でも喧嘩でもしなさいよ、ということだ。

これはもう論理的に説明できることではなく、誠実さとか正直さとかしか言えない。
(もしも「誠実さや正直さなんて言うのは感情論に過ぎないので馬鹿馬鹿しい」などという意見の人がいれば、時間があるときにじっくり付き合いたい。「ことばとは何か」「論理的とはどういうことで、どこに限界があるのか」「感情論はなぜいけないのか」など、根本から議論しなければならない大問題です)

ほんとうは、今日(金曜日)の官邸前デモについて書こうと思っていたのだった。
原発推進の連中が反原発にいちゃもんをつけるというのはずっとあったのだが、先週金曜の官邸前デモと大飯原発前の抗議行動などは、反原発・脱原発の人々の中でも意見が割れている。
意見が分かれるのは当たり前の話だが、twitterを見ている限り、野田佳彦の「責任」発言と同レベルの「ことばに対しての無責任さ」を感じるtweetもあるのだった。
そんなのを見ると、ネットリテラシーや情報リテラシーというような限定された意味ではなく、原義通りのリテラシー(簡単にいえば読み書き能力)の低さを感じてしまうのである。

最後にひと言だけ。

官邸前デモには参加するなと言っている人たちもいて、僕は彼らの主張を充分に聞いてはいないし、その個別の意見を否定するつもりもない。
ただ僕は、本日夕方から官邸前に行きます。
主催者たちが不慣れで、ちょっと違うなというところもある。しかし、党派(イデオロギー組織)ではなく人々が集まるのであれば、僕はそれを応援するし参加もする。
実力で官邸を制圧することができなくとも、あるいはデモ主催者が警察のスピーカーから「今日は解散してください」と訴えるような、およそデモらしくない前代未聞(?)の集会であったとしても、僕はそれでも意義があると思うからだ。

我々の敵は、目の前の警察官でもなく、野田佳彦はかなり敵だが彼のような取るに足らないくだらない人物が本丸でもなく、電力会社や経団連はさらに悪いが所詮はいかれた経済原理主義者どもにすぎない。
我々は、単に「放射能怖い」ではなく、馬鹿どもがのさばって好き勝手しているシステム、あるいは社会そのものに揺さぶりをかけなければならない。
僕はそう思う。
そして、そのためには、あちこちから火の手が上がらなければならない。
そしてそれらを、なるべく多くの人たちに注視してもらえるようにしなければならない。
これは、リアルな社会の中でも、ネット空間でも同じだ。
今、「数は力」になる。
であれば、「数」になろう。

そういうことだ。

『決まり』の無根拠と、『強者のための脱原発』などについて

昨日、一昨日は、大飯再稼働を現場で阻止しようとする勇士たちを追うのに精一杯で、別の話題に触れる時間がなかったのだが、このことも早めに書いておかねばなるまい。

先週、電力9社の株主総会が開かれ、中でも東電と関電についてはテレビでも各局取り上げたので、多くの人が見たと思う。

原発に反対する株主、あるいは電力会社のやりかたに疑問を持つ株主が多数参戦、会場の外でも反原発デモンストレーションが行われて大いに盛り上がったわけだが、反原発株主らからの動議はすべて否決された。

まあこれは、はっきり言ってはじめからわかっていたことだ。
もちろん、会場の外で反原発を訴えた人々や、株主として電力会社を批判した人々の行動はとても意義あるものである。
我々の「反原発」は、そんな、ひとつひとつの行動が積み重ねられた結果としてしか実現され得ないからだ。

でも結局は出来レース。
電力会社は、金融や保険などから事前に包括委任状(いわゆる白紙委任)をもらっていたのだろう。株主総会に何千人来ようとも自分たちの言い分がひっくり返らないことは織り込み済みで、要するに電力は「当日は反原発の連中がやってきてギャーギャー騒ぐだろうが、役員は半日我慢してちょっと神妙に座っていればいい」くらいの気分だったはずだ。

結局のところ、東電に金を貸している大手金融機関や、東電の社債をたくさん持っている保険会社などは、自分たちの利益しか考えていない。
この前の記事(原発推進の「イデオロギー」(泥酔原稿))で、ナチスのアドルフ・アイヒマンはあくまで「職務に忠実に」数百万人のユダヤ人を強制収容所に送ったという話を書いたが、電力の社員はもちろん、金融や保険の社員たちも、つまりはアイヒマンと同じである。
組織に対して疑問を持たず、あるいは疑問を持っても闘おうとはせずに、「いいなり」に飼育されている。

この問題について、適切かつわかりやすく述べているのがこの本。

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原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―/明石書店
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ぜひどうぞ。

ところで。

僕が10代の頃からずっと不思議に思っていたのは
「『決まり』は守らなくちゃいけない、と本気で信じている人が世の中にはなぜこんなにたくさんいるのだろうか?」
ということだった。

「それをやっちゃいけない」という人に「なぜ?」と問うと、「『決まり』だから」と言う。

え!? ええええ?

僕にははっきり言って意味不明だ。
「『決まり』を破って、投獄されたり罰金を取られるのは御免だ」という理由であれば僕も多いに納得する。
だけど、単に『それが決まりだから』守らなくてはいけない、という意見の人が結構大勢いるのだ。
「それでは、そもそもなぜ『決まり』は守らなくてはいけないのか?」と問うても、「それは『決まり』だからだ」と答える。
答になっていない。
堂々巡りで、理由がない。
カルト信者に「なぜ神の教えを守らなくてはいけないのか」と問うたときと、まったく同じレベルである。

そんな人たちとは話も出来ないやというのが僕の基本的な考えで、だから面倒くさいので、「決まり主義者」とはなるべく関わらないように生きてきた。

でも、昨夜大飯で再稼働に反対し命がけで闘った人たちに対して
「逮捕されなかっただけマシと思え」「非合法では主張は通らない」「恥を知れ」などのtweetをした奴らがたくさんいるらしい。(http://togetter.com/li/330851

大抵は取るに足らないネトウヨのような連中だとは思うが、ある意味、出てきやがったな「決まり主義者」ども、という感じでもある。

「決まりは守るべきだ」という考えを無条件に認めるのは、アイヒマンと同じである。
彼も、ドイツ国民から正当な選挙で選ばれた政府組織の一員として、「決まりを守った」のであった。
『決まり』に従って、何百万人もの人々を虐殺したのであった。

『決まり』に従わなければ社会の秩序が保てない、という人もいる。
一般論としてはそれはその通りではあるが、『決まり』なんかよりも大事なこともある。
実力行使をしてでもそれを勝ち取って、新しい『決まり』を作る動きにつなげなければならないこともある。

「決まりに従わなければいけない理由は、それが決まりだから」などというのは、幼稚園児にいうのであればともかく、大のオトナがそう信じているのであるとすれば単なる馬鹿だ。

株主総会の話であった。

ご存知の通り、注目を集めたのは、東電筆頭株主である東京都の猪瀬直樹副知事と、関電筆頭株主、大阪市の橋下徹市長である。

東電や関電は、疑いようもなく「悪」なのであるから、「悪に対してモノ言う人=正義」とイメージされがちだ。

ところが、そんなに簡単な話ではないことは、「自民党(悪)にNo!と言って選挙で大勝した民主党が結局悪だった」ということでもわかるとおり。

ここでは、関電株主総会後の橋下徹のこの発言に注目してみたい。


橋下徹・関電株主総会(12)後の記者会見の一部

「役所組織というか行政組織というか、市場原理にさらされずに、倒産することがないと言うことを前提に経営している」

と、橋下徹は関電を批判した。

一見すると、なんだか正しいことを言っているように聞こえる。

橋下徹は一貫して大阪の公務員の問題を取り上げ、大きな支持を得た。
もちろん、大阪に限らず、国政も地方行政も、腐った組織、腐った役人どもが大勢いることは事実である。
原発事故後、経産省や文科省がどれだけ犯罪的なことを行ってきたのかを考えると、僕も、経産省なんかは一度全員クビにすれば良いのにと思う。
また、地域独占の電力が、一生安泰な楽勝経営をしていることは大問題であって、たとえば、リアルに倒産の危機感を持って会社を経営している中小企業の人たちが、橋下徹の意見に「その通り!」と思うのも無理からぬことだろう。

でも、ここではっきりさせておきたい。

もしも、電力会社が「市場原理」にさらされていたのであれば、福島第一のような事故は起きなかったのであろうか?

