語り得ぬものについては沈黙しなければならない。 -4ページ目

久しぶりに書きました

そういえばブログの更新が半年も止まっていた。

久しぶりにアメブロを見たらなんかいろいろ変わってるみたいだ。
これまでのブログのジャンルが無効になっていて、以前はなんだったけなあ、クリエーターとかにしてたと思うのだけれど、今回は二つ選べというので「酔っ払い」と「ろくでなし」にしましたよ。「マスコミ業界」じゃつまんないもんな。

というわけで、半年間何をしていたのかといえば、だらだら仕事をする傍らいろんなことを考えてはいたのだけれど、社会へ向けてわざわざ発するべきメッセージというのはほとんどなかったのだった。

たとえばね。昨日のニュースに絞って言おうかな。

僕は産経新聞は嫌いなのだがそれでも今回の起訴については韓国当局がアタマ狂っているとしか言いようがない。大統領への名誉毀損などというのはそもそも成立してはならないのだ。
政治家に名誉もへったくれもない。彼らは「偉い人」ではなく「お前にやらせてやってもいいよ」と国民が認めてあげた、要するに国民の下僕であるのだから、公人としての義務は負うが権利はむしろ狭められるべき立場である。
彼(彼女)に対しては誰でも自由勝手に悪口を言って良い。それが政治家である。聞けば韓国では政治家に対しての名誉毀損で立件されることも多いという。時代錯誤も甚だしい国なんだなあ。

アスベストの裁判は、当然の最高裁判決が出た。
判決がどこまで踏み込んだのかなど、この件は詳しく知らないのだが、国家権力には国民を守る義務がある。それこそが国家のもっとも根本的でもっとも大事な仕事である。
「あのときはこれくらいなら大丈夫だと思って毒を使いました」というのは、個人を刑法で裁く場合には考慮されるべき問題だが、国家の場合はそうではない。「知らなかった」ではすまされないのだ。もしもほんとうに知らなかった場合でも、それで実害が出た場合には補償しなければならない。それが現代の国家というものである。
立憲主義に象徴される現代民主主義国家の国家思想から当然の帰結として導き出される考え方である。

村上春樹さんがノーベル文学賞を獲るか、というのを夜のテレビニュースのトップでやっていたのだが、いやまあどうなんだろうねえ。そんなに大きなニュースかねえ。
僕は、ハルキストなどと言われるのはまっぴら御免だが、彼のデビュー作『風の歌を聴け』は、単行本化される前「群像新人賞受賞作」として『群像』誌で読み、じつにすごいと思って、何がすごいのかというと、この人は「「書かない」ということ」を「書いた」。
ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』出版のとき、「これは倫理についての本です」と私信で吐露しながらも、本書の中で倫理については一切触れなかった。それと同じだ。
ドーナッツの穴を語るためには、穴自体ではなくドーナッツについて語るしかない。
ウィトゲンシュタインの場合は、『論理哲学論考』を読んで「そうだ! 論理こそが世界だ」と勘違いする困った連中が現れたわけだが、村上春樹さんの場合もいつの間にか世界的な作家になって、世界中にファンがいる。
でもさあ、正直言うと、彼が問おうとしている問題をみんなどこまで切実に捉えているのか、僕は甚だ疑問だね。

ていうようなこととか。
を、昨日は考えていたりもしたのだけれど、まあ、ありきたりの話だしね。

あとは、形而上学的なこと。みんなは「数」は実在すると思うかい?
とかさ、近年統計学に注目が集まっていてこれはたとえばGoogleが世界中の何億人だか何十億人だかの位置情報を集めてるみたいないわゆる「ビッグデータ」が現実的な話になってきたので盛り上げっているわけだが、統計学というのは確率論と不可分である。
じゃあ確率って何?
小学校の頃、「サイコロを振ると、最初は1ばかり出たり3が全然出なかったりしますが、何回も続けていると、1~6まですべての目が均等に出るようになります」と教わった。
そんなの当たり前だと思ってはいけない。これは何を根拠に言っているのだろうか?
実際に誰かがやってみた「経験的事実」なのだろうか?
それとも、そんな「法則」がどこかに実在する、ということを根拠としているのだろうか?

ほら、こんなことも形而上学的な話になる。
(理系の人の中には「法則の実在」を疑わない人も多いが、どういう根拠で「法則が実在する」と言えるのだろうか?)

と、まあ、毎日考えているのはこの程度のことで、わざわざブログに書く気も起きない。
社会に向けて拡散するような類いの話ではないのだ。

「反原発」はどこからどう叩いても正しい主張であって一歩も譲る気にはならないが、そのことはもう充分書いた。
その先に語るべきこと、あるいはその語り方。それがまだ全然わかんない。
酔ったはずみで「小説でも書こうかな」とか思ったりもするけれど、一晩明けると一行も書けないしね。

なのでブログというのもそろそろ限界かなあと思いつつも、今夜はがんばって書きました。

なんか最近ビールたくさん飲めなくて、「氷結ゼロ・グレープフルーツ」をがぶ飲みしてたら気持ち悪くなってきた。

じゃあね。

ファック原発 ファッキン国際禁煙デー

国際禁煙デーだってさ。
糞喰らえだな。

かなり久しぶりにブログを書くのに悪態から始まるのもどうかと思うが、まあこの話から。

僕は一日二箱以上のヘビースモーカーで、煙草をやめる気はない。35年間ずっとこの調子だ。
昔、「今日も元気だ煙草が美味い」という秀逸なコピーがあったが、体調が悪いとほんとうに煙草が不味い。それでもニコチンを摂取すべく火をつける。
そんな人生さ。
禁煙もしないし貯金もしない。ダイエットもしない。楽しく生きてさっさとくたばる。それが理想だ。

