語り得ぬものについては沈黙しなければならない。 -7ページ目

福島で花見。水俣病。就活。サッチャー。アベノミクス。ボストンマラソン。

先週だけど、福島の人たちの花見に参加させてもらった。
福島市内の信夫山。県外の僕らは「のぶおやま」と読んでしまうけれど、正しくは「しのぶやま」。福島市内の人にはそれ以外の読み方は考えられないくらい、市民に親しまれている小さな山。桜の名所である。

山なので坂道を登っていくのだが、途中に見える風景がこれ。
満開の桜の下に「除染作業中 立入禁止」の立て看板。

語り得ぬものについては沈黙しなければならない。-除染作業中


シートを敷いて花見酒をいただいた芝生の広場には線量計があって、1.268μSv/hの表示。風向きなどで数字はころころ変わり、1.3を超えることもある。

語り得ぬものについては沈黙しなければならない。-線量計の脇で花見

どう考えても異常な風景である。
しかし、福島の人たちにとってはそれが日常だ。ていうかここではそれを受け入れて生きていくしかない。

震災前僕は、福島と言えば会津地方しか馴染みがなかった。猪苗代、磐梯山のほうには良いスキー場がいろいろあって、スノーボードを始めた15年くらい前からは毎年のように行っていたし、土湯とか玉子湯とか気持ちの良い温泉もたくさんある。
だけど中通り浜通りにはまったく縁がなかった僕だったが、震災後は特に福島市内には何度も足を運び、居酒屋、ワインバーからスナックまで数十件の店で飲んだし、類い希なる方向音痴の僕でも福島市内で道に迷わなくなってきた。
つまり、たくさんの人たちと話をした。
するとだんだん、その町やそこで暮らす人びとのことが大好きになっていく。

だから、福島の人たちの気持ちも、ほかの東京の人間よりは少しはわかっていると思う。
僕は断固たる反原発だが、福島の人たちが東京の反原発運動に対して抱く違和感や、わだかまりなんかも、もちろん100%とは言わないけれど、自分も感じることができる。

しかしそれでも、線量計の脇で花見をするのは異常である。

昨日は家で仕事をしていて、途中で飽きたからTVを点けた。TBSの「報道特集」で水俣病の問題を取り上げていた。
先週、これまで水俣病と認められなかった人の患者認定を認める最高裁判決が出たわけだが、ほんとうにひどい話で、水俣病というのは1956年に発生が確認された公害病である。57年経って、やっと今回の判決が出た。
これまで国が決めていた水俣病認定の条件は、いくつもの特有の症状が組み合わさったケースだけを水俣病と認めるというもので、単独の症状の人たちのことは、それがどんなに深刻でもけっして救おうとしなかった。

認めてしまったら救済にカネがかかってしょうがないというのももちろん行政の本音だし、腐った行政システムが自分たちの非をけっして認めようとしないというのも毎度お馴染みのことである。
さらに、高度成長時代の当時、国としては、化学工場会社(チッソ)に原因のある病気で騒がれるのは困ったものだったのである。工業化こそがいわば国策であったし、経済成長こそが最優先だったからだ。
そこに味噌をつけられたくはないのである。

長年水俣病問題に取り組んできた作家の石牟礼道子さんが番組内のインタビューで原発問題について語ったことばが頭に残る。
「まったく同じことが行われている」

僕は福島の人たちが好きだし、もちろん応援したい。でも、これだけは言っておかなければならないと思う。
きっとこれから、被曝による病気がたくさん出ます。そして、半世紀経っても、国はそれを認めないでしょう。

今回の最高裁判決は
「昭和52年に国の認定基準が示した症状の組み合わせが認められない感覚障害のみの水俣病は存在しない、との科学的な実証はない」
として、「複数症状の組み合わししか認めない」という国のやりかたは間違っていると結論づけた。
しかしそれでも国は、「判決は認定基準そのものを否定しているわけではない」(環境相)と、基準そのものは見直さない方針で、つまり、一件一件裁判沙汰にして何十年も闘わない限り相手にはしないよ、国のほうからは救わないよ、という態度である。
これは、現在の環境相がたまたま低能な石原伸晃だったからではない。行政というのは自分の罪に対してどこまでも逃げようとする。そういうことだ。

半世紀後、僕は生きてはいないけれど、福島被曝裁判はまだ争われている最中に違いない。
放射線被害が甲状腺癌だけではないことも、その頃にははっきりしているだろう。
面倒なのでここで詳細は書かないけれど、被曝は、からだのあらゆるところに影響を及ぼす危険性がある。癌だけじゃなく、脳味噌だって影響を受ける。
2063年、多くの原発事故被害者がまだまだ係争中だろう。
2011年に胎児だった人が原告かもしれないし、遺族が裁判を継いでいるかもしれない。

いずれにしても福島の人たちには、やがてそういうことになるよ。あるいは、なるかもしれないよ、という頭でいてほしい。
辛いけれど。
このまま線量計の脇での花見を受け入れてしまうのは異常だよ。

原発も国策である。水俣病当時の国策工業化と見事にかぶる。
また、「経済成長こそが善だ」という盲目的、狂信的な価値観も、当時と今はまったく同じだ。

「報道特集」ではほかに、就活大学生の自殺を取り上げていた。
「圧迫面接」と言って、面接官が受験生に対しわざと威圧的な態度で暴言を吐いたりするやり方が横行している。
「弱肉強食こそが正しい」という資本のルールを持ち込もうというわけだろう。
その結果、心の優しい若者がはじかれる。
厚顔無恥なヤツらの思う壺だ。

先週、サッチャーの葬式がニュースになっていたが、確かにサッチャーは経済を立て直したのかもしれない。でもその結果、英国では格差が広がり、弱い人たちはより貧しくなった。
「改革には痛みが伴う」。経済最優先の新自由主義者の常套句だ。
でも、結局、痛みを負うのは弱い者だけである。
富む者は富んで、何の痛みもない。

2013年「虫酸が走るほど気持ち悪いことば」ワーストワンは「アベノミクス」だが、就活でもそれ同様に、心の優しい人が潰され、厚顔無恥が大手を振るう。
日本も、そんな馬鹿国家の一員になろうとしている。

僕は文章を書いたりとか本を編集したりとか、そんな仕事しかしたことがないのでほかの仕事のことはわからないのだけれども、少なくとも言えるのは、そんな分野で仕事をしたくて、なおかつくだらない企業から採用を断られて困っている若い男子に言いたいのは、
就活なんかやめちまえ。
ということだ。
ヒモになれ。
若い青年を喰わせてくれる素敵な女性はたくさんいる。

おっと話が横道だ。

ボストンマラソン爆破事件で容疑者兄弟の兄が射殺され弟が捕まったことで、地元の連中が町に集まって大喜びで歓声を上げている映像をテレビが伝えていた。
喜ぶのはいいのだけれど、「USA! USA!」の大合唱である。
気持ち悪いったらない。
僕は日本が好きでちょっとした愛国者かもしれないけれど、日本で同様の事件が起きて犯人が逮捕されたときに、集団で「ニッポン! ニッポン!」と叫んだりはしない。
米国人の馬鹿丸出しと言ってしまえばそれまでだが。

辛いことばかりの世の中だ。

落第新聞社

早起きして時間があるので、ひとこと書いてから出かけよう。

普段新聞は読まないのだけれど、ホテルに泊まると無料でもらえるので朝食の時に読む。
で、今朝の朝日新聞なんだけど、二面に「TPP危うい国益」という見出しで、クルマに関税をかけろという米国の要求を呑んだのに日本の第一次産業を守れるかはちょっと危ないというような記事があるのだけれど、そんな状況になることなんか最初からわかってたじゃん。

よく覚えてないんだけどさ、朝日だってTPP賛成してたんじゃなかったんだっけ?
日本の馬鹿な政治家連中が米国の言うなりなるというのはこれまでだってさんざん繰り返されてきたわけで、彼らにやらせておいたら今回もそうなることは火を見るよりも明らかだったのだ。日本の第一次産業、特に農畜産業は壊滅的な打撃を受けるだろう。

(米国に)譲歩を重ねて経済面のメリットがぼやけるなか、首相が前面に出すのは安全保障面のメリットだ」というが、ほらね、政治家って言うのはそういうふうにずるずると話が変えていく。
安全保障というのであれば、重要なのは食料とエネルギーであって、TPPで自給率が下がり米国に色を牛耳られてなにが安全保障だというのだろう?
(エネルギーに関しては、輸入するしかないウランなどではなく、完全なる自給自足の再生可能エネルギーや、日本の海で採掘できるメタンハイドレートとか、そういうのを頑張るべきなのは当然だ)

ほんとうに新聞は馬鹿だ。

あと、これはもうお笑いなのだけれど、原発権益の見方産経御用新聞が、昨日、『原発「規制」基準 真の安全が遠のくだけだ』というオピニオンを載せている。(http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130412/plc13041203320003-n1.htm

規制委員会が示した案を「原発の安全性を高めて活用していこうという健全な精神が伝わってこない内容」だという。原発を活用することこそ「健全な精神」だってさ。
推進派の連中はこういうふうに、いきなり精神論から入るんだよな。「現実を見ろ」と言ってきたのは君たちぢゃあなかったのかい?

「安全基準」とされていたのが「規制基準」に変更されたことについて、「反原発色が鮮明な新聞社に寄せられた読者の声が改称のきっかけであったというから驚きだ」とびっくりしてみせるのも笑っちゃうが、「極めて重要な基準の名称を安易に変更する規制委の常識を問いたい」らしい。
まったく安全じゃないくせに「安全」「安全」と言い続けて今回の事故が起こったのだし、汚染水問題に見られるように未だにお粗末な現実があるからこそ、「安全」などと言わずに「規制」することが「極めて重要」だという「常識」が、御用新聞には通用しないようだ。

「原発の安全性は、段階を踏んで着実に向上させていくのが本来の道筋」というのも、何がどう「本来」なのだろう? 安全じゃなくても稼働させるべきだとしか聞こえない。

「活断層かどうかの議論の入り口で立ち続けるよりも、万一に備えて施設の耐震性を高める方向に進んだ方が賢明だ」と言いながら、「規制委の取り組みは、断層やフィルター付き排気施設といったハード寄りの対策に偏っている」と批判する。いったいどっちなの?

