語り得ぬものについては沈黙しなければならない。 -5ページ目

日本だって北朝鮮

年末でなにかとバタバタしてしまっているのだけれど、息抜きにちょっと書くね。

歳とともに集中力が著しく欠如して、仕事しててもすぐ疲れてしまうので、テレビのニュースなんかを見る。
猪瀬直樹はもういいよ。ああいう小さな人間を総攻撃したって、何も変わらない。
それより北朝鮮。

ナンバー2と言われていた張成沢元国防副委員長の突然の失脚と即日の処刑。
野蛮な国だなあとつくづく思う。
北朝鮮国内の政治力学について具体的なことを僕は知らないのだけれど、これだけは確かなのは、金正恩もしくは軍部の誰かなのかもしれないが、要するに自分の「立場」を守りたい連中、自分の「立場」を確保したい連中にとって、張成沢は邪魔になった。あるいは邪魔になるかもしれなかった。だからそんな連中がつるんで、張成沢を吊し上げた。
ここには「正義」や「倫理」の観念はおろか、「国益」の観念すらない。と僕は思う。
あるのは「保身」と「欲」だけだ。
そんなのがまかり通ってしまうのだから、北朝鮮は恐ろしい。

でね。
僕が言いたいのは、同じことがこの日本でも、今まさに行われている、ということなのです。

経産省の「総合資源エネルギー調査会基本政策分科会」が「エネルギー基本計画」をとりまとめ、政府は年明けにでもそれを閣議決定するというのだが、まったくもってひどすぎる。
原子力を「エネルギー需給構造の安定性を支える基盤となる重要なベース電源」と位置づけ、再稼働どころか、原発の新設まで良しとするような内容なのだ。

福島第一原発事故は収束するどころか汚染水垂れ流しが続き、今でも10万人以上の人々が理不尽な避難生活を強いられている。どの世論調査を見ても過半数が「原発ゼロを目指すべき」という中で、「エネルギー基本計画」が原発推進のレールを引こうとするのはなぜか?
その答は簡単で、「原発をやめたら困る」立場の連中がいるからである。
しかも、「総合資源エネルギー調査会基本政策分科会」の事務局を努める資源エネルギー庁(経産省の外局)が、まさにそんな「原発やめたら困る」連中なのだ。
潤沢な「電力マネー」を背景に、電力会社と癒着し、築き上げてきたのが彼らの「立場」だ。原発をやめたらそれが崩壊してしまう。だから彼らにしてみれば脱原発は断固阻止せねばならない、ということになる。

「原発をやめたら日本経済は立ち行かない」などという馬鹿げた議論についての反証は面倒臭いからここでは書かない。ただ、「左派」と言われるような論客ではなく、資本主義的、自由主義的な経済専門家からも、原発は反経済的だという「脱原発論」があちこちから持ち上がっている。あの小泉純一郎ですら、「原発は即ゼロ」と言っているのだ。

東電は「再稼働しないと会社が潰れてしまう」とあからさまに言っているが、一企業が潰れるかどうかなんて知ったこっちゃない。駄目な企業が潰れるのは資本主義のルールであって、そのルールに合意したからこそ株式上場しているのだから、実質的に債務超過の東電なんか潰れるべきなのだ。
それでも、自分の立場を守りたい連中が、必死に自己保身を図っている。
それが東電の姿であり、同様に経産省、あるいは資源エネルギー庁とかの「原発やめたら『俺』が困る」連中の姿なのである。
だからこそ彼らは、なりふり構わず原発推進案を打ち出してくるのだが、それってまるで北朝鮮だ。
マシンガンぶっ放して処刑、みたいな派手なことをしないから目立ちにくいが、根本的には、金正恩体制で自分の「立場」を守るためには手段を選ばぬ北朝鮮の政治家、役人、軍人と一緒である。

もうひとつの話。

処刑された張成沢は金正恩の側近であったので、金正恩と一緒に映っている映像なんかもたくさんある。
ところが、北朝鮮当局は、そんな「公式映像」から、処刑した張成沢の姿を一切消してしまった。
知っている人も多いと思うのだけれど、これは比喩ではなく、実際に撮影された映像を加工修正して、張成沢の姿を消してしまったのである。
たとえば、顔のすげ替え。張成沢の顔があった部分に別人の顔を貼り付けている。あるいは、映像の背景部分を引き延ばして、張成沢の姿全体を覆い隠している。
ハリウッドだったらもっと上手にやるのだろうけれど、北朝鮮の場合は映像加工が稚拙すぎて、つぎはぎがバレバレだったりする。ご愛敬。
北朝鮮国営朝鮮中央通信や、朝鮮労働党の機関紙、労働新聞のウェブサイトからも、張成沢の記事がほとんど消えたという。残っているのは彼の死刑執行を伝える記事だけらしい。

滅茶苦茶な国だ。
自国の法律に基づいて処刑した、それだけであればまだいい。だが、北朝鮮当局がやろうとしているのは、「歴史の隠蔽」である。つまり、「張成沢が金正恩の側近で、金正恩の脇に立っていた」という事実すら、「なかったこと」にしようとしているのだ。
これはあまりにも乱暴である。

そこで現代の日本の話。
僕が何を書きたいのか察した人も多いと思うけれど、特定秘密保護法だ。
政府、役人が「これは秘密」としたものを、永遠に隠蔽できる法律である。
「原則○○年で公開」とか言っているが、それはあくまで原則であって、秘密解除せずに「そんな秘密はなかったこと」にもできる。
都合が悪ければ歴史的事実も隠蔽しよう、そんな発想、思想こそ、まさに北朝鮮とそっくりなのだ。

眠いから寝るけどね、北朝鮮は愚かで出鱈目な国だと思う人は、粛清こそないものの、日本だって根は同じだということを考えたほうがいいと思うよ。

【緊急】特定秘密保護法案がこのまま成立してしまうのはおかしい。今日こそデモに出よう!

昨日夕方、特定秘密保護法案が参院委員会で可決された。
僕も半世紀以上生きているが、こんなに乱暴なやり方は初めて見たぞ。
与党は本日、参院本会議でも強行採決に踏み込もうとしているのだが、これは本格的にヤバいと思われる。

そこで、僕の考えと、みんなへの提案だ。

まず、「国家機密を認めるか」という問題。
「秘密は一切なし!」という考え方もあり得るが、僕は、国家の存在を認める以上、国家機密の存在はそれと不可分だと考える。国家というのは、政治的にも歴史的にもさらに論理的にも、そのように存在せざるを得ないからだ。
機密が存在せざるを得ない以上、その漏洩に対する罰則を定めた法律は、たとえ必要悪であろうとも、制定せざるを得ない。

軍事機密なんかがそうだな。
僕は自衛隊は肯定するが、たとえ自衛隊が嫌いな人だって戦車や護衛艦の大砲ではなくレーダー装備までは否定しまい。国家には領土があるわけで、そうなれば見張りは必要だからだ。するとその段階で、たとえばレーダーの性能とかにしても、秘密にすべき部分が出てくる。

そんなわけで僕は、国家機密とそれに関わる法律は存在して然るべきだと考える。

しかし、それ以上の大原則は、日本国においては国民が主権者であるということだ。
すなわち、立憲主義に基づき「国民が権力を監視する」のが筋であって、決してその逆(権力が国民を監視する)であってはならない。

だから、本来ならば政治家や役人(公務員)のやっていること、知っていることはすべて包み隠さず国民に公開すべきなのだが、国家機密とせざるを得ない部分だけは、国民が国家に「秘密にしていいよ」と認めてあげる、ということになる。
これが根本原則だ。

その上で、今回の特定秘密保護法案の内容だけれど、まあこれはいろいろ報道されているのでいちいち書かないけれど、要するに政府や役人が「何を秘密にするのか」を勝手に決めていいことになってしまっている。
まったく逆だ。さっきも書いたように、「これは秘密にしていいよ」と国民が認めてあげる、というのが筋なのだ。

「政治家は国民が選んだのだから彼らの意思は国民の意思ではないか」という考えもあるかもしれない。
でもさあ、今まさに採決が行われようとしている参議院だけど、自民圧勝の7月の選挙について、11月28日の広島高裁岡山支部判決では「違憲無効」。昨日の広島高裁でも「違憲状態」だ。
そもそも「違憲状態」ってなによ?議論があるのだが、いずれにしても「合憲」ではない。「合憲」ではない選挙で選ばれた政治家が、これだけ国民が反対している法案を強行に可決してよいものなのか?

この前も紹介したけれど、産経新聞の世論調査。

語り得ぬものについては沈黙しなければならない。-御用マスコミでも…

大政翼賛を画に描いたような産経にあっても、「今国会で成立させるべき」12.8%に対して、そうではなく「慎重に審議すべき」が82.5%と圧倒的多数を占めている。( http://www.iza.ne.jp/kiji/politics/news/131118/plt13111812360004-n1.html
(「法案は必要だと思うか」にYESと答えた人は59.2%と過半数だが、さっきも書いたように僕だって、国家機密の存在とそれに関する法案は必要だと思う)

で。
もっと問題なのは、役人の裁量が広すぎること。そもそも、単に試験を通って採用されただけの役人になんか、何を秘密にするべきかに関わる権限は一切ない。役人は法に縛られることはあっても、法の内実を決める権利なんかないのだ。

要するに、「合憲」ではない選挙で選ばれた政治家と、国民から選ばれたことなど一度もない役人が、「何が秘密か」すら秘密、という法律を作って勝手に運用しようとしている。
こんなものは暴挙であり、無効である。と僕は考える。

自民党は馬鹿だよなあ。政権が永遠に続くとでも思っているのだろうか?
出鱈目な選挙と腐敗した役人が「秘密」を名目に何でもかんでも好き勝手にできるという、まさに北朝鮮みたいな法律を作ってしまって、自分たちが万年野党になってしまったらどうする気だろう? 牢獄行きだぞ。

公明党にも落胆だ。もちろん期待なんかしてなかったけど、これまでの個別の問題に関しては、連立与党として自民党の暴走に歯止めをかけるマトモな言い分もあった。ところがなんだよこのザマは。

維新とみんなの党は自民との修正協議でいろいろ合意しておきながら、ここへ来て世論が動きだしたのを見て、まさに風見鶏的に採決を退席したりしている。自己保身と党利党略でしか動かない連中に何を言っても無駄かもしれぬが、胸に手を当ててよ~く考えろとだけは言っておきたい。

特定秘密保護法案に関する検索をいろいろやっていて呆れてしまったのは、「法案に反対するサヨクはキチガイ」みたいなブログ等の記事がかなり多いことだ。
そういうのを書いているみなさんに聞きたいのだけれど、北朝鮮や中国は嫌いなんだよね? 時代遅れのマルクス原理主義で自国民を弾圧し世界制覇を企むような国が嫌なのではないのかな? もしそうなのであれば、特定機密保護法というのは、日本の北朝鮮化、中国化の第一歩であることを知っておいたほうが良いよ。あと、ついでだから言っておくが、「世界日報」もどうやら特定秘密保護法に賛成らしい。韓国の統一教会系の新聞だ。

ノーベル賞を受賞した益川敏英・名古屋大素粒子宇宙起源研究機構長や白川英樹・筑波大名誉教授らが「特定秘密保護法案に反対する学者の会」として声を上げた。( http://anti-secrecy-law.blogspot.jp/
ジブリの宮崎駿氏、高畑勲氏、「男はつらいよ」の山田洋次監督、吉永小百合さんや大竹しのぶさんも反対声明を出した。( http://www.47news.jp/47topics/e/248185.php
日本映画監督協会、日本児童文学者協会、日本シナリオ作家協会、日本美術家連盟、日本脚本家連盟など各分野の著作者でつくる5団体が特定秘密保護法案の廃案を求め、共同で緊急声明を出した。
田原総一朗氏、岸井成格氏、鳥越俊太郎氏、金平茂紀氏らも声を上げたし、浅田次郎氏を会長とする日本ペンクラブも反対している。( http://www.japanpen.or.jp/statement/2013/post_442.html
日弁連(日本弁護士連合会)も数回にわたり廃案を求める声明文を出している。

日本を代表する学者、ジャーナリスト、作家、映画監督らが続々と反対声明を打ち出している。
はっきり言って僕は半世紀以上生きてきて、これだけ多くの人々が反対の声を上げた法案はほかに記憶がない。
芸能界には疎いのでよく知らないけれど、ブログで問題提起して話題となった藤原紀香さん以外にも、多くの芸能人、著名人が反対しているはずだ。