僕はそれは、まったく違うと思う。
これは、「原子力というのはとにかく危ないのだ」という議論ではない。

原発が国策とされ電源三法のような形で立地体にカネがばらまかれるようなことがなく、つまり地元には直接的な雇用くらいしかメリットがなくて、しかも国策ではないので「安全神話」がなくとも、それでも「市場原理」にさらされた民間企業が原発に参入するかどうか?
これは、リスクをコストに算入した場合、不可能だと思われる。

あるいは、原発が国策で、国が安全神話を流布してくれ、立地自治体に国からカネも落としますよ、と言う場合。
「国策に乗っかろう」という「市場原理にさらされた民間企業」が出てくるのは当然で、原発も作られていただろう。
でも、「市場原理にさらされた民間企業」にとっては、利益を上げることこそが最優先課題であり、福島第一原発事故後、東電の「安全よりも経費削減」体質が明らかになってきたが、もしもこれが東電のような「利益が約束された会社」ではなく、「市場原理にさらされた民間企業」であったならば、もっと激しく安全軽視のコストカットが行われていたのではないかと思うのだ。

もちろん、「市場原理にさらされた民間企業」でも、徹底的に安全にこだわる会社はあるだろう。
でも、この場合の前提は、「市場原理にさらされていること」すなわち、電力の地域独占という状況ではないと言うことだ。
その場合、たとえば東京都民であれば、東電だけではなく「B電」「C電」「D電」…というような選択肢があることになる。
サービス競争や価格競争が始まることになる。

僕は「レバ刺禁止」に大変憤っているのだけれども、これはそもそも、安全よりもコストカット(金儲け)を優先する「えびす屋」というサイテーの企業が起こした食中毒事件が引き金だった。
僕は生肉大好きなので、これまで何十年も、レバ刺はもちろん、熊、鹿、山羊の金玉まで刺身で食ってきた。
もちろん、僕の行く店なんかは大衆店だ。安い価格で出してくれる。
でも、僕自身はもちろん、他のお客さんでも、もしかしたら「次の日下痢した」くらいはあったかもしれないが、深刻な問題になんかなったことがなかった。
どこも、地元で長く親しまれてきているお店だった。
ところがそこに、安全よりもコストカットを優先する「市場原理にさらされた民間企業」が参入したから、死者を出す食中毒事件と言った問題が起こったのだった。

つまり、市場原理のもとでは、もしも99%の企業が安全性を第一に考えていたとしても、「えびす屋」のような悪徳企業が一社あっただけで、大事故になる。

電力会社も同じことで、「市場原理」を導入した場合、事故が起きたときのコストなんか考えずに、安全を軽視して「原発は当面のコストが安いからどんどんやろう」という民間企業がでてきても全然おかしくはない。(それが市場原理と言うものだ)

でも、「えびす屋」事件の被害者の方々には大変申し訳ないのだけれど、焼き肉屋が事故を起こしたときと、原発が事故を起こしたときとでは、その被害は、まったく別物である。
福島県を中心にこれから多くの健康被害が出てくると僕は思うが、たとえそれを差し置いても、何万人もの人々が故郷を追われているのだ。
ほんとうに多くの人たちが、実際に苦しんでいるのだ。

金儲けのことしか頭にないfuckな経営者が世の中にはたくさんいて、僕はそんな連中を心の底から軽蔑するのだが、彼らが大好きな「金額に換算」というやり方をすると、原発事故は何十兆円、何百兆円という国家的な損失になる。
経営者は自己破産すれば許してもらえるが、放射能汚染で奪われた土地は数百年、数千年単位でしか戻ってこない。

要するに。

橋下徹は、「電力会社も市場原理にさらされるべきだ」と言っているのだと思う。
僕ももちろん、電力の地域独占構造には反対だ。また、発電と送配電は分離すべきだと思っている。
でも、「市場原理=善」ということであれば、僕はその考えは根本的に間違っていると思うし、どうも橋下徹にはそういうニュアンスがある。

多くの人が「競争が善だ」と思っている。

もちろん、「ゆとり教育」のときに、徒競走をしても順位は発表しないで全員「頑張りました賞」みたいな話もあって、そんなのはまるで馬鹿だ。
足の速い人はそれだけで賛美されるに値するし、数学の出来る人も、絵が上手い人も同様だ。
だけどそれは、「賛美されるに値する」というだけのことであって、彼(あるいは彼女)の、人間的な(または人格的な)価値の優劣をつけるものではない。

そもそも、誰かに対して人間的・人格的な価値がつけられるか、人間的・人格的な価値なんか存在するのか、というのが大問題なのである。

ここまではきっと、リバタリアンの人たちも同意するだろう。
でもその先は違う。

「競争」ということばは、それ単独では意味がなくて、「100メートルを何秒で走れるか」とか「英単語をどれだけ記憶しているか」とか、まあそういった基準、ルール、ジャッジメント、物差しがなければならない。
それぞれの「ルールの上での競争の勝者」を賛美するのは良いだろう。
でも、そんな勝者も、別のルールでは敗者になる。そういうものだ。

ところが、現実はそうではない。
今のシステムでは、「どれだけ金を儲けられるのか」というルールだけが幅をきかせている。

たとえば、どんなにギターが上手くても、現実的には食っていけない人がいて、彼は「敗者」と見なされる。

「競争原理は正しいよね」なんて問われても、決して「そうだよね」と頷いてはいけない。
「競争」ということばは、それ単独では意味がないのだから。

ええと。

朝の7時半で今夜も泥酔だ。

まとめよう。

橋下徹が「市場原理」を言うとき、それは彼のイデオロギーの表明であると、僕は思う。
すなわち、市場競争こそ是とする新自由主義的な考え方だ。
でも、さっきも書いたように、僕はその考え方には断固反対する。

これまでのブログでも何回も書いたが、イデオロギーというのは、個別の問題についての意見ではなく、社会の在り方そのものについての考え方、理念である。
「市場原理」というのがまさにそれだ。
「自由や競争に意味がある」というふうに、一見誰もが納得するようなことを言っておいて、その実、彼らの言う自由とは「金儲けの得意な奴がいくらでも金儲けできる自由」だし、競争とは「どれだけ金を儲けられるか」というたったひとつの、(くだらない)ルールに基づいた競争に過ぎない。

もしそれを認めてしまうと、たとえ原発がなくなったとしても、新しいエネルギー利権において、今の腐った政府、役人、財界が自分たちの利益のためだけに国民の生命、財産を軽視しているのと同じ形で、「強い者たちの好き勝手」がまかり通る社会が続いてしまうだろう。
つまり「強者のための脱原発」になってしまうのだ。

そろそろ限界。
飲み過ぎて血の気が引いてきた。
おやすみなさい。

【重要】これは歴史上初めてのデモの形だ!!~デモのあとのゴミ拾いと記念撮影

さらに書く。

大飯原発の前で、比喩ではなく文字通り身体を張って再稼働を阻止しようとしてきた人たちの話、
「【緊急】大飯原発前再稼働反対行動を支援しよう」
「追記【緊急・拡散!!】大飯原発生中継・非暴力非服従を貫き、再稼働に反対する勇士たちの姿を見よ!」
「大飯の人たち、お疲れ様でした!」
の続き。

あ、え~と言っておくけれど、僕は飲んでいてなおかつかなりSPEEDY(文科省)に原稿を書いたから、「非服従」か「不服従」か混乱していて誤植が多いけど気にしないでね。

さて。

大飯の前線で再稼働を反対を訴え頑張っていた人たちが一応、解散した。

と思ってたら、なんとなくまたシュプレヒコールを始めているが、今度は機動隊員からも何メートルか離れて、パーカッションを鳴らしながら「再稼働反対」を訴えている。(2012/07/02 午前1時18分)

昨夜は「再稼働反対」だったのが、さっき一旦解散する前までは「再稼働再稼働再稼働反対」というふうに、この24時間で「再稼働を3回繰り返してから反対と言う」スタイルがいつの間にか定着していたのだったが、今はまた「再稼働反対」に戻っている。
これはまあMC次第なのかなあ。

まず思うのが、この柔軟なスタイルが、60~70年代のデモとはまったく違うところだ。
すなわち、デモの主催が「組織」ではないのでその中に上下関係がない。
たまたまマイクを握った奴がMCを努めて、しばらくは彼(彼女)のスタイルでやる。
MCというよりもDJに近いのかもしれない。
現場を見ながら、盛り上げられる奴が盛り上げていく。
うん、すごい。

それから、僕がちょっと外していた間なので見ていないのだけれど、twitterなどによると、デモ参加者は「一旦解散」となったとき、まずは自分たちがいた場所のゴミを拾ったそうだ。

古今東西。
こんな緊迫した抗議活動で、参加者がゴミ拾いをしたことがあったか?