挙げ句の果ては、『硬直的な「規制」を振りかざしていると、真の安全性は遠のいていく。それを忘れるようでは落第だ』だってさ。
「健全な精神」「本来の道筋」同様に、ここでもまた、「真の安全性」などという形而上的なことばが無根拠、無反省に使われている。こういうことばの使い方に知的、文化的レベルの低さが如実に表れるわけで、僕が編集長だったら、たとえ原発推進するにしても、こんなひどい文章は恥ずかしくて載せられない。まさに新聞社として落第だ。

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

13:25
石巻から仙台に向かうバスの中である。
このところ、ある映像の仕事があって何回か被災地に行っている。いつもは監督、カメラマンと一緒だし撮影機材があるからクルマで移動するのだけれど、今回は調整だけなのでひとり。クルマは借りない。
津波でとても大きな被害を受けた地区の方に取材交渉をしていたのだった。
お会いするととても良い人たちばかりなのだが、取材のお願いは難しい。ほんとうにすまなそうに「メディアでは喋りたくないのです」と言う。
被災地の方々の傷はとても深いのだ。
「思い出したくない」と言われて当然だし、メディアに対する不信をあるだろう。
彼らの傷は、東京で暮らす僕らの、理解や想像を超えたものがある。
僕らは彼らと気持ちを共有したいと思うが、そんな発想こそおこがましいのかもしれない。
もちろん、(ボディランゲージや視線といったような広い意味も含めて)ことばを交わさなければ、何も始まらない。
だから、できるかぎり直接お会いしてお話しする。
しかし、僕らはその行為に、罪の意識さえ感じてしまう。

昨夜は代官山蔦屋書店で行われた「世界で一番早く村上春樹の新作を読む」イベントに参加させていただいた。
プレスも20社くらい来てたらしい。テレビのコメントを求められたが、言わないで良かった。

僕が「色彩」で思い浮かべたのは例によってウィトゲンシュタインで(遺稿をアンスコムがまとめた『色彩について』という本がある)、そこでは色彩は、感覚的なことがらではなく、論理的、言語的なこと(言語ゲーム、ルール)として考察されている。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
村上春樹の処女作『風の歌を聴け』の最初の一行だ。
つまり、この作品は、「文章を書く」「ことばで伝える」ということが最重要テーマである。
そして作中、架空の作家デレクハートフィールドに
「大事なのは感性じゃない。ものさしだ」
と言わせたように、作者も、作中の主人公も、ストイックなまでに論理的、また正確であらんとする。
そんな、徹底したことばのストイシズムこそが、ドーナッツがあってはじめて穴が存在するように、世界や人生(そしてもちろんことば)の不毛さを示し出す。
なんというのか僕には、『論理哲学論考』(いわゆる前期ウィトゲンシュタイン)と同じ構造のように思えてならない。

だからこそ、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』というタイトルを知ったとき、ふと頭に浮かんだのが、「感覚ではなく、論理やルールとしての色彩」という、後期ウィトゲンシュタイン的な発想だった。
ところが読んでみたら全然違った。
テレビカメラの前で迂闊な発言をしなくてよかったよ。

15:49
仙台でホテルにチェックインし、電話をかけまくる。
明日の夕方は福島に行く予定だが、その前に取材調整ができないかと当たっていたのだ。
津波で流されてしまう前の住所と電話番号ならわかる、という場合があって、それを頼りに現在の連絡先を探したりする。
まあこのご時世では教えてくれないと思いつつ、郵便局に転送先を聞いてみようと電話するがずっと話中。こう言う場合はひとつ違いの番号にかけてみるわけだけれど、ガチャ切りされた。郵便局はどこでもだいたいそうだ。クロネコヤマトならそんなことは決してない。まあどうでもいいけど。

というわけで一段落してこれを書いています。

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』読了後、始発の東北新幹線に乗ったので全然寝ていないのだけれど不思議と眠くはない。

まだ読んでいない人が多いと思うので、具体的な内容は書きません。
ただ、なんというのか、物語を紡ぐ過程でも読む過程でも、一番面白いのは、いろいろな出来事が生命力をもってぐんぐん枝を伸ばしながら幹を太くしていく、そんなときだ。
ところが、やはりどこかで物語は終わらせなくちゃいけない。無限のページ数の書物は存在しない。
で、まとめにはいっていくと、やっぱ収縮感ていうか、やや強引に幕引きに入った感を感じてしまうのだった。
そこでこの作品では、もう一度、少し蛇口を開けた状態で最後のページを迎えるわけだが、もしかしたらこういうのがよくわからない、という人もいるかもしれない。
でも、ここで蛇口を開けなかったらしっくりこないっていうか、最後の絶妙な蛇口の開け加減がいいなあ。
と僕は思う。
(僕としては、ケン・ローチとか、ミヒャエル・ハネケみたいなエンディングが大好きだったりするわけので、もっと唐突でバラバラでもいいんだけど…)

さて。

「色彩」のことと並んでもうひとつ気になっていたのが、震災のことだった。
つまり、震災が作品にどのような陰を落としているか。
素通りすることはできないんじゃないかと思われたからだ。

で。
震災の話は、まったく出てこない。(たしか一行だけ、大地震と洪水、というような比喩があったけど)
しかしそれでも僕がこの作品に「3.11以後」を感じたのは、『罪』の描き方だった。
もちろん、古今東西『罪』を扱った作品はたくさんあるのだけれど、なんというのか僕は、今、それがあらためて問われているような気がしてならない。

我々は、少なくとも僕は、津波や原発事故被災者の方々と接している中で、少なからず罪の意識を持っている。
誤解してほしくないのは、ここにはポジティブな意味合いはまったくないということだ。
つまり、「罪の意識があるだけ自分はマシだ」などということではまったくなく、むしろ逆に、反論や言い訳の余地がない腐った心根。
どうしようもなくその存在を認めるしかないのだ。

亡き父のこと。

今回は少し私事を書かせてください。

3月10日には福島市内での『てつがくカフェ@ふくしま』特別編に参加し、11日午後2時46分には塩竃の沿岸部で被災者の方の取材をしており、そのことを書こう書こうと思っていたのだけれど、いろいろあってまったく書けませんでした。
なにより大きかったのは、父が亡くなったこと。
昨日告別式が終わり、ようやく少し落ち着いたところです。

父はずっと大学にいた。
かつて父の教え子であった方々はその後、年齢は離れていても父の飲み友達とでもいうべき存在になってくれていた。
そして、今では音楽家として活躍されている方々を中心に、通夜、告別式両日とも、素晴らしい演奏を聴かせてくれた。
また、作曲家の方には父の葬儀のために曲を書いていただいた。
ほんとうにありがとうございます。

父が大学で研究し、また教鞭を振るっていたのは、美学、美術史であり、また、ほとんどの人はそんな学問は名前も聞いたことないと思うけれど、音楽図像学といってたとえば絵画の中に表現された楽器などの研究をしていた。

で。

「真・善・美」が、西洋思想の伝統的な価値観といわれる。
「真」というのは「偽」の対義語で、「2+3=5は真である」「2+1=4は偽である」といった論理的な問題や、「光は毎秒30万㎞で伝わる」といったような経験的、実証的な問題もそうだ。
「善」の対義語は「悪」で、これを問うのは一般的に倫理学と言われる。
そして、「美」を問題にするのが父の専門であった美学。

かつて「神が存在する」とされていた時代には、真善美は神のもとにひとつであった。
もっとぶっちゃけて雑な議論にしましょう。
正確な話ではないのはわかって書くので、細かいところは突っ込まないでね。

「プラトニックラブ」というと、今では(まあ死語だけど)「肉体関係なしの精神的な愛」だというふうに理解されている。
精神的って言っちゃあ精神的なのだが、その語源である「プラトン」はご存知のようにギリシャ時代の哲学者であり、たとえば我々は「三角形を書け」と言われればそのへんの紙に簡単に書くことができる。でも、本来の三角形というのはエンピツの太さがあっては駄目だし、0.0000~1ミリでも曲がっていては駄目だ。すなわち、我々の書くのは「三角形もどき」にすぎない。
そこでプラトンは、「我々の住むこの世界とはまったく別に、我々には決して手の届かない世界(『イデア界』)があって、そこに三角形の原型(三角形のイデア)が存在する」と考えた。
三角形に限らず何事にも「原型(イデア)」があって、だからこそ我々は三角形を書いたり、三角形について厳密に語ったりできる。というわけだ。

西洋で「神が存在する」とされていた時代には、あらゆる物事の根源、本質、本来の姿(などなど言い方はいろいろできる)は神によって作られたとか、神のもとにある、とかいうことにされていて、これを言うと怒るキリスト教徒もいるのかもしれないけれど、つまりまあ、これはプラトンのイデア界に相当する。

ところがこんにちでは、「神の存在」についての議論なんかほとんどない。
毎週日曜日に家族揃ってメガチャーチに通い、銃規制や同性愛、人工中絶に反対する共和党馬鹿議員の演説に聴き入る米国の田舎者なんかは神様を信じているけれど、彼らのほぼすべて、99.9%は「神の存在」についての議論などできないはずだ。

でも、少なくとも科学は、神から解放されたおかげで、つまり神の意志や摂理に合うとか合わないと言った問題なんかにはまったく制約されないからこそめざましい進歩を遂げたわけだし、哲学でも、じつは考えた挙げ句に神を認める人は意外といるのだが、「神の存在」を出発点として議論するような人はまずいない。

「存在に先立って、別のところに本質(のような感じのもの)がある」というのが「プラトニズム」であり、現在の哲学ではそういう二元論はほぼ否定されている、というわけだ。
(つまり「セックスを我慢するプラトニックラブなんていう馬鹿げた考えはおよしなさい」ということでもあるのだが、今夜はその話ではない)

