「『~~とは何か?』とは何か?」@福島 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

「『~~とは何か?』とは何か?」@福島

ごめん、今夜もひと言だけ。

金曜日から、『ざまあみやがれい!』(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/)管理人の座間さんと一緒に福島に来ています。
僕が3月から毎月参加している『てつがくカフェ@ふくしま』に、座間さんを誘ったのですね。

金曜は、もう何十年も反原発活動をしている方も参加されたミーティングで、デモや抗議運動について語り、最後は僕と座間さんと福島大学のO先生で深夜まで某美人ママ優子さんのお店でエロ話に花を咲かせ、土曜(昨日)は、福島の除染情報プラザに行ったり、座間さんが急遽提案した「脱東電オフ~福島市出張編~」(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65820791.html)で、県内某老舗飲食店の美人女将とお話しして、さらに『てつがくカフェ@ふくしま』で愛と恋について語って、その二次会以降は、現役女子大生たちにどん引きされながらも、愛と恋と原発についてさっきまで語っていたのでした。
美人と女子大生に囲まれた週末です。

で、ここから本題。
今回何を書きたいのかというと、「今週末は『てつがくカフェ@ふくしま』に行くよ」というお話しをある人にしたところ、
「(哲学って言うのは)『~~とは何か?』みたいな話なのでしょうか」
とメールをいただいたので、「その問いの立て方はたぶんきっと根本的に違う」と返信を書きかけていたのだけれど、考えてみればこれはみんなに言ったほうがいいなと思い、ブログの記事にすることにした、というわけです。

哲学にもいろいろな考え方がありますが、僕は「~とは何か」という形の問いは駄目だと思っています。
なぜかというと、「Aとは何か」と言った場合には、現実の世界にせよ空想の世界にせよ(あるいは他のいかなる世界にせよ)、「A」が存在することが、こっそりいつのまにか前提となってしまっているからです。

「新幹線とは何か」であれば、現実世界に存在する新幹線についての問いであり、「ウルトラセブンとは何か」であれば、現実には存在しないけれど特撮ドラマ(物語)の中に存在するウルトラセブンについての問いです。

でも、その問いを発した瞬間に、「現実世界」「空想世界」「存在する」といった概念を無条件に受け入れてしまっている。
これが決定的にマズいのです。

たとえば、「心とは何か?」と問うたときには、誰も「心」を見たことも触ったこともないし、しかも「自分の心」はなんとなくわかっても「他人の心」は存在するかどうかも確かめられないので(たまたま同じ電車の向かいに座った見知らぬ他人に、果たして「心」があるのかどうかわからない。死体かもしれないしよくできたロボットかもしれない。普通の生きた人間のように見えるけれど意識も感情も感覚もないゾンビかもしれない)、
だからこそたとえば
「我々が『心』と呼んでいる何か」が、果たしてどこかの世界に存在するのかどうか」
という問いが、「心とは何か?」という問いよりも先に立てられなければならない。
(あるいは、もっと突っ込んで言えば、我々が「心」ということばを使ってしまっているのはどういうことなのか、を分析しなければならない)

これはとても基本的で重要な考え方だと僕は思うのですが、なぜか今の教育では高校生に教えない。

「心とは何か」を小中学生に聞くのは、良い問題提起だと思います。なぜなら彼らは、まだ「ことばを覚え中」だからです。
でも、オトナとして日本語を使えるような年代になった人たちに問うべきは
「『何か?と問うこと』とは何か?」
という、ある意味メタ的な問いであるべきなのではないか、と思うわけですね。

「原発とは何か?」という問いはいいのです。
原発は現実世界に存在しているもの(科学《社会科学、自然科学や工学》の対象)だからです。
ところが「原発とは何か?」を問い始めると、政治や経済、社会システムの問題はもちろんのこと、その先に問われるのは、「社会とは何か」「個人とは何か」「死とは何か」「幸福とは何か」「心とは何か」ということにならざるをえません。
少なくとも哲学的に問題を問うのであれば、(あらゆる問題と同様に)どうしてもそこに行き着く。

そんなときに(まあ「社会」の概念は面倒くさいのでともかくとしても)、「個人」「幸福」「死」「心」といった、(あえてわかりやすい言い方をすれば抽象的な)概念は、果たしてそれが、現実世界でも空想世界でも、さらにいえばあらゆる可能世界において、その「ことば」が指し示す対象が存在することをこっそり暗黙の前提として
「~~とは何か?」という「問いの形」で語れるものなのか?
要するに「~~とは~~です」という答が用意されるものなのか?

僕はそれは、決定的に違うと思うのですね。

「~~とは何か?」という形での問いではなく、「問い」の方法を切り替えて、せめて
「もしかしたら(そのことばの指し示す対象は)どこにもないにもかかわらず、我々はそんなことばを使ってしまっている」
という、我々のことば、つまり考え方のルールを問うべきだ
と思うのです。

「~~とは何か?」
というのは、「科学」(すなわち、自然科学でも社会科学でも)では、まっとうな『問い』の形なのかもしれません。

だけど、「反原発とは生き方の問題である」としか考えられない僕的に言えば、
「『何か?と問うこと』とは何か?」という問題をスルーして、したり顔で「~~とは~~だ」と正論もどきを述べる自然科学(物理学とか)や社会科学(経済学とか)は、まったく納得がいかない。
ここは哲学、あるいはロックンロールの出番としか言いようがないのではないか。

とまあ、そんな気がするわけですね。

これは直感なのだけど、「~~とは何か?」という議論をしてはいけない問題について、今「~~とは何か」という議論がされている。
なので、まったく噛み合わない。
これが、原発事故被災者のひとたちの内部に亀裂を入れ、福島と東京、あるいは福島と全国、別の言い方をすればすべての「反原発」の人たちを分断させてしまっている要因のひとつになってしまっているのではないか。
そんな気がするのです。

この議論にはもちろんもっと先もあるのだけれど、面倒なので今夜はここまで。
酔ったから寝る。