まずあり得ないはずだ。
なぜならば、「敵」が目の前にいるときにゴミ拾いなんかする余裕なんかこれまではなかったのだ。

ではなぜ大飯の人たちがゴミ拾いを出来たのかと言えば、さっきの記事でも書いたけれど、「敵は目の前の機動隊員ではない」からだ。
もしも機動隊員をボコボコに出来たとしても、そんなことにはなんの意味もない。
再稼働を止めるためには、関電、財界、政府、さらにそれを支える日本のシステムそのものを変えなければならないのだ。
だからこそ、彼らは非暴力で闘えたのだし、機動隊員たちも非暴力の市民に対しては60年70年安保闘争のときのような暴力的な対応にでることが出来なかった。

とても良い写真がある。

flower 

大飯原発正面で、立ち塞がる警察官ひとりひとりの胸、腕などに、黄色い花を着けていく女性の写真だ。(ちばゆみさんのtweetからキャプチャーさせていただいた。撮影は冨田貴史さん)

これは昼間。
僕もユーストで実況を見ていたが、警察がどういう出方をするか、まだ全然わからなかった頃だ。

僕は男だからこういう場面はかなりピリピリする。でも、女性は偉い。子どもに接するように、あるいは兄や弟に接するように、無言で立ったままの警察官の服に、花を刺していったのだった。
服に花を刺してくれる女性に対して、いったい誰が彼女のことを公執(公務執行妨害)だなどと言えようか?

また、最前列の若い機動隊員に対して、彼らのお母さん世代の女性がこう語りかける場面もあった。
「あなたがたや、あなた方の子どもたちのような、若い人が犠牲になるのです。上から言われたままではなくて、自分の頭で考えてください」

僕は自分では見ていないのだけれど、twitter上では、そんな話に目がうるうるしていた警察官もいたという。

我々は、若い警察官や機動隊員と争いたいのではない。
むしろ、できることなら彼らと一緒に闘いたい。
財界の一部の連中のためにではなく、国民のためにすべきことは何なのか?
子どものため、未来の世代のためにするべきことは何なのか?
もしも昨日の勤務のあと、家に帰ってそのことを考えてくれた警察官、機動隊員がいたらほんとうに嬉しい。

あとは記念撮影。

デモが一段落したあと、それでも警察官は上の命令がなければ動けないので整列している。
再稼働反対の参加者たちは、ギリギリまで寄って直立不動の警察官の列をバックに記念撮影を始めたのだった。

これも、古今東西こんなことがあっただろうかという出来事だ。

60年70年安保闘争のときにはあり得なかっただろう話だから、その世代の人は違和感を憶えるかもしれない。
でも、21世紀の若い世代は、それが人生の刻み方なのだろう。
49歳の僕には思いつかない発想ではあったが、それこそがこの抗議行動の新しさなのだった。

いずれにしても、結果的に見ればこのデモは、かなり平和的に終わった。
もちろん、参加者が非暴力不服従に徹したのに対して、警察が暴力的な行為に出たのは確かだろう。
逮捕者が出たのかどうかなどはまだわからない。
しかし、このレベルの国策反対の現場のデモであれば、最悪20~30人くらいの逮捕者が出るのではないかと危惧していた僕、あるいは、僕よりも一~二世代上の安保世代にとって、これは驚きではないだろうか?

昨夜からずっとユーストに釘付けで寝ていないので酔っ払ってきた。
まとめに入ろう。

僕は詳しく知らないので断言は出来ないのだけれど、
いわゆる先進国、つまり自由主義を標榜する資本主義国家で、21世紀に入ってから、国策あるいは国の考えにまっこうから反対を唱える大規模抗議行動、しかも今回の大飯の場合は道路をクルマで封鎖するという明らかな法律(道交法)違反の抗議行動を繰り広げていて、今回ほど平和的に解散した例を、僕は知らない。
(たとえば米国の「99%デモ」でも、かなりたくさんの人が逮捕された。)

もちろん、昨夜は解散しても、日が昇ればみんなまた集まるのだろう。
今日もまた、機動隊員の列を目の前にしながら「再稼働反対」を訴える。
そしてその後、「緊迫した抗議行動のあとにゴミ拾いをする」彼らの姿が、日本中に、いや世界中に伝えられる。

これは、世界史でも類を見ない、「まったく新しい社会の変え方」が、今まさに実践されようとしているということなのだ。
このブログではしつこいほど書いているが、これまでとはまったく違った「イデオロギー抜きの社会改革」が実現されようとしているのである。

確かに大飯3号機は再稼働のスイッチは押されてしまった。
しかし、それが我々の敗北を意味するものでは決してない。
歴史は大きく動こうとしている。
と、僕は思う。

とはいっても、ベルリンの壁を壊す市民の姿や、天安門事件で戦車の行く手を阻んだ青年などという「あまりにも象徴的な画」は、僕の考えでは、たぶん、今回はない。
でも、今の流れを見れば、1~2年で、きっと日本は原発を諦めざるをえない。
そしてそのときに、映像として記憶されるのは、2012年6月30日~7月2日、現場で闘ってきた大飯の勇士たちの姿であると思う。

ここで終わりにしようと思っていたのだったが、「1~2年できっと日本は原発を諦めざるをえない」と言ったことについて。

金曜日の官邸デモ、そして今回の大飯の勇士たちの闘いを(ネット上ではあるが)ずっと見ていて、僕は、約50年生きてきた中で、これまでになかった世界の動きを感じざるを得ない。

たぶん、これからの5日間が勝負だと思う。
テレビしか見ずに最前線の勇士たちの闘いを知らない人は、大飯3号機が再稼働されてしまったことに敗北感をもっているかもしれない。
でももしもそんな人だって、
大飯の戦士たちが、機動隊にどれだけ押さえつけられても両手を高く挙げて非暴力を貫き通したこと、あるいは最前列の警察官ひとりひとりの服に花を刺していった女性。
そんな姿を知れば、彼らの闘いがどれだけ意義があったかを知ることが出来る。

つまり、大飯3号機の再稼働は決して敗北などではなく、勝利への布石であると確信せざるをえないと思う。

だから、ユーストを見ていた人はその話をみんなに伝えよう。
大飯に集まった勇士たちがいかに素晴らしかったのかを拡散しよう。

「踊りが嫌だ」とか「レイブぽいのが嫌だ」という人がいるのはもちろんわかる。
でも、大事なのは「~~ぽい」とかいうことではなく、完全に非暴力不服従を貫き通したと言うことだ。

我々は大飯の勇士たちから、腕力(肉体的な力だけではなく財力なども含めて「現実的な力」)に屈しない力を学んだのだ。

我々は知らなければならない。
世界のシステムは、「腕力(カネ)」のある連中が好き勝手作ってきたが、これからは、そうは問屋が卸さないということを。
最前線で闘っている大飯の勇士たちは「腕力(腕っ節)」では機動隊に負けていたが、「腕っ節勝負」に持ち込まないことによって、非暴力不服従で戦い抜いた。
つまり、我々は「腕力(カネ・権力)」なんか関係なく闘えるのだと言うことを知らなければならないのだ。

ユーストで24時間以上聞き続けてきた大飯の勇士たちの「再稼働反対!」の声が、耳の奥でまだこだまする。

アデュー!
寝るよ。酔っ払った。

大飯の人たち、お疲れ様でした!

http://www.ustwrap.info/multi/iwakamiyasumi::iwj-fukui1::iwj-oita1::irene-channel::yuzuru-k::kenbor


現在ユーストの中継を見ると、今夜の闘いはこれで終わりかもしれない。


ほんとうにありがとう!