とはいえ、食べもの屋の禁煙に異議はない。これだけ煙草ラブの僕でさえ、寿司屋のカウンターで隣の席から煙草の煙が漂ってきたら寿司が不味くなる。寿司に限らず、食べもの屋はラーメン屋の禁煙だって良いと思う。
でも、バーやパブの禁煙はあり得ない。酒と煙草(とかシガー)を楽しむ場所だ。煙が嫌なら他へ行きな。

ロンドンでは、オリンピックを機に市内はパブも禁煙にしたらしいが、まるで気が狂っている。禁煙ファッショ連中の言いなりになって、東京がそんな愚かな街にならないことが願いだ。

煙を吸いたくない人や子どもとかが、無用な受動喫煙しないようにする。それで充分な話である。
ところが禁煙ファッショの連中は、喫煙は悪だという。
どうやら反原発の人の中にも反喫煙がたくさんいて、喫煙は原発と同様に悪だというのだ。

これは違うぞ、決定的に。

原発が悪なのは、「自分のケツも拭けない未熟な技術」のくせに、「腐った世界システム」がその温存を図っているからだ。

「自分のケツも拭けない未熟な技術」というのは、いうまでもなく何万年も残る放射性物質である。原子力で作られる核のゴミを無害化する技術はない。調子に乗って原子力を進めているが、そのゴミは処理できない。どっかに埋めればよいなどと、責任を先送りしようとしている。しかし、どこに埋めようがそのゴミは、何万年も何十万年も、放射能を出し続ける。要するに「臭いものに蓋」の幼稚な発想なのだ。

もちろん、「自分のケツも拭けない未熟な技術」というのは、原子力の他にもたくさんあるだろう。
科学技術というものは、「なにかに役立ちそうだ」という、功利主義的発想で発展していくので、ケツが拭けなくとも「これって便利でしょ」ということになればどんどん出てくる。
近代以降の科学技術は基本的にこういう感じであって、だから「自分のケツが拭けない技術」がすべて悪だということではない。(功利主義というのは大変愚かな発想だと僕は思うが)

ところがね、「ケツの拭きかた」を考えずに作った技術でも、出てくるうんこがあまりにも臭くて大きいということがわかれば、「ケツの拭きかたも考えとかなきゃヤバいじゃん」ということになる。

こんな僕でも、ゴミは分別して出すのだ。
毎晩僕の部屋から排出される何本もの缶ビールのアルミ缶は、再生されるのだろう。古雑誌もトイレットペーパーになるし、可燃物の焼却場はなるべく有毒ガスが出ないようにコントロールされている。僕は料理をしないのでコンビニでおかずを買うのだけれど、割り箸は「さくっと成長して環境に不可のない」竹製だったりする。

当然のことながらそんな取り組みがあっても100%の循環型サイクルができているわけではない。
でもさあ、少なくとも現代の日本では、「自分がうんこをするのなら、ケツの拭きかたも考えよう」という思想になっている。
だからこそ、「ケツが拭けないゴミは出すなよ」ということで、たとえばアスベストなんかは便利でも禁止で、それに代わる技術が誕生する。

このように、「新しい技術を開発するのは良いけれど、ちゃんとケツを拭けるようにしようね」というのが、現代日本の科学技術のありかた(ある意味で倫理観)なのだ。

この前『特捜最前線』のDVD借りて見てたんだけどね、1970年代の東京ではまだかなり滅茶苦茶にゴミを埋めていたようだな。証拠品を求めてゴミの埋め立て地を漁る「おやっさん」(大滝秀治)の姿があった。
きっと、若い人に「夢の島」と言ってもわからないと思うけれど、あの頃まではゴミはなんでもかんでも東京湾に埋めていたのだった。
だが今はそうはいかない。今でもゴミの埋め立てはあるけれど、あれから40年でリサイクルの思想は徹底、埋め立てゴミは激減した。

ところが原子力について言えば、夢の島以前の段階だ。
有名なキュリー夫人は19世紀の人で、1945年には日本に原子爆弾が投下され、1950年代からは原発が稼働しているのだけれど、その後いつまで経っても、核廃棄物(原子力で必ず発生するうんこ)を無害化する技術はできていない。

理論的には、ある放射性物質を「放射性なし物質」にすることはできるらしい。ただしその過程で、さっきなくした以上の放射性物質が出来上がったりするらしい。あるいはそんな手間暇かけるには莫大なカネがかるので誰もトライしないらしい。

(ここでは面倒なので核燃料サイクルについては書かない。ひとことだけ言っておくと、核燃料サイクル構想が実現すれば核のゴミは出なくなって一件落着、と思っている人がいるようだが、それはまったくの間違い。ウラン燃料だろうがプルトニウム原料だろうが、有害な核のゴミは出続ける)

要するに原子力というのは、己のうんこを見て見ぬふりして推進されてきたわけだ。
何十万年も放射能を出し続けるうんこに対して、抜本的な対策はなにもない。地下に埋めれば良いじゃん、というのがその野蛮な発想だ。

「自分のケツが拭けない」科学技術はいろいろあるが、なぜ、原発はケツを拭こうともしないのか? 科学者が実験室で研究しているのであればまだわかるが、なぜ、ケツを拭けぬままリスクの高い大規模な原子力発電所が許されてしまうのか?

