語り得ぬものについては沈黙しなければならない。 -9ページ目

「『~~とは何か?』とは何か?」@福島

ごめん、今夜もひと言だけ。

金曜日から、『ざまあみやがれい!』(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/)管理人の座間さんと一緒に福島に来ています。
僕が3月から毎月参加している『てつがくカフェ@ふくしま』に、座間さんを誘ったのですね。

金曜は、もう何十年も反原発活動をしている方も参加されたミーティングで、デモや抗議運動について語り、最後は僕と座間さんと福島大学のO先生で深夜まで某美人ママ優子さんのお店でエロ話に花を咲かせ、土曜(昨日)は、福島の除染情報プラザに行ったり、座間さんが急遽提案した「脱東電オフ~福島市出張編~」(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65820791.html)で、県内某老舗飲食店の美人女将とお話しして、さらに『てつがくカフェ@ふくしま』で愛と恋について語って、その二次会以降は、現役女子大生たちにどん引きされながらも、愛と恋と原発についてさっきまで語っていたのでした。
美人と女子大生に囲まれた週末です。

で、ここから本題。
今回何を書きたいのかというと、「今週末は『てつがくカフェ@ふくしま』に行くよ」というお話しをある人にしたところ、
「(哲学って言うのは)『~~とは何か?』みたいな話なのでしょうか」
とメールをいただいたので、「その問いの立て方はたぶんきっと根本的に違う」と返信を書きかけていたのだけれど、考えてみればこれはみんなに言ったほうがいいなと思い、ブログの記事にすることにした、というわけです。

哲学にもいろいろな考え方がありますが、僕は「~とは何か」という形の問いは駄目だと思っています。
なぜかというと、「Aとは何か」と言った場合には、現実の世界にせよ空想の世界にせよ(あるいは他のいかなる世界にせよ)、「A」が存在することが、こっそりいつのまにか前提となってしまっているからです。

「新幹線とは何か」であれば、現実世界に存在する新幹線についての問いであり、「ウルトラセブンとは何か」であれば、現実には存在しないけれど特撮ドラマ(物語)の中に存在するウルトラセブンについての問いです。

でも、その問いを発した瞬間に、「現実世界」「空想世界」「存在する」といった概念を無条件に受け入れてしまっている。
これが決定的にマズいのです。

たとえば、「心とは何か?」と問うたときには、誰も「心」を見たことも触ったこともないし、しかも「自分の心」はなんとなくわかっても「他人の心」は存在するかどうかも確かめられないので(たまたま同じ電車の向かいに座った見知らぬ他人に、果たして「心」があるのかどうかわからない。死体かもしれないしよくできたロボットかもしれない。普通の生きた人間のように見えるけれど意識も感情も感覚もないゾンビかもしれない)、
だからこそたとえば
「我々が『心』と呼んでいる何か」が、果たしてどこかの世界に存在するのかどうか」
という問いが、「心とは何か?」という問いよりも先に立てられなければならない。
(あるいは、もっと突っ込んで言えば、我々が「心」ということばを使ってしまっているのはどういうことなのか、を分析しなければならない)

これはとても基本的で重要な考え方だと僕は思うのですが、なぜか今の教育では高校生に教えない。

「心とは何か」を小中学生に聞くのは、良い問題提起だと思います。なぜなら彼らは、まだ「ことばを覚え中」だからです。
でも、オトナとして日本語を使えるような年代になった人たちに問うべきは
「『何か?と問うこと』とは何か?」
という、ある意味メタ的な問いであるべきなのではないか、と思うわけですね。

「原発とは何か?」という問いはいいのです。
原発は現実世界に存在しているもの(科学《社会科学、自然科学や工学》の対象)だからです。
ところが「原発とは何か?」を問い始めると、政治や経済、社会システムの問題はもちろんのこと、その先に問われるのは、「社会とは何か」「個人とは何か」「死とは何か」「幸福とは何か」「心とは何か」ということにならざるをえません。
少なくとも哲学的に問題を問うのであれば、(あらゆる問題と同様に)どうしてもそこに行き着く。

そんなときに(まあ「社会」の概念は面倒くさいのでともかくとしても)、「個人」「幸福」「死」「心」といった、(あえてわかりやすい言い方をすれば抽象的な)概念は、果たしてそれが、現実世界でも空想世界でも、さらにいえばあらゆる可能世界において、その「ことば」が指し示す対象が存在することをこっそり暗黙の前提として
「~~とは何か?」という「問いの形」で語れるものなのか?
要するに「~~とは~~です」という答が用意されるものなのか?

僕はそれは、決定的に違うと思うのですね。

「~~とは何か?」という形での問いではなく、「問い」の方法を切り替えて、せめて
「もしかしたら(そのことばの指し示す対象は)どこにもないにもかかわらず、我々はそんなことばを使ってしまっている」
という、我々のことば、つまり考え方のルールを問うべきだ
と思うのです。

「~~とは何か?」
というのは、「科学」(すなわち、自然科学でも社会科学でも)では、まっとうな『問い』の形なのかもしれません。

だけど、「反原発とは生き方の問題である」としか考えられない僕的に言えば、
「『何か?と問うこと』とは何か?」という問題をスルーして、したり顔で「~~とは~~だ」と正論もどきを述べる自然科学(物理学とか)や社会科学(経済学とか)は、まったく納得がいかない。
ここは哲学、あるいはロックンロールの出番としか言いようがないのではないか。

とまあ、そんな気がするわけですね。

これは直感なのだけど、「~~とは何か?」という議論をしてはいけない問題について、今「~~とは何か」という議論がされている。
なので、まったく噛み合わない。
これが、原発事故被災者のひとたちの内部に亀裂を入れ、福島と東京、あるいは福島と全国、別の言い方をすればすべての「反原発」の人たちを分断させてしまっている要因のひとつになってしまっているのではないか。
そんな気がするのです。

この議論にはもちろんもっと先もあるのだけれど、面倒なので今夜はここまで。
酔ったから寝る。

BRAHMAN『鼎の問』

落ち着いてゆっくり書きたい記事はたくさんあるのだけれど、今朝はちょっとだけ。

昨夜は地元目黒のバーで、そこで働いている福島出身の人(直樹くん)や、事故後ずっと、ボランティアとして双葉町(福島第一原発立地地)の人々と接している人と、2時過ぎまで話をしていたのだった。

まあ、そのことは今度機会があったら書こう。

今日はこれ。

BRAHMANの『露命』(9/5発売)に収められた、『鼎の問』。
直樹くんが教えてくれた。


BRAHMAN「鼎の問」

BRAHMAN(ブラフマン)というのはインド哲学の考えなのであるが、僕はインド哲学はまったくわからないので詳しくは言えん。ただ、「存在」や「真理」に関わる、とても重要な考え方だ。

まあ聴いてくれ。

田中俊一がいか腐っているか。それと『ありがとうたね蒔きジャーナル』投稿募集!小出さんのコメントも

久しぶりにテレビを点けたら、ニュースではオリンピックのことばかりやっている。
僕はほとんど興味ないのだけれど、みんな、見ているのだろうか?

ていうか、そんなどさくさに紛れて、今後の原発規制についてもっとも権限を持つ「原子力規制委員会」の人事が勝手に決まろうとしている。

一応書いておくけれど、原子力規制委員会というのは、

「東京電力福島原子力発電所事故は、原子力規制というものが安全神話にとらわれるあまり本当の意味での対策をとってこなかった」
だから、これから発足させる原子力規制委員会は
「「福島の教訓から学ぶ」そういう人選をしなければならない」
「(人選は)電力会社など関係業界からの影響を受けず、公平性に疑いがないこと」


いいこと言ってんじゃん、という気もする。
で。
これは誰の発言かというと、細野豪志(環境大臣/原子力発電所事故収束・再発防止担当大臣/内閣府特命担当大臣(原子力行政))のブログからの引用だ。(http://blog.goo.ne.jp/mhrgh2005/d/20120727
僕は、細野豪志は野田佳彦に次いで、現在の国会議員の中で二番目に嫌いなのだが、このブログの発言だけを読むと、「細野豪志もやっと心を入れ替えたか?」のように見える。

ところがどっこいだ。

細野豪志が規制委員会人事案として出してきた5人は、「原子力ムラ」の人ばっかり。

政府は、「電力会社など関係業界からの影響を受け」ているかどうかについて、過去3年間、同一の原子力事業者から年間50万円以上の報酬を受けたか、を基準としたという。

でもさあ、年間50万円って言えば、年収600万の人でも一ヶ月しっかり働かなくちゃいけない額だよね。
正社員の平均年収は約450万円。派遣やパートならばもっとずっと低い。
年間50万円までという発想にまずは呆れてしまうのだけれど、さらに「特定の一社から」「過去3年に限り」という条件付きだ。
まさにザルである。

こうして細野が出してきた人事案では、

・日本原子力研究所(原研、現・日本原子力研究開発機構=原子力を推進する団体)の元副理事長、
・原子力委員会(原発推進側だけで「勉強会」と称する「秘密会議」を開いて核燃サイクル維持に有利な政策になるよう求めていたことが発覚 http://mainichi.jp/feature/news/20120802ddm001010030000c.html)の元委員長代理、
つまり、「いわゆる原子力ムラの住人の中でも飛び切りの「エリート」と言うべき経歴の持ち主」(河北新報http://www.kahoku.co.jp/shasetsu/2012/08/20120804s01.htm)、
・福島原発事故が起きた昨年も、「複数の原子力関連企業・団体から報酬約29万円を受け取っていた」(時事通信 http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2012080200769
そんな田中俊一を委員長とするものである。

田中俊一は福島原発事故後、被災地に入り自ら除染作業を行うことによって「いい人ぶり」をアピールしていたのだが、彼がなぜ除染に熱心なのかというと、それには別の理由がある。

「日経ビジネス」が昨年9月に掲載した田中俊一のインタビューを見よう。(http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110912/222598/?P=1 無料登録が必要だが、田中俊一の本音を知るためだけにも登録の価値はある)

まあ例によって原発推進派の常套句「100ミリシーベルト以下は大丈夫」「放射能を怖がるストレスのほうが問題」などとは相手にしないでおこう。(ちなみに、山下俊一と田中俊一が「ミスター100mSvダブル俊一」)

田中俊一はこう言っている。
「避難している方々は仕事がありません。仕事のない毎日ほどつらいことはありません。除染作業は若干の被ばくを伴いますが、除染を当面の雇用の機会にすべきではないか、と思っています」
つまり、田中俊一は福島の人たちにもっと被曝をさせたいと思っている

「除染よりも汚染された土地を買い取るべき」という意見に対しては
「それは論外ではないでしょうか。公示価格で考えれば買い取りコストは5兆円ぐらいという話を聞いたことがありますが、そんなに安く買い取れるはずがない」

また、環境省が海水浴場における放射性物質濃度の基準として、セシウムは1リットル当たり50ベクレル以下とする案を出してことに対して
「海水浴場で海水を毎日1リットル飲む人がどこにいますか。こういう基準を決めることで、小学校や中学校のプールの除染が難しくなり、除染コストがどれだけ増える(か)考えたことがあるのでしょうか