選挙で自民党が圧勝したとしても「与党の言うことはすべてOK」と言うわけではないことは、さっき紹介した(よりによって)産経の世論調査でも明らかだ。菅義偉官房長官は「審議は尽くされた」と言ったみたいだけれど、審議がまったく不十分であるからこそ、これだけの反対の声が上がっているのである。

法案が可決され、石破茂幹事長が言ったように「デモはテロと本質的に変わらない」という見解で運用されれば、集まって反対を叫ぶことすらテロ=犯罪と見なされてしまう。日本を北朝鮮のようにしたくないのであれば、そうなる前に声を上げるしかない。

従って。

僕の提案は、本日、国会前への結集である。

3.11を機に、永田町、霞ヶ関の「反原発」「脱原発」デモが行われている。これは「首都圏反原発連合」( http://coalitionagainstnukes.jp/ )の呼びかけが中心で、当時の野田首相との面会も、首都圏反原発連合の代表者が出席した。もちろんこのデモは、これまでの「労組中心の組織的動員デモ」とは違ったものだ。しかし、とはいっても参加者の中にはそのやり方や考え方に批判的な人も当然いて、まあいろいろ問題はあったみたいだ。
で、今では「誰かの呼びかけで集まる」とかではなく、「みんなが、やりたいように集まる」という、「誰がリーダー」とか「誰が偉い」ではないスタイルが定着している。

今日の国会前も、そんなふうになるはずだ。

検索すれば「本日の特定機密法反対デモ予定」はヒットするが、そのスケジュールに縛られる必要はまったくない。

僕らは自由に振る舞えばよい。
歌いたい人は歌えばよいし、叫びたい人は叫べばよい。ただ立っているだけでももちろんよい。

右翼だとか左翼だとか、そういったくだらないこともまったく関係ない。
これは「反原発デモ」の話になるが、自分では何もしないくせにネット掲示板に匿名で「サヨクのキチガイ」とか書いている人には想像もできないかもしれないけれど、大きな日の丸の旗を振ってデモに参加する人もいるし、過激派と言われる××派の人と民族派の人がデモのあとの飲み会で乾杯してたりする(右も左も公安にチェックされていたりするのでここでは具体的には書けないが)。
つまらぬイデオロギーを超えて、「日本をよくしよう」「社会をマトモにしよう」という一点で結集できると言うことだ。
もちろん、「日本も社会もどうでもいいけど、俺的に許せない」でも充分だ。

デモに来ない人は、「左翼っぽいプラカード」が嫌だったり「ヒッピーとか小汚い格好」が嫌だったり「昔からの市民運動的なババアども」が嫌だったりするんでしょ。
僕もそうだ。
「労働者」とか「革命」とかのことばをプラカードに使うなよ、とも思うし、ここはマリファナパーディじゃないんだ、ともいいたくなるし、ヒステリックなババアには中指を立てたくもなる。

でもさあ、この社会のシステム、すなわちこの糞法案を成立させようとしている連中、が見事に組織化されているのとは対称的に、僕らは組織化されていない。ていうか「組織化こそ糞だ」と思っていたりする。
だから「左翼」も「ヒッピー」も「市民運動」も、決して強制的に仲間に入れられるわけではないのでちょっと我慢して、そこにいるだけでよいのだから、意思表示をしてほしいと思う。

デモに参加したことがない人がいるかもしれないのでちょっとだけ。
GoogleMap( https://maps.google.co.jp/maps )で「国会議事堂」を検索してズームアップしていくと、「国会正門前」交差点がわかるはず。ここが最前線となります。ここを目指すのが定番です。
地下鉄の駅で言うと、「国会議事堂前」「霞ヶ関」「溜池山王前」「永田町」、どこからでも行ける。
ただ、きっと警察が警備誘導していると思われます。警察官が乱暴なことをする可能性はまずないので(この法案が可決施行されない限りはですが…)心配しなくてもよいのですが、「国会議事堂前」駅はその名の通りで人が集まるので、出口を封鎖して一カ所に絞り導線を限定するので「国会正門前」に辿り着けないこともあります。
「霞ヶ関」駅から、「国会前」交差点を経て「国会正門前」交差点を目指すのがよいのかなと思う。

さくっと小一時間ブログを書いて寝ようと思っていたのに、よっぱらってしまったことよ。

注意事項としては、デモの警備に当たる警察は思いっきりピラミッド組織なので、若い警察官に喧嘩売っても意味ないよ。彼らは仕事として命令通りやってるだけなので。くだらないいざこざは避けましょう。ていうか、おとなしくデモに参加するだけの人に、経験上警察は乱暴な真似はしません。
ただちょっと言っておくと、警察はピラミッド型組織であるがゆえに、ピラミッド型ではない人々の集まりに対応する術がない。
もっと具体的に言うと、警察官に「デモの参加者ですか?」と聞かれて「はい」と答えると、混んでいる「デモ参加者用導線」の一番後ろに並ばされる可能性がある。
僕らは「組織されたデモ隊」ではない。誰に命令されたでもない。だから、「単にこのあたりを歩いている」だって良いのですよ。

アレルギーの症状で急にくしゃみが連発してもう書けぬ。

繰り返すけれど、
僕らは自由に振る舞えばよい。

石破茂は自身がブログに書いた「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらない」を撤回したが、そのすぐ前の文章(撤回はされていない)がこれ。

今も議員会館の外では「特定機密保護法絶対阻止!」を叫ぶ大音量が鳴り響いています。いかなる勢力なのか知る由もありませんが、左右どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。

http://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-18a0.html

なんだか夜中の住宅地に暴走族がやってきたくらいの勢いで書いているが、議員会館に鳴り響く大音量が妨げるのは「多くの人々の静穏」ではない。
議員会館の周りにどれだけ「多くの人々」が住んでいるというのか? さっきGoogleMapで検索した人は、それを見ると良いと思うよ。いったい何人住んでいるというのだろう?

国会前のデモは、議員会館にいる国会議員に聞かせるものであり「多くの人々の静穏」を妨げたりはしていない。むしろ国会議員ならば真摯に耳を傾けるべき声である。
それを聞いて自分が苛立ったからと言って、「多くの人々の静穏を妨げる」などというのは議員として不誠実極まりない。ちゃんと聴けよ。

だから、聴かせに行かねばならぬ。

そろそろ寝ないとな。

特定秘密保護法案があまりにもひどいのでちょっと書く

特定秘密保護法案が衆院を通過した。それにしても乱暴だ。
なのでいくつか。

産経といえば原発再稼働に諸手を挙げて賛成する御用報道機関であるが、その世論調査(11/16、11/17)でも、「政府に都合の悪い情報が隠蔽される恐れがあると思うか」という問いに対して、じつに85.1%の国民が「ある」と答えている。
法案の取り扱いについては、「今国会で成立させるべきだ」はたった12.8%。そうではなく「慎重に審議すべきだ」が82.5%と、圧倒的多数を占めている。( http://www.iza.ne.jp/kiji/politics/news/131118/plt13111812360004-n1.html

今更言うまでもないが、世論調査が客観中立であるなどと言うのはまったくの幻想だ。「何を聞くか」の時点で恣意性が入るわけだし、「どう聞くか」によっても数字は大きく変わってくる。
その上で、「あの産経の、この数字」である。

語り得ぬものについては沈黙しなければならない。-御用マスコミでも…

先週末、ある集まりで福島の人と飲んでいたのだったが、彼も知らなかったようなので書いておこう。
福島県議会は、10月9日、「特定秘密の保護に関する法律案に対し慎重な対応を求る意見書」を可決している。( http://wwwcms.pref.fukushima.jp/download/2/2509iken01.pdf

「特定秘密」の対象が広がることによって、主権者たる国民の知る権利を担保する内部告発や取材活動を委縮させる可能性を内包している本法案は、情報掩蔽を助長し、ファシズムにつながるおそれがある。もし制定されれば、民主主義を根底から覆す瑕疵ある議決となることは明白である。

と、極めてまっとうに法案の危険性を指摘した意見書であるが、言っておくけど福島県議会は国政とねじれているわけではないよ。57議席中、自民28公明3。すなわち国政与党の議員が過半数を占めているのだ。
つまり、福島第一原発事故を経験した福島の人たちは、党派を問わず、政府や役人がいかに情報を隠蔽するかを身に染みて知っているのである。
原発が爆発するという国民にとっての非常事態においても、情報をひた隠しにする。そんな政府や役人のやり方を嫌と言うほど経験したのだと思う。

あと、安倍晋三は「日本が秘密保護法を作らなければ仲間の国から秘密を教えてもらえない」みたいに言っているようだ。
ところでさあ、米国は相手が同盟国だろうとなんだろうと、首相の携帯電話とか盗聴しているみたいだ。例のエドワード・スノーデン氏の告発で明らかになった。
それを知ったドイツのメルケル首相は激怒した(当然だ)。
で、これまた産経から引用するね。
「オバマ米大統領はメルケル氏に対し、今後は通信を傍受しないと約束したが、ドイツ以外の国の指導者には、そこまで踏み込んだ約束はしていないという。(共同)」
http://sankei.jp.msn.com/world/news/131106/erp13110616000004-n1.htm 太字などは僕の仕業)

「米中央情報局(CIA)元職員エドワード・スノーデン容疑者から提供を受けたNSAの機密文書を引用。文書によると、監視対象はフランスやイタリアといった欧州連合(EU)諸国のほか、日本や韓国、インドなど広範囲にわたっている。」
(共同通信 http://www.47news.jp/CN/201307/CN2013070101001218.html

安倍晋三君に問いたいのは、そんなに秘密が大事なのであれば、秘密保護法案とか言って国民を監視する前に、外国のスパイ活動こそ目を光らせるべきじゃないのかな。
僕が内閣総理大臣だったら、やっぱメルケル首相のように激怒するね。
断固たる態度で米国を追及し、(メルケルさんがやったように)米国からの盗聴の痕跡がないか国内でも徹底調査、ことによっては厳重抗議。
少なくともこれまで米国政府が日本に対して行ったスパイ活動をすべて明らかにして公開し、「今後は通信を傍受しない」というドイツ並みの約束を取りつけろよ。独立国家としてこれが筋だ。

安倍晋三君が信頼するのは、日本国民よりも米国なんだな。
こういう輩を「反日」というんじゃないのかな。

「哲学」の議論と「党大会」の議論(「てつがくカフェ@ふくしま」を巡って~その2)

僕は、酒の肴に文章を書く。

画描きの手元に紙とペンがあればぼ~っとしてても無意識になんか描いてしまうように、あるいは、その手のパブに楽器が置いてあると、弾ける人は飲みながら音を鳴らしてしまうみたいに。

プロとして、飲んだときは楽器に触らないという主義の人もいると思うけれど、ステージで飲むプロもいる。僕は後者に近いな。仕事も飲みながら書くもんな。
さすがに原稿料いただく仕事の締め切り日は泥酔しないように気をつけるのだけれど、ブログは余計な心配無用なので、ついつい飲み過ぎる。そしてその結果、途中放棄した書きかけの文章がデスクトップにどんどん溜まっていく。次の日になると続きを書く気は失せるのでもうほったらかしだ。

だから、前回の「「てつがくカフェ@ふくしま」を巡って~その1」は、よく書き終えた。堂々巡りのひどい文章だけれど(プロとしては半分以下に圧縮すべき文章)、まあよくやったよ俺。

そこでひとり乾杯。
頑張って続きを書こう。

今回は、「てつがくカフェ@ふくしま」の具体的な話だ。
なにしろ前回の記事は「てつがくカフェ@ふくしま」のブログで紹介された。( http://blog.goo.ne.jp/fukushimacafe/e/4ccab7bd96040f29d5301bb99c427ef9
「引用して良いですか?」と聞かれたので「もちろん良いです」と答えたら、その日の晩に記事がアップされていた。…は、早いよ。
だから僕も頑張って書かねばなるまい。

そんなわけで、知らない人にはさっぱりわからないかもしれない。ごめんなさい。
とはいえ、書こうと思うのは「てつがくカフェ@ふくしま」批判ではなく、「哲学的な議論とはどのようなことか」という問題である。

ものすごく大雑把に言ってしまうと、前回書いたのは哲学的議論のモチベーション、出発点について。今回書くのは、哲学的議論の問いの立て方ややり方について。

「てつがくカフェ@ふくしま」、11月のテーマは「知らなくてもよい真実はあるか?」と設定されている。( http://blog.goo.ne.jp/fukushimacafe/e/17362cf0ad5152ecfdb6696820ef1f29

