【全文引用】国会事故調報告書は、「はじめに」だけでも必読だ。 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

【全文引用】国会事故調報告書は、「はじめに」だけでも必読だ。

昨夜は18時頃まで新宿で打ち合わせがあり、その後立ち飲みのもつ焼き屋で本を読みながらひとりでだらだらと生ビール、レモンサワー、日本酒、酎ハイ+梅干しなど飲んで、22時くらいに家に帰り、仕事メールの返信とか雑務をしたあと、さらに焼酎緑茶割りなどを延々と飲み続けながら、さっきアップした
『野田佳彦は、日本を駄目にしようとしているばかりか、人間社会そのものを否定している。』
を書いたのであった。

↑この記事は是非読んでほしい。

僕は、学部レベルではあるが、ちょっとは哲学を勉強した。
専門的な用語を使って申し訳ないのだけれど、考え方のベースは分析哲学で、特にウィトゲンシュタイン(僕的には20世紀最大の哲学者)に「やられた」派である。
分析哲学やウィトゲンシュタインについてここでいろいろ書くつもりはない。
ただ、哲学のことは何も知らないという人も「豆知識」としてでも憶えておいてほしいのは、ウィトゲンシュタインという人は「ことば」に徹底的にこだわったということだ。

僕は、もう30年以上毎日文章を書いているわけだけれど、「文章ってなに?」「ことばってなに?」というのが30年前から常に「問い」としてある。

「ことばは真実を語れるのか」
「ことばは他人に伝わるのか」
「言葉にできない感情や、みんなが「心」ということばでしか呼べないものとはなにか」

などなど。

もちろん、「ことば」をいくら分析してみたところで、決して「真実」(があるとすればだ)には近づけないのは当然の話だ。
でも、我々の思想やコミュニケーションが「ことば」(広義の意味で)に頼っている以上、哲学も「ことば」で表明するしかないのであって、であれば「ことば」を問い詰めなければならない。

おっと、
ごめん、こんなこと書こうと思っていたのではなかったよ。

先ほどアップした前回の記事で書いたとおり、野田佳彦や官僚、電力の連中の「ことば」は、誰が聞いても「逃げ道を用意してやがる」「嘘ついてるな」と思わせるものばかりで、そこには誠実さや、正直さはかけらもない。

だから、昨日(7/5)、国会の福島原発事故調査委員会の報告書がついに上がってくるというニュースを聞いたときも、あまり期待していなかったのだ。

報告書提出後も、報道によってはその中で取り上げられている「事故後、東電が現場から全面撤退すると言ったのは事実かどうか」なんていう話を今更記事にしていて、でも僕としてはそんなことどうでもいい。
つまり、いわゆる「言った言わない」の話で、正直僕は興味ない。
というか、数百~せいぜい二千文字の新聞原稿の中で「言った言わない」問題を取り上げる新聞社のほうがどうかしている。

東電が全然撤退すると言ったか言わないかは事故後の話であって、それ以前に、
「事故はなぜ起きたのか」を解明することこそ、事故調の使命である。
それを踏まえて、「何がいけなかったのか」「ではどうすべきか」の議論の叩き台にすべきなのがこの報告書なのである。

と、まあ、
全然期待せずに、さっき、報告書ダイジェスト版を読んだのだけれど、はっきり言って驚いた。
つまり

「おおおおお! よくぞ書いた!」という感じだ。

ここに、「報告書」の最初に掲載された「はじめに」という部分を全文引用する。

野田佳彦をはじめとするクズ政治家どもや、自分と所属官庁の保身しか考えない糞役人、財界の中枢に君臨する東電の馬鹿役員、阿呆社員どもが、犬のうんこ以下のレトリックを駆使して、滅茶苦茶な日本語を使っているのとはまったく対照的に、この文章は、平易で、かつはっきりしている。