なおかつ、日本原子力文化振興財団webページでのインタビュー(http://www.jaero.or.jp/data/02topic/fukushima/interview/tanaka_t.html)で言っているのは、
「実際に私たちが除染をしてみますと、国の計算の方式で年間1ミリシーベルトまで下げるということになると、1時間当たりの空間線量が0.22とか、0.23マイクロシーベルトなんですね。ですから、今、私がやっている除染の4分の1とか、5分の1の数値ですね。そこまで下げるというのは、現実には今の段階では不可能だと思います」

(※ここで田中俊一が言う「0.23μSv/h」は、素直に計算すると
0.23×24(時間)×365(日)=2014.8μSv=年間2ミリシーベルト以上
なのだが、田中は「国の計算方式」と言って誤魔化している。
「国の計算方式」とは、素直に計算された数字に0.6を掛けて、放射能被害をことさら小さく見せようとするものである(文科省・経産省などが採用)。
これは、1日のうち外にいるのは1/3だけだとし、屋内にいる16時間については「木造家屋の低減効果係数=0.4」を掛けて計算しているというわけだ。
【一日あたりの線量を「a」として数式化すると
((2/3(16時間/24時間)×0.4))a + ((1/3(8時間/24時間)))a = 0.6a】)

で、「国の計算方式」で矮小化された数値をもとに
「年間5ミリシーベルトくらいでいいのではないか、というのが私の考えです」
と言うのが田中の意見だ。

まとめるとこういうことになる。
「0.22~0.23μSv/h、つまり「国の計算方式」では年間約1mSvだが、素直に計算すると年間約2mSv、まで除染するのは現実的には不可能」
「だから、国の計算方式では年間5ミリシーベルトくらい、つまり素直に計算すると年間10mSvくらいまでは我慢しろ
と田中俊一は言っている。


なぜならば、「除染コストがどれだけ増えるか考えたことがあるのでしょうか」という発言でわかるように、田中俊一にとっては、安全性の確保よりも、賠償コストの増大が心配なのである。

田中本人が賠償コストを請求されているわけではないのに、どうして彼はそんなことを言うのだろうか?
東電を守りたいのか?
あるいは、血税投入に反対なのか?

じつは、どっちも違うのであった。

昨年8月23日の「原子力委員会定例会議」で、田中俊一が正々堂々とこう言うのを聞こう。(内閣府原子力委員会サイト内にある公式議事録 http://www.aec.go.jp/jicst/NC/iinkai/teirei/siryo2011/siryo38/siryo7.pdf

「この状況のままで今後の原子力の再生は非常にもう、個人の考えですけれども、絶望的です。とにかく何らかの形で除染をしてきちっと行い、避難住民が帰ってこられるような状況をつくり出さない限りはこれからの原子力発電も含めてそういったものはどう政策を進めていいかわからないなということがありましたので、私自身はそういう思いもあります」


要するに田中俊一は、原子力を進めたくて進めたくてどうしようもないのだ。
土地の買い上げとか徹底した除染をすればものすごくお金がかかる。
すると当然、原子力はやめようという方向になる。
田中俊一にとってみれば、そんな事態こそが一番の大問題なのであって、だからこそ彼は福島に除染にも向かう。
「原発が爆発したって、ほ~ら、除染したら住めますよ」という話にして、3.11以前のように原発を推進したいだけ。
つまり、住民のためではなく、原子力推進のために除染に励む、心底根が腐った男なのだ。

こんな田中俊一を筆頭に、
「委員候補の更田豊志・日本原子力研究開発機構副部門長、中村佳代子・日本アイソトープ協会主査、島崎邦彦・地震予知連絡会会長の3人も(原発推進の日本原子力文化)振興財団から講演料を得ている」(東京新聞)という滅茶苦茶な人事案を、田中と同様に根が腐った細野豪志が持ってきて、国会で諮られる。

これが決まってしまったら、ほんとうに大変だ。
「原子力大好き」な連中のやりたい放題になってしまう。

すでに、日弁連(日本弁護士連合会)は、会長声明として人事案の見直しを求めている。(原子力規制委員会委員の人事案の見直しを求める会長声明 http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2012/120803_3.html

僕としてもなんとか阻止すべく、みなさんにもなにか行動を起こしてもらいたいと思うのです。
デモに出なくても、ブログに書いたり、Twitter拡散だけでもいいのです。バーや飲み屋で女の子をナンパするための知識自慢でもいいのです。
3.11以後の日本で、どんなにひどいことが起きようとしているのか、ぜひともみんなに知らせてください!

それから、別の話だけれど大阪MBS毎日放送の『たね蒔きジャーナル』打ち切り問題。
3.11以後、一貫して原発のウソを発信し続けたラジオ番組、『たね蒔きジャーナル』が、10月改変で打ち切りの危機に瀕してる。

そのへんの事情については座間宮さんのブログ(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/)に詳しいので、ぜひそちらを。

いずれにしても『たね蒔き~』といえば、昨年3月4月、政府、東電が「メルトダウンはしていない」と出鱈目を言い続け、ほとんどすべての新聞、放送は御用学者を呼んで大本営発表を垂れ流していた中、京都大学原子炉実験所の小出裕章さんの解説でメルトダウンや最悪の事態の可能性に言及し、その後も現在に至るまで原発の問題点、原子力ムラの犯罪などを鋭く追及している番組だ。

残念ながらMBSの電波は東京までは届かないが、有志が毎日youtubeにアップしてくれ、広く全国に問題提起を続けているとても貴重な番組なのである。
(『小出裕章 (京大助教) 非公式まとめ』http://hiroakikoide.wordpress.com/ や、『小出裕章(京都大学原子炉実験所)の情報を拡散する会』http://www.facebook.com/hiroaki.koide.info から、youtubeにアップされた小出さんが出演した『たね蒔き~』の放送を聞くことができる。

僕は個人的に小出裕章さんとやりとりをしているのだけれど、小出さんも、昨夜いただいたメールで
「(打ち切りについて)詳しいことは知りませんが、水野アナウンサーを始め、番組担当者たちのしっかりした姿勢は今のマスコミ界で貴重です。番組が存続してほしいと願いますし、私は私にできることをしようと思います」
と語っていた。

放送存続を求める署名サイトも立ち上がった。
http://www.shomei.tv/project-1980.html
http://uzumibi.secret.jp/2012/tanemaki01.htm

と同時に、僕らリスナーとしては、もしも番組が終了してしまうにしても、水野さんをはじめとするたね蒔きスタッフに、「ありがとう」の声を届けなければならないと思う。

そこで、昨夜、緊急サイトを立ち上げた。

ありがとうたね蒔きプロジェクト


みなさんからの『たね蒔き~』への愛や感謝を募り、それをまとめてネットで見られる『寄せ書き色紙』の形にし、さらに印刷して額に入れるとかして、水野さんをはじめとするたね蒔きスタッフや、小出さんのところに届けます。

署名サイト同様に、寄せ書きプロジェクトにも、ぜひひと言を!

【重要/拡散希望】緊急提言・反原連はネット中継不可なら野田首相との会談拒否を!

すでに報じられているように、野田首相は、毎週金曜日の官邸前デモや7/29国会包囲デモを主催する首都圏反原発連合(反原連http://coalitionagainstnukes.jp/)代表者との面会を決めた。(http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2012080200934)

これまで「前例がない」などと渋りながらも、
首相は再稼働を決定した6月16日以降、金曜夜は抗議活動に気兼ねして事実上身動きが取れない状態で、官邸から直接公邸へ引き揚げている。首相周辺は「裏から出ることもできるが、正門前でデモをやっている時に、首相がこそこそ飲みに行くなんてできない」と頭を悩ませている。
(毎日新聞http://mainichi.jp/select/news/20120714k0000m010055000c.html)
と、コソコソと隠れていた野田首相だったが、次の選挙への影響を懸念する民主党議員らからのプッシュもあり、しぶしぶ出てくることにしたのだろう。

これ自体は、歴史的に見ても大変価値のある出来事である。

しかしながら、「大飯原発再稼働を撤回するつもりはない」と言い切る野田首相が反原連と面会する目的は、選挙を睨んでの「国民の声を聞いている」というポーズ作りと、反原発運動のガス抜きとしか考えられない。

そこで、毎週のデモ参加者のひとりとして、次のことを強く提言したい。

すなわち、
反原連が指定するメディアの取材による、面会の様子のネットでの全面公開が認められなければ、出席を拒否すべきである。

もちろん、ネット取材は動画生放送および、録画の無期限無修正配信が前提だ。

もしも面会が密室で行われれば、「野田総理が反原発の市民団体と会った」という事実が残るのみであるし、それを取材報道するのが政権の提灯持ちを続ける記者クラブジャーナリストだけであれば、面会は政権に都合の良いように利用されるだけで終わってしまうだろう。

IWJを代表とするような独立系ジャーナリズム、記者クラブに属さない週刊誌系ジャーナリズム(読者層はwebと接点が少ない世代であり、『週刊現代』のように原発のウソを追及し続けているメディアもある)、さらにはフリージャーナリストの取材も認められるべきなのは当然だ。

また、ネット配信の動画については撮影者が著作権などを主張することなく、誰もがダウンロード、編集して再配布できることが望ましい。

デモの主催者は反原連であるが、デモは上意下達の組織動員ではなく、ひとりひとりが自主的に参加しているものである。
つまり、デモの主役は参加者ひとりひとりであり、さらにいえば、たとえデモに参加していなくとも、原発再稼働に反対するすべての人々である。
その意味でも、我々は、実際の面会を反原連代表者にお任せするが、これは広く共有されなければならない。
だからこそ、会見の模様の完全公開は、野田総理との面会にあたっての必須事項である。

また、先日の国会議員らとの会談の中では、原子力規制委員会人事についての質問を、政府側司会者が遮る一幕もあったという。(田中龍作ジャーナルhttp://tanakaryusaku.jp/2012/08/0004807)
野田総理との面会では、このような制限は許されぬものだし、国会答弁のようにのらりくらりと逃げ回るという態度も許されない。
イエスかノーかで答えられる問題についてはイエスかノーかで答えてもらうまで粘るべきだし、回答保留の場合には期限を区切って再説明を求めるべきだ。

だからこそ、もしも政府側の司会進行や答弁に不誠実な態度があれば、反原連代表者はその場で途中退席すべきであろう。

我々は、「総理大臣に呼ばれちゃった」と喜んで尻尾を振って出かけていくポチではないのだ。

もしも面会の完全公開(ネット生中継および無修正アーカイブ)が認められない場合は、面会自体を拒否し、反原連としてその旨の声明および記者会見を行ってほしい。
ここまで大きなニュースになった以上、記者クラブ系のメディアもそれを取り上げざるをえまい。
これは、野田政権にとって大きな打撃となろう。
完全公開が実現した場合は、徹底的に追及していただきたいのは当然だ。

知られているように、野田総理は原発、エネルギー問題について無知であるか、あるいは意図的に国民を騙すような発言を続けている。

たとえば、再稼働を決めた6/8には「原発をやめて火力に頼った場合、中東情勢次第ではかつての石油ショックのような痛みを覚悟しなければならない」という趣旨(と受け取れる)発言をしたが、石油ショックの時代、1970年の日本の電源構成における石油等の比率が59%だったのに対し、2010年には7.5%にまで減っている。(2010年の数字は原発稼働時なので、ここから全原発を停止した場合を想定し計算すると、10.5%)
いずれにしても石油ショックの再来などまずあり得ない。
(なお、この数字は資源エネルギー庁の公式データhttp://www.enecho.meti.go.jp/info/committee/kihonmondai/13th/13-7.pdf「我が国の電源構成の推移」による)