僕は、参加するたびに同じ議論を蒸し返してしまうのだけれど、また言うよ。

哲学は経験科学ではないので、客観中立性を求めることなど不可能だ。だから「本当の」とか「真実」とか、そういうことばをテーマに使うのはどうなんだろうと思ってしまう。
当然のことながら、オバマ大統領の言う真実とアサド大統領の言う真実は違うわけなので、すると「真実とはなにか」という話になって、その先に待っているのは、「そもそも真実なんか存在するのか」という問いである。(いつもの話だ)

揚げ足取りをしたいのではないよ。
つまり、「真実の実在」というような論点先取り的前提があるのではないか、と、このテーマ設定の中になにかヤバい匂いを感じ取ってしまうのである。
「真実の実在」を措定しない限り、「それを知るべきか」という問いは成立しない。
つまり、たとえその場限りでも「真実の実在」に同意しない限りこの議論には参加できないということになってしまう。

「ヤバい匂い」とさっき書いたのは、「知らなくてもよい真実はあるか?」というテーマをたてるのは、それ以前に立てられるべき「真実の実在の問い」こそ切実な哲学的モチベーションである、ということは充分考えられるにもかかわらず、それをスルーしているように思われるからだ。
意図的にスルーしているのであればそれはズルいし、無自覚であるのならもっと問題だ。

例えて言おう。
原発肯定の連中は「原発を稼働させなければ日本経済は立ち行かない」と言うわけだが、その主張は「経済成長は善である」という暗黙の前提に支えられている。「経済成長なんか要らないんじゃね」という問いは一切スルーされている。
原発肯定の連中はほぼ馬鹿揃いなので、そんな問いがあり得ること自体理解できないのだろう。だが、哲学的議論においてそれと同様の「重要な議論のスルー」は、これはちょっと、原発推進並みにヤバいと思う。

プラトニズムとの決別が哲学的に切実な問題である僕なんかは、「真実なんて言うことばを使うと言うことは、まずは「真実とはどういうことか」という論点で闘わざるをえないではないか」と身構えてしまうのだ。

話は横道だけれど、近代以降の科学はプラトニズムと決別して成立したはずなのに、現実には多くの科学者がプラトニズムを信じている。彼らは、宇宙の原理を「発見」しようとしている。つまり、そもそも宇宙には「原理」が存在していて、科学者がそれを「発見」しているのだと。まさにプラトニズム。

僕は科学的真実は「発見」ではなく「発明」だと考えていて、これは単にことばの問題ではなく、世界に向き合う態度だと思う。

またまた原発の例えになってしまうけれど、再稼働を目論む連中は、原子力ムラや日本的資本主義システムの温存が目的なのだろうけれど、それよりずっと手前で、「人間が宇宙の原理、法則を発見してコントロールしよう」というプラトニズム的科学原理主義を無自覚に信仰しているように思われるわけで、僕はそこにこそ叩くべき病巣があると感じるわけだ。
なので「真実」とか言われた瞬間に眉がぴくっとしてしまう。

「真実」なんて言われなければそこまで考えずに受け入れるのです。
程度問題と言われればそうだけれど、ことばの問題こそ思考の問題であるので無視できない。
「真実」ということばには、なんらかの原理主義的世界観(科学原理主義とかマルクス原理主義とか)がべたっと張り付いているように感じられて、それ自体を問題化せざるをえないのである。
そうなると、「知らなくても良い」のか否かの議論には入れない。

で。

今度はそこまでうるさく言わず、「真実の実在」を受け入れて、もっとゆるく考えてみる。

「知らなくてもよい真実はあるか?」と問われれば、「そんなのいくらでもある」。

もしも(仮にだ)数えることができるのであれば、「知らなくても良い真実」は「知っておいたほうが良い真実」の数百倍、数千倍以上あると思う。
たとえば「科学的真実」。これは、ほとんどの人にとって疑いようのない真実だろう。惑星の軌道とか分子の構造とか。

でもそんなのは専門家にお任せしますというのが僕の考えで、ていうか、もしも「知らなくても良い真実はない」とすれば、それは「すべての真実を知る」、すなわち「神の概念」を受け入れて、なおかつ「みんながそうあるべき」だということになってしまう。

ここになぜ僕が問題を感じるのかというと、「知らなくてもよい真実はあるか?」という問いの言外に、「問題とすべきは科学的真実とかではなく社会的真実」というような前提が隠蔽されているように思われるからだ。
(ここでいう「社会的」とは、「一対一」の対人関係から、人と国家の関係まで、要するに「社会関係」的という意味)

つまり、「科学的真実とかはどうでもいいけれど、社会的真実は「知っておくべきか否か」を熟考すべきである」と言うような、大雑把に言えば真実のジャンル別「格付け」が潜んでいるように感じられるのである。

あらゆる「問い」に先立って、「なぜそれが問題なのか」という「問い」がある。
それらを順を追ってすべて明らかにせよというのは不毛な議論だと承知しているけれど、少なくとも、議論のテーマとして今立てた「問い」の、直近の「なぜそれが問題なのか」については自覚的であるべきだと、僕は考える。

もし、「知らなくてもよい真実はあるか?」というテーマ設定の中に、意図的にこっそりと、「真実のジャンル別「格付け」」を潜り込ませたのであれば、それはある種の「作戦」としては理解できる。
でも、もしも、「問題とすべきは、科学的真実とかじゃなくて、当然、社会的真実だよね」ということが無自覚に前提とされているのであれば、それは「哲学的議論」ではなく「党大会の議論」だ。すなわちある種のイデオロギーを前提とした議論である。

ちょっと厳しく言っているけれど、当然のことながら主催者の人たちの悪口を書きたいのではないよ。
「社会的関係」を軸とした議論を提起したいという気持ちはわかる。
であれば「真実」とか「ほんとう」とか言わず、もうちょっと具体的な問題提起にしたほうが良いと思うのだ。

「てつがくカフェ@ふくしま」、11月のテーマ「知らなくてもよい真実はあるか?」の案内( http://blog.goo.ne.jp/fukushimacafe/e/17362cf0ad5152ecfdb6696820ef1f29 )には、

あなたのパートナーが浮気していたら、その真実を知らされたいですか?
あるいは、逆に相手に真相を知られたいですか?
あなたが余命いくばくもない病に侵されていたら、告知されたいですか?
あるいは、家族の場合にその真相を知らせたいですか?
我が子が幼い時に別の子どもと取り違えられていた事実を知らされた場合、その真相を我が子に伝えるべきですか?
国家は市民に真相を知らせるべきではない場合があるのでしょうか?


という例が記されている。
これらひとつひとつは、非常に面白い議論だ。
だからたとえば、その中からひとつとって「バレない浮気はOKか?」というテーマであれば、「セフレは浮気か否か」とかさ、「異性と食事しただけで浮気なので許せない」という過激派も出てくるかもしれないし、「逆に相手に真相を知られたいですか?」と上の例にはあるけどそんな奴いるわけないじゃんと僕は思うが、案外いるかもしれぬ。
場合によっては、「バレない浮気はOKか?」という、その本筋に絡んだ形で、「真実の存在論的議論」になるかもしれない。
そういうのが、不特定多数の人が一日でやる哲学的議論のテーマとしては良いのではないかな、と、僕は思うのだった。

天才ライプニッツの放った「なぜ、なにもないのではなく、なにかがあるのか」という問いは、哲学的には素晴らしい。
なにしろ、小学生だってそれなりに回答することができる。
にもかかわらず、現在に至っても、世界中の専門的哲学者や哲学する人たちが必死になって格闘している。

これはすごい問いだ。
だが、飛び入り参加大歓迎の二時間議論のテーマとするのはやっぱ無理がある。
∀x¬(x=x) というような論理式で「無」を示そうという人もいれば、実存主義と言われる人たちは(まるで小説のように)「不安」で「無」を表現しようとしたりする。
どちらが良い悪いではなく、問題は、どちらもかなり長い哲学的な営みの中で、すなわち真摯で切実な哲学的試行錯誤を通して、「断言なんかできないかもしれないけどそのように語らざるをえない」ということになったということだ。

雑な言い方をするが、問いの立て方が究極すぎて、これじゃあ同じテーブルで語れるようになるまで何十年もかかるかもしれない、と言ったらわかってもらえるかしらん。

「無」や「存在」に関わる問いは極端に思われるかもしれない。
だが、気にならない人がふと口にする「真実」とか「ほんとう」ということばでも、哲学的議論においては、「ほぼ究極レベルまで立ち戻らなければ語れない」と切実に感じる人もいるのだと言うことは、感じ取ったほうが良いと思う。

であれば、ある種の人に「いきなり究極」と感じさせるようなテーマ設定はやめて、なるべく具体的なテーマから、時間の許す限り究極に近づこうというほうが良いのではないかと思うのだ。

でもまあ、今年3月の「てつがくカフェ@ふくしま」では、最初「フクシマは犬死にか」というテーマでと話し合われていたのだけれど(このことは昨年秋、福島市内のスナックで深夜語り合った記憶がある)、諸々あったようで結局見送られて、「フクシマはどこへ―絶望と怒りの淵から―」というテーマとなった。
僕は「犬死にか」こそ、問うべき問題だと今でも思う。
だけどその文言に「いきなり究極かよ!?」と戸惑う人もいるのかもしれない。

難しいよな。

いずれにしても、哲学的議論においては、「問いの立て方」それ自身が、すでに「哲学的な問い」なのである。

と、案外綺麗に締めくくったところで、ビールがまだ二本あるので別の話。

前回このブログで
「「倫理的な問い」の源泉について、僕はそれは「責任」の概念なのではないかと思う」
と書いた。
で、先月の「てつがくカフェ@ふくしま」では、ファシリテーターの人が言った「自己関係」ということばに、僕はさんざん食ってかかった。
このことについてちょっと書こう。

僕の言う「責任」概念を分析すると「自己関係」という概念になるのだとは思う。
でもそれは、「分析しすぎ」だ。

「自己関係」というのは、自己をふたつに分けるか、あるいは「自己」に内部があるとするか、いずれにしても複数の自己を認めることで、それは、(精神医学とかの)経験科学的、心理学的には想定されても、哲学的にはかなりヤバい矛盾を孕んでいる。
この矛盾を回避するためには自己概念にレイヤーを設定し一段ずらさなければならないと思われるのだけれど、それはつまり、自己概念の無限後退を受け入れると言う事態であり、であれば、そんな無限後退についての釈明が必要となってしまう。
だからこそ、「責任」概念を「自己関係」のような形に分析しないこと、つまり「釈明せざるを得ない事態」は切って捨てるべきだと思うのだ。
「分析しすぎ」ない、その一歩手前で踏みとどまって議論することこそ、「ことば」で為さざるをえない哲学的議論の「底」として、仮であったとしても措定すべきかと思うのであった。

前回の記事で書いた「正直さ」や「罪」の概念も、もちろん同様。
そういった倫理的な概念を、そっちのほうからそれ以上分析して「自己」概念や「世界」概念、あるいは「私」概念と連結できるのか。
今のところ僕はそれは不可能だと言う気がしてならない。
言い方を変えれば、その不可能さゆえに倫理の問題が立ち上がってくるわけで、安易に「自己関係」などと言ってはいけないのではないか。

ただし、「自己関係」というのが分析の結果などではなく、哲学の切実なる動機であるとすれば、もちろんそれを出発点とするしかなく、僕の言ったようなことは見当外れだ。

最後にちょっと雑談ね。
わけわかんないこと書くから読み飛ばしておくれ。

「分析哲学」というとき、「ことばを分析して真実に辿り着こう」という哲学のやり方だと思う人もいるかもしれないけれど、それこそがかつての論理実証主義の誤りであったし、今でも、分析哲学に対する重大な誤解だと僕は考えている。

分析すればするほど真実に近づくのかと言われれば、それは全然違う。
そうではなくて、「ここまでしか分析できない」「これ以上の分析は無意味」「(責任を分析して自己関係だというように)分析したら余計わけわかんなくなった」という、「超えてはならぬ一線を内側から探り出すこと」。
こうした作業によって為し得るのは、西欧的な「真善美」で言えば「これが真だ」と確定するのではなく、「真の外延」を探り続けること。
そうやって、おぼろげながらでも立ち上がった「真の外延」を足がかりにして、「善」や「美」も、語り得るものとして対象化しようという試み。
分析哲学の切実さはそこにあるのではないか。

と、僕はそんな気がしている。

おお、朝の5時半だ。

缶ビール6本。
頑張って書いたぞ。

福島は「可哀想」なのか?(「てつがくカフェ@ふくしま」を巡って~その1)

おっとっと。
気づいてみたらこのブログも一ヶ月以上放置状態だった。

その間、福島とか沖縄とかに行ったのだったが、ちゃんと調べてはいないのだけど地方紙が二紙あるのは全国で福島と沖縄だけみたいで、この二県というのがなんだか象徴的だな。
で、両県の地方紙を読むと、全国紙や地上波キー局のニュース番組との差が歴然とする。
がんばれ地方紙!