心から敬意を表します。


20時間以上、ドラムは鳴りっぱなしであった。
今回のデモのリズムセクションこそ、2012年度日本反原発大賞最有力候補ではあるまいか?


それから最後の数時間は、これは治安部隊の常套手段であるが、奴らは参加者を分断する。
最前線の約100人と、その後方の何百人かの人たちの間には機動隊員たちが立ち塞がっていた。


暴力的な反体制組織であれば、このように最前線が孤立化した段階で、作戦の変更を余儀なくされる。
つまり、「力vs力」の闘争と考えているのであれば、味方の分断は致命傷なのだ。
ところが、大飯の人たちは、決して暴力的に原発施設に突入しようというわけではない。
ただ、楽器を鳴らし、歌い、踊りながら、「再稼働反対」をアピールするだけだ。
なので、分断、弱体化を狙った警察の作戦は狙い通りにはいかない。


とはいえ、最前線の100人の人たちがかなり疲労していたことは確かだと思う。
水も飲めない、トイレにも行けないかったかもしれない。


非暴力でありながら、文字通りの意味で「命を賭けている」のだ。


正直言って、戦争であればこんな馬鹿な闘い方はない。
つまり、楽器を鳴らして歌い踊るような、「敵に被害を与えない」体力消耗は、「無駄」の二文字に尽きるからだ。


警察の連中は突っ立ったままだ。眠いかもしれないが体力はそれほど消耗しない。
ところが、我が軍は、踊り続ける。そして歌い続ける。
なぜならば、「敵」は目の前にいる機動隊の若者たちなどではないからだ。


もしも目の前の機動隊員をボコボコに出来る軍事力があったとしても、それで意味があるというわけでは決してない。
敵は、原発建物内で眠っているであろう関電の奴らであり、野田政権であり、カネのためなら弱い人たちを犠牲にしても何も感じない財界の奴らだし、さらに、そんな連中をのさばらしている日本のシステムそのものだからだ。


だから、この闘いは祭りである。
参謀術数を駆使した戦争ではなく、敢えて言えば「祈り」である。
「祈り」とは「思い」の表現のことだが、では誰に対してその思いを伝えようとしているのか?


昔は神だった。
でももう、ほとんどの人は神を信じない。
ところが、神はいないくても、今やネットワークが世界中につながっている。


去年の3月を思いだそう。
僕らは、被災地の人たちのために何か自分が出来ることがしたくって、インターネット、SNSで必死に情報を収集し、そして発信した。
行政に任せていては遅いと、ネットワークで情報を収集発信し、自分たちで行動した。


ジャスミン革命のときは、SNSの情報が国境を越え、アラブの市民はヨーロッパや米国の人たちと連帯した。


今、大飯原発前のユースト視聴者は約1万3000人で、ピーク時の半分である。
それでも、世界中のユースト視聴者ランキングの1位、2位を大飯の中継が占めている。


この、事の重大さに警察当局、そして政府は気がつかないのだろうか?


神のいない21世紀、我々の祈りは、「極めて現実的に」世界中に届いているのである。


ユーストで見る限りまだ元気はありそうだけれど、我々は、最前線で孤立させられた100人の勇士のために何が出来るのかを考えなければならない。
彼らを応援しなければならない。


手っ取り早いのは情報の拡散だ。
もはやマスメディアが役に立たないのはご存知の通り。
明日も、すべてのネットメディアを使って、彼らの闘いを全世界に向けて発信しよう!


前回も言ったが、
今日は、歴史的な日である。
日本という国が始まって以来初めての市民革命になるかもしれない。


最前線で闘う人たちのために、我々も、ネットメディアを駆使して、「祈ろう」ではないか。

追記【緊急・拡散!!】大飯原発生中継・非暴力非服従を貫き、再稼働に反対する勇士たちの姿を見よ!

大飯原発前で、非暴力非服従の勇士たちが闘い続けている。
原発に向かう一本道をクルマで封鎖し、その内側で抗議行動を続けているのだ。

https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=210951801243060233597.0004c3b93ad02de8c60f2&msa=0&ll=35.536277,135.65712&spn=0.020918,0.038581


ユーストの視聴者ランキングでは、世界一位だ。


昨夜深夜、緊張が高まり市民と警察の小競り合いも何回かあったが、午前3時半頃だったか、太鼓の音と共に「再稼働反対!!」のコールが鳴り響くと、警察側も何も手を出せない状態になった。


それから17時間、太鼓の音が途絶えたことはない。
力強いリズムが響き渡る。

まさに、ほんもののロックである。
僕らが、ずっと忘れていたロックンロール。
非暴力非服従の、楽器とことばによる徹底抗戦。

本日18時頃には警察側最前線の機動隊員たちがじりじりと押し進もうとしたが、そのたびに「暴力反対!!」のコールで、機動隊員たちを封じ込めた。


本日18時以前には逮捕者は出ていない模様。(IWJ岩上さんが現地で関係者に取材していた)
だが、18時以降に関しては、逮捕者が出たという未確認情報も。


大飯原発の再稼働に当たっては、政府は「牧野聖修経済産業副大臣を現場に立ち会わせるから安心」などという茶番を企んでいるが、反対行動で陸路から原発入りできなかった牧野聖修は、こそこそと海から原発に入った模様。


もうすぐ21時には、関電はしらっと再稼働のボタンを押すのだろう。
でも、大飯原発前のユーストメインカメラの視聴者は、すでに1万8000人を越えた。
ものすごい勢いで増えている。
計4~7台のカメラが、世界中に勇士の姿を伝え続けている。


たとえもしも再稼働のボタンが押されたとしても、
それが我々の敗北を意味するものではない。
金曜日の10万人規模の官邸前、そして、今現実に大飯原発で行われている抗議行動。


歴史は変わろうとしている。
我々はそこに立ち会おう。
ユーストを見るだけでも良い。tweetするだけでも良い。
参加をして、意志を表明しよう。



(ここまで20:46)


【追記】

何度でもUPするよ。
我々は、どんなに遠くからでも彼らを後方支援しなければならないのだ。

さきほど、県警本部長と所轄所長宛に、「大飯原発は生中継で世界中に見られている。現在配信中の視聴者数で世界一だ」という事実とともに、参加者に暴力的な対応をせぬよう忠告のfaxを送った。


FAXは
福井県警本部 0776-25-0347
小浜警察署  0770-52-6856


みんなも、何でも良いのでできることをしよう!

【緊急】大飯原発前再稼働反対行動を支援しよう

大飯原発につながる一本道で、再稼働に反対する人たちが抗議行動を続けている。

http://www.ustwrap.info/multi/iwakamiyasumi::iwj-fukui1::iwj-fukui2::irene-channel::iwj-oita1::yuzuru-k::%E5%A4%A7%E9%A3%AF%E5%8E%9F%E7%99%BA%E6%AD%A3%E9%96%80%E5%89%8D%E3%82%88%E3%82%8A%E4%B8%AD%E7%B6%99

ユーストの視聴者数(国内だけではなく世界中)でもトップ。

場所は
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=210951801243060233597.0004c3b93ad02de8c60f2&msa=0&ll=35.536277,135.65712&spn=0.020918,0.038581

もちろん、夜を徹しての抗議だ。
太鼓、パーカッションは午前3時頃からひとときも休むことなく鳴り響いている。
一時は、警察、機動隊と緊迫した場面もあったが、非暴力・被服中を貫いており、逮捕者は出ていない模様。
ただ、現在、他県ナンバーの機動隊車両なども現地に集結中との情報もあって、今後の展開はわからない。

http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye5069399.html
http://digital.asahi.com/articles/OSK201207010005.html?ref=comkiji_txt_end
http://www.kahoku.co.jp/news/2012/07/2012070101000224.htm
http://tanakaryusaku.jp/2012/07/0004606?utm_medium=twitter&utm_source=twitterfeed

http://www.tagesschau.de/multimedia/sendung/tt4020.html
ドイツのメディアでも取り上げられているのに、NHKは放送していない模様。

新宿、横浜などのデモに行く人もいるだろうけれど、家にいる人は、youstreamを見ることだけでもしてほしい。

とにかく、今、現実に大飯で何が起きているのか。
しっかり見てほしい。

               

暴力的な排除はしないでと小浜(おばま)警察署に要請を!! 電話 0770-52-0110 FAX 0770-52-6856 ( live at )

(ここまで20120701 15時)

★追記
18時頃から機動隊が人々を押し始める。
離れた場所(後方?)に座っていた女性参加者などは、数人で抱えて排除。
今、19時50分頃、後方からさらに大勢の警察官が出現。
最前線では、非暴力・被服中を貫く参加者が、警察の長髪に乗らずに、ドラムのリズムに合わせて「暴力反対」「再稼働反対」を叫んでいる。
…ロックだ。
ロックの魂が蘇った!

