野田佳彦は、日本を駄目にしようとしているばかりか、人間社会そのものを否定している。 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

野田佳彦は、日本を駄目にしようとしているばかりか、人間社会そのものを否定している。

僕はtwitterはほどんとやらない。

世間に公開しながら140文字単位のコミュニケーションを行う、というのは性に合わないのである。
まあ要するに、僕のネットリテラシーの低さということかもしれない。
前にも書いたかもしれないけれど、昨年の4月には、斉藤和義さんの反原発ソング『ずっとウソだった』をtwitter上で批判した人(twitterではある程度の影響力があろう方)に対して、4000文字くらいの反論を書いて、取得したばかりのtwitterアカウントから140文字単位に分割し@で送りつけた。
書いた内容については今でも間違ってはいないと思っているけれど、やり方はいけなかった。そりゃ迷惑だろう。
主張の是非以前に、(僕はそのときはそうは思っていなかったのだが)結果的に嫌がらせのような行為になってしまったのは反省している。ご迷惑おかけしました。

そんなわけで、140文字じゃ僕は駄目だ。
大飯原発occupy行動のときは、まさにリアルタイムの問題だったのでいろいろtweetもしたが、普段、twitterではアメブロを「更新しました」が自動的に掲載されるくらい。
このブログもマイナーなので日々のアクセス数は、さすがに数十には落ちないにせよたいてい数百単位なのだが、Twitterに関して言えば、僕をフォローしてくれている人はたったの30人だ。
広めようとしていないし、そもそもたいしたことを書いていないのだから仕方がない。(興味のある方はどうぞ。@jun_kashima ほんとうにたいしたことは書いていませんよ)

まあそんなわけで僕は、twitterはほとんど書かないのだけれど、他人の140文字のやりとりを見ていると、気分が悪くなることがよくある。

有名人とか、あるいは一般の人でもブログなどで自分の考え方のベースを表明している人のtweetであれば、その文脈の上で140文字を理解できる。
ところが、普段何を言っているのかまったくわからない人が、揚げ足取りとか誹謗中傷としか思えないような140文字の発言をしている。
原発推進か反対かにかかわらず、そういう奴がたくさんいる。
「あなた、理論にもなっていないよ。もうちょっと勉強したらどうですか?」みたいな感じで、一見丁寧ことばを使いながら、相手を追い詰めようとするわけだ。
ほんとうに嫌な感じだ。

でも、正直言って僕がtwitterで議論とか始めたら「うるさいよ馬鹿。人生一からやり直せ」くらいは書きそうなので、だからこそtwitterで議論はしないのだけれど。

あとは匿名性の問題。

僕はネットの匿名性を否定したりはしない。
発した内容に価値があれば、実名であろうが匿名であろうが関係ない。
逆に「匿名だからこそ語れる価値ある情報」というのもある。
でも、情報価値のないこと、単なる嫌がらせのようなことを述べるときの匿名というのはほんとうに薄気味悪いし、原発推進反対を問わず、たとえばステアカ、コピペで個人攻撃を繰り返すような輩は、市中引き回しにすべきだとさえ思う。
そんな意味では、僕はネットに関して寛容ではないのだ。

大飯原発を巡って野田佳彦は、再稼働は「私の責任で」と繰り返し、「お前の言う責任とは何だ?」「事故が起きたらお前が責任を取れるのか」と散々突っ込みを入れられた。
それについての社民党の福島みずほ氏の質問が、これ
で、こちらが野田佳彦の回答

(責任というのは)「内閣の首長である野田内閣総理大臣がこれに関与し責任を持って判断を行うという趣旨で述べたものである。
なお、原子力損害の賠償については、原子力損害の賠償に関する法律(昭和三十六年法律第百四十七号)において、原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものである場合を除き、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めを負うこととされている」


これまたびっくりの詭弁である。

「責任を持って判断する」というのは「結果責任を負う」という意味である。
「Aという行為をする」と判断するというのは、「Aという行為をしないこともできた」にもかかわらず、「敢えてAと言う行為をする」と判断したいうことに他ならない。
そして実際に野田佳彦は、「再稼働しない」という選択肢があるのにもかかわらず、「再稼働」という判断をしたのだ。

たとえば刑法では、「責任能力」が問題とされる。
よく知られるように、刑法39条では心神喪失の場合には刑法上の責任を問えない、ということになっている。
簡単にいってしまえば、精神的な障害などで、物事の是非、善悪を考えることができないような場合の行為には責任を負わせないと言うことだ。
これは逆に言えば、心神喪失(あるいは心神耗弱など)ではない場合、「包丁を持っているが、それで目の前の人を刺したりはしない」という判断が可能であったにもかかわらず、「持っている包丁で目の前の人を刺そう」と判断して、その結果彼が死ねば殺人の罪に、怪我をすれば傷害の罪に問われるということだ。
責任を取って刑務所に入ったり、被害者への賠償をしなければならない、ということだ。

まあ、刑法の例を持ち出すまでもなく、「判断の責任」とは「結果の責任」。これが日本語の「責任」ということばの、ごく一般的な意味なのである。

野田内閣総理大臣がこれに関与し責任を持って判断を行うという趣旨で述べたものである
などというのは、とてもズルい言い方だ。
「原発再稼働は内閣総理大臣が判断をする」というのが日本の制度であれば、「国政の責任者として判断する」という意味は、言わずもがなである。
原発再稼働に限らず、首相が行ったすべての行政的な判断は「行政の長、責任者としての判断」であることは当然の話だ。
それなのに、国民に向けて敢えて「責任」ということばを使い、しかも何回も連発するというのは、その発言の意味は「私が、立場上(制度上)の判断責任者です」以上のものがあると言うことにほかならない。
つまり野田佳彦は、「判断の責任は、結果の責任」という、日本語として当たり前な「責任」の意味を自覚した上で発言しているとしか考えられない。