それはつまり、「腐った社会システム」がその温存を図っているからである。

久しぶりにブログ書いたんだけどいよいよ酔ってきたなあ。

足早に行こうね。

日本で言えば、経産省の役人どもや電力会社、その株主。そして、そいつらを支える財界とか政治家とか。
そういった連中の自己保身を中心として回っている社会システムである。
原発がなくなったら「俺が」困るという連中の思惑が深く根を張っている腐りきった社会システムである。

(もっといえば、毎朝通勤電車に詰め込まれている社畜どもを筆頭とする、この社会システムを是としてのっかているお前ら全員なのだが、今日は面倒だからその話はしない)

「自分のケツも拭けない未熟な技術」+「腐った世界システム」の見事な結合。
ここに、原発の特異さと、だから悪である理由がある。

煙草の話に戻ろうかな。

僕はスノーボードが好きで、一番気持ち良いのは、アドレナリン全開でパウダーをぶっ飛ばすときと、リフトを降りて天を仰ぎながらの煙草だ。
当然、吸い殻は携帯灰皿に入れる。
煙草のフィルターは、何十年もしないと土に還らないらしい。

ところがどっこい、原発から出る核廃棄物が放射能を出し切るには、何十年どころか何十万年もかかるのだよ。

この先の文章は思いつきで追加。

58歳で亡くなった尊敬する先輩大編集者(Kさん)がいた。
肺癌だった。
僕は、肺癌と言われたら諦めようと思っている。Kさんも同じだったのではないかと思う。
で、入院中もピース缶を持って病室を抜け出し、こっそり煙草を喫っていた。僕もきっとそうするだろう。
すると、若い医者に見つかってとても怒られた。
今ここで煙草を喫おうが喫うまいが先は長くないだろうと、Kさんはわかっていたに違いない。
にもかかわらず、Kさんはその一本を最後に煙草をやめたという。
「彼が熱心だったからな」と、Kさんは語った。

自分では99%駄目だとわかっている。にもかかわらず「残りの1%」に賭けようという若い医者の気持ち。Kさんは、そこに触れてしまった。

でも、それからしばらくして死んでしまった。

僕だったらどうするだろうなあ。

3年目の3.11。

この日ばかりはブログの更新もしようと思って、いろいろ考えていたのでした。

3年前の今日、僕が何を感じたのか。社会的勝者ではない僕にはどこかにハルマゲドン願望があったという懺悔──とか、
「福島の人たちは可哀想」という上から目線は、佐村河内守に対して怒っている連中と同レベルの卑しいルサンチマンだ──とか。
まあいろいろ、4000字くらいは書きかけていたのだったが、まとまらないからやめた。

14時40分には、渋谷のスクランブル交差点にいた。
14時46分に何が起こるか見てみようと思っていた。黙祷くらいはあるだろう。

ところが、何もなかった。
時計を見ると14時50分になっていた。

あとから聞くと、銀座では黙祷の時間があったようだ。都内の他の場所でもあったに違いない。
しかし、「若者の街」代表格の渋谷スクランブル交差点では、みんな、今日がなんの日か忘れているようだった。

銀座線に乗って新橋に向かった。
東電前。ちょうど福島第一原発を津波が襲ったくらいの時刻だ。警察車両が何台か停まっていたが、特に誰かがなにかをしているわけでもなかった。

東電本社の様子を撮影していたら、若い警察官に声をかけられた。
「撮影しているのですか?」と聞くから、「そうです、問題ありますか」と言うと、「いいえ」と答える。それでも彼は質問を続ける。
「建物を撮っているのですか?」
「そうです」
「なぜ、建物を撮るのですか?」
「なぜって…? いけないんですか?」
「いいえ。でも、なぜ建物を撮るのですか? 建物を撮るのが趣味なんですか?」
困った警察官だ。
「建物を撮るのが趣味なのでなくて、東京電力の本社だから撮っているのです」
「なぜですか?」
警察官も仕事だから聞いているのだろうが、もっとマシな質問はできないものなのだろうか。
「今日がなんの日か、知っていますか」と、逆に僕は彼に聞いた。「東京電力の原子力発電所が事故を起こした日なのは知っていますよね」
「…はい。3年前」
「その日だから、どんな様子なのか撮っているのです」
僕は続けた。
「それがわからないなんていうのは、日本人としてどうかしていると思いますが、どうでしょう?」
彼は退散していった。

それにしても、僕の見た限り、東京はなにも起こらない日であった。

報道ステーションで、福島の子どもたちの甲状腺癌について報じていた。
100万人に1~2人と言われる子どもの甲状腺癌だが、事故後の福島では27万人調査して33人。(今後、爆発的に増えるはずだ)
また、甲状腺癌を引き起こす放射性ヨウ素の半減期は8日なので事故後すぐに調査しなければならなかったのに、行政から圧力がかかったことや、福島県立医大が中心となった福島県の甲状腺検査の情報隠蔽体制なども報じられた。

びっくりした視聴者も多いだろう。
でも、そんな話は事故後かなり早い段階でわかっていたのだ。

僕が編集した「原発・放射能 子どもが危ない」 (文春新書/小出裕章・黒部信一)は2011年の9月に発売されたが、その段階ですでに、甲状腺検査の初期初動の遅れは指摘しているし、福島県立医大が「福島の子どもの甲状腺検査はすべて県立医大に回せ」と、情報を牛耳るためのお触れを出していたことも、だいぶ前から聞いていた。
ただ、多くの人たちに最も影響力のある地上波キー局のテレビ番組では報じられたことがなかったのである。(僕がすべて確認したのではないけれどきっとそう)

3年経って、ようやく地上波の電波に乗った。
これは前進と見るべきなのかもしれないけれど、「大々的に報じられていて良いはずなのに全然知られていない」事柄はまだまだたくさんある。

汚染水の問題にしても、量がどんどん増えて困っているということは多くの人が知っているが、メルトダウンして溶けた核燃焼が地面にめり込んでいって地下水と接触しているようだという話はほぼ報じられていない。
事故から3年近く経って、放射能濃度が突然急増した井戸があるのだ。時間をかけて沈んでいった核燃料が地下水に達した。やがて海にも、これまでとは比較にならない高濃度汚染水が流れていくだろう。

一方、あれから3年目の東京では、子どもみたいな警察官がカメラを持ってるだけの人間にくだらない質問をしてくる。

のどかなもんだ。

スノーボードの話 (ソチオリンピック、そして、なぜ「スノボ」と言ってはいけないのか)