また、田中俊一氏を起用する原子力規制委員会人事について、民主党議員が異を唱えたのに対し、野田総理は
「『経歴から問題ないと聞いた』と困惑した様子だったという」
(時事通信http://www.jiji.com/jc/zc?k=201208/2012080101179)
田中俊一氏の経歴こそ問題があるのは明白であるのに、このような発言をすると言うことは、まさに無知か、あるいは福島第一原発事故を引き起こした原子力ムラ体質の温存を狙ったものとしか言えないだろう。

このように、叩けば必ずボロが出てくるはずなので、反原連代表のみなさんには、野田総理を徹底的に追及していただきたい。

いずれにしても、反原連が出席拒否、途中退場も含めて毅然とした態度で臨むのであれば、再稼働撤回に向けて、非常に大きな前進となることは間違いない。

オセロゲームで不利な状況が、コーナーをとった瞬間にひっくり返ることがある。
我々がコーナーをとれるかどうか、それはまさに反原連代表のみなさんにかかっている。

どうかみなさんには、この大勝負、毅然と不服従を貫き通してほしい。

国会包囲とMBS『たね蒔きジャーナル』への感謝行動

国会包囲はたった3日前のことなのに、ずいぶん昔のような気がする。
これは良い兆候で、子どもの1日は長いがオヤジの1日は短いわけで、長く感じるというのは少しは若返ったのかもしれない。

なので、思い出して書くよ。

29日。
昼間はぜひ会いたかった人とお会いしてちょっとだけ昼ビール。その後、反原発国会包囲網に合流だ。

ものすごい人で、日比谷公園で友達と離ればなれになったり、そんなことをしているうちに国会包囲の開始時間19時になってしまった。
そこで我々は、警察の誘導に従い、地図のAのように歩いて来たのだが、B地点(国会前交差点)で、緑色のCのほうへ行けと言われてしまう。

国会道路規制


この地図(クリックで拡大)のベースは、今回の抗議行動を主催した『首都圏反原発連合』の公式サイトに掲載されている「当日マップ」(http://coalitionagainstnukes.jp/?p=815)。
ここにCの導線は書いていない。
想定されていたのは細青の導線、つまりDのルートであり、人々は国会正門前を通過して議事堂を取り囲むというプランだったのだと思う。

ところが、国会正門前の方向(Dルート)は人が溢れ、身動きできない状況だという。だから、Cに行けというわけだ。
これだけの人がいるのだから仕方ないかなとは思ったのだけれど、最近の総理官邸前抗議行動でいつもそうだったように、言われるままに素直に歩いて行ったら、いつの間にかデモの中心から遠く離れたとんでもないところに連れて行かれる可能性がある。
警察の誘導はデモの分断化だ。C方向に向かっていったら何キロも歩かされた挙げ句、どこにも行き着かないかもしれない。
しかも、そのときにはCルートから人がどんどん引き返してくるところだった。

反原発のデモや集会に参加していつも思うのだが、警察の誘導に従って素直に動いてしまった人たちはどうなったのだろうか?
僕はこれまで抗議行動に参加する際、警察、機動隊の交通規制に対してはさすがに強行突破はしないものの、「デモの中心から遠くへ遠くへ」という警察の意気込みを感じた途端に立ち止まるようにしている。
遠くへ追い出されるなと感じたら、まずは立ち止まる。
そして、「隙あらば最前線」を目指す。
なぜならば、最前線に一人でも多くが集まったほうが、抗議行動としてはより効果的だからだ。

そんなわけでこれまでも僕は、遅く来ても「デモのはずれ付近」にいたことがないのでわからないのだけれど、もしも素直に誘導に従ったが挙げ句、淋しいところに連れてこられた人々が大勢いるとすれば、これは由々しき問題だ。

そもそも、官邸前にしろ国会包囲にしろ、人々を歩道から出さないという警備方針については断固抗議したい。
昨夜もそうだったが、参加者のほとんどは解散時刻となればちゃんと解散するのである。
暴力的に居座ったりする参加者はまずいないのだ。

それをわかっているくせに歩道しか使わせようとしない警察は、混乱や危険を助長しているとしか思えない。
抗議行動はせいぜい2時間なのだから、前後1時間ずつ余裕を見るとして、4時間は公式に車道を解放すれば良いのだ。
警察が抗議行動参加者を無理矢理歩道に押し込めようとすれば、そのぶんだけ余計に国家権力に対する不信が募ると言うことを、彼らはなぜわからないのだろう。

そこで我々は地図のD、つまり国会議事堂正門を目指した。
すると、なんということか!?
国会正門前の車道はすっかり解放されているではないか。

あとから知ったのだけれど、警察は人々をあくまで車道に出さない方針で、下の写真のように、最初は参加者を無理矢理歩道に押し込めていたのである。

過剰な通行規制で歩道はいっぱい

【(cc)Ryuichi HIROKAWA】

何万人もの人々がやってくるのを歩道だけで捌けるわけがない。
そもそも無理のある導線設定だったのだ。
だから、国会前交差点で身動きのできなかった参加者が、いつのまにか車道に出て道路を占拠、解放してくれていたのだった。

こういう感じ。

【(cc)Ryuichi HIROKAWA】

(上の二枚の写真は『DAYS JAPAN』広河隆一さんらによる空撮。http://daysjapanblog.seesaa.net/article/283826713.html

そのときの空撮動画がこれ。
まさに必見である。
撮影したOurPlanetTVのリポーター白石草さんが感嘆の声を上げたように、歴史的出来事が起こった瞬間である。



それから、地上から撮影されたのがこの動画。



つまり、最初に国会前に結集した人たちが車道を解放してくれたので、その後僕らは、国会前のメインステージで抗議の声を上げることができたのだった。

でだ。
せっかくだから僕も、
「7.29反原発国会包囲/国会正門前の抗議行動を3分で追体験できる動画」
を作ったよ。



当日来れなかった人にも、まあこんな感じだったと言うことを知ってほしい。
自分の声が入っているのが恥ずかしいのだけれど、臨場感あったほうがいいかなと。
地図のDコースを進むところから始まっている。

国会包囲のあとは参加した人たち10人くらいと酒を飲み、午前0時頃中目黒に帰ってきて、8月中旬から恵比寿に移転するというという行きつけのバーの、中目での最終営業日だったので顔を出してきた。

中目黒というのは僕が住み始めた四半世紀前には、かなり「東京の田舎」だったのだけれど(川沿いに立ち並んだ零細工場の町だったんだよ)、今やかなり洒落た街のようで、もちろん僕自身はまったく洒落てなんかいないのだけれど、まあ地元だから行きつけの店くらいあるわけだ。
そうするとさ、ミュージシャンとかデザイナーとかアパレルとかスタイリストとかタレントの卵とか、たくさん出会うわけよ。
もっとはっきり言えば、美少女、美男、いい男、綺麗な女性がたくさんいる。
(もちろん、美少女や綺麗な女性は僕のことには関心を持ってくれないが)

で、彼(彼女)ひとりひとりはとても良い人たちなのであるけれど、デモのあとに彼らと会うと、なんというのか妙な違和感を感じるのである。
これはじつは大変重大な問題を孕んでいると思われる。
このことはそのうち、まとまったら書きます。

さて。
国会包囲の前々日、7/27には総理官邸前集会に参加。その翌日の7/28には『ざまあみやがれい』(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/)管理人の座間宮さんと、9.11開催の反原発関係イベント(まだ内緒)の打ち合わせで会って、そのときいろいろ『たね蒔きジャーナル』打ち切り?についての話を聞き、前回の記事『『たね蒔きジャーナル』打ち切りか?』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11314366729.html)をアップしたのだった。

で、7/29は国会包囲で、7/30は『右から考える脱原発』(通称『右デモ』 http://maruta.be/anntokyo1107 : Twitter @anntokyo1107)の集会に合流。
『右デモ』はその名の通り右翼の人たちが主催なのに左翼の人とも共闘している、とは聞いていたのだけれど、実際にハンパない左翼の「××派」(ちょっと組織名は伏せよう)の人がいたりして多いに驚いた。「××派」と右翼の大物が一緒に飲んでいるのである。

反原発に右も左もないというのが『右デモ』の人たちの考え方でもあり、僕もまったく同意見だ。

右翼や左翼というと「怖い」というイメージを持つ人もいるかもしれない。
確かに未だに「怖い右翼」「怖い左翼」もいるだろう。
だが、右だろうが左だろうがマトモな人たちは、政府、電力、原子力ムラの連中は許せないし、いちばんの被害者である福島の人たちのことを思って行動している。
もちろん、組織の論理やイデオロギーではなく、互いに尊重し合いそれぞれの意志で参加しているのだ。
そんな人たちが『右デモ』に結集している。

さらにいえばね、みんなほんとうにいい人たちだ。
今回も、「デモというのには初めて参加した」という女性がいた。考え方は反原発だけどデモは怖いと思っていたらしい。
そりゃそうだよね、女性ひとりで参加するのはきっと怖い。だから彼女は1000万人集会も総理官邸も国会包囲も、これまで一切参加したことはなかったのだが、主催者とTwitterのやりとりをして、(右とか左とかではなく)信頼できそうだから、と参加したらしい。そして夜には、来て良かったと笑顔で帰って行ったのだった。

僕的には反原発のデモや集会で日の丸が揚がると嬉しい。
僕はマルクス主義、アナキスト上がりの非国民である。
それでも日の丸が嬉しいのは、それが「反原発に右も左もない」という我々の闘いの象徴だからだ。
反原発デモで労組の旗やノボリがいくら立っても保守系の政治家はビビらないだろう。
でも、「日の丸掲げて反原発」には、かなりの危機感を持つはずだ。

いずれにしても、我々は共闘していく。
右でも左でもなく、さらにはピラミッド型の組織でもない。

そういえばさあ、昨日、官邸前や国会包囲を主催した首都圏反原発連合の人たちが、管元総理など、国会議員の連中と会談した。
(田中龍作さんのレポート http://tanakaryusaku.jp/2012/08/0004807
でもって、情けなさ過ぎて笑っちゃうんだけどさあ、平岡秀夫・元法務相は、
「皆さんが組織代表委任を受ければ、組織対組織の代表として会うのは可能。(野田に)会いたいのであれば、そういう方法を取ったらどうか。それが日本社会の仕組み」
と言ったらしい。

なんだよ「組織体組織」って?
まさにどこまで行っても「組織に守られた政治家」の想像力の限界である。
絶望的な断絶を感じざるをえない。
今現在行われている反原発行動は決して組織じゃないんだよ、ということをまったくわかっていない。
何万人もの人々が、決して組織動員ではなく毎週永田町に結集しているというのに、なぜそれがわからないのだろう?
爺さん、呆けすぎだ。

それはともかくとして、
『たね蒔きジャーナル』打ち切り?という話を聞いて、29日から『さまあみやがれい』の座間宮さんは大阪入り。
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65816988.html : http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65817027.html : http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65817109.html : http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65817126.html
大阪MBS毎日放送に対して、決して抗議や批判ではなく、『たね蒔き~』への愛を伝え番組存続をお願いする旅に出た。
MBSはもちろん最近全国で勃発する「反原発直接行動」を知っているから、昨日7/31にMBS前に人が集まると聞いて、当日はかなり警備を厳重にしたらしい。