そんなわけで、豆腐餻を爪楊枝でつつき泡盛を飲みながらこれを書いているのだが、今回は沖縄ではなく「てつがくカフェ@ふくしま」について。

それなあに?という人も多いと思うけれど、僕はきちんと説明できないので、「てつがくカフェ@ふくしま」のFacebook( https://www.facebook.com/Tetsugakukafefukushima )から引用します。

「哲学カフェ」 とは、哲学を専門に研究している者たちだけではなく、一般の市民たちを集めて、フラットで気楽な対人関係の下で進められる哲学的対話の試みです。「哲学カフェ」 では、哲学的な問題に関して、参加者の皆さんとともに、ゆったりとした空間でお茶を飲みながら対話をしていきます。「対話」 とは、侃々諤々の議論というよりは、「話す」 ⇔ 「聞く」 を丁寧に積み重ねてじっくりと考えていくような営みです。

ということで、毎月開催されているのだった。
10月のテーマは「ほんとうのワタシって何?」、9月は「結婚?する?しない?したい?」という感じで、存在論、認識論のような学術的哲学議論ではなく、誰もが意見を言えるようなテーマが設定されている。なのでみんな来るといいよ。

とはいえ、今年も去年も、3月は「震災」「原発」「フクシマ」がテーマで、僕は去年の3月、新聞でその記事を読んで、開催の2~3日前だったのだが「よし行こう」と思い立ち、初めて出かけていったのです。そしてその後も二回に一度くらいのペースだけれど通い続けているというわけさ。

そしてここからが本題なのだが、10月20日に月例とは別の「番外編」として、「なぜ私たちはてつがくカフェに集うのか?」をテーマとした集まりがあった。
僕は行けなかったのだけれど、これは表明しておくべき問題である。
なので今夜は、そのことを書こうというわけだ。

さて。

11月平日の沖縄は、修学旅行生がたくさん来ていた。羽田で嫌な予感がしたのだが、案の定、連中が同じ便に100人以上乗り込んできて、離陸した途端とか一丸となってキャ~キャ~叫びやがるからうるさくて仕方ない。
だがまあそれは、青春だから許す。
問題は教師だ。
若い教師が生徒に基地問題を話すのを小耳に挟んだのだが、
「沖縄の人は可哀想なんだよ」
と言う。
可哀想???
何様のつもりなのだろうか?

「可哀想」なんていうのはまことに嫌らしい性根の腐った欺瞞である。
これを問い詰めるときりがないのでひとことに留めておくけれど、「可哀想」の欺瞞に心底真剣に向き合うと、ニーチェのように気が狂う。それくらい重い、哲学的、倫理学的テーマであり、軽々しく口に出すべきことばではない。少なくとも、沖縄の問題について教師が高校生に教えることばではない。

わかりやすく言えば、「可哀想」と言ってるお前の責任はどうなんだ? ということだ。
本土から沖縄を訪れた多くの人が「沖縄の人たちは今も基地問題で苦しんで可哀想だ」と思う。それは別にいいのだけれど、そう思う己に、責任の一端はないのか?
そんな問いが頭をよぎった瞬間に、「可哀想」なんていうのが如何に失礼で侮辱的な物言いなのか、大のオトナならわかるはずだ。
「可哀想」などという文脈で語られること、そのこと、それ自体が、問題の本質なのである。
教師失格。

そして福島にも、まったく同じ形の問題が存在している。

福島の人たちを「可哀想」と言ってはいけない。と、僕は思う。
来年あたりから福島では甲状腺癌の子どもが急増するだろう。可哀想だと思う。だけど、可哀想なんていうことばで締めくくってはいけない。犯人が被害者を「可哀想」というのと同じだからだ。そういうお前に、責任はないのか?
(「倫理的な問い」の源泉について、僕はそれは「責任」の概念なのではないかと思う)

そこで、なぜ僕は「てつがくカフェ@ふくしま」に通うのか? という問いに戻ろう。

これが福島ではなく名古屋とか新潟だったら僕は通わなかっただろう。
そもそも東京にも哲学カフェはあるみたいだけれど、僕はまったく興味ないのだ。
ていうか、誰彼構わず哲学的議論を吹っかけたいわけでは決してない。面倒臭いだけだ。

哲学的議論なんて机上の空論だと思う人も多い。
確かに存在論だとか認識論だとか、あるいはもうちょっと今風の大陸哲学でも分析哲学でも政治哲学でもなんでも良い。そこで問われていることの「どこがどのように大事な問題なのか」を共有できない人にとっては、それは「鉄道マニアが語るダイヤ編成の謎」のような、「自分には関係ない話」にすぎない。
なのでね、そんな相手にいちいち説明したくないわけです。100年かかる。

その意味では、哲学も鉄ちゃん同様、マニアの世界だな。
鉄道ダイヤと聞いてそのグラフが思い浮かばないような、しかも見知らぬ人に、縦軸と横軸の意味から話さなければならないというのは、とっ~~~~~~ても面倒臭くて埒が明かない。

ところが、その面倒臭さを避けては通れない局面もある。
「正直に語るべき」局面だ。

新宿から吉祥寺に向かうのに中央線快速なら15分で着く。しかしそれでは哲学的に納得いかない。そこで「井の頭線で行こう」と山手線で渋谷を目指す。だが、渋谷の駅でまた迷う。半蔵門線に乗ってしまってスカイツリーのほうまで行って、品川に戻り横浜に向かい、市営地下鉄から横浜線、八王子から間違えて八高線に乗ってしまい…。

「哲学的な正直さ」とは、それを語ることだ。少なくとも、乗換駅くらいはひとつひとつことばにしなければならない、と思う。

だから面倒臭いし人に伝わらないので、いつもは封印だ。タクシーの運転手さんに「なぜ僕は六本木へ行くのか」をわざわざ正直に言わないのと同様だ。幸いなことに日々の生活というのはそういうふうにできている。

しかしそれでも、「正直に語るべき」局面がある。「正直に語らざるをえない」局面がある。
「可哀想」だと言ってはいけない事態。自分の責任を棚上げしては何も語ることはできない事態、そしてなおかつ、どれだけことばを重ねても免責されることはないのがはっきりわかっている事態。
にもかかわらず、闘わなければならない局面。

そこでは僕は「正直に語る」しかない。
だとすればだ。新宿、渋谷、スカイツリー、品川、横浜、八王子、さらに高崎、苫小牧や、千葉ではなく鳥取県の浦安駅のことも語らなくてはならないかもしれない。

なにしろ僕は、新宿から吉祥寺に行くのに中央線の快速に乗れなかったのだ。そこで躓くのが哲学という「こと」だ。これは、生活とはまったく無縁だし、むしろ無用なのだけれど、しかしそれでも、鳥取県の浦安駅のことを正直に語らざるをえないのが哲学であり、結局のところ僕は、哲学とはある意味で、そんな正直さとか切実さのことだと思っている。

福島の「てつがくカフェ」、およびその後の飲み会でしか会わない人も多い。
いろんな考えの人が来ているから、聞いてて何言ってるのか全然わからない発言もあるし、同様に、僕の言っていることもほとんど了解されていないんだろうなあと思う。
これはお互いそうだろうけれども、三平方の定理の説明を聞けばそれは理解できるのだ。だけどなぜ今、三平方の定理の話になってしまうのかそこがわからない。それこそが問題なのに。

つまり、重要なのは、三平方の定理の真偽や善悪ではない。
乱暴な言い方になってしまうけれど、言ってしまえば「三平方の定理の切実さ」である。
三平方の定理の「正しさ」なんかではなく、それを語らざるをえない「切実さ」。
それが哲学の原点であると思うし、それをわきまえない言説に哲学たる資格はないとさえ僕は思う。

だからこそ、「てつがくカフェ@ふくしま」では、正直に発言しなければならないと、僕は思っているのだった。

普段は全然違うよ。仕事の場では、たとえば作品の「構成論」(「作品論」ではない)とか、編集のやり方の話はするわけだけど、それがどんなに小難しくとも所詮技術論だ。
それに対して、哲学は技術論ではない。技術論ではあり得ない
(ときどき、「心理学と哲学はどう違うの」と言う話を聞くけれど、その回答のひとつとして「心理学は経験から法則を導いて技術にすることができるけれど、哲学にはそれはできない。ていうか、それをやってしまった瞬間に哲学ではなくなる」と答えることもできる)

さっき「沖縄の人たちは可哀想なんだよ」と言った高校教師の話を書いたが、ものすごく好意的に考えれば、「今の高校生は馬鹿なのでまずは「可哀想」から教えなくてはならない」のかもしれない。
けどそれは、沖縄の人たちに対してと同時に生徒に対してもやっぱ失礼だと思う。思い上がりだ。
彼(教師)は、「可哀想」という「気持ち」を教えようとしたのだろうか?
もしそうだとすれば、それは「愛国心を教える」と同様のキチガイ教育だ。

僕はそもそも、哲学というのは「科目」として成立しないのではないかと思っているのだった。
「三平方の定理」だったら「科目」になり得る。筋道立てて教えることができる。
理数系と同様に、文系の社会学や心理学も、少なくともその基礎は人に教えることができる。
ところが哲学は、たとえば「アプリオリな総合判断」とはどういうことなのかを説明して聞く人に理解させることはできたとしても、「なぜそれが問題なのか」を人に教えることは原理的にできない。「なぜそれが問題なのか」こそが最重要の哲学的問題であるにもかかわらずだ。

話がそれてきちゃったことよ。

「てつがくカフェでは、誰もがわかることばで話す」
これは当たり前のルールだ。「アプリオリな総合判断」とか言われても、ほとんどの人がなんのことだかわからない。(僕自身、さっきこのことばが頭に浮かんだとき「総合と分析ってどう考えるんだっけ?」とすっかり忘れているという有様だ)
でも哲学で言えば、どんなに難しいことばでも、「それまでのことば」ではなく「そのことば(概念)」で語らざるをえなかった分岐点のようなことがあって、それをひとつひとつ紐解いていけば、結局は、中学生ならわかることばで語ることはできる。
(ていうか、日常言語では語れないような問題が果たして哲学なのかというのがまず大問題だ。量子力学をやっているわけではないのである)

なので、「てつがくカフェ」では僕は日常言語で喋る。
だがそれでも「三平方の定理」のように、「言ってることはわかるけど、なぜ今それを言うのかがわからない」ということになってしまう。

まあ、それは悲しいし残念だけど、仕方ないのだ。
だとしても少なくとも「てつがくカフェ」に来るような人はどこか変人で、すなわち、なにか「問い」を抱えている。「問い」を抱えている人なら他の人の「問い」に対しても無下にはしまい。タクシーの運転手さんに「なぜ自分は六本木に行くのか」を説明するよりは、きっとその切実さは伝わるであろう。

話がいよいよ堂々巡りになってきたのでこのあたりで新展開しなくちゃなあ。
泡盛には豆腐餻だが、かなり飲み過ぎた。

つまり僕は、2011年3月11日を経て、「福島で正直に語りたい」と思っていた。
もちろん、どんなに正直に語ったところで罪滅ぼしにはならない。
それでも、正直に語らざるをえない
「新宿から中央線の快速に乗って吉祥寺まできました」ではなく、「渋谷に行ったけど井の頭線にも乗れず、スカイツリーに行って横浜に行って、その後ぐるっと回って千葉ではなく鳥取県の浦安駅にも寄りました」と、語らざるをえない。しかしまだ、吉祥寺に辿り着いていないのです。

2011年3月12日、福島第一原子力発電所一号基が爆発したとき、僕は東京にいてテレビでそれを知ったのだけれど、直後はパニクって正直何が起こっているのかまったく理解できなかった。今となって思うのは、現実の世界の出鱈目さというのを、生まれて初めて目にした瞬間だったのかもしれない。