今回は原発の話ではない。哲学でもない。政治でも経済でも社会でもない。さっきニュース見てたらNHK会長の籾井勝人が例によってふてぶてしい態度で映っていて横っ面ひっぱたいてやりたくなったのだが、そういった類いの話でもない。
なので、その手の話を期待する人はこの記事はスルーしてください。
スノーボードの話。

で。

ソチオリンピックが終わった。

やっぱ冬のほうが楽しいなあ。

以前、東京五輪誘致関係者の人と話をしていて、もしもどうしても日本で開催するのなら、東京じゃなくて被災地だろうと言ったら、たとえ仙台でも、夏の大会は規模がでかいので宿泊施設だけ考えても無理と言われた。

東京でオリンピックなんてやんなくていいのに。
開催に向けて、汚染水など福島の事故後の状況を完全に情報公開し、徹底した対応をする、というのならまだわかるが、日本の政治家や官僚は逆のことを考える。なるべく隠そうとする。マスコミも日和見だから「開催万歳」の論調に染まる。困ったものだ。

その点冬は規模が小さい。長野でやれたんだから。
あとやっぱり僕は雪が好きだし、夏よりも冬の選手のほうが美女が多いしな。

この前も書いたけど、僕はこれでもスノーボーダーで、もう20年くらいやっている。下手だけれど大好きなので、出版社に勤めていた30代の頃は、毎年スノーボードの本を出したりしていた。
だから当時は、いろんな大会に取材に行ったりもしていたのだが、米国や欧州の連中のほうが圧倒的に上手くて、まさか日本人がオリンピックでメダルを獲れるなんて思ってもいなかった。
ソチでの日本人メダル8個のうち、スノーボードが3個だよ。信じられるかい?

20年前を思うと感無量なのであった。

若い子は知らないと思うけれど、1990年頃、国内でスノーボードができるゲレンデはごく限られていた。90%くらいのスキー場で不可だったんじゃないかなあ。「危険」だとか「スキーヤーに迷惑がかかる」とか言われて禁止されていたのだが、要するにスノーボードは不良ぽいってことだ。当時の良識的な人々からは、不健全な連中の遊びだと思われていたのだった。

「私をスキーに連れてって」という映画が公開されたのが1987年で、つまりまあ、バブルの時代はスキーが「トレンディ」だった。バブルは90年代の初めまで続いたのだが、ちょうどその頃、スキー人口が爆発的に増えたのである。
「トレンディ」って何よ?という若人のために説明しておくが、バブル期にはリッチな遊び方こそがお洒落だと思われていた。街の男子はみんなが外車に乗ったので、たとえばBMW3シリーズくらいだと「六本木カローラ」と呼ばれ小馬鹿にされたりした。おカネをかけて、優雅ぽく、上品ぽく振る舞うのがトレンディ(流行り)だったわけだ。

白状しますけど僕もスキーに行きましたよ80年代のバブル期には。僕だって20代だ。
男子3名女子3名とかで行くわけです。はいそのとおり、真の目的はスキーではなく異性交遊です。
「夏はテニス、冬はスキー」というのは、トレンディな「ちょっとおカネがかかる優雅ぽい男女交際」の象徴だったのだ。

20歳くらいの子どもがアルマーニ着てた時代です。オフのときは、(今でもスタイルを貫き通す石田純一は立派だが)誰もが肩にカーデガン掛けてた時代です。
つまり、「カネ持ってそうな感じ」や「なんだか良家ぽい上品な感じ」が大事だったバブル時代。そんな時代背景があってのスキーブームだったわけです。

ところが90年代前半、バブル崩壊前夜にはチーマーが出現したり、ヒップホップファッションが流行ったりし始める。
当時は、スノーボードもその延長だと思う人が多かった。
だからこそ、「上品第一」のバブル的スキーヤーにとっては、「ゲレンデという聖域が不良に浸食される」事態は看過できなかったのだろう。「スノーボードは不健全」とばかりに、ほとんどのゲレンデから閉め出していたのだった。

アルツ磐梯、尾瀬戸倉、エコーバレーとかかなあ。当時僕がよく行っていたのは。
いずれにしても、スノーボーダーの選択肢はすごく限られていた。

その後、90年代中盤にはスノーボードがブームを迎えたのだったが、確かにそれは、ファッションから始まっている。また当時、いわゆるヤンキーライクなスノーボーダーも多かった。ゲレンデでガン飛ばしてる馬鹿も大勢いたのは事実である。
だけど、たとえファッションで始めたにせよ、滑ってみて「スノーボードって楽しいなあ」と実感した当時のスノーボーダーたちは、誰に言われるでもなく、「もっと多くのゲレンデでスノーボードができるように」「もっとみんながスノーボードを楽しめるように」と行動した。
というと大袈裟だけれど、たとえば煙草をポイ捨てしないとか、そういうことを気にするようになった。
(今でもそうだが、僕の見る限り、リフトから吸い殻を捨てるような奴は50~60代以上のスキーヤーである。僕はかなりのヘビースモーカーで、リフトを降りてビンディングを締める前に一服するのが至福の時だが、必ず携帯吸い殻入れを持っている。ルールだからでもないしマナーだからでもない。山に捨てた煙草の吸い殻が分解されるのには何十年もかかるのを知っているからだ)

あと、スノーボードをスノボというのはやめよう、というのがいつの間にかコンセンサスになっていった。
これにはいろんな意味やそれぞれのスノーボーダーの思いもあるのだけれど、たとえば「スノボ行こうぜ」と女の子を誘うような連中は、異性交遊目当てにゲレンデに繰り出したバブル期スキーヤーと一緒である。そのときにスキーが流行っていればスキーを口実に、スノーボードが主流ならスノーボードを口実に、出会いや交際、セックス目的になんでもするだろう。
しかし我々スノーボーダーは「不良だ」「不健全だ」という迫害を経てこんにちに至る。「わいわい騒げればスキーでもテニスでも良かった」のではなく「スノーボードしたい」のである。
もちろん、「スノボくん」「スノボちゃん」は勝手にやってもらって構わないのだが、我々はスノーボードをスノボとは言わない。