期待していなかった分評価が高いのかもしれないし、正直今酔っているので、きちんとした感想は書けない。

とりわけ、
「新卒一括採用、年功序列、終身雇用といった官と財の際立った組織構造と、それを当然と考える日本人の「思いこみ(マインドセット)」があった。」と言う部分は、過去の電力、財界への批判とはなっているものの、日本でも新自由主義が台頭した21世紀において、それでも原発事故は起こるべくして起こったという事情に言及しておらず、残念なことである。

とはいえ、
福島原発事故を「歴代及び当時の政府、規制当局、そして事業者である東京電力による」明確な「人災」と位置づけ、それが、国民の命を守ることよりも組織の利益を守ることのほうが重要だという「入社や入省年次で上り詰める「単線路線のエリート」たち」が安全を軽視した結果起こった事故である、という事実を、この報告書は明確に打ち出した。
もちろん我々にしてみればそんなことわかりきった話であるが、政府も官僚も電力も、311以後それを一切認めてこなかったわけで、これが国会事故調から出されたという事実は大きい。

(国会事故調の報告書はhttp://naiic.go.jp/report/からすべてDLできる。なお、以下の引用文で、赤い文字や下線、大きな文字などに加工したのは、すべて僕(鹿島)である)

……………………

福島原子力発電所事故は終わっていない。

これは世界の原子力の歴史に残る大事故であり、科学技術先進国の一つである日本で起きたことに世界中の人々は驚愕した。世界が注目する中、日本政府と東京電力の事故対応の模様は、世界が注目する中で日本が抱えている根本的な問題を露呈することとなった。
想定できたはずの事故がなぜ起こったのか。その根本的な原因は、日本が高度経済成長を遂げたころにまで遡る。政界、官界、財界が一体となり、国策として共通の目標に向かって進む中、複雑に絡まった『規制の虜(Regulatory Capture)』が生まれた。
そこには、ほぼ50 年にわたる一党支配と、新卒一括採用、年功序列、終身雇用といった官と財の際立った組織構造と、それを当然と考える日本人の「思いこみ(マインドセット)」があった。経済成長に伴い、「自信」は次第に「おごり、慢心」に変わり始めた。入社や入省年次で上り詰める「単線路線のエリート」たちにとって、前例を踏襲すること、組織の利益を守ることは、重要な使命となった。この使命は、国民の命を守ることよりも優先され、世界の安全に対する動向を知りながらも、それらに目を向けず安全対策は先送りされた。そして、日本の原発は、いわば無防備のまま、3.11 の日を迎えることとなった。

3.11 の日、広範囲に及ぶ巨大地震、津波という自然災害と、それによって引き起こされた原子力災害への対応は、極めて困難なものだったことは疑いもない。しかも、この50 年で初めてとなる歴史的な政権交代からわずか18 カ月の新政権下でこの事故を迎えた。当時の政府、規制当局、そして事業者は、原子力のシビアアクシデント(過酷事故)における心の準備や、各自の地位に伴う責任の重さへの理解、そして、それを果たす覚悟はあったのか。この事故が「人災」であることは明らかで、歴代及び当時の政府、規制当局、そして事業者である東京電力による、人々の命と社会を守るという責任感の欠如があった。

この大事故から9か月、国民の代表である国会(立法府)の下に、憲政史上初めて、政府からも事業者からも独立したこの調査委員会が、衆参両院において全会一致で議決され、誕生した。今回の事故原因の調査は、過去の規制や事業者との構造といった問題の根幹に触れずには核心にたどりつけない。私たちは、委員会の活動のキーワードを「国民」「未来」「世界」とした。そして、委員会の使命を、「国民による、国民のための事故調査」「過ちから学ぶ未来に向けた提言」「世界の中の日本という視点(日本の世界への責任)」とした。限られた条件の中、6か月の調査活動を行った総括がこの報告書である。

被災された福島の皆さま、特に将来を担う子どもたちの生活が一日でも早く落ち着かれることを心から祈りたい。また、日本が経験したこの大事故に手を差し伸べてくださった世界中の方々、私たち委員会の調査に協力、支援をしてくださった方々、初めての国会の事故調査委員会誕生に力を注がれた立法府の方々に深い感謝の意を表したい。

東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)
委員長 黒川 清