自然科学はもちろんのこと、社会学や経済学といった社会科学、心理学なんかの経験的、実証的学問は、いわば「真」を問うものである。神がいなくなってすっきりさっぱり。神の意志なんか考えることなく、実験や数字、その検証、実証をすれば良い。

ところが、「善」や「美」は違う。
神は善であるし美であるから、神やイデアの存在を前提とすれば、じつに都合が良かったのであった。
「善」や「美」の原型、「善」や「美」そのものはどこか別の世界にあって、それを人間が直接見ることはできないけれど、「原型」や「そのもの」を想い、目指して、考えたり行動したりすれば良かったのだ。
ところが、神なき世界になって、善や美はその根拠を失ってしまった。

とはいえ、「善」は、神なき世界でも議論されることが多い。
たとえば、少し前にはハーバード大学サンデル教授の「これからの「正義」の話をしよう 」が日本でもものすごく売れた。
倫理学(善についての学問)では定番の問い、たとえば「少数派を犠牲にしても多数派を救うべきである、というのが正義と言えるか」みたいな問題は、古典的な問いではあるけれど、特に原発事故以後の日本においては、こんにち的な問題であったりもする。
「何が正義か」を、神様がジャッジしてくれれば楽なんだけど、いないのだからそうはいかない。

ところが、「美」が語られることはものすごく少ない。
書店に行けばわかる。
哲学のコーナーに倫理学(正義論とか社会的正義の話)の本はいろいろあっても、美学の本はほぼない。芸術の棚に行っても形而上的に美を語る本はあんまりないよなあ。

要するに美学というのは、そんなマイナーな学問なのだった。

「真・善・美」と考えた場合、現代では「真」の価値は、多くの場合「役に立つ」ことによってみんなに認められる。
科学的な真実が発見されれば、便利で快適、長生きできるようになるかもしれない。
また、「善」は、世の中がこれだけ腐っているのだから、多くの人が考えて当然だ。

では「美」はどうか?
もちろん、「美に価値がある」ことを否定する人は少ないだろう。
ところが、「美」は役に立たないしそれで社会が良くなるともあまり思えない。
なので、あんまり省みられない。
成金が絵画の収集をしたりするが、彼らが見ているのは美的価値ではなく値札である。
資産としての芸術作品は「値札的」には役に立つかもしれないが、そんなのは単なる経済的価値であり、美的価値とはまったく別物だ。
美的価値は役には立たない、ていうか、役に立ってはならないとさえ言って良い、と僕は思う。

そして。
父は生涯、そんな「美」について研究し、教えていた。

だからこそ僕は、父は立派だったと今更ながら思う。

父は、「世界を具体的にどう変えていくか」と言った問題は語ろうとしなかったが、「価値」について語った。
「価値」とは簡単に言えば「何が大事なのか」という問題だ。
子どもの頃僕は、父に「何が大事か考えろ」と言われ続けた。
どんな局面にあっても、具体的にどうしろと命令されたことはない。「何が大事か考えろ」と言われた。

たとえば、俗な話になってしまうけれど、電気が足りないと困るからと言って原発を再稼働させようとしている連中は、今でも15万人もの人たちに避難生活を強いり、事故がなくても何万年もの間毒を撒き続ける核廃棄物を産み出すという事実を前に、「何が大事なのか」をきちんと考えたことがあるのだろうか?
経済、経済と唱え、テレビで規制緩和論をしたり顔で語る卑しい経済学者どもは、「価値」についてなにか考えを持っているのだろうか?
そんな奴らは一昨日来やがれという感じだ。

我々が問うべきは「価値」である。
神なき時代にその答を見いだすのは困難、というか不可能だろう。
それでもだよ。「価値」を問わずして何を問えというのだろうか?
(ここで、「差異が価値を産む」などと考えた人は猛省すべきである。「差異の差異」「差異の差異の差異」と微分化していくことに果たしてどんな価値があるのか考えなさい)

こんなに長い文章を書くつもりではなかった。

何年か前、父の病気がまだそれほど進行せず、確かな会話ができる頃だった。
僕は父に「若い頃最も影響を受けた本」を貸してくれるよう頼んだ。
ショーペンハウアーのその日本語訳は60年前の旧仮名遣いで読むのに時間がかかりすぎるので、同じ内容の新訳を買って読んだ。

もちろん一般的にいって、
あらゆる時代の賢者はいつも同じことを言ってきたし、
愚者は、つまりあらゆる時代の大多数の人びとは、つねに同じこと、
つまり賢者のさとしたのと逆のことを行ってきた。
今後とも同じありさまが続くであろう。
そこでヴォルテールは言った。
「われわれはこの世に生まれてきたとき見たのと同じ、
愚劣で悪い状態のままにこの世を去ってゆくであろう。」

(ショーペンハウワー『孤独と人生』金森誠也訳)

原著は『Parerga und Paralipomena』。
今から160年以上前、1851年に出版された。

さあて酔っ払った。
そろそろ寝よう。

なぜ「廃炉」などということばを無責任に軽々しく使うのだろうか?

さっきNHKのニュースを見ていたら、福島第一原発敷地内に取材に入ったという映像があった。
当然のことながら、まだまだ深刻な事態なのは変わりない。
敷地内に溜まり続ける汚染水を巨大なタンクに入れているが、どれだけタンクを増設してもあと2年半で満タンになるという。で、その後どうするかは政府にも東電にもなんの見通しもない。
みたいな話。

案の定、現政権や役人、電力関係者どもなどはすべて先送りにする気でいるみたいだ。核廃棄物の問題と同じで、「そのうちなんとかなるでしょう。まあその頃は私は引退してるから」というわけだろう。
ていうかさあ、本来は水を循環させて原子炉を冷却するというシステムのくせに、地下水や雨水がどんどん入ってくるから汚染水が増える。地下水が入るというのはつまり、建屋に穴が空いているからであって、すなわち、NHKでは言わなかったけれども、穴の空いた原子炉(圧力容器・格納容器)やもしかしたら溶けた核燃料も、地下水と直接接しているわけだ。

福島第一原発にはそんな深刻な問題がたくさんあるわけだが、ここではちょっと違うことを語ろうと思う。

「廃炉に向けての取り組み」
↑ということばが、NHKでもさんざん使われていた。

廃炉?
なぜそんなことばを無責任に軽々しく使うのだろうか?
「廃炉まで40~50年かかるのです」とか言っている。
それを聞いた人は、「え? そんなにかかるの?」と思うかもしれない。
原発の地元の人は50年間も帰れないのか…と思うかもしれない。
でもさあ、「廃炉」っていったい何?
そんな甘いもんじゃないのです。

廃炉というのは、原発を全部取っ払って、更地にすることである。
もちろん、放射性物質を置き去りにしたりはしない。原発が建てられる前の、綺麗な更地に戻すことである。
少なくとも、この半世紀、日本の原発関係者のあいだで「廃炉」とはそのような意味で使われていたことばであった。

ところが、福島第一原発を更地に戻すなどと言うプランは、ほぼ考えられない。
未だに、1~3号機の溶けた核燃料がどうなっているのかもわからない。土の中にめり込んでいるかもしれないし、あっちこっちに飛び散っているかもしれない。
そんな原子炉をもしも解体することができたとしても、じゃあそれをどこに持っていくの?

チェルノブイリでは「石棺」といって、原発自体をコンクリートの箱で覆った。それ以上手がつけられないからだ。
だけど、そのコンクリートも劣化し、さらにその外側を第二石棺で覆うことが決まっている。これから20年も経てば第三石棺が必要になるだろう。20~30年ごとに以下同様だ。

原発をコンクリートで覆ってしまおう、などというのは「廃炉」とは呼ばない。
僕は原子力の素人であるけれど、この二年間いろいろ学んできた中で、正直「石棺」方式しかないだろうと思っている。ていうか、それよりマシな50年後の姿を具体的に示せる人がいたら教えてほしい。

「廃炉」というと「それですべて終わり」的なイメージがあるが、現実には50年経とうが100年経とうが、そこにはコンクリートの巨大な棺が残り、周囲何十㎞かは人が住めない地域になる。
それに異を唱えるのであれば、さっきも書いたけど、何をどうして具体的に50年後にはどうなるのか、示して見たまえというものだ。

要するに、「廃炉」なんて言うのは、ことばの意味を意図的に変えているのである。
あるいは、政治家や報道関係者としてあってはならない「無知」である。

「廃炉なんていうのは専門用語なんだから、一般の人にはイメージだけ伝われば良いじゃないか」という人がいるかもしれない。
だけどさ、「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」っていうことばをはじめて聞いた人は、「我々が日常的に目にする(ニュートン力学的な)物理法則が「一般」なんだろう」と思ってしまうわけだ。でもそうじゃない。
つまり、専門用語こそ誤解のないように使わなくてはならないのである。

「冷温停止」のときもそうだった。
2011年の秋頃だったっけ、政府が福島第一原発原子炉の「冷温停止」ということばを使い始めた。
「冷温停止」というのは、健全な原子炉の中で冷却水が100度以下に安定しているということである。つまり、穴が空いた原子炉のどこか一部の水温計(壊れているかもしれない)が100度以下を示したって、それは、冷温停止とは呼ばない。
そんな批判が相次いだ結果、政府は「冷温停止」じゃなくて「冷温停止状態」と、「状態」の二文字をくっつけた。
この、うんこのような欺瞞ぶり。
(挙げ句、当時の首相、野田佳彦は2011年12月に事故の「収束宣言」をしたわけだが、もしもほんとうに事故が収束したのであれば「緊急時の放射能の許容基準」を撤回し、法令で定められた通常時の基準、すなわち「一般の人の被曝は年間1mSvまで。年間5.2mSvを超えるのは放射線管理区域」という規則に従うべきなのに、「20mSvまでは子どもや胎児でもほとんど問題ない」と言い放った)