これ面白いんだけどさあ、今でもプロや国際大会に出るような人が「スノボ」というのは聞いたことがない。
ことばの意味というのは、簡単に言うと、ことばの使い方のことなのだが、「スノボ」と「スノーボード」がまさにそうで、スノーボーダーは決して「スノボ」ということばを使わない。
たとえば、ソチでメダルを獲った平野くん、平岡くん、竹内さんのインタビューとかだったら今も検索できると思うけど、「スノボ」とは言ってないはずだよ。
これは、日本のスノーボーダーたちが築き上げた歴史であり、まさに、ことばの使い方→意味が社会的に確定されていく過程を見るようだ。

メダルを獲った平野くんや平岡くんはまだ10代。
僕には子どもはいないけれど、世代的には僕の子どもだ。
ほとんどのゲレンデから閉め出されていた時代から、ちょっとしたブームになって「スノボ」と言われるようになった1990年代。
その当時、「スノボ」ではなく「スノーボード」をしていた僕の同世代たちが、スノーボードの楽しさ自分の子どもに伝えた。そしてそんな子どもたちが、オリンピックに出られる年齢になって、今、大活躍している。

こんなこと書くとなんだか爺さんみたいだけれど、嬉しくて仕方がないのだった。

さてと。

オリンピックを見ていて考えたことはいろいろあって、たとえば愛国心の問題とか。
あとは「頑張れニッポン」と言うけれど、僕としては、「頑張るな日本人」とも言いたい。
スノーボードの平野くん、平岡くんなんかはもちろんのこと、(本人にしてみれば迷惑な話だろうが)浅田真央ちゃんだって我が子のように可愛いから、当然、応援するわけだ。みんな、ものすごく頑張ってきたはずなので、その努力が報われるよう祈るわけだ。

ところが、「頑張る」「努力」「一生懸命」は、それ自体では、決して美徳ではない。
だから「頑張るな日本人」。

その話を書こうかなあとも思ったのでしたが、今度また気が向いたらね。

都知事選その4~投票日。それぞれの「反原発」に突きつけられた哲学的問い。

東京は大雪だと騒いでいるけれど、たった30㎝くらいの積雪でクルマがあっちこっちで立ち往生したり、電車が止まったり、首都圏で何万戸が停電したりという有様だ。同じ大都市でも札幌の人が見たら笑っちゃうだろう。たった30㎝だよ。

要するに東京は雪に対する備えがないのだ。たとえば、インフラ的には数十年に一度規模の雪のために道路に融雪設備をするなんてやってらんないし、暮らしている人々の経験値や考え方にしても、雪道の歩き方を知らないとか、一度も雪道で運転したことがないくせに「ノーマルタイヤでも平気だろう」と多寡をくくっている人がたくさんいる。だからたった30㎝で大騒ぎになる。
備えがない、というのはこういうことだ。

やはり3.11を思い出してほしいのだが、東京では地震による直接的な被害は少なかったものの、その後の混乱ぶりは尋常ではなかった。
福島第一原発事故は、国際原子力事象評価尺度で最悪のレベル7であるが、それでも原子炉自体の爆発は運良く避けられ、当時の政府がこっそり想定していた首都圏数千万人規模の避難は回避されたのだった。
でもさあ、もしも原子炉が水蒸気爆発を起こしていたらどうなっていたと思う? 積雪30㎝の比ではないぞ。

(話は横道だが、田母神氏は福島原発事故に関して、完全に間違ったことを言っていた。放射能が人体に与える影響とかについては原子力推進の学者なんかがいろいろ変な意見を言うので百歩譲ろう。しかし彼が「福島の事故は核爆発ではなく水蒸気爆発だ」というのは、誰の目から見ても完全な誤りだ。もちろん、核爆発ではない。でも、水蒸気爆発でもない。原子炉建屋に溜まった水素に火がついた「水素爆発」である。
この点は重要だ。「水蒸気爆発」と「水素爆発」。家庭の圧力鍋でも圧をかけた場合少しずつ水蒸気を逃がしているが、これは、水蒸気を逃がさないと爆発してしまうからである。密封された容器の中の水の沸騰、水蒸気の力は恐ろしいのだ。
原発で水蒸気爆発が起こるというのは、密封された原子炉の中の水が沸騰して、原子炉そのものを爆発させてしまうことを言う。それに対して、福島で起こったのは、化学反応により建屋内に充満した「水素」に火がついたもので、原子炉ではなく建屋が爆発した。
「水素」か「水蒸気」か。これは単なる言い間違いの問題ではない。原発事故について初歩的な部分をまったく理解していないということだと思われる。
僕は田母神氏のこの間違いに告示後第一声の演説で気づいたが、「まあ言い間違いもあるだろう」と思っていた。しかし、それから一週間以上経った2/1のネット討論でも「水蒸気爆発」だと言う。
その後の彼の発言は知らないので、もしかしたら訂正したのかもしれない。でも、もしも、原発について多少でも知っている人が彼の近くにいたのであれば(それが原発推進の人でも反対の人でも)、そんな初歩的な間違いはすぐに訂正したはずだと思うのだ)

横道書いてたら長くなってしまった。

要するに東京都は原発事故に対してまったく備えがないと言うことだ。
たかが30㎝の積雪でこんなになってしまう街が、「原子炉が爆発して放射能ががんがん降ってくる」という事態に直面したらどうなるだろう?