だけど、座間宮さんたちは、MBSに抗議に行ったんじゃないんだよ。
「たね蒔き~愛してます!」を言うために集まったのだった。
最後には『たね蒔き~』スタッフ、出演者の方々に贈る感謝と激励の色紙を書いたのである。

で、ネット上では「MBSには行けなかったけれど、私も『たね蒔き~』に感謝の気持ちを色紙に書きたい」という人が続出。
そこでこれは、僕と友達が「オンライン色紙」を立ち上げるぞ。
2~3日中にできるはずなので、また告知しますね。

とはいえ僕の感触では、MBSは本日(8/1)、秋(9月10月~)の番組改変を発表する可能性が高いと思う。
たぶん、番組の打ち切りはかなり濃厚だ。
だけど、思い出してほしいのは、野田佳彦が大飯原発再稼働を勝手に決めたあとこそ、総理官邸前デモにはそれまでを大きく上回る人々が参加したじゃないか。

もちろん官邸前は野田への抗議であり、MBS前集会は『たね蒔き~』への感謝表明だ。だから、全然違う種類の集まりである。
けれど、「なにかが決まってしまったあとに行動する意味はない」ということでは、決してない。
ということを肝に銘じてほしい。
もしも8月で『たね蒔き~』が終了しても、次のクールに復活してもらえばいいのだ。
そのためにも、我々の愛と感謝を、MBS、番組スタッフ、出演者のみなさんには送り続けなければならない。

Googleで「たね蒔きジャーナル 打ち切り」と検索すると僕のブログがトップだったようだ。嬉しいよね。
だからちょっと待ってね。
2~3日中にオンライン色紙を稼働させるから。
8月末に一旦締め切って、それをMBSの人たちや小出裕章さんらに届けようと思う。

僕は残念ながら現地には行けなかったのだけれど、座間宮さんたちの「MBSとたね蒔きのみなさん、ありがとうございます」活動は、朝日と毎日に取材されたそうだ。
朝日の記事がこれ
http://digital.asahi.com/articles/OSK201207310193.html?ref=comkiji_txt_end
ところが朝日はセコくてさ、記事を読もうとすると会員登録しろとかという話になる。
だからキャプチャーしましたよ。
クリックで拡大して読んでくださいね。

朝日新聞が「たね蒔き」存続お願い集会を報じる

まあそんな感じで、老体にはちょっと疲れたこの一週間。
反原発は時間かかるよ。
長距離走に無理は禁物。
みなさん、気楽に楽しく、それでも自分の信念は絶対に曲げずに、闘っていきましょうね。

★  ★  ★

追記だよ。
酔っ払って書いたので(まあこれはいつもだけど)、確認したらなんだかリンク切れとかいろいろあって、直していたら突然ふつふつとこれも書かねばなるまいと怒りがこみ上げてきたのであった。

さっき紹介した田中龍作さんの記事を引用しよう。

平野太一さん(反原連)のアッパーカットが炸裂した。「原子力規制委員会の人事に賛同するのか、しないのか。一人ひとり答えて下さい」。

 民主党議員たちは凍りついた。司会者が「それは止めた方がいい」と制止しようとすると、会場からヤジが飛んだ。「どうして答えられないんだ」「答えてもらわないと民主党の原発隠しが明らかにならない」。

 ヤジに後押しされる格好で、民主党議員たちは渋々答えた。6人中、4人は「党内の議論を見極めたうえで」とかわした。「同意できない」と答えたのは、わずか2人だった。これが政権党の実態だ。原発が再稼働する訳である。


なので僕は、「党内の議論」とか言って逃げた民主党のその4人と、「同意できない」と答えた2人の名前を明かしてくれるよう、田中龍作さんにtweetを送った。
https://twitter.com/jun_kashima/status/230357962084999168

はっきり言って、タチが悪いのがこの4人のような議員だ。
風見鶏、選挙ウケ狙い。
心の底から原発推進を考えている議員であれば、そっちのほうが相手としてまだ議論の余地がある。
だが、「デモの奴らがやってきたから若者たちに自分アピールしよう」というような格好つけ、ナルシスト、票読みすべての中途半端な議員が一番始末に負えない。
要するに、考えなどなにもなく自分に有利なように風向きを伺うだけで、これまでちやほやされてきたもんだから、デモの若造なんか自分が話せばなんとでもなると思って会見に臨んだのだ。
つまり彼らこそ、次の選挙ではまっ先に落選させなければならない連中であるから、
https://twitter.com/jun_kashima/status/230357962084999168
このリツイートよろしくね。

【緊急・拡散希望・緊急呼びかけの追記あり】『たね蒔きジャーナル』打ち切りか?

【追記・緊急呼びかけ】
本日(7/31)17時30分~19時30分
大阪MBS毎日放送前(梅田ロフト前)にて
『打ち切り濃厚「たね蒔きジャーナル」の継続をお願いしよう!』集会開催!
※その後、水野さんに愛を伝える出待ち行動に変わります!
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65817126.html
(抗議行動ではなく、感謝と愛、番組存続をお願いする会です。抗議・批判・論破→×(かえって番組終了やスタッフを追い込むことになる) 感謝・お願い→◯ )
僕は残念ながら行けませんが、大阪のみなさん、仕事帰りに是非参加を!
zakumi232さんがプラカードも作ってくれています(http://p.twipple.jp/user/zakumi232

*****************************************

大阪MBS(毎日放送)ラジオの『たね蒔きジャーナル』(http://www.mbs1179.com/tane/index.shtml)が打ち切りに向かって関係者の話し合いが始まっているという。

『たね蒔き~』といえば、昨年3月4月、政府、東電が「メルトダウンはしていない」と出鱈目を言い続け、ほとんどすべての新聞、放送は御用学者を呼んで大本営発表を垂れ流していた中、京都大学原子炉実験所の小出裕章さんの解説でメルトダウンや最悪の事態の可能性に言及し、その後も現在に至るまで原発の問題点、原子力ムラの犯罪などを鋭く追及している番組だ。

残念ながらMBSの電波は東京までは届かないが、有志が毎日youtubeにアップしてくれ、広く全国に問題提起を続けているとても貴重な番組なのである。
(『小出裕章 (京大助教) 非公式まとめ』http://hiroakikoide.wordpress.com/ や、『小出裕章 (京都大学原子炉実験所) の情報を拡散する会』http://www.facebook.com/hiroaki.koide.info から、youtubeにアップされた小出さんが出演した『たね蒔き~』の放送を聞くことができる。

僕自身も、原発が爆発しかなり混乱していた3月~4月頃は、『たね蒔き~~』で小出さんの話を聞いて、やっとマトモになれたのであった。

そんな素晴らしい番組が打ちきりだという。

情報ソースは『ざまあみやがれい』のこの記事(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65816988.html)。

じつは今日夕方、別件の打ち合わせもあって『ざまあみやがれい』の管理人座間宮さんと会っていたのでいろいろ聞いたのだけれど、ここでは具体的なことは書けないがガセではなく信頼できる筋からの内部リークである。
打ち切りの理由について電力関係や代理店などからの圧力があったのかとか、そういうことははっきりわからない。
でも、局内の上層部など一部の中で打ち切りが検討されているのは間違いない。
で、この一週間で結論が出されるというスケジュール感だ。

そこで今回は、緊急提言と拡散のお願いである。

毎日放送に対して、番組の存続をお願いしてほしい。

特に、関西、近畿圏に住む人には、是非ともお願いしたい。
『ざまあみやがれい』にリークしてくれた関係者も言うように、実際の聴取者の声は放送局としては無視しがたいからだ。
さらにいえば、番組のメールアドレスにメールするよりも、局の上層部に伝わるよう、MBS本体に伝えたほうが効果的だという。

これがMBSの視聴者センター(http://www.mbs.jp/kouhou/index.html

06-(6359)-1123
【受付時間】
平日10:00~18:00
土曜 8:30~13:30

インターネットからはメールフォーム(http://www.mbs.jp/kouhou/mail/index.html)から。

僕ももちろん電話するけれど、関西圏の方、どうかよろしくお願いします。

それから、座間宮さんが明日14時から大阪MBS前で、『たね蒔きジャーナル大好き緊急オフ会』を開催する。(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65817027.html
お近くの方はぜひ!

哲学とロックンロールと反原発

このブログの副題は「哲学とロックンロールと反原発」である。

もしかしたら、「哲学とロックンロールと反原発なんて、全然関係ねえじゃんか」と思う人がいるかもしれない。

ところがどっこい、この3つの湖はじつは湖底でつながっているという直感があってこそ、3.11以後僕はこのブログを(まあ、ある程度)真剣に書き始めたのだし、今となってはその「直感」は、揺るぎなき信念となった。

つまり、どれもが「生き方」の問題なのだ。

これは、「他人にどう説教するか」「説明するか」という意味ではなくて、「まさに僕がどう生きるか」という問題にほかならない。

このブログについて言えば、「哲学とロックンロールと反原発」だけど、見ていただければわかるように、最近は原発関連の記事が一番多い。

震災後2ヵ月くらいは、正直僕は怖かった。
放射能が怖かったのではない。
国家システム、つまりメディアを含めた国策原子力ムラ体制というものが、ここまで嘘をつくのか、というのを目の当たりにして心底恐ろしかったのだ。

僕は安保世代ではないけれど、70年代には当時の活動家たちと闘った(議論でね)こともずいぶんあって、その中で国家権力というのはいざとなったらどれくらい暴力的に振る舞うかはずっと聞かされていた。
でも、こっちが火焔瓶持ってりゃ機動隊だって突っ込んでくるだろうが、まさか丸腰の人々に対して暴力は振るうまい、と思っていた。

ところが、昨年4月6日に総務省が、インターネットプロバイダなどに対し原発事故関連の「ネット上の流言飛語」に対して「削除を含め、適切な対応をとることを要請」( http://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01kiban08_01000023.html )という事実を知って、背筋が寒くなったのだった。
(これについてはこの記事を。http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-10875510340.html

つまり僕なんかはすっかりオヤジで体力もないのでもしも機動隊員と対峙したら小指一本でやられてしまうのは仕方ないのだけれど、ならば「ことば」で闘っていくしかないと思っていたところを、国は検閲まがいの作戦に出たのである。

日本はもっとマトモな国だと思っていた。
少なくとも21世紀に言論統制をするようなイカれた社会主義国とは違うと思っていた。

そんなわけで震災後2ヵ月くらいの中で、
もうこれは覚悟を決めるしかない、つまり立派な正義論をぶちかましたいというのではなく、いくらなんでもこんな嘘や隠蔽は酷いだろ、ということに対しては、僕はもちろん無名の物書きだけれど、それでも正々堂々実名で書き綴るしかない。
そう決めたのだった。
(当時の記事の中でも『大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算』http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-10870712770.htmlなどは、今でも読む価値があるのでぜひ)

こうなるともう、「反原発」は主義主張ではなく、「生き方」の問題となる。
(当時の記事では、山本太郎さんが事務所を辞めた件などについたhttp://ameblo.jp/jun-kashima/entry-10907555392.htmlとか)

さらに、昨年の夏には、京大原子炉実験所の小出裕章さんと小児科医の黒部信一さんの共著による『原発・放射能 子どもが危ない』(文春新書)取材編集のため、小出さんと行動を共にし、いろいろお話しをさせていただく中で、小出さんが原発に反対するほんとうの理由を聞き、僕はすとんと腑に落ちたのであった。

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小出さんが原発に反対するいちばんの理由は、放射能が危ないからではない。
もちろん、当然のことながら、放射能はたとえ僅かでも、決して安全だなんて言ってはいけない。
しかし、3.11以後、世界は変わってしまったのである。
少なくともこの日本では、福島第一原発事故による被曝を100%完璧に避けて生きていくことは、ほぼ不可能と言って良い。
では、どうしたらよいのか?