「ことばの意味を変えて、人を欺く」
じつに卑怯なやりかたである。
ぼったくりキャバクラとかがそれに似た手を使う。
「2000オールで飲み放題」と言って客引きし、勘定のときになって20万円請求する。文句を言うと、「女の子の飲んだ分は別」「チャージは別」「ボトルキープは別」などという。
同様に「廃炉」も「冷温停止」も「収束宣言」も、およそ原発事故関連で発せられる「もう大丈夫」「いずれ大丈夫」的な言説は、ぼったくりキャバクラ並みだと言うことだ。

要するに「ルールの否定」だ。

「ルール」というと、法律とか慣習を思い浮かべる人が多いかもしれないけれど、で、僕も禁煙の公道でこっそり煙草吸ったりもするけれど、それだけじゃない。
「ことば」こそ、いちばん大事なルールである。
それがなければ法律だって成り立たない。
(もちろん、ことばに「僕らが生きているこの現実世界を超えた普遍的な理念」とかがあるわけではない。時代によって、あるいはそれを使う集団によって、そのことばは違った意味で発せられる。だから、「廃炉も冷温停止も俺たち的にはそういう意味で使ったんだ」と開き直ることも可能だ。だけどここでは、そんな厳密で(哲学的な)議論の余地はないだろう(してもいいけど面倒臭いので今は嫌だよ))

いずれにしても、「ことばのインチキ」とは「ルールの否定」であり、それはまさに「社会性の否定」である。
政治家やマスコミがそれを承知で使っているのならあっぱれだ。一杯やりながら話をしよう。もしかしたら友達になれるかもしれない。
だけど、そうでないのなら「嘘つきは去れ」である。
たかが「廃炉」や「冷温停止」という「ことば」の問題だと思ってはいけない。
嘘をつく政治家やマスコミは、犯罪者と同じだ。

あ、そうだ。

「てつがくカフェ@ふくしま特別編3」が、3月10日に開催されます。

語り得ぬものについては沈黙しなければならない。-てつがくカフェ@ふくしま特別編3
http://blog.goo.ne.jp/fukushimacafe/e/1e736cd3ea0a9ad124c6e357c74ad0a6

僕も参加予定。
ぜひどうぞ。

「原発推進」の屑議論と、「反原発」の無根拠

この前もちょっと書いたけれど、『ウィトゲンシュタインVS.チューリング: 計算、AI、ロボットの哲学』という本を読んでいる。
ウィトゲンシュタインVS.チューリング: 計算、AI、ロボットの哲学/勁草書房
¥5,985
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ていうか2/16のブログで「昨日から読み始めた」と言っておいて、まだ半分しか読んでいない。
数学や論理学の話が僕には難しすぎるのだった。
論理学で勉強したのは基礎の基礎だけ。数学に至っては高校で放棄したから二次関数までしかわからない。
そんな人間(僕)が、ウィトゲンシュタインという天才哲学者が提示した数学の基礎、というのか、そもそも数学とはなにか、という問題に挑んでいるのであった。

無謀と思われるかもしれないけれど、じつはそんなでもない。実際僕がこの本を読んで理解しているのはたぶん四分の一くらい。あとはなんとなく。
まあ、いつでもそんなもんさ。

で。
哲学と数学というと水と油のように思う人もいるかもしれないけれど、じつはかなり近い。
「0(ゼロ)」や「∞(無限)」を考えてみればわかる。ものすごく雑で簡単な言い方をすれば、どちらも数えられない。どちらも僕らは見ることができない。

テーブルの上の1個のリンゴ、2個のリンゴ、3個のリンゴ……1億個のリンゴとかなら、僕らは見ることができるが、「無限のリンゴ」はどうやったって(というのか定義上)見るのは不可能だ。
また、何も置いていないテーブルを見ても、それは「0個のリンゴを見た」ことにはならない。

つまり、「0」や「∞」というのは、実体験不可能な概念なのである。
見えない、実体験不可能なのに考え出された、要するに机上の概念。
ところが、「0」や「∞」なしでは現代の数学は成り立たない。
で、ゼロや「無」あるいは「無限」というのは、誰でも察するとおり、じつに哲学の問題でもあるのだ。

半分しか読んでいないので想像だけれど、この本に書かれているのは、「機械は計算するのか?」と言う問題。僕的に言うと「電卓は考えているのか?」というような話。

算数や数学の試験問題を解いているとき、僕らは確かに「考えている」ように思える。
でも、電卓に計算式をいれたとき、電卓は「考えて」答を出すのだろうか?

もし、電卓が「考えて」いるのだとすれば、その類推で、きっとコンピュータも「考えて」いることになろう。それならば、「人間と同様に考えるコンピュータ」も可能であろうし、性能が高くなれば人間から独立してコンピュータがひとりで、もっともっとすごいことを「考える」に違いない。

でも、電卓が「考えて」いないとすれば、現代のコンピュータだって「考えて」はいない。単なる物理現象としてコマンドを処理しているだけだ。そこには「考え」はもちろん、「気持ち」なんかあるはずがない。
(「気持ちも物理現象だ」と主張する人に対しての反論は長くなるのでここでは書かない)

ところが、コンピュータが進化すればそれはやがて感情や気持ちも持つ、と考える人もいる。
僕はそれは、端的に不可能だと思っている。
技術の進歩の問題などではなく、少なくとも今のコンピュータの延長線上では、原理的に無理なのだ。(量子コンピュータでも無理)

ていうような話。
たぶんこの本の後半は、そんな問題になるのだろうと思う。

おっと、それを言いたかったわけじゃない。
ここまでは導入部分なのであった。
いつものことながら導入が長く、それ以降が短くなる。
なぜならば酒を飲みながら書いているので、最初は丁寧に書こうとするけれど、だんだん面倒臭くなるからであった。

僕はここまでの文章の中で、あえて「考える」とか「気持ち」とかのことばを何気な用法で使ってきたけれど、よく「考えて」みれば、「考えるってなに?」「気持ちってなに?」ということがとても大きな問題なのであった。
だって「電卓は考えているのか」という問いは、「考えるというのは~~~ということである」という概念規定次第で、イエスであるともノーであるとも、いくらでも言えてしまうではないか。

この次元で話がこんがらがる。

以前のブログで「僕は彼女を愛しているのだろうか? それとも彼女に恋しているのだろうか?」と悩む若者のことを書いた気がするけれど、もしも「愛とは~~である」「恋とは~~である」ということがはっきりしているのであれば、それに照らし合わせて、自分の気持ちは愛なのかそれとも恋なのかをジャッジできるだろう。
ところがね、「愛とは~~である」「恋とは~~である」というような絶対的な定義は端的に存在しないのであった。
ゆえに自分の気持ちが愛なのか恋なのかは、ジャッジできない。
「愛なのか恋なのか」と問うこと自体が、間違っているのである。

とまあ、若者の愛や恋についての議論であれば「そこまで厳密に言わなくてもいいだろ」と怒られるかもしれないけれど、「電卓は考えているのか」「コンピュータは考えるのか」「コンピュータに気持ちはあるのか」と言うような問題はそうもいかない。まさに、厳密な議論を積み重ねていかなければならない問題だ。

「考える」や「気持ち」などのことばがどういうことか「考え」もしないで、「近い将来、コンピュータは自分で考えて、気持ちや感情を持つようになる」などというのは、小学校低学年の夢想レベルで、まるでお話にならないのである。

またまた「導入部分その2」になってしまった。

言いたいことはこうだ。

議論であればできる限り厳密にしなければならない。

厳密というのは、ここまで言ってきたように概念規定をちゃんとやる、と言う意味でもあるし、それだけじゃなくて、たとえば安倍晋三が「経済成長戦略」を打ち出したとき、「安倍晋三のやり方では経済は成長しない」と反論することではなくて、「経済成長を是とする考え方ってそもそもどうよ?」と問うようなことである。

つまりこれも、ことばの意味、概念規定(「そもそも考えるって何?」「愛って何?」)を問うのと同様の、「そもそも論」だからだ。

「そもそも論」を踏まえないような議論は、「そもそも」まるっきりの屑議論、ファックであって、僕は酔っ払ってもう眠いので話を強引に進めるけれども、僕の知る限り原発推進論のほとんどすべてがファックである。
今夜はじつは、この話を具体的に書いて、原発推進議論の駄目っぷりを笑ってやろうと思っていたのだけれど、飲み過ぎたからやめた。

ただ、ここは大事な点なので書いておこうと思うのだけれど、一方の「反原発」の「そもそも論」も甘すぎるように思えてならない。
たとえば「経済よりも命が大事」というのは、ほとんどの人が否定しようのないスローガンで僕もまさしくそう思うのだけれども、反原発デモでそんなプラカードを持った人の大部分は、それに対して「なぜ?」と問われたときの答を持ち合わせていないように思える。

念のため言っておくけれど「経済が発展しないと餓死する人とかが出て結果的に命が粗末にされる」というような下衆な意味ではないよ。
もっともっと根本的な「そもそも論」だ。
「なぜ、経済よりも命が大事なの?」と問われたとき、「だってそうに決まってんだろ!」と逆ギレするのではなく、きちんと答えられるだろうか? 「命っていうのは世界で一番大切なものなんだよ」などという、無根拠な答をしてしまわないだろうか?

「そもそも論だとかじゃなくて素直にそう思うだけ」というのはわかるし、僕はそういう人たちを応援するわけだけれども、「素直にそう思うだけ」という意味においては、「経済的に豊かになることこそが幸せだ」と「素直にそう思う」人たちと同じレベルである。反原発で正義の旗を振る人こそ、議論においてはそこをしっかり自覚すべきだ。

もちろん「そもそも論」を持ち出すまでもなく、原発推進論などと言うのは破綻しているわけだけれども、もうすぐあの日から二年を迎えようとしている今、運動論や社会思想論だけではなく、哲学的な「そもそも論」をきちんと考えたいと僕は思っている。

酔っ払ったなあ。
午後6時~8時は生ビール半額という謳い文句につられて午後8時直前からダッシュで生ビールを飲み、その後帰宅してからも8時間以上延々飲み続けているせいだ。
じつはいろいろあって、年明けからほとんど外で飲まない。昨夜もそうだけれど、ときどき徒歩10分圏内で軽く飲むくらい。馴染みのお店にも全然行ってない。
鹿島は元気です。ご無沙汰してしまって申し訳ありません。

まあとにかく、人の考えというものは、その人がひとりで一から産み出すものではない(そもそも、ことばというのは彼が考え出したものではない)。
不得手分野なので上手く言えないのだけれど、何気にみんなの考えが共有されていき、やがてその時代の思想となるというのが、きっと歴史的な事実だろう。
だとすれば、このように僕が酔っ払って、ほんの少しの人だけが読んでいるブログにぐたぐた書くというのも、まるで価値のないことと言うわけではあるまい。

と自己正当化して、最後の缶ビールのプルリングを抜いたところ。

役に立たなくて何が悪い?