日本は大好きな国であるが、米国の飼い犬のように尻尾を振る政治や成金主義の経済は糞だとは、もちろんずっと思っていた。だけどそれでも、この国のシステムは、超えてはいけない一線の手前に踏みとどまってはいるだろう、と思っていた。政治犯を公開処刑にする中国や北朝鮮、内戦を繰り返す情勢不安な中東の国なんかとは決定的に違うと信じて疑わなかったのだ。

だが、全然そうではなかった。
原子力発電所が爆発したというのに嘘をつき続ける政府と、それを追認するメディアや、ネットでの低能バッシングの応酬。
政財界の原子力ムラシステムが糞なのは言うまでもないが、「絆」などの美辞麗句で武装した同調圧力で、放射能汚染被害や責任の所在すらうやむやにしようという論調も出てきた。

心底腹が立ってきた。
当然これは、屑どもにこれまで騙されてきたという苛立ちでもあったし、同時に僕の、僕自身の、世界に対する責任の問題でもあった。

だからこそ、反原発のデモや活動に参加したり本を作ったりしたのだけれど、困ったのは、反原発潮流の中にも歴然と存在する「福島は可哀想」意識である。
もちろん僕も、原発事故に遭った福島の人は可哀想だと素直に思う。だけど、可哀想を論拠にして闘ってはいけない。そんな「上から目線」そのものが問題なのだ。

福島に行かざるをえなかった。
まず、話を聞きたい。
そして、僕もなるべく正直に話したい。

さっきも書いたように、僕が最初に「てつがくカフェ@ふくしま」に行ったのは、震災から一年後の2012年3月だが、2011年の夏~秋にも取材で福島を訪れてはいる。ただ、パパッと話を聞いて帰京するというスケジュールで、じっくり話をすることはできなかった。
じっくり話さなければ人は大事なことを語ってはくれない。東京からやってきた、50歳になるというのに赤いクマのTシャツ&汚いジーンズ腰履きオヤジ(僕)に、出会って一時間で本音を喋ってくれる人なんかいない。

そんなときに見つけたのが「てつがくカフェ@ふくしま」だ。
「てつがく」というのだから変人がたくさん来ているはずである。変人であるならば、腰パンで尻見せてる中年に対しても偏見を持たぬ、マトモな世界観があるだろう。
こうして僕は「てつがくカフェ@ふくしま」に忍び込んだのであった。

3月に「震災」「原発」をテーマにするときには東京からもたくさん人が来るのだが、ほかの月に東京から来る人はあまりいない。
もちろんお金も時間もかかるから、フツーに仕事をしている東京の人はそんなにしょっちゅう出かけられないのだけれど、僕には「その日暮らし」の特権がある。結婚もしていないし育てなければならない子どももいない。好き勝手にやってやれ。

あれから二年半以上経って、なぜ今でも行くのかと問われれば、ちょっと格好良く「だって、3.11は終わっていない」と答えることもできるし、まあ単に、飲み友達がたくさんいるからなのかもしれない。
いずれにしても、「福島が可哀想」だからなのではない。ていうかもちろん福島は可哀想だよ。でも、そんな可哀想の欺瞞とか、その矛盾を引き受けるというのがどういうことなのか。そういったことを肌で感じることができるようになってきた。

上手く言えぬ。
「忘れてしまいたい」から飲む酒の味がわかると言うことだ。

人間、酒を飲まなくちゃ駄目だ。
「酒は飲むべし百薬の長」(高校生の頃通っていた赤提灯に貼ってあったスローガンだ)
「てつがくカフェ@ふくしま」は、その後必ず酒を飲む。(もちろん、飲み会に参加しないで帰る人もたくさんいるので、飲めない人、時間のない人も安心して参加してくれ)

さてと。

ここまででもずいぶん長いが、この話には続きがある。

いい加減飲み過ぎたし疲れたからここで「「てつがくカフェ@ふくしま」を巡って」その1を区切るけれど、次回、「てつがくカフェ@ふくしま」を巡って、「哲学的な(もちろん研究室的な哲学という意味ではなく市井の哲学としての)問い」のありかたについて、考えることを書こうと思う。

朝の5時半過ぎに「赤いきつね」を食べたら、もう泡盛もビールもお腹に入っていかないので、そろそろ寝ましょうね。

無意味に耐えられないのを「馬鹿」という。

せっかく「哲学とロックンロールと反原発」を謳うブログなのだから、ときどきは哲学の話をしようと思う。

「哲学」は難しい。
しかしここには大いなる誤解があって、「難しいことばを使って難しい」と思う人がいる。
確かに、哲学史やそれぞれの哲学者の考え方を熟考したいのであれば、日常言語では使わない「難しいことば」が必要になるだろう。
でも、「難しいことば」をこねくり回すのが哲学、と考えているのであれば、それはまったくの間違いだ。

「哲学する」ときに必要なのは「伝わることば」である。

哲学とは「考えること」そのものを問うことであり、そのために必然的に、我々が考えるベースである「ことば」を問う。
だから、「人間」とか「心」とか「社会」とか「世界」とか、我々が普段使っていることばを問い直すことはある。
だけどね、「現象学的還元」なんていきなり言われても知らない人には通じないが、「人間」と言われればわかるでしょ。
そんな「伝わることば」が第一歩。
そして、「人間」ということばを投げかけるのは、「人間とはどういうことか」を問い直すことでもある。

我々は「哲学史家」や、「某哲学者」のファンではない。誰が何を言ったとか、そんなのはどうでも良い。
「伝わる」ことばを使いながらもなおかつ「ことば」そのものを、すなわち「考えるということ」そのものを問い続けること。
それが哲学である。

ええとね。
この前文はかなり酔ったあとに書き加えているのです。
以下、書いちゃったので面倒臭いから直さないけれど、「ウィトゲンシュタイン」と言う固有名が出てきますが、そこは「お隣の伊藤さん」にでも置き換えてスルーしてね。

そして、やっと本文だ。

人生に意味などない。
別に厭世的になって言ってるんじゃないよ。すべての人はやがて死ぬし、種としてのホモサピエンスは滅び、地球も消える。
たかがひとりの人間が何を為そうと、結局は意味などない。
これはまず、認めざるをえない。

ていうか、もっとはっきり言えば、死は端的な「無」であり、我々は単に「無」に向かっているだけであって、それを超越した意味などどこにも存在しようがない。

ところが逆に、死や宇宙の消滅も踏まえて、それでも私が、あなたが、今、ここで、生きていることは素晴らしい、という考えももちろん正しい。

ウィトゲンシュタインは「世界は<私>の世界である」(論考5.63)と言ったが、その通りというのか、「世界」は「<私>の世界」でしかあり得ない。
これこそが「世界」の唯一の存在の仕方であり、同時に<私>の唯一の存在の仕方でもある。

これはものすごい事態である。
お父さんの何億もの精子の中から唯一卵子と結びついたからこそ<私>が存在するのがすごい、というわけでは決してない。同じ意味で、たとえば、もしも平安時代のなんとかさんとなんとかさんがセックスしていなければ<私>は存在しなかったとか、いくらでも言えるのだけれど、その意味での「すごさ」は、大雑把に言えば「世界が私を存在させた」というということだが、まったく逆に「私が世界を存在させている」という「すごさ」がある。
これこそが、当たり前のように見えて、よく考えれば一番のびっくりポイントである。

ここで不思議なのは、ウィトゲンシュタインの言う<私>は、僕の言う<私>とは違うのに、僕がその意味を理解できてしまうことであるし、理解できるのはきっと僕だけではないことも確信されることである。(哲学で言う「他者」とは単なる他人のことではなく、この意味で「<私>の特殊性と普遍性」を理解したとき認めざるをえない存在のことである)

だからこそ、私が、あなたが、今、ここで、生きていることは素晴らしい、といえる。
けど、やっぱ人生に意味などない。

と、まあいずれにしても、<私>も、「世界」も、このように完璧に相容れない二重の意味を抱えている。

これはもちろん、「ことば」や「文法」の問題でもある。
しかし、「それが指し示す本来の意味、本質」があるからその「ことば」ができたのでは決してない。←ここは絶対に間違えてはいけないのだが、たとえば「愛」の本質(とか概念とかと言っても良い)が最初にどこかに存在しているから、それに対応する形で「愛という(人間の)ことば」ができたのではない。
ことばは「本質」を持たない。要するに、みんながそう使っているうちにそんな意味になった、というだけの話である。
だからこそ単純に「そんなのことばの問題だ」とは言い切れないのである。
(このあたりは説明不足であるが面倒なので先を急ごう)

でね。

「人生は無意味」であるし、かつ、「無意味だからこそ意味がある」。
まずはその矛盾を引き受けなければならない。

普通は、「Pであるか、またはPでない」というのが、真なる(正しい)命題であるように思われる。
「鹿島潤(僕だ)は、人間であるか、または人間ではない」というのは、鹿島潤が何者であっても正しいし、そもそも鹿島潤が存在していなくとも正しい。
これを「排中律」(P∨¬P)といって、昔からの論理学(古典論理学)では疑いなどかかけようもない大原則であった。まあ世の中、だいたいがそうであることは事実だろう。
だけど、たとえば「無限」や「無」をどう考えるかによって、果たしてそう言い切れるかということになるわけだ。

つまりね、「すべてに真偽がつけられる」なんて横暴だ、ということだ。
「神が存在する」とでもしない限り、そんなこと言えないんじゃないのではないか。
数学は「無限」を定義しているけれど、それは勝手にそう決めただけであって、誰かが「無限を見た」とか「無限を知っている」からではない。単に「無限が存在する」と措定したほうが上手く行くから人が勝手にそうしただけ。それに対して真偽云々を言える筋合いではないのだ。
大雑把に言ってしまうけれど、「無限」や「無」と言った、人が勝手に作り出した概念に基づいて計算とかされたいかなる結果も、「人が勝手に作り出した」というこのゲームのルールを超えて「真偽」を問うことなど不可能なのである。

さっきも書いたけれど、「本質」が先に存在して、それに従って「ことば」があるのではない。(もしそうだとしたら、「ヤバい」ということばが「危ない」のようなネガティブな意味から「すげえ」のような意味に変わってしまったことを説明できない。「本質」が変わったことになってしまうからだ。そんなふうにコロコロ変わるのを「本質」とは言わない)
論理とはすなわち「ことば」であるから、これもまったく同様だ。

「人生は無意味であり、かつ、そこには究極とも言える意味がある」
これを認める、どっちも受け入れる。
人生を考えるにしても世界を考えるにしても、これがまず大前提。

もちろん、こんな話は日常的にするものではないし、この問題をストイックに考え抜くなんて言うのはかなりの変人だ。
だけど、多くの人が、ぼんやりとかなんとなくではあっても、人生が無意味であることと無限の意味を持っていることの両方を感じながら、どこかでバランスをとって生きているのではないかな、と僕は思っている。

で。
ここからが本題。

排中律に縛られた人、すなわち「Pであり、かつ、Pでない」を認められない人。
これぞ本物の馬鹿ではないか、と僕は思うのだ。

「Pであり、かつ、Pでない」を認められない、というのは、一見、論理的に思える。
ビジネス書はだいたいがくだらないが、なかでも特にくだらない「論理的な話し方」ハウツウみたいな本が売れている。
ロジカル(論理的)に話をしてビジネスを進めましょうというわけで、これは別にいいのだけれど、だけど言ってしまえばこんなもんは小学校か中学校で習う「A=B、B=C、ゆえにA=C」の三段論法レベルで、とりたてて拝め奉るに値しない。
そんなことよりも、その程度の論理で世界が成り立っていて、世界を説明できる、世界を動かせるなどと、思い上がってしまうのが馬鹿だと言いたいのだ。

「その程度の論理」と書いたが、「論理」を「科学」や「経済学」に置き換えても同じだ。科学や経済学は実証性を伴わなければ意味がないが、それでも「論理」で構築される。それゆえ「論理」に関する信念、たとえば「論理」は「本質」から導き出されているなどという宗教的信仰でモノを言う連中は、ほんとうに浅はかだと言わざるを得ないのである。
もちろん、優れた科学者や優れた経済学者はそんな馬鹿を言わないのだけれど、「神の見えざる手」を無根拠に信じて自由主義経済の正当性を語る奴など、馬鹿は後を絶たない。