小出さんの答は
弱い者や、罪のない者を守るべきである。
ということに尽きる、と僕は思う。

「弱い者」とは、たとえば子ともであり、「罪のないもの」とは、たとえば未来の世代である。
子どもは原発に何の責任もないにもかかわらず放射能の影響、健康被害は大人の何倍にもなる。我々は未来の世代に、半減期何万年もの危険極まりない放射能廃物を押しつける。

弱いのは子どもだけではない。
原子力というのは、ウラン採掘から廃炉作業に至るまで、その全課程において社会的に弱い人たちに被曝を強いる。
東電から孫請け(ひ孫請け?)の極悪建設会社「ビルドアップ」(福島県郡山市)が、フクイチで働く人たちの線量計に鉛のカバーをつけていたことがニュースになった。
規定の被曝線量を超えると原発では働けなくなる。
「今後原発で働けなくなるよりも被曝線量を低く見積もったほうがいいだろ?」という理屈で、「ビルドアップ」は労働者に鉛のカバーをつけさせていたと聞く。

誰が好きこのんで被曝するだろうか?

現代の日本では、小学生の子どもをたとえば一日18時間も働かせたら犯罪だ。
ところが、「貧乏な子どもは働きたがっている。我々はその労働力がほしい。これでみんなハッピー。子どもを18時間働かせて何が悪い?」というような資本家の勝手な理屈がまかり通っていた社会があった。
そんな屁理屈が許されないのは今では常識だろう。
「ビルドアップ」はそれと同様のことをやっていたわけだ。

さて。

ここからが大事なのだが、
弱い者や、罪のない者を守るべきである。
というのは、「科学の命題」ではない。

これは、科学が対象とする「真偽」の問題ではない。
「善悪」の問題、あるいは「倫理」の問題である。

何回も書いたけれど(たとえば、http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11157697411.htmlhttp://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11176701522.html)、科学や数学を有り難がって信奉している人が多いが、突き詰めればそんなのも全部無根拠だ。
神様でも認めない限り、科学や数学が「善悪」「倫理」を語るなんて、原理的に不可能だし、あってはならないことなのだ。

それがわかっているからこそ、小出さんは「善悪」の問題を科学から切り離して語る。

すなわち、科学が干渉しえない(干渉してはならない)「生き方」の問題として語る。

反原発のデモに対して、未だに「裏で左翼過激派が操っている」などと言っている人たちがいる。
取るに足らないネトウとかはどうでも良いのだけれど、産経御用新聞とかは、とりあえずは大手メディアでありながらも、まだそんなことを書いているみたいだ。
これもこのブログでは何回も書いているけれど、反原発デモなんかに来る人の大部分は、イデオロギーなんかで参加しているのではない。
むしろ、多くの人が「生き方」の問題として原発に向き合っているのだ、と僕は思う。

おっと。
また超長くなりそうだな。

巻き入れます。

「哲学とロックンロールと反原発」についてであった。
「反原発」についてはとりあえず以上でおしまい。

次は「哲学」だが、まあこれも、この前まとめて書いた「「分析哲学」で「反原発」を語るにはどうしたらよいのだろう?」(その1http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11299613282.html・その2http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11299612779.html)を見てちょうだい。
「考える」ということは、哲学用語を使おうが、日常用語(普段のことば)を使おうが、「生き方」にほかならない。

酔って眠くなってきたのでごめんなさいだ。

そしていよいよ「ロックンロール」の話。

ロックンロールとはもちろん「闘う」ことであるが(エイトビートの音楽を指すのではない)、厄介なのは、闘う相手がはっきりしないことだ。
米国帝国主義に対して闘うとか共産主義に対して闘うとか、野田佳彦に対して闘うとか、まあそんなふうに敵がわかりやすければ楽なのだけれど、それでは単なるくだらないイデオロギーだし、その「楽さ」をも許せないのがロックンロールなのだ。

だからロックンロールは、愛も憎しみも、怒りも悲しみも、その相手が見えぬまま歌い続ける。

自分の声がもしかしたらどこにも届かないかもしれぬ事を承知の上で、それでも「歌わざるをえない」。
それこそが、ロックンロールの最初の一歩であり、次の二歩めも、その次の三歩目も、あるいはまた、百何十歩めに誰かに「届いたかもしれない」と思えば、「それは違うぜベイビー」と言わざるをえない。
(首相官邸前のデモに対して野田佳彦が「デモの声はよく聞えている」と言ったそうだが、それで我々の抗議行動は終わるだろうか? 終わりはしない。「それは違うぜベイビー」「ベイビー、お前が間違ってるぜ」と言うだろう)

ほんとうはね、
Lenny Kravitzの「Rock and Roll is Dead」と、サンボマスターがつい最近リリースした「ロックンロール イズ ノットデッド」の話をしようと思っていたのだった。
疲れちゃったので少しだけ書こう。


Lenny Kravitzが「Rock and Roll is Dead」をリリースしたのは1995年。
こういう歌詞だ。

ダイヤの指輪とコカイン、500人の女と寝て、
そうやって世界中のカネをかき集めたって
ロックンロールは死んじまったんだよ。

これをLenny Kravitzが自身について歌ったものとみるのか、「ロックンロールそのものが死んだ」と解釈するのか、ファンや批評家の間にはいろいろ見解の違いもあるようだけれど、そんなことはどうでもいい。

いずれにしても、1995年に僕が聴いた「Rock and Roll is Dead」は、
「我々の闘いはもう無駄だ。もはや闘う意味などどこにもない」宣言であった。

つまりこの、凡庸でくだらない世界がいつまでも続く。

宮台真司さんが当時言っていた『終わりなき日常』である。
もちろん、宮台さんの言う『終わりなき日常』という観念は、僕の言わんとするところとズレがあるだろう。
ただやはり、レニクラの「Rock and Roll is Dead」と、宮台さんの著書『終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル』は、同じ1995年にリリースされ、同時期に僕も、そしてまた多くの人も、大いなる諦めと達観を持って21世紀を迎えようとしていた。
これは紛れもない事実だと思う。

「終わってる」ということばが流行ったのはいつ頃だっただろうか?
僕は思い出せないし、酔っているので調べる気力もない。
だけど、「終わってる」じゃなくて「終わらない」こと。
つまり、我々は殺されはしないが、もはや何も新しいことは立ち上がらないよ、ということ。
それは、よく考えれば限りなく苦痛なのだけれど、まああんまり考えずにやってこうよ、みたいに、当時、日本人の多くが思っていた。

繰り返すよ。
大いなる諦めと達観
まあいいじゃんか、ちょこちょこ楽しくやろうよ的な。

それが「20世紀の終わり」だった。
このままの世界が永遠に続くような気がしていた。

ところが。
2011年3月11日。
そんな世界観は根底からひっくり返されたのだった。

そして僕らは、というか少なくとも僕は、ロックンロールを取り戻さなければならなかった。

2012年7月1日。

大飯原発再稼働に抗議する人たちが、原発に通じる一本道を封鎖し、警察官、機動隊員らと対峙した。
何時間にも及ぶ緊迫した状況。僕は、現地に行けなかったことを悔やみながら、Ustreamの中継でじっとそれを見守っていた。
18時頃から、機動隊が再稼働反対の人々を押しはじめる。
少しずつではあるけれど、機動隊がじりじりと前に出てきた。
治安部隊が力で制圧を試みた場合、勝ち目はなかろう。
彼らは常日頃からそういう訓練を受けているのだ。
最前線も強制排除。
やはり国家権力はそうするか…。

そのとき突然鳴り響いたのはドラムの音だった。
参加者のひとりが、持ち込んだドラムセットを叩き始めたのだった。

そして、それに呼応して、皆が口々に抗議の声のボリュームを上げた。
抗議行動参加者に対して暴力的な対応をしようとする機動隊員には、全員がリズムに合わせて「暴力反対」の声を上げた。

治安部隊(警備・機動隊)の基本方針については、県警本部長の指示によって県警警備部長が決めていると思われる。
たとえば最近の総理官邸前抗議行動については、余程のことをしない限り逮捕はされない。これは警視庁の方針であろう。
ところが、その日の大飯の治安部隊は、たぶんもっとずっとビミョーな命令を受けていたのだと思う。
つまり「現場指揮官一任」の裁量が広かったと思われる。
細かく書くときりがないのでやめておくけれど、そのとき最前線の機動隊員は硬い肘パッドを抗議行動参加者の肋骨に押しつけるなど、VTRには映らないもののけっこう手荒なことをしていたと聞く。
たぶん「ある程度の逮捕者やむなし」という県警の方針だったのだろう。

東京にいる僕は「誰も逮捕はするな。ネットの生中継で世界中が見ている」というメッセージをfaxで福井県警本部や小浜警察署に送り続けていたのだけれど、はっきり言って状況はものすごく危ない感じだった。

そのときに鳴り始めたドラムのリズム。

その音で、人々は元気を取り戻した。
リズムに合わせて「再稼働反対」を叫び、そして、もう一歩も引かなかった。

ロックンロールだ。

これがロックンロールだ。

ロックンロールの魂だ。


あとから聞くと、Ustream中継見ていた多くの人が、この場面に心を打たれたらしい。
リズムセクションはその後何十時間も太鼓を叩き続けた。
非暴力不服従で闘い続けた人たちに対して、福井県警の治安部隊はもはや手を出すことができなかった。

結果的には大飯は再稼働されてしまったわけで、ものすごく大変なことなのだけれど、でもそれよりも、大飯原発前に集まった人々が世界中にロックンロールを伝えた事のほうが、もしかしたらずっと意義があるのではないか、と僕は思ったりもする。

ええと、
また話が脇道にそれた。

サンボマスターだった。

正直言って僕は邦楽はまったく聞かないのだけれど、彼らのヒットナンバー『世界はそれを愛と呼ぶんだぜ』(2005)を当時たまたま聞いたとき、「おお!ロックンロールじゃないか!」とすごく嬉しかったのであった。


そして3.11後の去年秋、福島県内各所で行われた「風とロックSUPER野馬追」での彼らのステージを見たときに(youtubeだけどね)、すっげえロックンロールバンドが日本にもいたんだと思い知ったのである。


で、福島出身のV.G、山口隆が次に何を歌うのか、僕はずっと気になっていた。

そうしたらなんと、レニクラのanswer songだぜ。

何度だって立ち上がるんだよ。君よもう悲しまないでくれ
君が生きるなら僕も生きるよ。
ロックンロール イズ 
くたばるものか 
ロックンロール イズ ノットデッド


ロックンロールは死んではいない。
終わりなき日常なんて、騙されて作られた幻想だ。
奴らが、つまり、政府が電力が財界が官僚がマスコミが、どれだけひどい嘘をつくのか、我々はもう知ってしまったのである。

このブログでは何度も書いているけれど、僕は毎月福島に行っている。
福島の人たちと話をして、つくづく感じるのは「分断」ということだ。

それは、他の都道府県から福島が分断されてしまったということでもあるし、福島県内でも、地域、貧富、夫婦、家族…ほんとうにさまざまなレイヤーで人々が分断されてしまっている。

震災後「絆」ということばが流行って、僕ももちろん被災地の現場から発せられる「絆」ということばは実感、納得するのだけれど、東京でのほほんとしているテレビ局が「絆」キャンペーンを張って、誰もが「絆」「絆」なんていうのは、被災者の方々に対して、それこそおこがましいにもほどがあると思っている。
だから僕は、これまで一度も「絆」を訴えたことはなかった。
でも今、敢えて言うとすれば、原発事故のせいで分断されてしまったさまざまな関係を取り戻す、あるいは事故以前よりも深める、という意味合いであれば、それがもしかしたら「絆」ということばかもしれないと思う。

我々は、山口隆が叫ぶ「くたばるものか」ということばを、遠い世界の人の声としてではなく、友達の叫びとしてまっすぐに受け入れなければならない。

ロックンロールは「生き方」の問題だ。
ごめんかなり酔っているので、もうこうなったらベタベタな言い方をしよう。

あなたは誰と友達になるのか?
野田佳彦か? 米倉弘昌か? 勝俣恒久か?
それとも、福島の人たちか?(あるいは福島出身の山口隆か?)