世界には今、約400基の原発が稼働している。
そして、原発の数がもっと少なかった1979年の米国スリーマイル島、1986年の旧ソ連チェルノブイリ、2011年の福島と、炉心が溶解(メルトダウン)した最悪の大規模事故だけを数えても、この半世紀で3回。
世界400基のうち日本は50基なので、ここからざくっと計算すると、日本の原発は100年に一度、大事故を起こす計算になる。

そして昨日、東京の大雪は、気象庁のいう「50年に一度の積雪」の目安(26㎝)を超えるものとなった。そんな日は突然やってくる。

さて。

僕はと言えば、金曜日に期日前投票を済ませました。
いろいろ考えたことの一部は、前回の記事に書いた。
殿に一票だ。

成人してから30年、こんなに悩んだ選挙はない。きっと、原発に反対する多くの人が同じ思いだっただろう。
僕は東京生まれでずっと東京育ちだけれど、都知事選で投票した候補者が当選したことはこれまでないからなあ…(笑。
結果はどうなるかわからないけれど、いずれにしても、遅かれ早かれ反原発で問われるべき論点、すなわち、投票という具体的な行為において
「妥協をしても数の力に加わるか」あるいは「原発にとどまらず、社会的、政治的信念を貫くか」
が、2014年2月、「それぞれの反原発」に問われることとなった。

再稼働という喫緊の課題が目の前に差し迫っているという状況。その上で、「現実の一票」を持ったときどう選択するか、と言う問題は、「反原発」に限らず、政治や社会へのコミットメント、あるいは「世界」(世界各国という意味の「世界」ではない)とどう対峙するかという、とてもとても哲学的な問いを突きつけてきたのだった。

選挙結果がどうなるかにかかわらず、「反原発」に突きつけられたそんな「問い」の顕在化が今はまだ早すぎだった、と言うことはなかろう。むしろ、論点のいくつかがはっきりして、結果はどうあれ、より深い「反原発」議論の礎となるはずだ。
もちろん、正念場はまだまだ続くのだが。

と、偉そうなことを言っておいてなんだけれど、ソチオリンピックの開会式は良かったよなあ。史上稀に見る作品性の高さ。オリンピック開会式としては僕が知る限り最高の出来映えだ。ロシア舞台芸術の本領発揮という感じ。
あと、へたれで下手で、まっすぐ滑ることしかできないけれども、僕もキャリア20年のスノーボーダーだ。長野大会の頃はスノーボードの本も作っていた。
そんなわけで、1990年代にスノーボードに取り憑かれた僕らの世代が親になって、その子どもたちがオリンピックでも活躍している。角野友基くんは入賞で立派なものだ。ハーフパイプの平野歩夢くんはリップから6メートルも飛ぶと言うが、20年前からすれば想像もできない。なんだかとても嬉しい。

でね。今日も雪が残っていて、出かけるのは面倒だなあという人もいるかもしれないが、反原発の都民有権者は、どんなことをしてでも投票に行ってほしいと思う。
都知事選において「そのうち原発をやめる」なんて主張は、反原発とはまったく相容れないよ。絶対反故にされる。単なるお為ごかし。今、放っておいたら再稼働が進み、やがて新設まで始まるぞ。

敗北を恐れてはならない。
「二本滑って良いほうの点数を採用」する、オリンピックのスノーボードで言えば、一本目でこけたあと、メダルのかかった二本目だ。気張る必要も緊張する必要もないけれど、全力で飛んでみる。
まあ、そんな感じだな。
そうすれば、スノーボードのように、次の世代は、より高く飛ぶ。
↑ロマンティックな言い方に自分でも笑っちゃうのだけれど、少しはそんなことも信じたい。

投票行けよ。行ってください。

都知事選その3~細川&小泉か、宇都宮か? 「思想」、「数の力」、「正直さ」で考える

ご存知の通り原発のコストはじつは相当に高い。

国策として巨額をぶち込み、地元懐柔のためにカネをばらまき、また、今後も原発を続けていけるようにと目論んで作られた「もんじゅ」は、何兆円ぶち込んでも1キロワットも発電していない。
さらに、3.11を見てわかるように、所詮機械なのだから事故は起こるのだ。すると、補償や除染などの費用は数十兆円以上になる。そのリスクもコストに入れなければならないし(誰か損保の人がいたらどれくらいの保険料になるのか計算してほしい)、今後、事故が起きたときの人的な被害を最小限にするためには、住民がきちんと避難できるよう、本来であれば都市計画からやり直さなければならない。
当然、使用済み燃料の問題もある。火力発電のゴミとは違う。何十万年単位で管理しなければならないのだ。たとえ日本のどこかに最終処分場ができたとしても、その管理維持だけでどれだけのコストがかかるのか? 計算すらできない。
(毎日新聞が良いことを書いているので見てくれ。 https://www.facebook.com/photo.php?fbid=483945161711671&set=a.255097847929738.46850.100002885756282&type=1&theater )

つまり、脱原発は経済合理的である。

さて。
僕は、細川護煕氏が現役の頃何を言っていたのか覚えていないが、小泉純一郎氏は、明らかな経済合理主義者だ。
目玉商品だった郵政民有化もそうだ。当時、「郵便局はだらけてるなあ」というのは僕でさえ感じていた。僕はマンションの郵便受けに名前を書いていないのだが、郵便局員が勝手に書いていく(消してもまた書かれる)ので、かなり怒って「郵便の配達のためだけに、なぜ私は住所を晒さなければならないのか。クロネコヤマトが勝手に人の家に落書きすることがあるか?」と、目黒郵便局局長宛に配達記録で抗議文を郵送した。そうしたら担当の管理職が謝りに来た。
要するに、気の緩んだ「お役所仕事」なのである。
いろんな規制に守られてのぬるま湯状態。利権の温床。経済合理的とはとても言えない。
小泉純一郎氏は、そんな郵政の民営化を突破口として規制緩和、新自由主義的な経済合理主義を目論んだのであった。