要するに「馬鹿は無意味に耐えられない」のだ。
だからこそ、どこかで読んだり聞いたりした、自己正当化してくれる意味を声高に叫ぶのだ。

この場合の意味は、自分の外側に存在しなくてはならない。なぜならば、自分の内側からの意味づけでは、「お前が勝手に言ってるだけじゃん」と反論された場合に返すことばがない。
だから、「論理的な正さ」とか「本質的な価値」とか「市場の公正な機能」とか、まあそんな戯言を言う。
でもこれは、言ってる私とは別にどこかに「本質的な存在」もっと言えば「絶対的な存在」、「客観的なモノサシ」が存在しなければ成立しないロジックであって、そのような存在を仮定してしまうという時点で、要するに単なる「宗教」だ。

「人生は無意味である」かつ「人生こそ意味がある」
「世界は無意味である」かつ「世界には無限の意味がある」

世の中的、常識的な「排中律」は否定されるけれど、それでもこれらの一見矛盾したテーゼを受け入れなければならない。

しかもこれは、「考えの帰結」ではなく、「考えの出発点」である。

語り得ぬものについては沈黙しなければならない。-chama
家のちゃま。

もう年寄り猫だし避妊手術もしているのだけれど、その前に仔猫を産んだこともある。
youtubeで仔猫がお腹を空かせてみゃーみゃー鳴いている動画があって、ちゃまにその音を聞かせるとものすごく反応する。
どこかに仔猫がいるのではないかと探すのだ。にゃあにゃあ鳴いてそこら中を匂いまくる。
だけど、どれだけ探しても仔猫はいないので、やがて探すのをやめてしまう。

我々人間のことばで言うと「ちゃまは間違った」ということになる。
「仔猫がいる」と思ったのに実際はいなかった、というわけだ。
スマホで鳴らしたyoutubeの音を聞いて「仔猫がいる」という信念を持ったわけだが、その信念は「偽」であった、ということだ。

「信念」とか「偽」とか、面倒臭いことを言うなあと思う人もいるだろう。だけどこれは大げさな言い方ではない。
夜、ひとりで暗い林の中にいるとしよう。そして、「人影が見えた」と思ってそっちに行ったら木の葉が揺れただけであった、としよう。
彼(人間)は「人だ」と思って探しに行ったがそれは「偽」だったのである。わざわざ面倒臭いことばを使ったが、じつは誰もが、「信念」や「真偽」について、「ことばにすれば」そう考えているのである。問われればそう言うだろう。

ところが、ちゃまの場合はどうか?
ちゃまは「仔猫がいる」という信念を持ったのではない。猫であるちゃまの頭のどこをどう叩いても「信念」なんて言うことばは出てこない。
それどころか、「仔猫がいる」という命題自体、ちゃまは考えていない。猫だからね。人間のことばで考えたりなんかしない。
だからこそ、それがじつは「偽」だった、なんて言うこと自体考えられない。

要するに、ちゃまには「真偽」なんて関係ない。猫はそんな概念を持っていない。
「探すのをやめた」のは「仔猫がいるというのは偽だ」と判断したからではない。
判断以前に、「飽きた」とか「疲れた」のかもしれないし、それよりさらに以前に、「真偽」はもちろん、「飽きた」とか「疲れた」とか、猫がそのような「擬人化された思い」を持っている、と考えるほうがおかしい。
そもそも、仔猫を「探して」いたのかすら、我々が勝手にそう言っているだけなのである。

酔っ払って書いてしまったけれど、猫の話を突っ込むと面倒臭いからもうやめます。

「ことば」とは、すなわち「論理」とは、すなわちそれに立脚したすべての「学問」、すべての「思想」とは、所詮そんなもんだ。
猫を勝手に擬人化して「真偽」や「善悪」をつけている。その程度のものだ。
それを超えるような真理は、原理的に「語りえない」。
そこだけははっきりさせておかなくてはならない。
そして、繰り返すけれど、これは「帰結」ではなく、「出発点」である。すなわち議論の「前提」である。

その前提に立てないのを「馬鹿」と言う。

計算が速いとか漢字や年号をよく覚えている人を「頭良い」というのはまったく嘘で、すなわちその基準を適応すればパソコンのほうが彼らよりも頭が良い。
それに対して、原理上コンピュータが決して理解できないことがあって、それが「完全な無意味」である。まあそんなことが存在するのかどうか僕にはわからないのだけれど、少なくとも「無意味」を認められないなどというのは百均で売ってる電卓以下の馬鹿であり、試験に合格して一流大学に入ったり、一流企業や国歌公務員になったり、要するに、偉くなればなるほど、「無意味を認められない自称他称天才」は「有害な馬鹿ども」ということになる。

酔っ払ったよ。

古今東西の哲学者は何百ページ何千ページという著作を遺しているが、もしも僕にそれだけの才能があったとしても駄目だろうな。ないけどさ。
アル中(20世紀後半に「依存症」と言い方が変わった)哲学マニア。

じゃあね。

『あまちゃん』最終回~我々があの町と人々を愛した理由。そして「成長」のウソ

『あまちゃん』の最終回見ちゃったよ。

なんかテレビの話ばっかで、仮にも「哲学とロックンロールと反原発」と謳っているブログなのだから少しはそれっぽいことを書こうと思い、「決定的にくだらなく、かつ有害なのは「体系化された真理が存在する」と信じる傲慢さである」という、前から書こう書こうと思っていたことを書き始めたのでしたが、5日前は「仕事をビジネスと呼ぶのは、ことばが変わっただけでなく、体操とエクササイズがまるで別物のように、意味が変わったと言うことである」という話から書き始めたのだけれど、これだと本筋に辿り着くまで原稿用紙的に50枚くらい必要なことが発覚し途中で投げ出した。3日前は東電の広瀬社長が新潟県の泉田知事に頭を下げに行った話を書いていたのだが、なんか突然、新潟県が柏崎刈羽原発の安全審査を受け入れるということになってしまい、だとすると書き直さなければならなくて面倒だからやめた。

そこで『あまちゃん』の話にする。

要するに2013年というのは、『あまちゃん』と『半沢直樹』が9月に最終回を迎えた年である。覚えやすい。

断っておくけれど、僕は『あまちゃん』は8月末からしか見ていないし、『半沢直樹』を見たのも、最終回を含め2回だけだ。だからこれから書くのは、作者の意図とかとはまったく関係ない。勝手な推測もする。言いがかりをつけるつもりはないが出鱈目を言うかもしれない。

『半沢直樹』については前回書いた通り。
組織は人の敵であり、会社はそもそも悪である、というのがかねてより僕の主張するところだ。

会社なんて言うのは馬鹿な上司と駄目な部下、自分勝手な取引先との間で理不尽を強いられるだけだが仕方なく働いている。という人々がいて、逆に会社こそが新しいなにかを作り出し人を幸せにする、と考える人々がいる。
雑な言い方をすれば、前者は「会社で自由を奪われる人々」であり、後者は「会社で自由を獲得する人々」である。
で、現代は後者が善だと言うことになってしまっている。恐ろしく不気味な世の中だ。

いずれにしても、ドラマや小説で「組織とどう闘うか」というのは昔からのテーマではあったけれど、「倍返し」「100倍返し」というふうに、世の中の圧倒的大多数である「会社で自由を奪われる人々」の怨念をスカッと「ことば」にしてくれたのが『半沢直樹』であった。
1963年に、あるいは1983年でもいいけれど、同じドラマが放送されても同じ視聴率は稼げまい。2013年だからこそ、多くの人が強烈に感情移入したのである。

『あまちゃん』も同様に、2013年だからこそのドラマであった。

震災があって、その後しばらくはエンタメ関係の人たちはピリピリしまくっていた。僕も現場にいたので(まあ片足の指の先くらいだけだけど)よくわかる。
なんでもかんでも自粛、自粛。
ドラマの中で、『潮騒のメモリー』の歌詞「よせてはかえす波のように」が被災者に津波を思い出させて傷つけるんじゃないか、みたいなエピソードがあって、心配する東京の薬師丸ひろ子に対して、被災者の夏ばっぱは、そんな歌詞がなくてもいつでも津波を思い出す、みたいなことを言う。

僕が震災後初めて被災地に入ったのは、一ヶ月半経ってからだ。瓦礫の山で悪臭が漂っていたけれど、遺体を見ることはなかった。しかし、木にぶら下がっていた遺体や、首のない子どもの遺体など、震災直後の話はいろいろ聞いた。
それを思うと、エンタメ関係、メディアの連中が自粛しようという気持ちもわかる。
けど一方でそれは、被災者に対する思い以上に、「てめえ何やってるんだこんなときに!」という世間の非難を恐れたものであった。

さっきも書いたように僕は、宮藤官九郎さんの熱心な読者や観客ではなく作品もほとんど何も見ていないに等しい。けどその上で勝手なことを言わせていただければ、宮城県出身で東京でエンタメに関わる彼は、とてもとても悩んだのだと思う。

今年の春~夏、僕は取材で何回も被災地に通った。
被災者に話を聞くのは、ほんとうに疲れる。とにかく気を遣うのだ。
無神経な取材のせいで傷ついた人たちも大勢いる。だから「取材は決して受けない」という人や、地域もある。キー局が出向いて取材には超大物タレントを連れてくると言っても門前払いされたとか、そう言う話もいろいろ聞く。

ある地域の方に取材交渉したとき、何時間かお願いを続けた末、相手の方はほんとうにすまなそうに、「撮影、録音は辞退します。名前も出せません。できることはここまでです」とおっしゃった。
彼は、自分に会うためだけに東京から出かけてきた僕に申し訳ないと思っているのだった。
いやいやとんでもない。被災者に「申し訳ない」と思わせてしまう自分こそずっと申し訳ない。
みたいなことを考えながら取材をする。精神的にほんとうに疲れる。けど、相手の方はもっと疲れるだろう。で、それを思って余計疲れる。

取材拒否する方の理由はさまざまだ。無礼な取材、報道でメディアが嫌いになったという人だけではない。僕が話をした中で一番多かったのは、助かった自分がメディアに出るなんて犠牲になった方に申し訳ないと言う理由だった。助かったことに罪悪感を感じてしまっている人たちだ。それ以外にも、田舎の部落なので目立ちたくないという人もいたり、まあほんとうにいろいろ。取材対応だけをとってみても、被災者の気持ちを十把一絡げにすることはできない。

だけど、何回もお会いしているうちに仲良くなった人々もいる。
たとえば、被災地の女子高生からLINEでメッセージが来るのは僕の自慢だし、あるいは、取材ではないけれど福島には何度も足を運んだから飲み友達がたくさんいる。
そう言う人たちとはさ、ごく普通の話をします。津波が来たこと、原発が爆発したことは決して忘れないけれど、24時間それだけを考えていることはできない。「松島の岩牡蠣は美味しいね」という話や、女子高生とは「どんな人が好き?」なんて話、オトナとはエロ話とか。

例によってぐだぐた飲みながら先の展開を考えずに書いているので、だらけきった文章だな。

『あまちゃん』に話を戻しますね。
夏ばっぱは、津波のことは決して忘れないけれど、「よせてはかえす波」という歌詞なんか気にしない。震災直後のメディアの過剰な自粛反応は、やはりどうかしていたのだ、と僕は思う。

で、宮藤官九郎さんの気持ちを勝手に推測するのだが、震災から2年経って、やっぱりなにかそこに目印をつけたかったのではないかと思う。
震災はまだ終わってはいないけれど、2年経って考える2年前は、5年経って考える5年前とも、10年経って考える10年前とも違うはずだ。
それは、作家としてどうしても書かなければならなかったことなのではないか、という気がする。

アキちゃんやユイちゃんに惚れる男子がいて、僕なんかはすっかり美熟女になったキョンキョンの微妙かつ絶妙なエロさにやられてしまったし、種市君や水口君ラブの女子も多いことだろう。
こうして僕らは、その田舎町が好きになった。北三陸市という架空の町だけれど、誰がどう見ても岩手県の沿岸部だ。誰だって日本地図を見れば指させる。

もちろん、ドラマの舞台となった町が人気を集めるというのは珍しいことではない。
しかし、北三陸市がほかと違うのは、視聴者全員がリアルタイムで体験した「2011年3月11日」、その日大きな被害を受けた町のひとつだということである。

我々はみな、あの日の凄惨な出来事を知っている。
でも、あの日以前も、昔からずっと南三陸市は存在していた。海女がいて、アイドルをめざす少女がいて、海沿いを一両編成のディーゼル気動車が走っていて、みんながそれぞれの生活を続けていた。それを我々はほとんど気にしたことがなかった。
そして、あの日のあとも、「あの日」を乗り越えようと、人々が生活を送っている。それも我々は、少しずつ忘れかけていた。

同じ日付を覚えているからこそ、そんな町と人々の姿に僕らは思わず拍手を送り、どんどん好きになっていく。
ドラマの中で「あの日」が来ることを知っているから、アキちゃんがそのとき何を感じ、どう行動するのか? 町の人々はどうなるのか、どきどきしながら毎朝見てしまう。

最初に、
「『あまちゃん』も同様に、2013年だからこそのドラマであった」
と書いた。

「あの日」以前であればこのドラマはこの形で存在しえなかったわけだし、「あの日」をこのように描くためには2年が必要だったように思う。また、未来にこのドラマを見た「あの日」を知らない人たちは、きっとまったく違う気持ちになると思う。

全156回中の147回、つまり大きな物語として捉えればラストシークエンス。北三陸駅でのシーン。
アキちゃんはストーブさんに「おら、少しは変わったかな? 少しは大人になったかな?」と問う。
「全然変わらない」と言われ、「いがった」と笑うアキちゃん。
「芸能界さいると、ていうか東京がそうなんだけど、そういう調子にいると、怠けてるみたいに言われるべ。でもな、成長しなきゃダメなのかって思うんだ」

会社が儲けてもカネは内部留保で、オイシイのは経営者と株主だけ。所得格差はますます激しくなり、外を見れば、米国の禿鷹ファンドや中国の下品な成金が「カネこそがすべて」とばかりに日本を乗っ取ろうとしている。
津波があって原発が爆発して、それでもなおかつ、経済成長なんかが正しいのか?