無意味なものが永遠に。
(フリードリッヒ・ニーチェ『力への意志』)

図書館に行ったというのは昨日書いたけれど、そうしたら哲学の棚に『超訳 ニーチェの言葉』が3冊もあった。
僕が行ったのは中目黒駅前図書館なのだけれど、目黒区の区立図書館は全部で8つある。
てことは、目黒区はこの本を20冊以上買ったのか? 売れた本だから予約やリクエストも多かったのだろうけど…。と、調べてみると案の定22冊。
あちゃちゃちゃあ…。

そうですよ、僕はこの本読んでませんよ。だってこんなの読む気しないもん。ぱらぱらめくってみたら「友情」とか「人間関係」みたいな項目に従って、お手頃にニーチェのことばが並べられている。これじゃあまるでハウツウ本ではないか。

もちろん、ニーチェから処世術を学ぶ人がいてもまあ別にいいんだけどさ、なぜに人々はこうも「役に立つもの」を欲しがるのだろうか?

そんなわけでまずは一冊、『超訳~~』の対極であろう、とっておきのニーチェ入門書を挙げておこう。
これがニーチェだ (講談社現代新書)/講談社
¥756
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私は、これまでニーチェについて書かれた多くの書物に不満がある。それらはたいてい、ニーチェという人物とその思想を、何らかの意味で世の中にとって意味のあるものとして、世の中の役に立つものとして、描き出している。私には、そのことがニーチェの真価を骨抜きにしているように思える。ニーチェは世の中の、とりわけそれをよくするための、役に立たない。どんな意味でも役に立たない。だから、そこにはいかなる世の中的な価値もない。そのことが彼を、稀に見るほど偉大な哲学者にしている、と私は思う。

僕は、永井均さんのこの序文を読んだとき、大いにシビレまくった。
10代で初めてニーチェに接した頃から、その入門書はいろいろ読んできたのだが、どれもいまひとつピンと来ない。
これは、入門書の著者がどこかでニーチェの「ファン」であるからだと思う。
ファンは彼に惚れてはいるが、血みどろで差し違えるほどの覚悟はない。修羅場になったら「自分が死ぬからニーチェには生きてほしい」と思っちゃったり。
ていうか、ニーチェが大好きなもんだから、どこかで「+(プラス)」の評価をしてしまう。ニーチェを世の中にひろげたいから、彼の思想や人物から、現代に通じる教訓を見つけようとかしてしまう。

ところがどっこい、+(プラス)であろうと-(マイナス)であろうと、そういった「世の中的」な評価をした途端、まさしくそれこそがニーチェの哲学の宿敵なのだった。
(マイナスの評価というのは、たとえばニーチェの思想はナチズムとつながっているみたいなものがある)

永井さんの言うとおり、ニーチェの哲学は「どんな意味でも役に立たない」。「いかなる世の中的な価値もない」。

まさにあっぱれ。
だからこそ、気高く、しかもチャーミングであるのだ。

ニーチェのことばを教訓や処世術だと思うのは勝手だが、だったら「ことわざ辞典」でもお読みなさい。きっと役に立つ。

ていうかさ、たかだか「役に立つ」くらいのことを、どういうわけだか多くの人が「一番大事なこと」のように思っている。

「役に立つ」というのは、「なにかの」役に立つと言うことだ。
時間の節約に役立つとか、金儲けに役立つとか、就職に役立つとか、そういった「目的」のために役に立つのであって、なんの目的もないのに「役に立つ」とは言わない。
つまり、「役に立つ」というのは、目的論的な考え方である。
それを突き詰めていくと、結局、人生や社会になにか目的があるような考え方になってしまう。
そしてそういった考え方は、宗教と呼ばれている。

今の日本人の多くは無宗教だから、「役に立つの究極は宗教」なんていうと「えええええ!」となるに違いないし、まあこれは大袈裟と言えば大袈裟なのだけれど、「一番大事なのは役に立つことだ」という考えの中には、自分で気付いていなくともそういった宗教ぽい目的論的な人生観世界観がこっそり紛れ込んでいることだけは自覚したほうが良い。

まあさあ「役に立つ」っていうのはわかりやすいんだよね。
震災のあと、多くの日本人が「被災者のためになにか役に立ちたい」と思った。もちろん僕もそうだ。だから支援物資の手伝いとかも一生懸命やった。
でも、役に立ちさえすればなんでもかんでも手放しでオッケー、というわけじゃあない。

政治家や役人は悪人だらけで自分の利益のことばかり考えている、というのは半分真実だと思うけれど、中には「ほんとうに国のため、国民のため役に立ちたい」と思っている人もいる。
で、「そのために原発は動かすべきだ」という理屈になってしまう人もいる。
すると我々反原発は、「いやいやそうじゃないんだよ。今もしも、経済成長に役に立ったとしても、100万年有害な核のゴミはどうするのよ?」とか反論してしまう。あるいは「原発のコストはじつはものすごく高い」とか「放射能でこれだけの被害が出る」とか言ってしまう。

もちろん原発の議論をするときにはそれで良いのだけれど、そのときは自分も「役に立つ論争」の土俵に上がってしまっているのだというのはわきまえたほうがいい。
どこかの局面で、「役に立たなくて何が悪いの?」と言えなければ、結局は資本の論理、システムの論理に巻き込まれてしまう。

ええとですね。
「ええと」という接続詞を使いすぎる傾向があるので「ええとですね」と言ってみたのですが、昨日、『ニーチェの馬』という映画のDVDをTSUTAYAで見つけて「タイトル借り」してしまったのですね。
ニーチェの馬 [DVD]/紀伊國屋書店
¥5,040
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原題には「ニーチェ」ということばは入っていないし、彼の物語でもない。
ニーチェがトリノの町で鞭打たれる馬を見て発狂したという有名なエピソードをモチーフにした映画、というわけだ。
ひたすら暗い2時間34分。
「ハッピーな映画が好き」な人は見ないほうが良いよ。きっと寝るし、もしも眠れなければとことん沈んだ気持ちになること請け合いだ。
まさしく、「まったく役に立たない」映画。
でもだからこそ、素晴らしい。
「無意味なものが永遠に」ということばが、ずうっと僕の頭の中を駆け回っていた。

あ~疲れた。
飲んでも酔いが回らずに血の気が引いていく嫌な状態。
寝ます。

反原発が人生の闘い方の問題だとすればその世代間ギャップとか。

いかなる心によっても捉えられない世界が存在するという考えは
いかなる明確な意味ももちえない

(マイケル・ダメット『思想と実在』金子洋之訳)
思想と実在 (現代哲学への招待―Great Works)/春秋社
¥2,835
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amazonで本を買う癖がつくとそれはそれで便利なのだけれど、ある本を読んでいる最中にそこに出てきた別の本が気になって夜中の3時に注文してしまい、でも次に読むのもその次に読むのも別の本だったりで、結局夜中の3時に注文した本は読まずに積み上げられてしまうことも多い。

だからしばらく本は買わないようにしようと思い、書店ではなく図書館に行った。
で、棚にあったのでなんとなく借りてきたのがダメットである。
て言っても大抵の人には馴染みのない名前だろうけど、まあ現代の哲学者。

日本で現代哲学というと、フランス系とかいわゆる大陸哲学、ドゥルーズとかラカンとかデリタとかガタリとかフーコーとか、そういうのに興味のある人が多いみたいだけれど、僕はね、全然わからんのですよ。本格的に読んだことないし、正直言って僕には日本語しか理解できないから原著は読めん。だから偉そうなこと言えないけれど、奥歯に物が挟まった感じでどうもすっきりしない。

それに対して分析哲学というのは主に英米の哲学なのだが、ことばの分析をちゃんとやる。ちゃんとやるからこそ、ことばの可能性や限界などについて語る(ウィトゲンシュタイン的に言えば示すかな?)こともできる。
僕の関心はまさにそこだったりするので、腑に落ちるのであった。
ええと、もしも分析哲学に関心があるという人がいたら、まずはこのあたりがお勧めです。新書で一般読者向け。
分析哲学講義 (ちくま新書)/筑摩書房
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と、amazonで『分析哲学講義』のURLを調べてたら、この2月に出たばかりの『意味・真理・存在 分析哲学入門・中級編』という本を発見。

…しまった。また「1-Clickで今すぐ」買っちまった。
意味・真理・存在 分析哲学入門・中級編 (講談社選書メチエ)/講談社
¥1,785
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そんなわけでダメットも分析哲学の人である。
ドトールコーヒーの喫煙席で『思想と実在』をぱら読みしていて、最終章「神と世界」から引っ張ってきたのが冒頭の一文なのだった。
ものすごく雑な言い方だけど
「完璧な客観世界の存在を語るなんて、神の存在を語るのと同じだよ」
くらいにとってもらおうかな。

神の存在を信じる人を馬鹿にしているのではないよ。だけど「神様は髭を生やしたおじいさん」みたいな想像をしてそれを信じるのは馬鹿だ。なぜならば神はあらゆる意味で完璧でなければならないわけで、つまり、不完全な人間がそれをイメージした時点で、原理的にそのような存在ではあり得ないからだ。
そして、人間の意識、あるいは<私>の経験や考え、感じ方とはまったく別に、「(客観)世界」が存在する、という思い込みも、神の存在を語るのと同じように「明確な意味を持ち得ない」ことだというわけである。

普遍の数学原理や科学法則に支配された「(客観)世界」が存在していて、そこに潜む隠された原理や法則を発見するのが科学や数学の仕事だと思っている人も多いが、それは全くの誤りである。
例えて言えばそれは、今は「髭の生えたおじいさん」としかわかっていないが、科学や数学が進歩すれば髭の色がわかるかもしれない。あるいは髪型もわかるかもしれない。と言っているようなものなのだ。
「髭の色がわかるのは進歩ではないか」と思うかもしれないけれど、「本物の神様」と比較することができない以上、その色が正しいかどうかなんて永久にわからないのだ。

と、まあここまでは昨日の話と同じである。

今夜書きたかったのは別の話なのだけれど、考えがまとまらない。

ETV特集は『ネットワークでつくる放射能汚染地図』などといった「1チャンよりいいじゃん」な番組をつくるわけだが、今夜やっていたのは批評家、宇野常寛さんを追ったドキュメンタリー『“ノンポリのオタク”が日本を変える時~怒れる批評家・宇野常寛~』(再放送)。(http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2013/0210.html

僕は彼の著作は読んでいない。
なのでそれらについて論じることはできない。
ただね、著作ではなく著者を追ったドキュメンタリー番組を見ながら、共感するところもたくさんあるのだけれど、なにか決定的な断絶を感じ続けていた。
それはなんなのだろう?