で、だ。
いわゆる「原子力ムラ」も、まさに利権の温床、ぬるま湯状態である。
電力会社の地域独占体制、役人との癒着、実質的な破綻状態であるにもかかわらず東電に銀行や政府がカネを出してくれるというもたれあい構造。

小泉純一郎氏は3.11を経て原発に疑問を持ち、オンカロに行って原発は駄目だと確信したらしい。たぶんそれは、正直な気持ちだろう。震災後、原発被災者の福島の人たちがどれだけひどい目に遭っているかを知り、なおかつ、有毒な核のゴミの処分方法も定まらぬ中、原発なんかやるべきじゃない。マトモな神経の人間であればそう考えて当然だ。

ただ、小泉純一郎氏が「反原発」を言う場合、そこには「郵政民有化」同様の、規制緩和、新自由主義的な思想がある、と僕は考える。
だって、さっき書いたとおり、原発なんかそもそも経済合理的ではないのだ。
利権、独占、癒着…、そんなずぶずぶ状態の原子力ムラ、電力業界。
「郵政」同様、小泉純一郎氏がそれに腹を立て声を上げたというのは想像に難くない。

一方。

宇都宮健児氏が言う「反原発」は、その根っこのところで小泉純一郎氏とまるで違う、と僕は考える。
弁護士として社会的弱者の側についてきた宇都宮氏は、原発がまさに差別の構造であるからこそ反対しているのだと思う。
つまり、地方への差別であり、被災者への差別であり、労働者への差別であり…。そんな差別構造の顕著な例が原発なのである。
弱い者をいじめるな。
それが宇都宮氏の考えの根本だろう。

だから、「原発をゼロにする。原子力ムラを解体する」と、そこまでは小泉純一郎氏も宇都宮健児氏も同じだが、その先が決定的に違う。

小泉氏の発想でいけば、原子力ムラの解体後は、「さらに規制緩和して、自由な企業競争で再生可能エネルギーを伸ばす」ということになろう。安倍政権は原子力を奉り国策として続けようと考えているが、国の後押しがなければ(事故を起こしても東電のように国が何兆円も出してくれるというのでなければ)、市場原理で原発は淘汰されるはずだ。そのようにして、国家の干渉のない市場競争で「強い者に勝たせる」。これがたぶん、小泉氏の思想なのだと思う。

それに対して宇都宮氏の考えを想像すると、原子力ムラを解体したあとには、「あらたな差別構造の出現を阻止する」ということだろう。もちろん原発以外にも偏在する社会的差別構造に対して闘いを挑む。つまり、「弱き者を救う」思想だ。

というふうに、同じ「反原発」と言っても、小泉氏と宇都宮氏では、その「思想」はまったく違う、と僕は考える。
だから、「反原発候補一本化」を模索した人たちもいるみたいだけれど、そんなの叶いっこない。

そして。
僕の考えだ。

これまで書いてきた「思想」で言えば、僕は圧倒的に「弱き者を救う」考えに共鳴する。
「強い者を伸ばす」論者は、「強い者が伸びることによって、それに伴い弱い者も豊かになる」(トリクルダウン理論)を言うが、経済がグローバル化した現代では、そんなふうになるはずがない。「一部の強い者はより強く、その他大勢の弱い者はより弱く」というふうに格差が広がっているのが現実だし、どう考えてもそうならざるを得ない。

ていうかさあ、そんなこと言う前に、僕は弱い人を踏みにじって生きていきたくはない。そんな勢力に荷担したくはない。
綺麗事言うなと思う人もいるかもしれないけれど、僕ももうすぐ51歳になっちゃってそんなに長生きしないだろうし、権力とか全然欲しくないし、出鱈目な生き方をしてきたけれど、せめて、お前は「弱きにつく」か「強気につく」かと問われれば、「弱き」の側にいたい。
そんな感じ。

であれば、そんな信念に従って宇都宮氏に投票すべき。
というのは強力な考え方だ。

ところが、である。

小泉純一郎氏のことを書いてきて、これもまあ彼の現役時代の言動とかから僕が勝手に推測したものにすぎないのだけれど、立候補したのは小泉純一郎氏ではない。細川護煕氏だ。
わかんないんだよねえ。細川氏の決意のほどが。
そこで僕が1/22に、細川氏のtwitterに@で送ったのがこれ

@morihirotokyo 「再稼働を止める」とは「原発即ゼロ」ということだが、人間関係、政治的な力関係、政局など一切に左右されずに、妥協なくこの主張を貫き通すか? 「原発即ゼロ」に対して僅かでも違う思いを抱いた場合、辞職して民意を問い直す覚悟はあるか? それだけを問いたい。

当然レスはなかったのだが、もしも回答があれば、その時点で誰に投票するかは決まったはずだった。
「はい」と断言してくれれば、うしろに小泉純一郎氏がいようとも、迷わず殿に一票だった。

三日前だったか、目黒のアイリッシュパブで飲んでいて、宇都宮氏を応援している若い人と話をした。彼の言うことはまったくその通り。思想や政策で言えば、宇都宮氏が「反原発」の本流だろう。深く考えて宇都宮氏に絞った人も多いはずで、たぶん、多くの票を獲得するだろう。
だが、「田母神氏は右翼だから」と敬遠する人がいる人と同様に、「宇都宮氏は左翼だから」という人もたくさんいる。
僕は「右」「左」なんて、まるで意味のない考えだと思うけれど、結構多くの人たちが「右だ」「左だ」を気にしている。
それを考えると、浮動票が集まりやすいのは宇都宮氏よりも細川氏だとも思う。

そもそも僕は政治は嫌いだ。くだらない。
どんなに優れた人物が政治家になったって、所詮、政治は政治だ。くだらない。土俵もくだらなければ勝負もくだらない。
だから、政治へのコミットメントは、「くだらないぜ」という考え方で臨むべきだという気持ちも強い。