ビジネス本や自己啓発セミナーであっさり洗脳されて超ポジティブ。今までの悩みを忘れてしまう連中がいるけれど、「今までの悩み」を持ち続けたほうがよっぽどマトモな神経だとは言えないか?
「自分探し」で「ほんとうの自分」を見つけたいなんていう人は、じゃあ今はウソなのか? 今感じていること、思っていること、考えていることは誤りなのか? 「自分磨き」とか言うけれど、どんなに磨いても銅は金にはならないよ。
だいたいの場合、「成長しろ」という奴の「成長」とは、現状を追認しシステムに迎合しろと言うことだ。俗でくだらない通信簿を気にしろと言うことだ。
そんなに「成長」したいのか?

「ほっといても成長するべ。背が伸びたり、太ったり痩せたり、おっぱいでっかくなったりな」
アキちゃんの言うとおりだ。

失敬する。

半沢直樹最終回。そして、最悪だが一番マシな資本主義と半沢の最後の敵。

見ちゃったよ半沢直樹最終回。

テレビはあんまり興味ないのでこれまで一回しか見たことなかったのだけれど、これだけ高視聴率だと騒がれると気になってしまう俗な俺。
取締役会のシーンは良かった。緊張感がある。良い現場だったのだと思う。
あとオーラス。
直前のシーンで「昇格間違いなし」みたいに言っていたから、当然のことながら、半沢への辞令はなし、つまり役職は現状のままか、あるいは出向。そのどちらかだとは思っていて、まあ後者だったのだけれど、なんの説明もなしに「出向を命ずる」の台詞とそれを受けた半沢の表情アップで番組最終回が終了したのには正直驚いた。

「形の上では降格のようなものだが、頭取から別の期待を込めての出向なのだ」とか、逆に「所詮半沢が何をやっても銀行は変わらない。そういう意味のアイロニーなのだ」とか、
テレビドラマではせめてなにかを匂わせるものなのだが、そういうのもまったくないという部分にびっくりしたのだった。
僕的にはこういう終わり方は大好きなのだけれどね。人生も世界も、そんな単純なものではないからだ。
まあ、続編への伏線なんだろうけどさ。次作の敵ボスキャラは北大路欣也頭取だと言うことだろう。

それはともかくとして、ドラマであるから、現実そのままではない。しかしながら「組織に生きる」というのがどういうことなのかが上手く描かれていて、だからこそ組織に生きる多くの現代人の共感を呼んだのは間違いあるまい。

僕は10年くらい前「もう金輪際、上司も部下も欲しくない」と、組織を辞めた。
で、最初にやったことは、なんの肩書きもない名刺を作ること。それまで一応、「取締役」とか「編集次長」といった名刺を持ってきたのである。とはいえ、キャバクラに行けば女の子がお世辞で「すご~い!」とか言ってくれるけれど、役職なんて重いだけだ。
ネットで安いフォントをダウンロードして、Photoshopでそれなりにデザインなんぞ工夫しながら、名前と携帯番号とメールアドレスだけの名刺をひとりで作った。良い気分だった。

組織、中でも会社にいるというのがどれだけ矛盾に満ちた大変なのかことなのかというのは『半沢直樹』を見ればわかるとおりだ。
「何をするのも会社のため」という不文律がいつの間にか身についてしまう。あるいは「会社を思うことこそ良いことだ」という価値観に染まってしまう。

僕自身、かつて自分がそれなりの役職に就いていた会社では、組織が危機的なトラブルに見舞われたとき、「なにか変だ」と思いながらも「会社を守るため」の行動をした。
でもあるとき、もうそういうことはしたくないとはっきり自覚した。
そのために僕は、組織を抜けるしかなかった。

「会社を守るため」が「自分を守るため」とイコールになることも少なくない。だって会社が潰れちゃったら給料もらえなくなる。自分だけじゃなくて家族も路頭に迷わせることになる。「家族を守る」ことこそ男の使命だと信じて疑わなければ、そのために会社を守ることは正当化されてしまう。

でもこれって、目的のために手段を正当化しているってことだよ。
すべての会社員はそこを自覚しなければならない。
「家族を守ること」が理念的に正しいこと、善だとしても、だからといってその目的のためのあらゆる手段が善である、ということにはならない。
「会社で悪いことなんかしていない」という人が大部分だろうけれど、それでも「家族のために会社で働くのは善である」とは必ずしもならない、ということだ。

『半沢直樹』からは離れるが、もっと問題なのは、自分のため家族のためなどという枕詞なしに、「会社で働くのは良いことだ」と頭から信じて疑わない人たちだ。

善悪の問題は難しい。
たとえば、性善説、性悪説というのがあるけれど、どちらも突き詰めれば根拠などない。
そもそも、人は本来善であるか、悪であるか、などというのは無駄な議論である。なぜかというと、「善とはどういうことで悪とはどういうことか」あるいは、「そもそも善悪は存在するのか」といったまったく未解決の問題がスルーされて、問いの中にこっそり織り込まれてしまっているからだ。
だから僕は、性善説擁護議論も性悪説擁護議論もしない。

そんな意味で言えば「会社」というものを「性善」か「性悪」かと問うのはもちろん無理があるのだけれど、それでも僕は、「会社は本来的に悪である」と考える。

「民主主義は最悪だが現実的には一番マシだ」ということばはまったくその通りであって、同様に「資本主義は最悪だが一番マシ」である。
僕はマルクス主義者ではないよ。さっきの「会社のため」と「家族のため」の話と同様に、マルクス主義が描くユートピアがどれだけ素晴らしいものであっても、そんな目的のための手段として現実化された(はずの)中国や北朝鮮は最悪だ。(マルクス主義の一番の問題というのかその誤りは、来るべき世界の理念(目的)と現実(手段)について、唯物弁証法などと言う(マルクス主義者自身が嫌う非科学的な)無根拠な絵空事で論じたことであると僕は思うのだけれど、その話は長くなるのでここでは書かない)

でも、資本主義などと言うのはせいぜい「一番マシ」にすぎなくて、現代を考えれば資本主義の駄目な部分ばかりが噴出している。
資本主義の原動力は人間の欲望で、それはいくらでも膨らませることができるけれど、されど地球の面積は変わらないし、質量保存の法則的に、モノの総体は増えない。
すると人間は、モノではなくコト、情報に値札をつけることを思いつき、さらに、モノやコトの値札自身に別のメタ的な値札を貼り付ける金融工学を思いついて、世界中の実質的な価値以上の、単なる数字だけのお金を莫大に流通させてしまった。

これこそ、資本主義の末期だと僕は思う。
サブプライムローンにしても欧州危機にしても、やるに事欠いて「値札の上に違う値札をつける」、つまり債権の証券化とか不動産の証券化とかしちゃった結果だ。これは、資本主義としては避けられない選択であったが、それが資本主義自身を滅茶苦茶にしようとしている。

会社の話だった。

会社は、資本主義になくてはならぬ存在だ。
人は欲望のために投資をするわけだが、個人に投資をしても彼が死んでしまったら終わりである。ところが会社というのは社長が死んでもなくならない。会社とは資本主義の必然的要請である。

するとどういう考え方になってしまうのか?
資本主義を認める限り、「会社」とは必要な存在、だから良い存在、という具合にみんな考えてしまうというわけだ。

たとえば、反原発の我々が推し進めたい太陽光発電にしたって、パネルを作ったり設置したりする会社がなければ成り立たない。なので、そういう会社に投資するのは良いことだ、ということになってしまう。
ところが、すでに太陽光発電会社投資詐欺みたいな事件は起きているが、今後は「太陽光」の美辞麗句に隠れて、従業員をこき使い過労死させてもしらっとしているワタミのようなブラック企業が必ず現れるはずだし、それが「儲かる」となれば禿鷹ファンドも参入してくる。

まあ要するに、銀行であれ軍事産業であれ再生可能エネルギーであれ、会社は所詮会社だということだ。

組織というのは不思議なことに自己目的化するんだよね。まるで生き物のように。会社なんて単なる概念に過ぎなくて「意志」はないはずなのに、その構成員や社会がそこに「意志」を持たせてしまう。
そうなると、「会社のために働く」という倒錯した価値になんの疑問も持たない連中が再生産されてしまって、それが、ひたすら現状維持の力として働く(間違えてはいけないのは、「改革」を叫ぶ一見新しい資本主義者こそが、じつは資本主義「現状維持」の一番の旗振りだということだ)

酔っ払って文章が乱れてきたなあ。

これだけは言っておかなければならないのは
「会社は必要悪」
だということである。
人生においても。世界においても。

会社を立ち上げたいという若い連中も多いらしい。ビル・ゲイツとかスティーブ・ジョブズになりたいという。
それに水を差す気はないけれど、少なくとも『半沢直樹』に出てくる人たち以上に、人を傷つけ、蹴落としていかなければ資本主義で勝つことはできない。

そして話は最初に戻るね。
僕は最終回を含め2回しか見ていないし原作も読んでない。なので勝手な想像だ。

主人公半沢直樹は、信頼してきた北大路欣也頭取に、最終回の最後の最後で切り捨てられた。
大和田常務(香川照之の芝居、良かったなあ…)を倒したものの、敵はさらにその上にいたのである。
では続編で、北大路欣也頭取を倒したらどうなる? 次は大臣か?

結局のところ、最終的な半沢直樹の敵は「システムそのもの」なのである。
と同時に、ここが重要なのだけれど
システムを構成する己自身こそが、最後のボスキャラであるはずだ。

これは、半沢直樹に限ったことではない。銀行員に限ったことではない。会社員や公務員に限ったことではない。僕のような自営業も、フリーターも、主婦だってそうだ。
半沢直樹が持ち続けようとした彼の「正義」を阻むのは、香川照之でも北大路欣也でもなくシステムそのものであり、それを支える自分自身なのである。


おっと。
ちょっとかっこよく終わってしまったよ。

関係ないけど、黒澤明監督の『デルス・ウザーラ』は、劇場公開された1975年に見に行った。
小学生だった僕には荷が重い映画だったが、それでも『怖かった絵本』のように、何十年も僕の記憶の中に残っていた。
かなり前にビデオ発売されていたのだがそれを知ったのは廃番になったあとで、ヤフオクでVHSを手に入れたのが15年くらい前だろうか。

昨日TSUTAYAに行ったら「発掘コーナー」みたいなコーナーにDVDが並んでいたのだ。

これから見てみよう。
名作だ。
もしもこれから見てみようという人がいれば、Wikipediaには
「原始的であるはず」のデルス・ウザーラの生き方は、結果的に「文明化された」ロシア人に、人生の意味などの興味深いことを数多く、シンプルかつ的確に示唆した。
と書いてあるが、まあそんなモチーフは誰が見ても一目瞭然なので、それ以上に僕としては、「善」とは、「善意」とはどういうことなのか、という視点で見てもらえたらなあと思う。

半沢直樹は果たして「善」なのか?