答は明白ではないか。

友達の歌を聴け。

強く願って明日を変えたい
ロックンロール イズ ノットデッド


【7.13官邸前】過剰な通行規制と参加者の分断に抗議する

すでにネット上でさまざまな指摘がされているとおり、昨夜の官邸前デモの規制はひどかった。

僕は、昨夜は日比谷線を使ったので霞ヶ関駅で下車し、ちょうど18時頃13番出口から官邸方向を目指したのだったが、霞ヶ関交差点で止められ、右折→国会前交差点を左折→国会正門前交差点方向に誘導された。
ところが、国会正門前交差点から先が閉鎖されているようだ。
しばらく僕もそこにいたが、動けないのでらちが明かない。
できる限り官邸に近づきたかったので、いったん霞ヶ関駅に戻り丸ノ内線に乗り、混雑を覚悟で国会議事堂前駅で下車。

すると、だ。
国会議事堂前駅構内は全然混んでいない!
唯一地上に出られるのは4番出口だけで、それは先週と変わらないのだけれど、先週は地上に出るまで15分くらいかかったのに、昨夜はあっという間に地上に出られた。
「国会議事堂前駅はとても混雑するので霞ヶ関、虎ノ門駅を利用してください」と、主催者HPで呼びかけていたので、かなりの人が霞ヶ関や虎ノ門駅を利用したのだろう。
ところが、霞ヶ関で下車した人は国会正門前で足止めだったし、情報によると虎ノ門駅で下車した人は六本木通りで足止めだった模様。

国会議事堂前駅4番出口は官邸にも近いので地上はさすがに混雑していたが、警察は車道を一切開放しない。
右方向(官邸から遠い方向)に向かわされ、しかも途中の細い道から六本木通りに出ろという。
ぐるぐる歩かせる気だ。さすがにそれには従えない。
だから僕は、交差点付近で留まって、その場に留まった人たちと再稼働反対の声を上げていたのだった。

僕の知る限りの昨夜の状況がこれ。

官邸前

ここから、GoogleMapのページに飛んでください。

で、OurPlanet-TV(http://www.ourplanet-tv.org/)が進めている「「官邸前抗議行動」みんなの写真&ビデオプロジェクト」(http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1401)によると、参加者が完全に分断されているのがわかる。

はっきり言って今回の通行規制は過剰であり、参加者を分断し、集会の自由の権利を奪う違憲行為であったとしか思えない。

僕は、霞ヶ関から官邸前に通じる道の脇にいてずっと見ていたのだったが、クルマなんかほとんど走っちゃいない。
通行規制は危険防止みたいなことを言っていたが、それよりも、細い下り坂に多くの人を誘導するほうがずっと危ない。

我々は極めて平和裏に抗議活動をしているのである。
官邸前周辺はたとえば17時~21時は車両の通行を規制すればよいではないか。
官邸の安全を確保したいというのであれば、官邸前交差点だけは立ち入り禁止にして警察車両でもなんでも置けばよい。
お望みならば、車道を開放した状態で、30メートルおきに警察官を並ばせてエリア分けすればよいだろう。

少なくとも数万人レベルの参加者を一切歩道から出さずに、広域にわたって分断するなどというのはまったく呆れた事態でお話にならない。

主催者の人々にも言いたいのだけれど、みなさんがほんとうに頑張ってくれているのはよくわかる。
だけど、警察と事前に交渉をするのであれば、参加者のこれほどまでの分断は認めるべきではないと思う。

そんなわけで、今回の通行規制とデモの分断には断固抗議したい。

ところで、笑っちゃうのは、午後8時過ぎ。
僕のいた場所は官邸前交差点から200メートルくらい離れていて、そこにいたみんなは、まだまだ「再稼働反対!」の声を上げていた。
でもきっとその時間、官邸前のメインステージでは主催者による今回の抗議活動の終了宣言がなされたのであろう。
車両の上でマイクを持った警察官が「みなさんの抗議活動は終わりました」と言い始めたのだった。

「我々の行動が終わったのかどうかを、なぜお前が決める?」「なんだよそれ?」と思わず吹き出したら、周りのみんなも失笑していた。

要するに警察は、自分たちが完璧に組織化されているので、社会的な意思表示のために何万人もの人々が組織化されずに集まる、というのが理解できないのではないかと思う。

繰り返すが、我々の抗議活動は極めて平和裏に行われている。
誰も火炎瓶を投げたりはしない。
これは、もしも火炎瓶を持っている奴がいたとしても、警察官が来る前に、周りのデモ参加者がそれを止めるであろうと言うことだ。

警察官のみなさんも大変だろう。トラブルのないようにデモ参加者に接しているのはよくわかる。
安保世代のかつての闘争家のような人だと、警察に対する敵対心を露わにしていることもあるけれど、大多数の参加者は目の前のお巡りさんのことを敵だなんて思ってないよ。
だからもっとおおらかにデモをやらせていただきたいと思う。
逆に言うと、昨夜のように多くの批判が噴出するデモ規制をやっていたら、はっきり言ってそのほうが治安上良くない結果を生み出すであろう。

あと。

どうしても車道を確保するという方向でデモの規制が行われるとすれば、きっと、クルマでのデモが大流行だ。
道交法では最高速度の規制はあっても、ゆっくり走る分には問題ないはずだ。
全国の反原発車両が結集するぞ!
チャリでもいいんだよ。馬だって良い。だって車両だもん。

それから、現状のような規制が続くのであれば、一度動くともうその場所には戻って来れない。
だから駅でちゃんとトイレに行っておくことと、これからの季節ものすごく暑くて汗もかくので、ポカリとかアクエリアス(最低500ml~僕のような汗っかきであれば1.5L)、あと、うちわも持っていたほうがいいね。(もんじゅ君のうちわもあるよhttp://monjukun.com/

「分析哲学」で「反原発」を語るにはどうしたらよいのだろう?【その1】

今回は久しぶりに哲学のことについて書く。
つまり、僕の哲学的な考え方や信念、方法論は、今僕が取り組んでいること、すなわちデモに参加したり反原発の書籍を編集したり、反原発のイベントに関わったり、このブログで散々反原発を訴えたり、まあそういった「反原発行動」と正当につながっていくのか?

じつはこれは、僕的には3.11以来ずっと大問題だったのである。

それを書こうと思うと、これまでこのブログでは原則専門的な用語・概念なんかは使わないようにしていたのだが、でもどうしても、今回はある程度使わざるを得ない。
しかも、東京から福島までクルマで行くのに東北道も国道4号線も使わず、県道と裏道ばかりをくねくね走るような、まどろっこしい文章だ。
しかも今回は、ほぼ哲学の話。きっと、ほとんどの人には興味のない話題だ。もちろん、役にも立たない。

でもまあとにかく、イグニッションキーを回して出発進行だ。
この先長いぞ。
なので、テキトーにスルーしてください。
それから、はじめてこのブログに立ち寄ってくれた人は哲学にげげげっと思うかもしれないので言っておくけれど、普段はかなりストレートな「反原発記事」です。別の記事から読んでくれたほうがよいかもです。

この前も書いたけれど、僕は学部レベル(というか英語もドイツ語も読めないのでそれ以下)だけれど、哲学を少し勉強した。
ほんの少しだ。
マイブーム的に1~2年間本を読み漁ったりするけれど、突然熱が冷めてどうでもよくなり、その後はすっかり忘れて面白可笑しく毎晩酔っ払って過ごしているうちに、全部忘れてしまう。
その繰り返しである。

ところが、昨年の3月11日に大地震と大津波があってしかも原発が爆発して、その後しばらく僕は家に籠もり、24時間テレビとネットを点けっぱなしにして、散々泣いたり憤ったりしたあと、これは己の人生考え直さなくちゃいけない、ということになった。

ものすごく大雑把に言って、哲学が問題とするのは「人生観」と「世界観」である。

「世界観」というときの「世界」とは、「世界各国」という意味での世界でもあるし、国とか政治とかとは全然関係なく、自分の肉体から宇宙の果てまでをも含めたすべて、という場合もある。

「人生観」というのは「生き方」と言うことだが、書店のビジネス書コーナーに置いてある「経営者誰々の人生哲学」などという本は、日常言語としての「哲学」という「ことばの使い方」としてはおかしくないのかもしれないけれど、(僕は東洋哲学はまったくわからないので置いておく)西欧で2000年の歴史を持つ「哲学」とは別物である。
「だれそれの経営哲学」なんていうのは、大抵の場合単なる教訓や組織を束ねて金を儲けるためのハウツウで、僕はそんな事柄にはまったく興味がない。

西洋哲学で言う「人生観」とは、すなわち伝統的に「善い生き方」の問題である。
また、「世界観」というのは、簡単に言ってしまうと「世界の何が真実か」とか「世界には何が存在するのか」、あるいはもう一歩突っ込めば「世界の何を知ることができるのか」などということだ。

これまで何度も書いてきているように、反原発は「生き方」の問題である。
すなわち、「人生観」だ。

これについては一番最後にもう一度リフレインしようと思っているが、とりあえず今は、ちょっと話題を変えて、さっそく裏道に入ろう。

西欧の伝統的な価値観に「真善美」というのがある。
「価値」とはつまり、「これが大事だよ」と言うことだ。
理科系の人とかはもしかしたら聞いたことがないことばもしれない。
なおで簡単に「真善美」について説明しておこう。

対義語を考えるとわかりやすい。

すなわち
「真」と、「偽」 (偽ではなく真に価値がある)
「善」と、「悪」 (悪ではなく善に価値がある)
「美」と、「醜」 (醜ではなく美に価値がある

混乱されやすいのは、日本語の「正しい」ということばは「真」の意味でも「善」の意味でも使われることがあるが、これは分けて考えるべき概念である。
つまり「2+3=5は正しい」というのは、「偽に地する真」ということだが、「正しい行いをしよう」や「これが『正』義だ」というときの「正」は、「悪に対する善」である。まったく違う意味なのだ。
(同様に日本語の「間違っている」ということばも、「真に対する偽」の意味のときも、「善に対する悪」のこともごっちゃになって使われているから注意が必要)