「闘う」ということばを彼が使うとき、それは彼の人生観であろうし、そういう意味で発せられた「闘う」ということばに対して、僕はものすごくリアリティを感じることができる。
「人生は闘いだ」なんて言ってしまうとじつに平凡な話で誰だってそれくらいのことは言うだろう。感心する文章ではない。
だけど宇野さんが「闘う」ということばを選ぶとき、そこには「そう言わざるを得ない」緊迫感があって、それはもうそうとしか言いようがない「ことばの使い方」であることがよくわかる。
ここはものすごく大事な点だ。

ところが、なにかが決定的に断絶している。
彼は1978年生まれだから僕より15歳も若い。なので「世代の差」と言ってしまえばそれまでだろうけれど、そうなのかなあ…。
ものすごくすっきりしないのであった。

かつて雑誌の編集部にいた頃可愛がってくれた大先輩で、惜しくも50代で亡くなってしまったけれど、当時の芸能界で知らぬものはいない名物編集長がいた。
Kさんと言う。
女優のスクープヌードを掲載しようと、その女優が初脱ぎした映画の制作会社に公開前に忍び込み、問題のシーンから3コマほどフィルムを切って盗んできたような怪傑である。
そんなKさんが編集長で僕が副編だった頃、次の企画について話し合う中で、いつだったか忘れたけれどオタクということばがさかんに流通した90年代のある日、突然Kさんが「オタクが雑誌を滅ぼす」と言い始めた。「だからオタク批判の記事をやろう」

僕は当時、その意味を掴みかねた。
Kさんは縦目のベンツに乗って「目が合ったいいオンナは全員口説く」ような男前であったが、ものすごくアタマの切れる人物でもあった。論理を積み重ねるのではなく直感で「肝」を掴むタイプである。
じつはこのときも、論理は欠如していたがとても大事なことを言い当てていたのだと、今、僕は思う。

『“ノンポリのオタク”が日本を変える時』の番組の中で、宇野さんは彼の話を聞くために集まった出版社社員たちを目の前にして、これまでの出版文化の終焉を告げ、編集者たちを突き放した。
もちろん「宇野さん=オタク」というような安易な定式化は大変危ないけれども、それでも、20年前にKさんが感じた出版危機は、2013年、すでに現実である。

「大事なのはメッセージではなくメディアである」というのは、1980年頃僕がいつも考えていた問題だった。
でもその頃僕は、「メッセージではなくメディア」を、「料理ではなく器」というような比喩でイメージしていた。
これが70~80年代の若者の限界であったのかもしれないし、単に僕が馬鹿だっただけなのかもしれない。
安直な言い方をすれば、youtubeのようなネット上、クラウドでの「共有」は、器と言ってもみんなが手を伸ばす大皿かもしれないし、たぶん、僕は今すぐには思いつかないけれど、じつはまったく別の比喩が必要なのだと思う。
そのへんの断絶かなあ…。

あとさあ、僕はここのところずっと行けていないので直近の状況は知らないのだけれど、永田町の反原発デモなんかに行っても、20代とかの若い子はとても少ない。
しかし、これをもって「若者は社会に関心がない」というのは見当外れだと僕は思う。
デモに行っても選挙に行っても、そんなやりかたで世界が変わるはずない、と彼らは感じている、ていうのか、むしろそんな行動こそがシステムに絡みとられる駄目なやり方だと考えているのかもしれない。

ここで大事なのは、彼らを無理矢理デモや選挙に引っ張り出すことではない、と思う。
僕はもうすっかりオヤジなのでデモ隊の中のひとりとか選挙の一票に「もしかしたら」とほんのちょっぴり期待してしまうのだが、そうではない別のやり方を彼らが編み出してくれるかもしれない。
そう考えるのが「正しい若者への期待」なのかもしれない。

とはいえ、わかんないんだよなあ。
じゃあどうすれば良いのかなあ…。

とかね。

そういうのも世代間ギャップみたいな問題もかなりあるのだろうと思う。
宇野さんの番組を観ながら、そんなことも考えた。

酔っ払ったのでもうやめようかな。

ただいずれにしても、原発事故が露呈したのは「世界」の問題(具体的に有り体に言えはたとえば日本という国のシステムの駄目さ加減とか)と同時に、「僕」の問題でもあった。
要するに世界観、人生観の問題であり、これを簡潔に言い表すと、「反原発は生き方の問題である」ということになる。
でもだからといって、原発のことばかりを話していればいいというわけではない。
価値の問題、すなわち哲学の問題であるわけだから、存在の問題と原発の問題は等価かもしれない。
だから僕は、そういうことを考えたり語ったりするし、それが人生の闘い方なのであれば、宇野常寛さんも同じような感じなのかもしれない。

あとは文字通りの「生き方」、つまり実践だね。
こうやって、朝の7時に酔っ払って一銭にもならないブログを書く。
これも「反原発」だと自己正当化して生きていくわけだ。

根性なしの反原発

僕は根性なしである。

根性なしというのは、意志が弱く執念深くもないということでもある。
すぐに「まあいっか」と思ってしまうので、努力もしない。
怒っていてもそのうち忘れてしまう。

若い頃吉村昭さんの『破獄』を読んで、まあこれは小説だけれど、モデルとなった白鳥由栄という人物は、青森刑務所、秋田刑務所、網走刑務所、札幌刑務所と、とにかく脱獄を繰り返したわけだった。それも、毎日の食事の味噌汁をちょっとずつ垂らしその塩分で手錠を少しずつ錆びさせると言った執念の脱獄を、ものの見事に成功させるわけである。
破獄 (新潮文庫)/新潮社
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いやすごいなあ。
なにがって、そんなふうにモチベーションを持続させられることである。
これはひとつの才能であると思うし、同時にある種のキチガイだとも思う。

言っておくけれど、キチガイというのは差別用語ではなくて僕にしてみりゃrespectだ。
僕は、自分がキチガイになれないことにかなりの劣等感を持っているのである。
毎日満員電車で通勤するような生活などできないくせに、キチガイにもなれない。
これはものすごく中途半端だ。
もっとキチガイだったらなあ…と、いつも思う。

キチガイになれないから、現実的な問題にびくびくしてしまう。
経済的な問題とか身内の健康とか、そういった、あまりにも凡庸な問題である。

たとえば昨年末はauの安心なんとかサポートの対応に腹を立てて、つまりそれは先方が筋を通さない(理にかなわない)ことを言うから怒っていたのであったが、そこそこの立場(たぶん)の人が出てきて丁寧に謝罪されると、まあいいやと思ってしまう。
本来であれば、そこそこの立場の人とこそきちんと理のかなった議論をしなければならないのに、だんだん面倒臭くなってくる。
でもさあ、白鳥由栄であればauを潰すまで闘うに違いない。
ところが僕にはそんなモチベーションはさっぱりない。
で、そんなことより「金がなくて困ったなあ」みたいな卑近な問題をうじうじ考えてしまうのであった。

僕のこういう性質は昔からなので、原発問題の怒りについても、自分自身、モチベーションの低下を密かに心配していた。

震災を機に躁状態になった人は多く、僕もそのひとりだったと思う。
「躁」ということばに「なんかハッピー」みたいな感じを連想する人もいるかもしれないけれど、そういうわけではない。
たとえば、被災地でボランティア活動を続けたような人の中にも、躁状態だった人は多い。
ハッピーだったわけではなく怒りや哀しみで「なんとかしなければ」という使命感に燃え、24時間不眠不休で闘ってしまう。つまり、テンションが上がり続けている。それが躁状態だ。

今となれば僕も、3.11からの1年半は、そんな感じで過ごしていたのだと思う。

短期決戦であればそれでよかったのかもしれない。
しかし、僕自身その頃から重々承知していたように、これは、長い闘いだ。
躁状態で闘うのではなく、白鳥由栄が毎日手錠に味噌汁を一滴ずつ垂らしていたような、執念深い闘いが必要なのだ。
内に秘めたるキチガイになる必要があったのだった。

ところが僕にはそれが上手くできなかった。
しかも、凡庸で現実的な問題がいくつも勃発して、専らそっちに関わるようになってしまった。

今。
僕は、「原発問題についてのモチベーションが低下してるぞ」と言われれば、確かにそうかもしれない。
しかし、「躁」的なモチベーションやテンションを維持できなくとも、それはそれでよいのではないかという気がしている。
長い闘いだ。
しかも僕は、ヒーローになろうという気などさらさらない。
だから、無名の酔っ払いとして、じわじわと反原発の底上げをすれば良い。

なんだったっけ、雑誌だかテレビだかで、「代」という日本語の話をしていた。
ものすごく俗な内容で、要するに「男は『代』にこだわる」というような話。
ラーメン屋でも暴力団でも「○代目」というのは男社会だ。
そこには、「男は『自分の代で何を為したか』が大事」という伝統的な価値観がある。
言われてみればそうだ。多くの男は「俺中心」で、「俺の代で仕事を大きくする」とか「俺が嫁や子どもを守る」とか、そんな信念を持っている。
でもだから、「俺の代」以降のことは二の次である。「次の代に任せる」というのが美学とさえされる。
ところがどっこい、放射能の問題は『俺の代』の問題ではない。
次の代、その次の代…、10万年後の「俺の代の後釜」が続いているのかされわからないような時代まで。
それが、核、原子力のもっとも大きな問題なのだ。
ところがそれを、多くの男は考えないのかもしれないな、と、その雑誌だったかテレビだったかを見ながら、僕は思ったのでした。
そう考えると、政治家や役人や電力の連中が平気でその場限りのウソをつくのもよくわかる。
『代』。つまり自分の出世と家族の幸せ、自分を支える現状システムの維持が大事なのだ。

なんだったっけ?