一億倍返し

学生時代にとても仲が良かったH君は、僕の半世紀の人生で出会ったすべての人物の中で最も頭が良かった。なおかつ彼は、人々をとりまとめる人間的な魅力にも秀でていた。
東大を出てNHKに入社。40歳くらいのとき、管理職として出世するか制作現場に残るかと会社から問われたとき、H君は現場を選んだ。その当時僕は彼と直接話をしていないけれど、きっと「この社会システムの中でいわゆる一般的な基準で偉くなることなんか別にどうでも良い」と、考えたのだと思う。

彼が亡くなって4年になる。
そんなわけで彼の命日、9月14日は、飲み会であった。

奥様が彼と高校の同級生で、そんなつながりの飲み会だから、参加者はみんな同じ高校出身者。ところが僕ひとりだけ違う高校である。
同じ学校で毎日顔を合わせていたわけではないけれど、当時はそれ以上の親密さで僕は彼と付き合っていた。それを奥様が認めてくださっているから、この命日飲み会にも毎年呼んでいただけているのだ、と僕は勝手に好意的解釈をしている。

「ニューアカ」をWikipediaで検索すると、「1980年代の初頭に日本で起こった、人文科学、社会科学の領域における流行、潮流のこと。」とある。

僕とH君は当時、毎日のようにそんな話をしていた。
浅田彰の『構造と力』は、読んでもさっぱりわからなかった。まあ、言ってることはなんとなくわかるのだけれど、「だから何?」と思ってしまい問題を共有出来ない。
なので僕は、この本は、世界システムの構造と力「について」書かれているから価値があるのではなく、この本自体が、構造と力「を示している」から面白い。としか言えなかった。H君はもっと深く的確に問題の核心を突いていたはずだが、ごめん30年前の話だ。彼が何を語ったのかは覚えていない。

いずれにしても僕らは、延々とそんな話をしていた。
そして、ここからが重要なのだけれど、我々がなぜ、昼も夜も、酔っても醒めてもそんな話を続けられたのかと言えば、それは「問い」を共有できたからである。

「問い」は連鎖する。
ある「問い」に答えようとすると別の「問い」が発生する。ある「問い」を先鋭化するとそれは次の「問い」となる。

浅田彰の『構造と力』が正しいかどうか、などということはまったく問題ではない。
そんなことではなくて、我々は「問い」を続けざる得なかった。

単なる学部卒の僕がこんなことを言うと「偉そうに」と思う人もいるかもしれないけれど、でも、これこそが哲学の核心である。

H君はNスペなどのプロデューサーとして活躍した。僕はなにひとつ立派な仕事はしていないけれど、雑誌編集者を経てその後は細々と記事を書いたり映画の構成をしたりムード歌謡の歌詞を書いたりしてきた。

でね。
何が言いたいのかと言えば、「哲学」と、「プロとして何をどう表現するか(作家としての作品)」。その両方を語り合える人は、残念ながら僕の周りにはいないのだよ。
H君がいてくれたらなあ。
震災後僕は、つくづく思ったものでした。

さっきも言ったように、哲学とは知識ではない。哲学者の名前なんか知らなくてもまったく問題ない。ただただ「問い」を掘り下げ、連鎖に対峙する姿勢のことである。
でも、掘り下げていくとどうなるかといえば、広く共有されているフツーの感覚とはかなりずれていくことも多い。
ところがプロ作家が作品を作るときにはそうはいかない。みんなにわかってもらわなくちゃいけない。そこで「問い」の掘り下げを「ここまで」とストップせざるを得ない事態にも直面する。

もちろん、そんな必要はないのですよ。作家は作りたいモノを作りたいように作ればいい。
だが、それで飯を食わなくちゃいけないプロとしては、迎合するところは迎合しそれでもこれだけは譲れないとか、まあ要するに「数字(視聴率であったり部数であったり)」も考えなくてはならないのだ。
人生や世界を類型化しなければならないのだ。

哲学を話せる友人はいる。
「どうしたら作品をよくできるのか」を相談できるプロフェッショナルも周りにいる。
でも、その両方を「同じひとつの問題として」語り合える人が、残念ながらいない。

あ。
なんだか僕は「威圧的に他人の言論を封じ込めようとする」傾向がある、と思われたりもするらしい。
ごめん、そんなつもりはないのですよ。
哲学的な探求とは、料理人が味の探求をするのときっと同じだし、プロすなわち職業的作家の作品論は、大工さんの知恵と一緒だ。
哲学者が料理人より偉いわけでも、作家が大工さんより偉いわけでも決してない。
僕が厨房に入れば罵倒されるだろうし、建設現場では釘の一本も打たせてもらえないだろう。

話がずれたな。なんだたっけ?

H君の話だ。
「死」とは完全な「無」であり、残された者が何を思いどう行動しようが、決して死者には伝わらない。
それでも僕たちは命日に集まり、酒を飲んでエロ話をしたりしながらも彼を偲ぶ。
これはじつに難しい問題だ。
「死」とは、「無」とはどういうことなのか?
H君が生きていれば、同い年なのでもう50歳。きっと、飲みながら「死」や「無」について話をしていただろう。30年前のように井の頭公園でゲロ吐くまで飲んでいたかもしれない。


と。

ここまでで終わればそれなりに綺麗な文章なのだが、これだけは書き加えておかなければなるまい。

現実の世界がとてつもなく馬鹿であることを、30年前の我々はすっかり承知していた。
この、糞のような世界をどう生きれば良いのか?
それが当時の我々の議論であったし、今でもその問いは続いている。

世界の糞っぷりはなかなか巧妙に隠されてきたが、震災と原発事故で、もはや日本でそれを隠し通すことはできなくなった。
にもかかわらず原発を続けようとする恥知らずや、被災地を踏みにじって利権を温存しようとする屑ども。
H君が生きていたら、怒りに震えていただろうか? それとも「所詮そんなものだよ」と達観しただろうか?

いろいろなことが見えてしまっているH君なのだから、後者かもしれない。
だけど僕としては、50になったH君が激怒する姿を見たかった。学生時代には一度も怒った姿を見たことがないけれど、ついに堪忍袋の緒が切れた彼を見たかった。
一億倍返しだ。
いい歳こいて激怒した彼と一緒に、そんな作戦を練れたらなあ。

あ。
今夜もしこたま飲んでいるので、意味わかんない文章だったね。

女川のテレビ番組を見て原稿は中断

祐天寺のもつ焼き「ばん」のカウンターで『資本主義という謎』(NHK出版新書・水野和夫さんと大澤真幸さんの対談)を読みながらぐだぐだひとりで飲んでいたら、なにか書かねばという気持ちになってきたのであった。

ところが、いざパソコンに向かうと頭の中が空っぽだ。
そこで今夜は、最近「これブログに書こうかな」と思いつつも面倒臭かったり飲み過ぎたりで書かなかったネタをいくつか披露しましょう。

まずはあれだな。2020年のオリンピックが東京に決まっちゃったという話。

最近顔つきとかどんどん気持ち悪くなってきている猪瀬直樹だが、IOC総会前日の記者会見では、福島第一原発の汚染水問題を「ネガティブキャンペーン」と言い放っていた。
「大事なことはファクト(事実)とエビデンス(証拠)に基づいて報道すること」と繰り返していたが、ならば現在フクイチから流れ出ている汚染水もそうだが、東京湾の汚染実態を忘れてはならない。

2020年東京オリンピックでは東京湾の埋め立て地に選手村とかいろんな施設を作るそうだが、その東京湾海水の放射能汚染についてのファクトとエビデンスをがあるのに、それについて猪瀬直樹はまったくのスルーである。
今酔っ払ってて面倒だから調べないけど、東京湾の汚染はかなりひどいよ。食べちゃいけない魚がばんばん釣れる。関東各地に降り注いだ放射性物質が川の流れで集まっているのだ。
要するに2020年東京オリンピックは、たっぷり汚染された東京湾を中心に行われるというわけだ。

あとさ、安倍晋三は、「汚染水は第1原発の港湾内の0.3平方キロの間で完全にブロックされている」と言っていたが、よおしわかった。それならば選手村とかの食事は、フクイチ0.3平方キロ外の、福島で採れた魚を出すと明言してほしい。
0.3平方キロが問題なのであれば、その外側は大丈夫なはずだ。福島の漁業関係者は原発のせいで大変な目に遭っている。彼らのためにも、「2020年の五輪関係者には安全な福島の魚を供します」と言ってみたらどうだい?

ご存知のように安倍晋三は原発を輸出しようとしている。
原発の輸出は食品の輸出とは訳が違う。高度な技術によって可能となった社会インフラであるからだ。
たとえば、新幹線を輸出しようという場合、一両何億円とかで車両を売ればそれで済むのかと言えばそんなことはない。
この車両をどう動かしたらよいのか、時刻表はどう作るのか、線路を作るにはどうしたらよいのか、線路や車両はどう管理したらよいのか、緊急事態にはどう対処すべきかなどなど。輸入国にそのオペレーション・ノウハウを伝えなければ意味がない。

ところが日本の原発事業に関して言えば、事故のないときに如何に地元住民を懐柔するかといったノウハウはたっぷりあるものの、いざという場合のノウハウはまったくない。挙げ句、事故から2年半経った今頃になって汚染水問題が浮上しているという有様だ。
緊急時のオペレーションノウハウがまったくない国に、核という危険な物質を扱う社会インフラを他国に輸出する資格があるのか?

この前「TVタックル」を見てたら、どこかの馬鹿が人の話を遮って「日本は原発を輸出するべきだ」などと発狂して叫んでいた。
僕が「TVタックル」や「朝まで生テレビ」を嫌いなのは、「議論」ではなく「声の大きい奴のパフォーマンス」が大手をふるうからである。
番組としては「画的に派手な奴」が美味しいのだろう。質問をはぐらかして相手を攻撃したり、威圧的な態度でねじ伏せようとしたり。
でも僕は、そういう馬鹿どもに虫酸が走るので見たくないのだ。

でさあ。
思うのだけれど、高校生の頃僕は、中核派とか4トロ(第四インター)といった「いわゆる過激派左翼」の子供部隊の連中とよくやり合った。
あの頃はガリ版刷りのビラに「反革命的日和見分子鹿島君(←僕の名前だ)」とか実名で書かれたものだった。
今思えば中核とか4トロに名指しで糾弾されるのはおっかないけれど、当時は若かったからなにも気にしないのでした。

で、討論において彼らが使う常套手段が「威圧的な物言いで人を黙らせる」というやり口である。

1970年代というのは左翼没落の時代だ。
自らの議論の正当性を失った連中が、自らそれを直視できないが故に、「声の大きさ」で威勢を張って人を圧倒しようとする。
今考えればそんなふうにも思えてくるのだけれど、現在原発を推進しようとする連中はまさにそれにかぶる。

原発を推進する議論の正当性は、今やどこにもない。
安全性はもちろん、経済性においても、地球環境にとっても。
これはまさに、1970年代において当時のマルクス主義的革命論の正当性がなくなってしまったのと同じである。
それでも、宗教的、狂信的な連中は、自らを否定しようとはせずに、相手を罵った。
自分の思想が袋小路であることを認めたくないばかりに、大声を張り上げた。
原発推進の連中は、70年代の過激派がそうであったように、そのうち内ゲバでも起こすんじゃないだろうか(そうなれば面白いのに)。

ただ、1970年代の左翼連中と2010年代の原発推進派とでまったく違うのは、原発推進派が政財界のクソジジイどもを味方につけていることである。
政財界のクソジジイというのは、たとえば道で会ったら張り倒してやりたい米倉弘昌なんかのことだが、そんな個別の馬鹿どもの域を超えて、近代資本主義的な経済成長を「善」として疑わない「犯罪的な馬鹿思想」そのものであり、

おっと。

今、日テレでやってた被災地のドキュメンタリー見ちゃったよ。
宮城県女川町。
僕も震災後、何回か取材で訪れた。
山に挟まれた地形もあり、びっくりするくらいの高さまで波が来た。

テレビ見てたらかなり酔いが回ってしまった。
だから文章も途中でおしまいです。

「『これブログに書こうかな』と思いつつも面倒臭かったり飲み過ぎたりで書かなかったネタをいくつか」書こうと思っていたのだけれど、それはまた今度ね。

深い「考え」と、深い「思い」について。
右翼と左翼について
そして、「原発は悪だ」と言い切る「覚悟」について
など、
書こうと思っていたことはたくさんあるのだが、まあそのうちに。