で。

「真」について言えば、
「何が真か」「真とは何か」という問題は、「認識論(我々はどうやって世界のことを知るのかetc.)」や「存在論(存在するというのはどういうことなのかetc.)」、あるいは「論理(正しい推論とはどういうものかetc.)」のようなテーマと深く関わっている。

「善」について言えば
「何が善か」「善とは何か」という問題は、「倫理(我々はどう生きるべきなのか)」「社会はどうあるべきか」のようなテーマ。

「美とは何か」という問題は、「美学」、美とは何か、そもそも美なんか存在するのか、存在するとすればどのように存在するのか、などなど。

とまあそんな感じで、西欧の伝統的な哲学ではずっと、「真善美」が問題にされてきたのだった。
と、ここまでは、まずは前提として了解してほしい。

高校で「倫理」(僕の頃は倫社)の授業に出たことがある人なら名前くらいは知っていると思うけれど、イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)という哲学者がいた。
彼の代表的な著作は「三批判書」といって、「~~批判」という題名の三冊の本である。
(今の日本語で「批判」というと「悪口」のようなイメージがあるが、カントの「批判」はそういう意味ではなく、「その問題を徹底的に考える」というような感じ)

こういう書き方をすると専門家の人からは怒られるかもしれないが、簡単にいうと
『純粋理性批判』という本では「真」を問題にし、
『実践理性批判』では「善」を問題にし、
『判断力批判』で「美」を問題とした。(アレント的な読み方では正義の話に通じるが、面倒なのでここでは書かない)

そんなふうに、「真善美を突き詰めて考えよう」というのが、西欧的な哲学、価値観、考え方の基本であったわけだ。

ところが、最近はちょっと違ってきているように感じる。

もちろん今でも、哲学をしている人の多くは「美」についても考えているのだとは思うけれど(実際僕の父は美学の研究者だった)、書店の哲学コーナーを見ると、「美」についての本はほんとうに少ない。

当然のことながら、それを善いとか悪いとかいうつもりは僕にはまったくないが、現実に日本の書店の哲学書コーナーに並んだ本のほとんどは、「真」または「善」をテーマにしている。

さらに裏道を走ろう。。
今のうちにはっきりさせておきたいことがあるのだ。

「哲学と宗教はどこが違うの?」
「哲学と社会学は?」
「心理学とは?」
そんな質問をときどきされる。

僕の答はこうだ。
「哲学とは、『問い続けること』である」

宗教がしているのは「答の提示」だ。
つまり、人生の目的や為すべき行動、あるべき社会の姿を示す。
みんな大抵、疑問や悩み、さまざまな「問い」を抱えているが、「答がないと我慢できない」という人々がいる。
なんの根拠もなく「答は必ずあるべきだ」と思っているのだ。
僕はその考え方は馬鹿だと思っているのだが、多くの宗教やイデオロギーというのは、「答」を用意してくれるから、それを聞いて納得してしまう人たちがいるのである。
よく考えろ、と思う。

で、社会学や心理学は、哲学と同様に「人間とはどんなものなの?」と問いかけるが、基本的な方法論は自然科学と同じ、要するに有限回の事実(実験・観測)からルール、法則を見つけ出そうとする。

あ、この話始めると長くなって駄目だな。
ひとつだけ言えるのは、心理学や社会学(社会科学)が自然科学と同様、原則的には「これまで実際になにがあったのか」から法則を見つけようとする(これを帰納的推論という)のに対して、哲学は「帰納的推論」自体も疑う。
「これまでそうだったのだから次もそうだろう」というような常識的な発想を、まず疑う。

このように哲学はなんでもかんでも疑うものだから、「宗教」のように「現実的な処方箋」を出すことはできない。
また、自明とされている自然科学の法則にさえ難癖をつける。

もちろん、自然科学が「これまでずっと東から日が昇ってきたのだから明日も東から日が昇るだろ」という「これまでの例を充分わかった上での未来の予測」を述べるのに対して、「いいえ明日は西から日が昇ります」と予測する哲学者はまずいない。
でも哲学者は、「明日も絶対に東から日が昇る」といわれると「これまでそうだったから次もそうだと言える根拠は何か?」と反論する。
つまり、「そんな予測(帰納的推論)が果たして正当化できるのか」という「問い」を投げかけるのだ。
しかも、できるかぎり先鋭化した「問い」の形にする。
それが哲学である。

西欧の伝統的哲学の中で有名な『問い』に、
「なぜ、何も存在しないのではなく何かが存在するのか?」
というのがある。
これは一見、「なぜ人間は存在するのか?」という問いと同じように見えるかもしれない。
でも、まったく違う。
普通の感覚としては変だと思われるかもしれないけれど、「何かが存在する」よりも、「何も存在しない」ほうが自然(←このことばはかなり不適当だが面倒くさいのでわかりやすく言おう)であって、なにかが「ある」ほうが不思議だと思われるからだ。

別の言い方をすれば「なぜ人間は存在するのか?」という問いであれば、自然科学も答え得る。
たとえば、宇宙の始まりはこうで、生命の始まりはこうで、いつ頃ほ乳類が産まれて…とか。
ところが、「なぜ、何も存在しないのではなく何かが存在するのか?」というのは原理的に自然科学には答えられない問いなのである。
(この説明をはじめると大変なので書かないが、ひとつだけ言っておくと、たとえば自然科学がビッグバンとかで宇宙の始まりを説明するとき、「最初は宇宙は小さかった」という。ところが、少なくとも今の自然科学には「そのように小さい宇宙がどこにあったのか?」と問うことはできないし、「なぜ宇宙に「最初」があったのか」を答えることもできない)

おっとまた長くなってきた。

話を戻そう。

書店の哲学書コーナーには、「真」や「善」をテーマにした本が並んでいる。
書名を見ただけではそうは思わないかもしれない。
というのも、「真実はコレだ!」「これが正義だ!」などというように単純に「答」を打ち出すような哲学書はまずないからだ。
それでも、ほとんどの哲学書は「真」や「善」を問うている(わかりやすくいえば問題提起している)のだ。

ふ~。
やっと国道に戻ってきた。

この前もちらっと書いたが、僕の考えている哲学のベースは、まあ10代の頃はプラトニズムのような発想やショーペンハウエルふうの厭世哲学が好きだった時期もあるけれど、今は、「分析哲学」である。

「分析哲学」というのは哲学のジャンルのことなのかテーマのことなのか、と問われるかもしれないけれど、とりあえずは「方法論」ということにしておいてくれ。

最初に書いたように、僕の哲学マイブームは嵐のようにやってきて嵐のように去って行く。
しかも、僕の記憶力は鶏並みなので、これまでずいぶんたくさんの本を読んだはずだが、一週間後にはすっかり忘れている。
しかも3.11以後は、原子力や放射能、あるいは政治や経済と言った現実的な本ばかり読んでいた。
なので最近は、まともに哲学を考えられるような脳味噌ではなかったのだった。
ところが、一昨日amazonをあっちこっち見ているうちに、「分析哲学」の入門書を見つけたので早速注文して、昨夜は万年床で寝っ転がりながら読んでいた。
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日本語で読める「分析哲学」全般の入門書というのはじつはとても少ない。
僕が分析哲学に惹かれていった90年代~00年代には、そんな本まったくなかったんじゃないかなあ。
分析哲学というのは、もともとは「ことば」(あるいは論理)に注目した哲学である。つまり、「ことば/論理」を分析するところから始まった。
で、「論理は事実に対応しているのだから、哲学の命題と科学の命題は同じでなければならない」というような、受け入れがたい主張もあった。
しかし今では、分析哲学は明晰な議論のための方法論として、「心とは?」「時間とは?」というような問題まで、つまり「真善美」でいえば「真」については、ありとあらゆるテーマを扱っている。

これも話し始めるときりがないので少しだけにしておくが、科学が発達した今、「人間の心とは脳が産み出すものだ」と信じている人が多い。
でもそれは、よく考えると変だ。

生物システムとしての人間は、たとえば郵便ポストを見たときに、網膜から神経回路を通じて情報が脳に伝わり、脳が何かしらの状態になって ⇒ 「ポストは赤い」 と思うわけだが、この「⇒」のところが不思議だ。
なぜならば、そのとき我々の心(というものが存在するとして)にあるのは、あるいはもっとはっきり言えば「見えている」のは、リアルな「赤」だからだ。
目から脳内に伝わった信号が二進法なのか十六進法なのかあるいはそれ以外なのか、そんなことはどうでも良い。
いずれにしても、我々が赤いものを見たときに、脳のどこかが赤くなるわけではない。
にもかかわらず、我々は極めてリアルに「赤」を感じるのである。

コンピュータはモニタ上に赤い色を映し出すが、コンピュータ自身が「赤いなあ」と感じるわけではない。コンピュータはただ、二進法の情報を処理しているだけだ。
「赤いなあ」と感じるのはあくまで、モニタを見ている人間である。
それを考えると、もしも脳がコンピュータのようなものであったとしたならば、処理された情報がモニタに表示されただけでは、誰もそれを見ていなければ誰も「赤いなあ」とは感じない。

だとすると、脳味噌の中に小人がいて、小人が「赤いなあ」と感じているとしか言えないのではないか。
でも、だったら小人の脳味噌の中に、さらに小人がいるのだろうか?
ホムンクルス問題という。昔から知られた議論である。

もっと下卑た話のほうがわかりやすいかな。
女の子のおっぱいを揉んで柔らかいなと思い、セックスして気持ちいいなと思う。
これがまさに我々のリアルな「質感」(クオリア)なのだが、脳内の電気信号のどれをとっても、それは単なる信号で、「柔らかさ」や「気持ちよさ」そのものではない。
これは「クオリア問題」と言われて、人の「心」を考えるとき、僕的には哲学でも脳科学でも最大の問題のはずなのだが、自然科学としての脳科学はほとんどそれを無視して進んでいる。
つまり「赤さ」や「柔らかさ」「気持ちよさ」「痛み」というようなクオリアを無視しても、「どこをどうしたら脳がこうなる」ということは実験・観察できるわけで、自然科学はそれらをどんどん突き止めていっているが、どこまで行ってもクオリアには達しない。

将来、他人の脳と自分の脳をケーブルでつなげるようになるかもしれない。
そのとき、他人(Aさん)が痛かったり悲しかったり気持ち良かったり感動したりした場合、自分もAさんとまったく同じ痛みや哀しさを感じるのだろうか?
そんなことはあり得ない。と僕は思う。

また裏道に入ってしまった。

要するに「分析哲学」というのは、「ことば」の分析をスタートとしているものの、単なる「ことばについての哲学」ではない。
今書いた、クオリア問題など、最先端の科学に対しても鋭い問いを突きつけるのだ。
「分析哲学」は、明晰なことばで物事をはっきりさせる、という方法論であり、「存在」「心」「時間」など、哲学の根本課題とも言えるさまざまな論点にアプローチしているのである。