(19:57)

             

6.29首相官邸前抗議集会で、ほとんど目がうるうる

昨日は首相官邸前抗議集会に参加した。

ものすごい人数だった。
僕は、7時頃に着いて総理官邸前交差点のすぐ近くまで行ったのだけれど、その頃は歩道はもちろん、片側二車線のうち歩道寄りの車線も参加者で溢れていて、内側の一車線だけがやっとクルマを通すという状態だったのだが、そのうちにいつの間にか参加者が全車線を埋め尽くしていた。
報道によると、警視庁は事前に「抗議活動としては過去十数年で最も多い」と予測し、数百人体制で警備に当たったそうだ。( http://mainichi.jp/select/news/20120629k0000m040106000c.html

僕も、原発関係のデモは大規模なものは参加してきたが、「参加者人数:(対)警察官人数」の比率がこれだけ違うデモは初めてだ。
昨年9月に行われた6万人規模の「さようなら原発集会」でも、デモ行進の最中には、視界には必ず何人かの警察官の姿が入っていたのだったが、今回はそれがない。
もちろん我々は平和的なデモを目指しているのだけれど、もしもこれが武力デモであれば、首相官邸を制圧できる、という規模である。

念のため繰り返しておくけれど、僕は武力デモをやれと言いたいわけではないよ。
首相官邸前抗議集会は、平和的に、無血無逮捕でやるからこそ意味がある。
親子連れや年寄りも参加できるから意味がある。
だからこそ、警備の警察官も暴力的な行動には出られない。

来週のデモは、さらに多くの人が参加するかもしれない。
当然、警視庁も昨日よりも多くの警察官を配備するだろう。けれど、警察官だって人間だから、火炎瓶を持った奴を叩きのめすことは出来ても、年寄りや女性や子供に暴力は振るえまい。逆に、「これだけ多くの国民が思いをひとつにしているんだ」と痛感せざるをえないと思う。

ところで、昨日の首相官邸前抗議集会の参加者は、主催者発表で15~18万人。
まあ、主催者発表というのは割り引いて考えなければならないのは確かなのだけれど、警視庁発表では1万7000人だって。
先週のデモは、主催者発表4万5000人に対して警視庁発表1万1000人。ここで4倍の差があったのだが、昨日のデモは主催者と警察発表に10倍の開きがある。

東京ドームは、昔は巨人戦で「5万6000人の超満員」などと言っていたが、実際は満員で4万6000人弱であることはご存知の通り。
それでも、東京ドームに野球の試合を見に行った人ならばわかると思うけれど、ぐるっと見回して、見渡せる範囲で4万人以上いるというのは驚きだ。
4万5000人~5万人ちょっとということでいえば、長野県諏訪市、山梨県富士吉田市、神奈川県三浦市、兵庫県洲本市、東京都千代田区などの総人口に相当する。
満員の東京ドームは、そんな市や区の全員を収容しているのだ。
(全然関係ないけれど、僕は子どもの頃から讀賣が大嫌いであったので、東京で野球を見るときはいつも三塁側だ)

いずれにしても4万人というのは「見える範囲の人数」であって、悪いけど昨日のデモは少なくともそれ以上はいたよ。

僕が思うに、最終的には車道を全部ふさがれてしまった警視庁としては大失態だったわけで、だけど警備部の担当者は「自分たちの読みが甘かった」ということにはしたくないのだろう。
デモとか集会とか、そういった大人数が集まりそうな場合、警備部は警備計画を作成して「参加人数○○○人」と予測する。そんな書類に判子をもらった上で、各所轄から何十人、というふうに警察官を動員するのだが、今回は読みが甘すぎた。だけどそれを認めたくはない。警備計画段階の数字と実際の参加者の数字にそんなに大きな隔たりがあっては困る。
「参加者1万7000人」などという、だれでも「違うだろ」と突っ込みたくなる数字を発表するのは、警察が「反原発」「脱原発」のムーブメントを過小評価したい、ということよりも、桜田門の担当者の体面、内部事情のほうが大きいと僕は思うよ。

それはともかくとして。

原発事故からあまり経たない昨年の3月か4月に参加したデモで、まあ参加者は1000~2000人規模だったと思うけれど、解散後も僕はゴール地点にだらだら居残っていた。
30人くらいがその場に残っていた。主催者、関係者は半数くらいだったと思う。

で、「今日のデモで思ったこと、反省や今後はどうすべきか」などということを、意見のある人が語っていったのであるが、僕なんか関係者ではないから喋るのは気が引けたのだけれど、これだけは言っておきたいということがあったので、勇気を持って手を挙げてマイクを握った。

「原発に反対だという思いはみんな同じ。そしてそれに基づいて行動するのは正しいと思う。だけど、特定のイデオロギーや政治的な集団に丸め込まれるようなことにだけはなってほしくない。イデオロギーの連中はカルトと同じで、原発に反対するみんなを巻き込もうと企んでいる。そんなのに飲まれず、『No Nukes』という基本的な考え方だけで、一緒に行動できるようになってほしい」

つまりそのとき僕は、70年安保闘争のことを考えていたのだった。
彼らも、もともとは「社会を良くしたい」と思っていたはずだ。
でも、セクト主義に走り内ゲバを起こし、人々に見放されたのみならず、結果的には「社会を批判するのは良くないことだ」という風潮までをも作り上げてしまった。
その敗北の歴史を、繰り返してはならない。
しかも、「原発に反対」というのは、要するに「いい人」が多いから、その分政治的な集団にたやすく洗脳されてしまうのではないかという危険性を感じてしまう。
そういうことだった。

ところが。

昨日の首相官邸前抗議集会に参加して、僕が感動してほとんど目がうるうるしてしまったのは、組織の旗や横断幕、プラカードが全然ない、ということだった。
つまり、いわゆる組織的「動員」がない。
じいちゃんばあちゃんもいれば、若くて可愛い女の子も、ベビーカーの親子連れもいる。
去年の春に僕が思ったのは、まったくの杞憂であった。
というのか、ある意味みんな、イデオロギーに絡め取られるような、そんな馬鹿じゃないのだ。
大変失礼いたしました、ていうか、この「反原発」「脱原発」ムーブメントの底力を見たような気がしたのだった。

前々回(http: //ameblo.jp/jun-kashima/entry-11282960906.html)、前回(http: //ameblo.jp/jun-kashima/entry-11286288504.html)も書いたが、

「「反原発」「脱原発」はイデオロギーではない」
「むしろ「原発推進」こそがイデオロギーである」

我々はイデオロギー闘争をしているのではなく、単に総意として「原発を止めろ」と言っているのである。

事故直後から昨年の秋くらいまでは、テレビのキー局や新聞(全国紙)のほとんどが、御用学者の意見や大本営を垂れ流す御用メディアに成り下がっていた。
ときどき当時のブログを読み返すと、僕も当時、総務省のインターネット検閲など、今よりもずっと深刻に考えていたし、正直言って政府、官僚、財界、電力、メディアを含めた原子力ムラは、どんなに乱暴なこともしかねないと思っていた。かつて桜田門の2階(取調室階)に2週間、朝から晩まで通った身であるから、恐怖すら感じていた。