ことばというのはそういうものだ。
どんな単語を言ったか言わないかとか、そんな些末な問題ではなく、言い方や回数も含めての「ことばの使い方」が、それこそ「ことばの意味」なのだ

ええと。

何が言いたかったのかというと、野田佳彦の「責任」発言はもちろん、政治家の答弁、官僚の作った文章、東電の記者会見などなど。
原発事故ではっきりしたのは、彼らはなにかを「正確に伝えよう」などとは微塵も思っていないと言うことだ。
何を突っ込まれてもあとから言い訳ができるように考えたり、実際に野田佳彦のように「明らかに日本語としておかしい」言い訳を平気でする。

もちろん、「ことば」は(原理的に)万能ではあり得ない。
なので、誤解される可能性(危険性)を完全に排除することは不可能である。

でも、それでも(もちろんたとえば文学であればあえて誤解を招きやすい表現を使うというレトリックもあるが)、「多くの人に伝えたいこと」「多くの人に伝えるべきこと」を語るのならば、こそこそと小賢しい小細工を施して責任を逃れられるようにするのではなく、誠実に、正直に語るべきだ。
これは、倫理観の問題であると同時に、もしもことばの誠実さ、正直さを否定してしまったら、そもそも人間社会は成り立たない
その意味で、野田佳彦は日本を駄目にしようとしているばかりか、人間社会そのものを否定しているように思えてしまうのである。

twitterの話だった。

要するに、「ことばに関して無神経」なのが僕は許せない。

毒にも薬にもならない「代官山なう」だったらいいよ。また、誰々の発言が面白い!素晴らしい!などと褒めるのであれば、別にどういう書き方だって気にならない。
しかし、他人の発言に対して反論を述べるのであれば、議論のルールを考えるべきである。

ルールと言っても、もちろんこれは条文化されたようなものではない。
そういえば「ネチケット」なんていうくだらないことばもあったが、そんな低次元な問題でももちろんない。

「売国奴」「人非人」というような罵詈雑言を投げかけるのは、街で他人の顔にいきなり唾をかけるような非社会的(反社会的とは違う)行為であり、「ネチケット」のような低次元ルールで断罪されるべき低次元な問題だ。(もちろん、それを充分承知の上で言うのなら別だけれど)

僕が言いたい「議論のルール」とは、まずは、ことばの意味(概念や使い方)を相手となるべく共有すべく発言しようと言うこと。
これは、個々の単語の意味だけではない。言い回しとか言い方も含めて、できる限り誤解されることのないように、誠実に、正直に語り合う「土俵」を作ってから、その上で議論でも喧嘩でもしなさいよ、ということだ。

これはもう論理的に説明できることではなく、誠実さとか正直さとかしか言えない。
(もしも「誠実さや正直さなんて言うのは感情論に過ぎないので馬鹿馬鹿しい」などという意見の人がいれば、時間があるときにじっくり付き合いたい。「ことばとは何か」「論理的とはどういうことで、どこに限界があるのか」「感情論はなぜいけないのか」など、根本から議論しなければならない大問題です)

ほんとうは、今日(金曜日)の官邸前デモについて書こうと思っていたのだった。
原発推進の連中が反原発にいちゃもんをつけるというのはずっとあったのだが、先週金曜の官邸前デモと大飯原発前の抗議行動などは、反原発・脱原発の人々の中でも意見が割れている。
意見が分かれるのは当たり前の話だが、twitterを見ている限り、野田佳彦の「責任」発言と同レベルの「ことばに対しての無責任さ」を感じるtweetもあるのだった。
そんなのを見ると、ネットリテラシーや情報リテラシーというような限定された意味ではなく、原義通りのリテラシー(簡単にいえば読み書き能力)の低さを感じてしまうのである。

最後にひと言だけ。

官邸前デモには参加するなと言っている人たちもいて、僕は彼らの主張を充分に聞いてはいないし、その個別の意見を否定するつもりもない。
ただ僕は、本日夕方から官邸前に行きます。
主催者たちが不慣れで、ちょっと違うなというところもある。しかし、党派(イデオロギー組織)ではなく人々が集まるのであれば、僕はそれを応援するし参加もする。
実力で官邸を制圧することができなくとも、あるいはデモ主催者が警察のスピーカーから「今日は解散してください」と訴えるような、およそデモらしくない前代未聞(?)の集会であったとしても、僕はそれでも意義があると思うからだ。

我々の敵は、目の前の警察官でもなく、野田佳彦はかなり敵だが彼のような取るに足らないくだらない人物が本丸でもなく、電力会社や経団連はさらに悪いが所詮はいかれた経済原理主義者どもにすぎない。
我々は、単に「放射能怖い」ではなく、馬鹿どもがのさばって好き勝手しているシステム、あるいは社会そのものに揺さぶりをかけなければならない。
僕はそう思う。
そして、そのためには、あちこちから火の手が上がらなければならない。
そしてそれらを、なるべく多くの人たちに注視してもらえるようにしなければならない。
これは、リアルな社会の中でも、ネット空間でも同じだ。
今、「数は力」になる。
であれば、「数」になろう。

そういうことだ。