そうそう、要するに気の長い話なのである。

昨日から『ウィトゲンシュタインVS.チューリング: 計算、AI、ロボットの哲学』という本を読み始めた。
ウィトゲンシュタインVS.チューリング: 計算、AI、ロボットの哲学/勁草書房
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ウィトゲンシュタインは、僕の敬愛する20世紀最大の哲学者。チューリングも同時代の人で現代のコンピュータ基礎理論を作ったともいわれる数学者。
ここでは本書の内容については立ち入らないが、僕は原発事故なんかよりもずっと以前から、科学技術に対して不信感、あるいは大いなる疑問を抱き続けていた。

もちろんこれは、たとえばパソコンとかスマートフォンとかの存在を否定するようなものではない。
でも、科学技術の神格化、ていうか「科学的に正しい」ことを「倫理的に正しい」(あるいは「道義的に正しい」とか「正しい行い」とか)と同一視するカテゴリーミステイク、つまり「科学的に正しいことは正義だ」というような「科学信仰」はまったくの茶番だ。

原発推進の中には、「これまで築きあげた科学技術を絶やしてはいけないから原発は続けるべきだ」という馬鹿がいる(たとえば石原慎太郎だが、彼の本音は単に「日本も核武装したい」ということなのかもしれない)。
それを聞くと「ふむふむ」と思う人もいるのかもしれないけれど、「絶やしてはいけない」なんて、なぜそんな大それたことが言えるのか?
「絶やしていいか、いけないか」は、科学の問題ではなく哲学の問題である。
「白人優位は絶やしてはいけない」という人がいたら、みんな「おいおい」と思うはずだが、それが「白人優位」ではなく「科学技術」だと煙に巻かれる。
ところが、「白人優位」であろうとも「科学技術」であろうとも、絶やしていいかいけないかを決めるのは、哲学、すなわち価値の問題であって、それは科学技術なんかとは原理的に独立である。

また長くなったなあ。

『ウィトゲンシュタインVS.チューリング: 計算、AI、ロボットの哲学』は、まだ四分の一くらいしか読んでいないけれど、たとえば
「数学の『発見』と言われるものは、『発見』ではなく『発明』ではないだろうか」
というような問いが検証される。
ウィトゲンシュタインという人はこのような優れた哲学的な問いを探求するわけで、そんなの議論については僕も馴染みがあったのだけれど、それをチューリング、さらにはAI(人工知能)や、人の心の問題にまでブリッジしようというのがこの本だ(ていうかまだそこまで読んでいないけど)。

いずれにしても、科学とか、そこで「当然の真理」のように使われる数学について、我々はもう一回「おや?」と思わなければならない。
アベノミクスとかいうくだらない造語が流通しているが、それを支える経済学も、数学を頼りにしている。
「もしもアベノミクスで景気が良くなっても経済格差は広がるばかりだ」というのは当然だが、それと同時に、そもそも経済学なんて砂上の楼閣だということに気付くべきである。

さてと。
「躁状態」から醒めると、家の中は滅茶苦茶だ。
本や雑誌で足の踏み場もないのは昔からだが、でも以前は取材費などの経費は毎日PCで記録していたが、それをしなくなったばかりか、領収書もあっちこっちに散乱させてしまっている。確定申告を考えると、まことに頭が痛い。
あと、僕はキチガイにもなれないから、一日の大半は原発のことなどアタマにない。

だけどそれでも、auの安心なんとかサポートのことはもう許してやるが、原発のことだけは許せないというのが、どうしようもなく確実にある。
こんなに執念深く「ない」僕でも、「根に持ってやる」と思うのだった。根性なしの僕が「根」を持つというのだから根が深い。
(じつは、「根に持つ」という利己的な思いと、たとえば被曝した子どもたちとかへの利他的な思いの関係とかについてはこれまた深い洞察が必要なのであるがそれはまた今度ね)

久しぶりの更新で、最初は福島の子どもの甲状腺癌について書こうと思っていたのだけれど、なんかこんなふうになってしまいました。

原発とセックス~原発を推進する奴は幸せなセックスを知らない

年明けなのでなにか書こうと思っていたのだけれど、書くべきことが思いつかない。
ていうか、もちろん書くことはいろいろあるのだが、このブログで何を書いたらいいかというと、なんというかなかなか難しい。

たとえば選挙。

僕は基本ペシミストなので、じつは世の中が良くなることなんて金輪際ないんじゃないかと思っている。
ていうと怒られるんだけどさ、良くなる要素なんか何も見つからないのだ。

それでもなぜ反原発を続けたりしているかというと、事態はあまりにひどすぎると言うこと。
それと、原発事故の責任の一端は端的に僕にもあるわけだから、それがわかっている以上、たとえ負けようとも抵抗する人生を送らなければならない。それをしないのは恥ずかしいしみっともない。自己満足と言われようとも、貫かなければならないこともあるのだ。
でもまあしかし、世の中が良くなるなんてじつはまったく信じていないのである。

だから衆院選の結果も予想通りで、やっぱり日本人は馬鹿ばっかなのかもしれないし、数の論理が幅をきかせる大政党に有利な小選挙区制(小選挙区比例代表並立制)をあのとき(94年)許してしまったのは、歴史的な大失敗だったのだと改めて思う。

その地域の利害を代表して国政に参画するというのは、それはもちろん政治家の大事な仕事なのであるけれど、と同時に、それぞれの地域を越えて日本というひとつの国の在り方を考えるべきが国会だ。
にもかかわらず、自民党や民主党の国会議員は、どいつもこいつも、国のことよりも自分の地域や仲間内の利益ばっかり考えてやがる。
安倍晋三は誇らしげに「国民の信を得た」などとぬかすが、冗談じゃない。衆院で過半数をとったのは選挙制度のカラクリで、実際に自民党を信任する国民は2割とか3割だ。
なのにいい気になって、新規原発まで企んでいる。

日本の恥としか言いようがないな。あれだけの大事故を起こしておいて、収束の見通しすらたたないくせに。
野田政権、安倍政権は世界中の笑いものだ。
少しはそれを知ると良い。

とかまあね、いいたいことはたくさんあるのだけど、このブログを読んでくれているような人ならば、そんなことは今更言うまでもないだろうと思うのだ。
もちろん、たとえば僕がテレビの地上波で好きなことを自由に語って良いと言われれば、原発問題は知る限り、基礎の基礎から何度でもじっくり話して、全国民の反原発オルグに励むだろう。
だけど、一日せいぜい千何百アクセスのこのブログではそれはやめておこう。
そんなことはみんな、僕以上に知っていると思う。

僕は、ちょっとだけ哲学を勉強した物書きの端くれで、日々のニュースを追いかけたり、政治を追及するジャーナリストではない。
だからこのブログでは、哲学的、あるいは文学的に語れることを語ろう。

で。
新年一発目のタイトルは「原発とセックス」なわけだが、これは正直言ってウケを狙ったというのもある。
僕は昔は雑誌編集部のデスクで、記事のタイトルを数限りなく作ってきたのだけれど、まあ、ぱっと見「何これ?」と思わせるのもひとつの手。
「原発とセックス? なんだこれ?」と思ったでしょ。

しかしそれでも、一応言いたいことはある。

たとえば、セックスに淡泊だった女性が、新しい彼氏との交際で、突然感じ方、考え方が変わる。そういうことがある。
僕は以前、男性誌の編集部にいたが、そんな話もいっぱい聞いた。
彼女は決してセックスが嫌いというわけではなかったが、これまでは求めてくるのはもっぱら彼氏のほうで、彼女はそれに応じていたという感じだった。
もちろん、愛撫されれば気持ちいい。
でも、自分から「したい」と求めることはなかった。
肉体的な関係よりも、自分の頭の中で作り上げた「彼氏像」、つまり「私のことをなんでもわかってくれる彼」というイメージに惚れていたのかもしれない。
ところが、次の新しい彼氏とのセックスはそうではなかった。
頭の中の「彼氏イメージ」ではなく、彼の存在そのものがいとおしいと思えるようになった。
彼の存在すべてを愛せるようになった。

SMの話をしよう。
「責めるのが好きなのがSで、責められるのが好きなのがM」
今でもそんなふうに考えている人も多い。
ところが、これは僕が某AV(アダルトビデオ)界の巨匠から聞いて目から鱗だったのだけれど、SMの「肝」はそんなことでは決してなくて、「信頼関係」だというのだ。

たとえば、窒息寸前まで彼女の首を絞める。
そのとき、Mの彼女が思いきり感じるのは、痛いから苦しいからではない。
100%許し合える関係が幸せなのだ。
陳腐な言い方だけれど、身体だけじゃなくて心も裸になって求めあえる、認めあえる、愛しあえる。
これがSMの「肝」だというのだ。
だからこそ、心の底から信頼し合っているからこそ、生と死の境界ギリギリのセックスをする。
こうしてお互いは、世間のくだらない常識や倫理観を超えて、まさに生死の境でひとつになれる。
それが幸福なのだ。

セックスで得られるのは、肉体的な快楽だけではない。
肉体と精神というような区別を超えた、大いなる幸福なのである。

では、その幸福の源泉はどこにあるのだろうか?