でも、少しずつではあるが、良くなってきている。

これまで存在は知っていても行ったことがなかった僕が偉そうに語るのも憚られるが、首相官邸前抗議集会についていえば、数週間前から劇的に風向きが変わった。
もちろん、ネットが果たした仕事がとても大きいのだろう。(これについてはもっと深く考えてから何か書きたい)
しかも、ある程度の規模になってくるとマスメディアもこれを無視するわけにはいかない。
キー局や全国紙で報道されれば、参加者、賛同者も増える。
大事なのはこれは、組織が日当を出して「動員」したような「首謀者がいる運動」ではないから、誰にも流れは止められない、ということだ。

最近ずっと書いていなかったので、久しぶりに宣伝させてもらおう。

去年、京都大学原子炉実験所の小出裕章さんと、チェルノブイリの子どもたちを診てきた小児科医の黒部信一さんの共著、『原発・放射能 子どもが危ない』(文春新書)を、企画、編集した。
原発・放射能 子どもが危ない (文春新書)/文藝春秋
¥798
Amazon.co.jp
amazonの書評を見ればわかるけれど、小出さんとは政治的な考え方がまったく反対の人からも高い評価を得ている。
「子供を持つ人に何か一冊」ということであれば絶対にこの本、
と自画自賛だ。
文春がなかなか増刷しないので入手困難な時期もあったようだけれど、先月増刷したので是非。

と、宣伝はいいとして、この本を作るに当たって小出さんとはずいぶん行動を共にさせていただいた。
で、いろいろな人がいろいろな質問を小出さんにするのを聞いてきたのだけれど、
「原発を止めるために、なにをしたらいいのでしょう」
という問いが、どこに行っても必ずあった。

それに対する小出さんの答は
「それがわかっていたら、とっくに私がやっています」
である。
が、
そのあとにこう付け加えた。
「絵が描ける人は絵を、音楽が出来る人は音楽を、デモに参加できる人はデモに参加を。みなさんそれぞれが出来ることをやってください」

ほんとうにその通りだと思う。

そして、みんなが、それぞれ「できること」として参加したのが、昨日の首相官邸前抗議集会だった。
参加したくても出来ない人たちが参加者の数百倍はいたはずだが、多くの参加者がtwitterや動画生中継でデモの様子を拡散していた。
それを見た人たちは、次回参加する人もいるだろうし、デモに参加はしないけれど次の選挙では原発を推進する候補者には絶対に入れないという人もいるだろう。

いずれにしても、
それぞれが出来ることを。

それが、大きな力になろうとしている。
大飯についてだけ言えば、「奴ら」は意地でも再稼働させるだろうけれど、それは我々の敗北ではない。

…とまあ、今夜のブログの趣旨はこんな感じなのだけれど、

じつはここからが大問題で、「反原発」「脱原発」の人でありながら、彼のイデオロギーは原発推進と通底する、ということがある。

我々の「反原発」「脱原発」は、どんなデモに行っても必ずコールされる「子どもを守れ!」、すなわち「弱い者を守れ」ということなのだけれど、それとは逆の「強い者を味方する反原発・脱原発イデオロギー」もあるということだ。
これが厄介だ。

でもまあ今夜はここまで。
また今度。

誰のための「原発推進(イデオロギー)」か?

この前の記事(を書いたのは、前半はそうでもなかったのだけれど後半はほぼ泥酔で、朝の7時過ぎにアップして、翌朝、というか翌昼、というか翌夕4時過ぎに起きたときも「年に四回」レベルの二日酔いで、失礼しました。

イデオロギーというのは、「社会はこうあるべきだ」という社会的・政治的な主義主張なわけだけれど、3.11以後、多くの人がイデオロギーなんて関係なく「反原発」「脱原発」を訴えているという話をした。
それに対して、「原発推進」こそイデオロギーだと言うことを書いたのだった。
この部分を「1.」で少し丁寧に書くことから今回の記事は始めよう。

言っとくけど長いよ。1.2.3.4.の4テーマだ。

1.

具体的な話として「社会はこうあるべきだ」というのは、人によって違う。
たとえば、年寄りの介護で大変な思いをしている人であれば、老人福祉をもっと充実させるべきだと思うだろうし、犯罪に遭って家族を亡くした人の中には、社会はもっと犯罪者に厳しくあるべきだと思う人もいるかもしれない。
ところが、老人福祉を充実させようとすれば別の予算がその分減って「損する」と言う人もいるわけだし、犯罪者であっても人権を最大限尊重しなければならないと考える人は、犯罪の厳罰化には反対するだろう。

つまり、「こっちを立てればあっちが立たない」。
ある立場の人にとっては得だが、別の立場の人には損になる。
ある考えの人にとっては歓迎すべきものでも、別の考えの人には決して認められない。
だから、「結局その考えは誰の味方なのか」ということになる。

また、イデオロギーというのは、単に老人福祉を手厚くしろとか、犯罪の刑罰を重くしろという「個別の具体論」ではない。
そんな個別の具体論を取り込んだ形で、「社会全体はこうあるべきだ」という思想体系である。
そこには、根本の価値観が、つまり個別の具体論ではなく、ある意味抽象的な理念がある。

「反原発」「脱原発」がイデオロギーではないのは、個別の具体論(すなわち原発は止めろ)という部分にしか共通項がないからだ。
だから、反原発のデモには、左翼も右翼も参加するし、ロハスの人もいれば「ロハスなんて気持ち悪いけど東電は許せない」(僕)というような人もいる。

それに対して「原発推進」はイデオロギーである。

まず、
誰の味方なのかと言えば、経済界である。あるいは官僚や政治家、御用学者、御用マスコミのように、原発で利益を得ている人の味方である。
決して、「子どもの被曝を心配する親」の味方ではない。
「こっちを立てればあっちが立たない」わけで、「子供に被曝をさせないためにも原発を止めよう」という思いと、「経済のため、利益のために原発を動かそう」という考えは両立し得ない。

はっきりしておなければならないのは、現政権は「停電したらみんな困るでしょ」というような理屈で人々に散々脅しをかけているが、それは単なる方便であって、もしも「子供の健康」と「経済」(というと聞こえが良いが結局は「財界の利益」)の二者択一であれば、後者を選ぶのが「原発推進」の考え方だと言うことだ。

もちろん「原発推進」は「個別の具体論」ではあるけれど、それは「抽象的な理念に基づいて体系化された社会思想の一部分である。

その思想というのが、新自由主義であり、また、カネや権力を持つ人たちの「身内の理論」だ。

ちょっと脱線するけれど、「自由」というとそれだけで価値のあることだと考えている人が多い。

しかし、「純粋な自由」などというものは存在しない。
「表現の自由」「集会の自由」、あるいは「脱獄して自由になった」のように、自由というのは「~~についての自由」「~~からの自由」というふうに、限定的に語る以外ないのであって、絶対的な、完璧な自由なんて単なる言葉遊びで、端的に存在しないのである。

で、「新自由主義」イデオロギーの「自由」とは、金儲けが好きな奴、金儲けが得意な奴が「好きなだけ儲ける自由」のことだ。
だから彼らは、「小さい政府」とか「規制緩和」とか上手いこと言って、要するに「俺に自由に金儲けをさせろよ」と主張しているのである。

それから、「カネや権力を持つ人たちの身内の理論」。
金持ちがいつまでも(孫、ひ孫の代までも)金持ちでいられるように、権力者がいつまでも権力者でいられるように、彼らは仲間内で担保し合う。
そういう理不尽な結束は、じつは、新自由主義の考えと矛盾するところがあるはずなのだけれど、どういうわけか共存している。

そして、そんな発想から産み出されているのが、
「世界の中心には「金儲けの好きな奴」「金儲けが得意な奴」がいるべきで、彼らが「自由に金儲け」することによって世界は上手く行く」
というイデオロギーだ。

「原発推進」というのは、そんなイデオロギー(世界観)のなかの「個別の具体論」のひとつなのである。

でも、イデオロギーというのは「思想体系」であるから、「積み木の城」のようにどこかひとつでも崩されるとすべてが崩壊しかねない。

昔の左翼の中には、内ゲバ殺人をやった連中がいて、「事件としての内ゲバ」ということで考えれば、そこには人間関係や感情の問題などもあったと思うけれど、彼ら自身のイデオロギーとしては、「我々、前衛革命部隊の中には、たとえひとりでも反動分子がいてはならぬ」ということなのだ。
彼らの言う「反動分子」とは「反革命的な奴」のことで、一緒に運動をしている仲間に対しても、化粧をするだけで資本主義的つまり反革命的だなんて、滅茶苦茶な言いがかりをつけたりしていたのだ。
その考えの底には、もしもほんのちょっとでも「資本主義的なこと」「反革命的なこと」を許せば自身のイデオロギーがすべて崩壊する、というような「積み木の城」理論(あるいはイメージ)があったのは確実で、それはまさに、野田佳彦と愉快な原子力ムラの連中が結託して、「どんなことがあっても夏までに再稼働させる」と、強引に大飯を再稼働させたのと、イデオロギーとしての構造はまったく同じである。

2.