というようなことを「分析哲学講義」を読みながら思い出していたのだった。
良書です。
専門的な哲学用語なんて知らなくても大丈夫。
ただ、分析哲学に初めて接するという人にはちょっと難しいかもしれない。新書で300ページ弱の薄い本だが、分析哲学的な方法論に初めて出合う人がひとつひとつ吟味して読んでいたら一週間くらいかかるかも。だけど、読み終えたときには「なるほど、こんなふうに世界のこと、自分のことを考えることができるんだな」と納得するはずだ。
「分析哲学」について、こんな入門書が出てよかった、と思える本。

やっと県道に戻る。

さっきも書いたのだけれど、「真善美」という議論でいえば、分析哲学は「何が真であるか」「真とは何か」を徹底的に考える。
ところが、「善」については、不勉強な僕が言う話ではないのだが、分析哲学が「善とは何か」を問うことはあっても、「何が善か」を語っているのはほとんど見たことがない。
(こういう書き方をすると論理的におかしいと言われそうだが、必要条件と十分条件、内包と外延みたいな話。酔っているのでごめん)

(もちろんこれは僕の勉強不足だろう。今、『道徳の言語』という本を読み始めていて、ここでは道徳(すなわち善悪)の問題が分析されているように思えるけれど、1960年の本なのでいかんせんちょっと古い。クリプキ以後の分析的道徳論の本があったら、誰かぜひ紹介してください。)
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今日の記事はとりわけ長い。【その2】に続きます

「分析哲学」で「反原発」を語るにはどうしたらよいのだろう?【その2】

【その1】の続きです。【その1】からどうぞ

たとえば、永井均さんという哲学者は、現代日本で最先鋭の哲学的議論(問い)を発しているように僕は思う。善悪について言えば、「善という概念」そのものを問うている。
「善いことは善い、悪いことは悪い」といった、間抜けな道徳的議論に蓋をする優れた哲学だ。

著書に「なぜ人を殺してはいけないのか? 」「なぜ悪いことをしてはいけないのか」というような本がある。
なぜ人を殺してはいけないのか? (河出文庫)/河出書房新社
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前書については90年代後半、僕の記憶ではなにかの殺人事件のあと新聞の投書で中学生が「なぜ人を殺してはいけないのか?」という優れた問題提起をした。
アタマの悪い道徳派の人たちは「悪いものは悪いんだ!」と頭ごなしに否定したわけだったが、そんなのは疑問を投げかけた中学生にとってはまったく答になっていない。
中学生は殺人予告をしたわけではない。ただ純粋に問うているのだ。
にもかかわらず、「「なぜ人を殺してはいけないのか」というようなことが問題にされること自体がおかしい」などというキチガイ発言もあった。
有無を言わさず大人が子どもを黙らせようという、ファシズム的とも言える強調圧力である。

永井さんはそれが我慢できなかったのだと思う。
前掲二書では永井さんは哲学者として、そんな「世界の凡庸さ」と闘った。

またまたかなり細い裏道に入っていくが、永井さんの本領発揮は、上記のような道徳的・倫理的な問題だけではない。
哲学をこれからやりたい人にまず一冊、という入門書であれば、僕は迷わずこの本をお勧めする。
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また、「ニーチェって何を考えていたの?」と思う人には「超訳・ニーチェのことば」なんか全然駄目で、これ。
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何にも知らない人がウィトゲンシュタインについて学びたいのであればまずはこれ。
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それからもちろん、<私>というのがどういう「こと」であるのかというのが、永井さんが追い続けている大きなテーマであるのだけれど、たとえばデカルトに騙されて「我思う故に我あり」を信じているような(ごめんね幼稚な)人は、
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私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)/講談社
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↑この二冊を読みましょう。
「私・今・そして神」は失礼ながらとんでもない悪文なのだけれど、それをきちっと追うことができれば、かなり問題がはっきりする。

ついでに言っておくと、「分析哲学講義」を書いた青山拓央さんは、勝手に想像するに永井さんの弟子筋で(共著を除く前著「タイムトラベルの哲学」の帯には永井さんの推薦文が載っていたし)、まあいずれにしても、永井さんにしても青山さんにしても、ウィトゲンシュタインやってた人の文章というのは、もちろん僕はそれほど勉強していないので全部わかるとは決して言えないのだけれど、方法論的に共有しているので僕的にはわかりやすいのであった。

今度こそ県道に戻ろう。

ウィトゲンシュタインというのは、その文章を見る限り「いわゆる分析哲学」とはまったく違う、アフォリズム(長くだらだら説明しないで短いセンテンスで問いを発する。ニーチェとかと同じ)なのだが、それでも彼こそが、単なることばの分析にとどまらず、分析哲学を「世界を語る方法論」、さらに「存在論」の問題にまで踏み込ませた、20世紀最大の哲学者だ、と僕は思う。

ところが、彼が生前に出版した本は一冊だけ。
『論理哲学論考』(論考)だ。
論理哲学論考 (岩波文庫)/岩波書店
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ものすごく雑な言い方をするので突っ込まないでほしいのだけれど、
「世界は『もの』の総体ではなくて『こと』の総体だ」と『論考」は言っている。

現代、多くの人は「世界は『もの』の総体だ」と思っている。
素粒子があったり原子や電子があったり分子があったりあるいはまだ見つかっていない『なにか(もの)』があって、それらが人間の身体も、「心(意識)」を産み出す脳も、ビルや自動車も、地球も太陽も宇宙の星々も、すべてを構成していると思っている。
でもそういうのは考え方の倒錯であって、『論考』によれば、世界とは「ことばで語り得る『こと』の総体だ」ということである。

『論考』のこの議論については、ウィトゲンシュタイン自身ものちに「これはやっぱ違うんじゃないか」ということになって、さらにそれを乗り越えた、「ことば」に関する画期的な(世界がひっくり返るくらいの素晴らしい)探求をし、新たな問いを発するのだけれど、まあそれはともかくとして、『論考』の最後は、次のようなことばで結ばれている。

「語り得ぬものについては沈黙しなければならない。」

なんだよ、俺のブログのタイトルじゃないか。
ていうかもちろん、僕はここからタイトルを頂戴したわけであったが。

では、「語り得ぬもの」とは何か?
それは、端的に「ことばの外側」である。

おっとこれだけだと誤解を招くな。
何について語るのであっても(つまり「ことば」そのものについて語るのであっても)、それは「ことばの内側」で、すなわち「ことばを使って」しか語れない。
だから(『論考』的な考えで言えば)、ことばは、その内側から自らの限界を規定するしかなくて、その外側について語ることは端的に不可能である。
(もしもその外側について語ってしまったら、さらにその外側があるということになってしまい、無限後退に陥る)

ウィトゲンシュタインが「語り得ぬもの」と言ったとき、それは「語り得ない外側」を必死に示そうとしているのだ。

ではそれは何かというと、「倫理」という人もいれば「信仰」という人もいる。
いずれにしれも、彼のいう「語り得ぬもの」とは、「真偽」の問題ではなく「善悪」の問題なのである。

かつて『形而上学者ウィトゲンシュタイン』という本を読んだとき(この本は震災で本棚が崩れたときにどっかに埋まってしまったので手元にないのだが)、帯に「ウィトゲンシュタインが形而上学者というと驚く人が多いと思いますが~~」みたいに書いてあった。
僕は、逆に驚いた。
僕にとってはウィトゲンシュタインが形而上学者であることは自明であったのだ。
形而上学者ウィトゲンシュタイン―論理・独我論・倫理/筑摩書房
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『論考』のあの構成のなかで一番最後に「語り得ぬものについては沈黙しなければならない。」と彼がわざわざ書くときに、それを字面通り受け取るほうがどうかしているのであって、これは「語り得るもの」を限界まで語ることによって、その外側の「語り得ぬもの」を示す、つまりその存在と価値を肯定しているとしか思えないのである。
実際、ウィトゲンシュタインは(手元に資料がないので記憶だけで書くが)『論考』を書いたあと編集者だったかに宛てた手紙の中で、
「大事なのはこの本に「書かれている部分」ではなく「書かれなかった」部分です」
という趣旨のことを書いている。

そろそろかなり疲れてきたので国道を走ろう。

僕は学者ではないので正確なことは言えない。
だからまったくの当てずっぽうなのだが、ウィトゲンシュタインが「真善美」の「真」についてしか語ろうとしなかったというその哲学的な態度を、「分析哲学」は今でも引きずっているように思える。
別の言い方をすれば、彼が「語り得ぬもの」としながらも必死に示そうとしたものを、分析哲学は最初から諦めて、無視しているようにも思える。
これは、分析哲学の方法論が必然的に抱え込んでしまっている限界なのだろうか?

もちろん、善に関することは分析哲学ではまったく語れない、というわけでもない。
「(大飯原発)再稼働は私の『責任』で」と言い回っていた野田佳彦は、国会で「では事故が起きたら責任を取るのか」と追及された際、「これに関与し責任を持って判断を行うという趣旨で述べたものである」などというとんでもない詭弁を弄した。

それに対して僕は、先週の記事『野田佳彦は、日本を駄目にしようとしているばかりか、人間社会そのものを否定している。』(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11295353282.html)の中で、

どんな単語を言ったか言わないかとか、そんな些末な問題ではなく、言い方や回数も含めての「ことばの使い方」が、それこそ「ことばの意味」なのだ。(中略)野田佳彦は日本を駄目にしようとしているばかりか、人間社会そのものを否定しているように思えてしまうのである。

と書いたが、これは分析哲学の方法に依った批判である。

すなわち、政府、電力、財界などの連中の屁理屈に対して、分析哲学は明晰なる抗議をすることができる。

でもそれは、いってしまえば「消極的な反原発」である。
嘘つきどもを糾弾する、つまり敢えて雑な言い方をすれば、「(真ではなく)偽」を暴き出すことはできる。
ところが、「(悪ではなく)善」を語る、といった「積極的な反原発」を、分析哲学は出来るのであろうか?

最初のほうで、日本の書店の哲学書コーナーには「美」についての本がほとんどない、ということを書いた。
「善悪」をテーマにした本はある。
でも、僕の知る限りそれらは、「分析哲学」とは違ったアプローチの哲学書である。

大雑把に言うと、フランス語圏などのいわゆる「大陸哲学」といわれる哲学では、「善悪」の問題はかなり大きな比重を占めているように感じる。
だけどどうも僕には性に合わない。
なぜならば明晰でないからだ。
ことばに対する距離の取り方が揺れまくっているように思う。
芸術であればそれでまったく問題ないのだけれど、哲学はそれではいけないのではないか。
(思考実験的な比喩ではなく)イメージ的に比喩を使うのは、雑であり、大事な問題を取り逃がすのではないか。などなど。
もちろん、大陸系の哲学については僕はまったく知らないので、これは単なる言いがかりかもしれないのだが。

おっともう朝じゃないか。

東京から福島に向かい、まだ宇都宮あたりだ。

ごめん、議論は放棄して高速に乗るよ。

いいたいのはこう言うことだ。

僕の哲学的な態度(偉そうに言えば哲学的な誠実さ)と、反原発の意思表示は、どこかでちゃんとつながってくれるのか?

一番最初に、人生観と世界観ということを書いたけれど、それが、少なくとも矛盾なく、できることならひとつの議論として止揚、あるいは収斂でもいいけれど、なんらかの形になるのだろうか?

これがじつに、大問題なのである。