これがまさに、哲学で言う「他者」の存在なのである。

小学校の社会科で、「社会にはいろいろな人たちがいます」ということを僕らは習う。
パン屋さんや魚屋さん、ビルを作る人や設計する人、会社に勤める人、みんなから選ばれて政治をする人、などなど。
「社会とは、そんないろいろな人たちがいて、はじめて成り立っているのです」
というわけだけれど、そんなのは、大人にとってみれば教わるまでもなく当たり前の話だ。
ほんとうにいろいろな連中がいて、それぞれが何かしらやっていて、そうやって、社会(社会システム)というのは動いている。
それぞれの利益や損得、考え方はきっと違うのだろう。
でもそれらの均衡を保ち、なるべくみんなが納得するようにしなくちゃいけない。そのために上手いこと交通整理したり、調整しなくちゃいけない。
つまり、それが政治だ。
と、
そこまでしか考えていない馬鹿な政治家が多すぎる。
政治の役割は利害調整だと思ってやがる。
お前らみんなアタマ悪すぎ。

ていう話はとりあえず置いておいて。

「社会を構成するいろんな人たち」という場合、たとえば魚屋さんは社会にとって必要不可欠だとしても、お店をやっているのが「鹿島潤さん」(あ、僕の名前)でも、「柏原光太郎さん」(幼なじみで文春の担当編集。『アイアンシェフ』の審査員、の名前)でも、「遠藤隆司さん」(現在居場所不明の親友の名前)でもいい。
魚屋さんがあればいいだけで、誰がやっているのかなんて関係ない。
だけど、僕らが恋をしてセックスする相手は、魚屋さんなら誰もいいというはずはない。
「魚屋さんなら誰でもいいからセックスしたい」なんていうのはちょっとした変態で、「鹿島潤さんとセックスしたい」とか「柏原光太郎さんとセックスしたい」とか、人はそういうふうに思う。

これが第一段階。
固有名詞が必要だ。
まあここまでは、中学生の初恋レベルでもわかる。
恋する中学生は、相手の名前をいろんなところに書いたり唱えたりしたい。
ノートの端とか机の裏とか。みなさん経験あるはずです。

で、そのちょっと先に「固有名詞」と「存在」という、哲学の大きな問題があるのだった。
かなり雑にだけれど、その話をしよう。

「鹿島潤」を好きな女性がいるとする。
固有名詞は人を特定するので、目の前にいる男性が「鹿島潤」であるということは、「ああこの人が好き」と彼女が思う最低限の条件だ(論理学の必要条件に似ているけれどその話はややこしくなるのでしない)。

だけど、その男が「鹿島潤」であればそれでいいのか?
ここで言うのは、「同姓同名の「鹿島潤」がいるかもしれない」と言うことではないよ。
その名前で特定されさえすればいいのか、ということだ。

ことばで特定しただけの「鹿島潤」は、どれだけことばを並べても(どれだけ述語を並べても)、特定はされても、100万語並べても鹿島潤そのものには到達しない。
鹿島潤の存在そのものには辿り着かない。
(あ、これはちょっとだけ専門的なので無視してね→。「明けの明星」と「宵の明星」という、哲学で有名な話があるけれど、僕はどうも、誰の話を聞いても納得できない)

中学生の初恋なんて言うのは、だいたいそんなもんだ。
「笑顔にころっときた」とか「やさしくされた」とか、つまり、単に自分の目から見た鹿島潤に惚れてしまったわけで、これは「鹿島潤は身長174センチだ」とか「鹿島潤は目黒区に住んでいる」とか、そういう述語を並べるのと一緒で、真なる命題ではあるけれど存在そのものには辿り着かない。

だから、自分の頭の中で勝手に作った「鹿島潤」像に惚れるというのは、結局のところ、自分に惚れているのとあまり違わない。
ええと、酔っ払って書いているので文章がダッチロールしてきた。
端的に言おう。
そこには、「他者」がいない。

(少なくとも僕の考える)哲学で言う「他者」とは、単なる他人のことではない。
もちろん、哲学的な「他者」も単なる他人も、「彼の心の中は自分には決して覗けない」というような意味では一緒である。
彼の心の中を100%知ることは不可能だし(つまりそれが、他者や他人と言うことばの意味するところである。もしも彼の心を100%知ることができるのならそれは他者や他人ではなく端的に「私」である)、彼が画鋲を踏んでも、「痛そうだな」とは思えても、自分は決して痛くない。

しかし、「単なる他人」、たとえば、「社会を成立させている大事な一員としての××県××市の魚屋さんの××さん」の気持ちが100%わかることが不可能なように、愛する鹿島潤さん(おお!)の気持ちも100%わかることなどあり得ないのだが、それでも、無理は承知で100%わかりたいと思ってしまう。
これが恋愛。

で。
ここまで「心」とか書いてきたけれど、「心」なんていうのは所詮、社会的要請から生まれた単なる「ことば」であって、「心と身体」という区別も同様に、人間都合、社会的文化的要請に過ぎず、だからそれにとらわれずに考えると、足の裏に画鋲が刺さって痛いのは脳味噌ではなくて足の裏なわけで(この辺は哲学的に大いに議論が沸き起こりそうなところだが面倒臭いので無視)、心と身体の区別なんてない。

愛する人の気持ちを100%わかりたいと思っている人は、相手の脳味噌の中身を知りたいわけじゃない。彼の頬に感じた風、彼の胸の鼓動、性器の充血を、自分でも感じたいのだ。
そこに、心と身体の区別はない。(ましてや「脳こそが心であり自己である」というような幼稚な思想もない)

セックスの話に戻ろう。

セックスは肉体的快感であると同時に、「他者」を知るよろこびである。
決して一体にはなれないはずの「他者」と、奇蹟のように一体になれる幸せ。

こうして、「匿名の誰々さん」ではなく、「固有名詞鹿島潤」も超えて、「他者」の存在の核心にお互い触れ合うこと。

僕はいつもの癖でこうして理屈を並べているが、理屈じゃなくてリアルに「他者」の存在を知る驚き。
多くの場合、この驚きが、哲学や文学の原動力だ。
(哲学では独我論が好きな人も多いけれど、それが独我「論」として言語化でき、さらにそこに共鳴する人がいるという時点で、単なる他人ではなく「他者」を認めざるを得ないと僕は思う)

これまで淡泊だった人がセックスの幸せを知るというのは、僕が見聞する限りは単なる肉体的快感ではなく、「他者」の存在を知った驚きとよろこびであり、生死の境ギリギリのSMは、それを再確認するための極めて人間的な営みである。

この話は難しいので、ここまで書いた文章にいろんな矛盾があるのは自分でもわかってますよ。
でもまあ新年だから許してね。

で、そして、原発の話だ。

セックスがどのように原発の話につながるのか?

結論から言うと、原発を一生懸命推進している連中は、幸せなセックスを知らないのではないか、ということだ。

幸せなセックスとは、「他者」を知り、驚き、感じ、よろこぶことだった。生死ギリギリで感じる信頼だった。
たぶんそれは、多くの人にとって新しい発見である。処女や童貞にはわからないし、「自分だけ気持ち良ければいい」という身勝手な人にもわからない。

ふと思うんだけどさ、米国共和党の支持母体であるアタマの悪い保守的なキリスト教とかでは、セックスで快楽を得るのは良くないというわけ。セックスはあくまで子どもを作るためだという。
これはさあ、セックスで「他者」をリアルに感じて幸せになっちゃたら「神様なんか要らないじゃん」と気付いてしまうから、だから「快楽を求めるな」とか言うんじゃないかなあ。

つまり、セックスで「他者」の存在の核心に触れると、宗教なんか無用で、人は、心や身体や命、健康といった人間存在の根本を大事にしようとするに違いないと思うのだ。

するとどうだ?

単なる他人に過ぎなかった、顔も名前も知らない人々。原発立地地域の人々や原発労働者の人々も、もしかしたら彼ら彼女らが自分の一番大事な人だったかもしれない、セックスしたくてしたくてしょうがない相手だったかもしれないと思えてこないかな。

あるいは、大事にしてきた田畑を追われた福島の爺ちゃん婆ちゃんが、自分の両親だったかもしれない。線量計をつけて学校に通わされている福島の小学生が、自分の子どもだったかもしれない。
そう感じないかな。

もしも「人間」という種に価値があるとすれば、それはビルや飛行機を作ったことにではなく、セックスという地球上のどんな動物でも行う行為に、「愛」としかいえないなにかを、しかも特定の相手を超えて、すべての「他者」に対してそれを感じることができること。
セックスに、あるいはそれだけでなくすべての人の営みに、そんな「愛としか言えないなにか」と付加することができること。
それができる優れた想像力。
そこにこそ人間の価値はあるのではないかと僕は思う。(逆い言えば、人間の価値なんてそこにしかないと思う)

ほんとうに悲しんでいる人を目の前にして、「電気が足りない」とか「経済のために原発は必要」とか、僕なら決して言えない。
目の前にしなくても、悲しんでいる人がいるとわかっているのにそんなことは言えない。
幸せなセックスを知っていたら、絶対にそんなこと言えないだろうと、僕は思う。

ゆえに安倍晋三とか、石原慎太郎とか、米倉弘昌とか、山下俊一とか、ろくなセックスしていないんだろうな。
「人でなし」とはこんな奴らのことを言うのだと思う。

後半泥酔なので、文章かなり端折って乱暴な展開ですね。
まあ雰囲気だけでもいいです。

それにしてもしかし、今回はなかなかなんだか、僕らしくないことを書いてしまったなあ。

ま、いっか。

新年なので、一曲。
僕はペシミストなのでこれ。



なにも変わらないさ
みんな忘れちゃうさ
ブームで終わっちゃうさ
ブーム ブーム ブーム ブーム
この夏のブーム

なんにも始まらないさ
ひとつも終わらないさ
はやく忘れなくちゃ
みんなに遅れちゃうさ
ブーム ブーム ブーム ブーム

(作詞・作曲:ZERRY<忌野清志郎>)