「メディアは電力からがっぽり広告料をもらっているから原発を悪く書けない」
という話が、3.11以後1年間くらいは盛んにされていた。

もちろんそれもひとつの事実であろう。
でも、最近になって、ほんとうに徐々にではあるがテレビキー局や全国紙でも「反原発」の動きを取り上げるようになってきている。
たとえば、朝日新聞は昨年、「100ミリシーベルトは安全です」と福島で説いて回った極悪人の山下俊一を「朝日がん(癌)大賞」に選んで、多くの人を愕然とさせたが、昨日のネット記事(本紙に載っているかどうかは見ていない)では、大飯再稼働に反対する2000人規模のデモを紹介した。(去年は何万人規模のデモも無視していた)

朝日新聞が心を入れ替えたのかどうかは僕は知らない。
所詮AKBの総選挙を大々的に取り上げるような新聞だから、単なる人気取りかもしれぬ。
でも少なくとも、AKBの総選挙を無視できなくなったのと同じレベルでは、「反原発」の動きを無視できなくなったのは確かだろう。

また脱線するけれど、大手広告代理店、具体的に言えば電通は、僕らが考えているよりもずっと頭が良い。
もちろん阿呆な電通社員もいっぱいいるけれど、要所要所にはとても柔軟でアタマの切れる奴がいる。
そういう連中が、片方ではこれまでのようにニコニコしながら原子力ムラに接していると同時並行に、反原発の流れもきちんと計算して先を見据えている。
イデオロギーというようなくだらないレベルではなく、世界をきちんと「読んで」いるわけだ。

僕はべつに、電通を褒めたいわけじゃないよ。
でも実際問題、世界一の広告代理店が人々の反原発意識を無視できるはずがなく、それもあってメディアでも、原発に対する疑問符を語れるようになってきたのだと思う。

ところがどっこい。
原発推進「イデオロギー」にどっぷり漬かった大手メディアもある。
イデオロギーに縛られているから、他の立場での報道はできない。その意味では朝鮮中央テレビと同じだな。要するに「原発推進イデオロギー」の御用メディアだ。

新聞で言えば、みんなもうわかると思うけれど、讀賣と産経。

讀賣はなにしろ「原発の父」正力松太郎の新聞だ。
産経は経済紙だが、最大手経済紙日経がある意味ニュートラルに(カネの流れのことだけを考えて)紙面を作っているのと対照的に、まあ毎日読んでいるわけではないので断定してはいけないのかもしれないけれど、僕が見かけるのは宗教的とも言えるほど明確に「原発推進イデオロギー」信仰記事ばかり。ことばの端々まで原発推進で、読むと、怒るよりも呆れて笑ってしまう。

産経の昨日の記事で面白かったのはこれ。
原発推進のための連載「原発再考」の9回目だ。(http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120624/wec12062412000002-n1.htm
こういうふうに始まる。

 「電力危機が招く経済的、社会的影響は深刻です」
 異例の意見広告だった。
 関西電力大飯原子力発電所3、4号機の再稼働が決定する10日前、6月6日付の読売新聞朝刊(大阪発行)に掲載された。広告主は産業・家庭用ガス販売大手の岩谷産業である。
 一企業が新聞の1ページを使って原発再稼働を要望するのは初めてだ。「低炭素社会を目指す基本姿勢を持つ当社の立ち位置を示すために広告を出した。反響は賛否両方で、賛成の方が多い感じがする」と岡田高典広報・社会関連部担当部長は説明する。
 意見広告は産業界の切実な声といえよう。


おお!
御用新聞どうし、産経と読売が連携を始めたのか!?

それにしても、讀賣の岡田高典広報・社会関連部担当部長が言う
「反響は賛否両方で、賛成の方が多い感じがする
というのには吹き出した。
あのさあ、新聞社の部長なんだから、「感じがする」じゃなくて「事実」を述べろよ。
お前の「感じ」なんて聞きたくないんだよ。
せめて「編集部に届いた電話やメールの約6割は賛成だった」とかさ。
新聞社の部長が他紙で正式にコメントしてるんだよ。恥ずかしくないのかな。
まあ所詮讀賣だから、賛成する読者が多いのかもしれないけれど、なんの根拠もなく「感じがする」はあり得ない。「テレパシーで感じました」でも良いので「感じがする」理由を述べてください。

あと、これからの季節、屋外でバーベキューなどをする人も多いと思うのですが、イワタニのガスコンロやボンベだけは買わないようにしましょう。

いずれにしても、ズバリ
「産業界の切実な声といえよう」と書いてある。
さっきも書いたように、原発を動かせという「産業界の切実な声」と、原発を止めてという「小さい子供を持つ親の切実な声」は、両立できない。
産経はっきりしている。
「親の切実な声」より「産業界の利益」を優先するというイデオロギーだと言うことだ。

産経のこの「原発再考」連載は、他の回でも左翼過激派の機関紙(最近目にしていないのだけれど「前進」とか「解放」とか)並みの「イデオロギー全面主張」で、カルト(宗教)の雰囲気さえ漂わせている。

3.

新聞の話になったところで次の話題だ。

震災からほぼ1年後の今年3月10日以来、僕は毎月福島に行っている。
「てつがくカフェ@ふくしま」に参加するためだ。
そしてそのあと、福島の人たちと夜中まで飲むためだ。
具体的に記事にするとか本にするとか、そういう目処があるいわゆる取材ではない。
ただやはり、僕は原発について語らざるを得ないし、それが本であろうと雑誌であろうとブログであろうと、あるいは誰かにあって直接語る場合であろうと、福島の人たちを無視して語るわけにはいかない。

もちろん、月に一回東京から出かけていって、たった数人~数十人と会っただけで福島のことを語れるようになるとは思わない。
でもねえ、不思議なことに土地というのは愛着が沸いてくるんだな。
たった数ヶ月でも、定期的に訪れるとその土地が好きになってくる。

僕は海外経験はほとんどと言って良いほどないのだけれど、国内はいろんなところに行った。
僕にとって唯一自信があるのは「日本語」なので、海外では「旅の英会話ハンドブック」に載っているようなコミュニケーションしかできなくて、そういうストレスはかなりある。
でも、日本語であれば、東京ことばであれ、福島ことばであれ、琉球ことばであれ、お互いに「伝えたい」「聞きたい」と思って接すれば、ちゃんとしたコミュニケーションが取れる。

それはともかく、定期的に訪れると土地に愛着が沸く。
土地というのはもちろん地面のことではなく、その土地の人々、文化、喋り方、景色、まあすべてだ。

福島駅西口駅前には線量計があって、現在の空間線量をリアルタイムで表示している。
0.8~0.9μSv/h。
本来の基準であれば、そこで食事をしたり眠ったりしてはいけない、ましてや意味なく子供を連れ込むことなど許されない「放射線管理区域」の線量だ。
僕はもう来年50歳なので気にしないが、もしも小さい子供がいたら連れては来ないと思う。
正直言って、あんまりの数値だ。

でも、それがわかっていながらも、その土地を愛して住み続けている人たちがいる。

それを考えると僕は途方に暮れてしまう。
僕が福島を定期的に訪れるようになったのは、偉そうな言い方をすれば、最初はそのに住む人たちと向き合ってみたかったからだ。
でも、そのうちに、同じ人に何度も会い、街の方向感覚もついてくると、だんだんと自分もその土地を好きになってくる。
「今日のために東京から新幹線で来た人」であるのは変えがたい事実なのだけれど、不思議なローカル意識が芽生えてくる。
すると、少しずつではあるけれど、今まで聞き取れなかったその土地の人々の「ことば」がリアリティを持って響いてくる。

そんなわけで、昨日(というか6/23)も福島で飲んで一泊した。
「てつがくカフェ」とは言うが、昨夜なんて最後の店では「哲学的セックス談義」だ。震災も原発も関係ない。

でもさあ、我々はそんなにインスタントに他人と触れ合えるわけではない。
僕は熱心なブロガーではないのでときどきしか記事は更新しないけれど、原発のことを考えない日はない。
しかし、
福島原発のことをまったく抜きにして福島の人たちと語れる日がきっとやってきて、そのときに初めて、福島原発のこともわかるような気もする。

ええと。

新聞の話題のはずだった。

福島に来たときには必ず地元紙を買う。
僕は不勉強で知らなかったのだけれど、都道府県ごとの地方紙はどこでもほとんど一紙だけで、唯一、じゃない唯二、沖縄と福島だけ二紙あると聞いた。

沖縄は沖縄タイムスと琉球新報。
福島は、福島民報と福島民友。
奇しくも、米軍基地の沖縄と、原発の福島である。

まあそれはともかくとして、僕は新幹線で福島に着いたら、まず駅売店で民報と民友を買う。
で、いつも思うのだけれど、民報、民友に原発関連の記事が載らない日はない。
たとえ一面で載らなくとも、二面、三面の五段抜き記事にはなっている。

当たり前の話だ。
福島の人たちの中にも「原発絶対反対」から「仕方ねえんじゃないの」までいろいろいる。
でも、どんなに意見が違っても、原発事故を完全に忘れられる人はいないはずだ。

たとえば県内各地の昨日の放射線量が掲載されているのはもちろんのこと、民友には「第一原発付近の天気と風向き」も毎日掲載されている。
東京にいる人間(僕)は、さすがに去年の3月4月は風向きを気にしたけれど、それ以来風向きのことなんか考えてもいなかった。
でも、福島の人たちにとっては、風向きがリアリティなのである。
聞くと、今ではもう普段原発のことなんか話題にしないという人も多い。
しかしそれでも、「第一原発付近の天気と風向き」は、リアリティなのである。
野田佳彦は、そのリアルさをわかった上で、それでも大飯は再稼働すると言ったのだろうか?

あと、これは全国紙に載ったのかどうか知らないのだけれど、飯舘村が行った村民の意向調査の結果が6/23付けの民報、民友の二紙に載っていた。

「(村に)すぐに帰らないがいずれ帰る」が45.5%。「避難解除されれば帰りたい」(12%)とあわせて、6割の人が「帰りたい」と願っている。
一方、三分の一の村民が「帰るつもりはない」(33.1%)。
また、除染の効果については「大いに期待している」「一定程度期待している」人を合わせても10.7%。
つまり、除染の効果を期待している人は10人に一人しかいない。
(除染の効果は)「まったく期待できない」または「あまり期待できない」と答えた人が44.1%で、要するに約二人に一人は「除染は無理だ」と思っているのだ。

政府、特に僕の大嫌いな細野豪志などは、「除染」「除染」というが、「あなたのいうことなんかは現地の人にはまったく信用されていないんだよ」ということを肝に銘じてほしい。

4.

例の如く長くなり、例の如く酔ってきた。

でも、これだけは書いておこう。

6/23の「てつがくカフェ@ふくしま」は、ひとつの短編小説を読んで参加者が議論する、というものだった。

カフカの「断食芸人」だ。僕なんか30年ぶりのカフカである。

この優れた作品をあらすじにまとめるのは無謀だけれど、敢えて言えば

・断食を芸とする男がいた。檻に閉じ込められ水しか飲まずに40日間。その様子を24時間、常に人々に晒しているのである。
・そんな芸がウケて喝采を浴びた時代もあった。しかし、やがて人々はその芸に飽き、断食芸は「ピン」では務まらず、動物園のように動物の檻と並べられて展示されるようになってしまった。もはや誰もが断食芸に対しての関心を失い、檻にかけてあった「断食○日目」の看板の更新さえ忘れられてしまった。
・しかし彼には、断食芸人としてのプライドがあった。「これ以上はヤバい」と40日間で止められていた断食芸であったが、「自分はそれ以上やれる」と思っていた。
・そうして、ほとんどの人に忘れ去られたまま、彼は断食を貫徹し死んでいく。

まあそんな話で、興味のある方はamazonででも検索してくれれば良いのだが、
僕は、ざくっとその一端だけ言ってしまうと、
「彼が死ぬまで断食を貫いたのは、他人に認められるかどうかという問題ではなく、それこそが彼の生き方、生きる意味そのものだったからだ」という感想を述べた。
断食を貫かなければ、彼が自らに認めた存在理由がなくなってしまうのである。
彼にとっては、自分を自分として支えていくつっかえ棒、あるいは誇り、あるいは価値。
そのすべてが断食だったのであり、だからこそ、好むと好まざるにかかわらず、死ぬまでそれを貫くしかなかった。
てつがくカフェ@ふくしまの場で、僕はそんな話をした。

もちろん、僕の言うことが優れているとか、カフカの「断食芸人」についての素晴らしい解釈だなどと言うつもりは毛頭ない。
ここで書きたいのは、僕のそんな発言のあとに福島の人が言ったことばである。

「飯舘村の農家の人と同じですね」

僕は、カフカの短編を原発事故と重ねて読むなんて、それまで想像もできなかった。
しかし、飯舘の村民ではないもののその近くに住む彼にとっては、
「生き方を貫く」「自分の存在理由」という問題は、僕のような三流ライターがほんの思いつきで言ったことばを頼りにしても、「飯舘村の農家の人」のリアリティに直結するのであったのだ。

うちの白黒猫が、にゃんにゃんないて「食事をよこせ」という。
人間並みに好き嫌いがあって、もう13歳だからと高齢描用のヘルシーで値段の高いキャットフードを買ってくるのだけれど、そういうのはだいたい食べない。せっかく買ってきたのに無駄になったりする。

というふうに、猫は気まぐれで意志や考えがあるように見えるけれど、それでも、たぶんきっと、自分の存在理由について考えたりはしない。悩んだりはしない。

ところが人間は、たぶん、そういうわけにはいかない。

僕は今だって、こうしてだらだらと文章を書いているが、これは誰に命じられたのでもなければ、原稿料がもらえるわけでもない。「効率性」という観点から見れば最悪の行為だ。

ところが僕は、(ブログに書くのはときどきだけれど)なにかを書かざるを得ないし、今夜のこのくだらない文章でも、原稿用紙にすれば20~30枚にはなるはずだ。
酒の肴に映画を見たり本を読んだり音楽を聴いたりする人は大勢いて、僕が飲みながら原稿を書くのもそれと同じように、単なる酒の肴なのかもしれないけれど、人はきっと、このようにして自らの存在を肯定し、生きていく意味を確認し続けなければやっていけないのではないか、と思うのだ。

福島の農家の人も、「補償で暮らしながら先のことを考えて人生をやり直す」と決断した人は多いのかもしれない。それはまったく悪いことではなく、悪いのは東電や政府なのだから、最大限の保証がなされるべきだと、僕は思う。
でも、「どんなに線量が高くても、自分はここで生きていくしかない」と思う人も、やはりたくさんいるのだろう。
たとえ基準値を超えて農作物が売れなくとも、「この土地を耕し続けるしかない」と思う人も、やっぱりいるのだろう。

人が自らに許した存在理由や生きる価値は、ベクレルやシーベルトで数値化できるものでは決してない。

人の「尊厳」を数値化する、さらにいえば、それをなるべく安い値段に落とし込もうという東電の目論見は決して許されるものではないし、原子力というのがこのように人の尊厳を軽々しく貶める存在であることが明らかになった以上、財界が経済都合でなんと言おうと、役人が外交都合でなんと言おうと、原子力を続ける、と言う選択肢はもはやあり得ない。と僕は思う。