震災以前は、又吉イエスに好んで投票してきたのだ。「小泉純一郎は腹を切って死ぬべきである」と言い放った又吉イエスこそ、投票するに相応しい候補者だと思われたのだ。
「明らかに最下位を争うような人に投票するなんておかしい」と言う人がいるかもしれないが、それもまた、政治へのコミットメントである。「くだらないぜ」という正直な意思表示だ。そのためにわざわざ投票所に出向くのだ。

3.11を経て、大好きな日本という国が、思っていた以上に出鱈目なシステムになっていることにやっと気づき、そうなるとやっぱ、変えなくちゃいけないと思うようになる。原発はその要だ。
「反原発」票が二分され共倒れの公算も大きいのだけれど、もしそうだとしても、どっちのほうが「原発側」に与えるダメージが大きいのか? そんなことも考えてしまう。

所詮、政治はくだらないし、それは、政治というものの持つ原理的な宿命である。単なる社会的な力学だ。それを超える価値など一切ない。だからこそ「くだらないぜ」なのであるが、同時に「正直」でなければならない。

世の中がいかに滅茶苦茶であるかを具体的に列挙せよと言われたら、一生かかっても書ききれないだろう。だが、明らかに、どうしても許されざる滅茶苦茶は、僕にとってはまず原発である。

2011年3月11日およびその後の出来事を、報道でも見たし、取材もした。福島に限らず、被災地をいろいろ回った。日本は地震も多いし津波もあるし、富士山だって噴火するかもしれない。だが、日本に住む以上それは覚悟の上だ。津波の被災者の人にいろいろ話を聞いて本当に申し訳ない気持ちになるけれど、ここは涙を見せず割り切って、自然災害は「覚悟の上」として今後の防災対策に当たるしかない。
ところが原発はどうだ?
それによって利益を得る連中のために、多くの人が見捨てられ、見殺しにされている。
情状酌量の余地なく、これこそ許されざる滅茶苦茶である。

これが正直な気持ち。
所詮くだらない政治で、今回僕は、遠い理想は述べぬ。
安倍政権と原子力ムラの目論む原発再稼働は目前であり、その阻止こそが喫緊の課題だからだ。(少なくとも東電の)原発を再稼働させないために、現実的に「数の力」になりそうなほうを、僕は選ぼうと思う。
今は「思想」よりも「正直さ」だ。

都知事選その2~僕はなぜ「反原発候補」に投票しなければならないのか

恥ずかしながら2011年3月まで、日本で原発事故が起こることなんか考えてもいなかった僕だったが、福島の事故およびその後の隠蔽システム、自己保身しか考えぬ原子力マフィアどもの蛮行を目の当たりにし、恐怖と怒り、憤りに身が震えたのであった。
日本は大好きな国であるが、社会システムは最悪、などということは30年前から考えていたのだけれど、ここまでひどいとは思っていなかった。まさに己の無明を恥じた。

その後僕が考えたあれこれは、2011年3月以降のこのブログ記事を読んでいただければなんとなくはわかってもらえると思うけれど、要するに、反原発というのは、世界のシステムそのものが持つ病巣に対する闘いであると同時に、「生き方」の問題である。

東電の社員や経産省の小役人どもが原発という犯罪に荷担しているのはもちろんだが、全然関係ないように思われるかもしれないけれど、たとえば会社の売り上げや経費削減のためにレストランのメニューを偽装するような連中も、いわば「原発側」である。
つまり、自分の「立場」や会社の経営のために嘘をつく、嘘をつかないまでも事実を隠す、というような奴らは、東電や経産省小役人とまるで同じ精神構造であり、この社会の腐ったシステムを温存させている「原発」共犯者だ。

そう考えるならば、満員の通勤電車に詰め込まれた会社員一式と同様、当然のことながら僕自身も立派な共犯者である。
あらゆる企業は悪であると思っているから会社を辞めたフリーランスで、なるべくいい加減に生きている僕は、ラッシュの時間帯に電車に乗ることなんかまったくないけれど、それでもいろいろな会社からギャラをもらって喰っているし、そんな中で諸々妥協し、それゆえ社会の腐った部分を多少にせよ支えていることは紛れもない事実だからだ。

だけど悪いが仙人にはなれぬ。霞を喰って生きては行けぬ。

でも、だからこそ、自覚的に闘わなければならないと、僕は思う。
つまり、ぼ~~っとしていると、身も心も原発側に染まってしまうぞ、ということだ。

原発ムラの中にも「自分を頼りにしている家族を守るために会社を守る、原発を守る」と考える人もいるだろう。でも彼はその文言を「家族を守るために人を殺す」と同等の重さで受け止めているだろうか?
もちろん、僕は「人を殺す」ことが絶対的に悪だなどとは考えてはいないよ。「人を殺してはいけない」理由など、最終的には存在しないからだ。それでも「じゃあ、嫌いな奴を殺していいよ」と許しを得たとしても、きっととても苦しむだろう。

(「原発を守る」と「人を殺す」がなぜ同等なのかと問う原発擁護論者も多いが、本題ではないので簡単に。わかっている人は読み飛ばしてください
日本政府も拠り所にしているICRP(国際放射線防護委員会)2007年勧告によれば、「1万人・シーベルト」の死者数は565人とされる。これは1万人が1シーベルトを浴びたときの数字だが、放射線被害は閾値なしに確率論的に計算されるので、「1万人・シーベルト」は「50万人・20ミリシーベルト」と等価である。現在政府は「年間20ミリシーベルトで人が住める」などと言っているが、そんな地域に50万人が住んでいれば年間565人は放射線被害で死亡する。(福島の人口は約200万人なので50万人は多い。そこで20mSv/yに住む人が)5万人だとしても56人は死亡する。ちなみにオウム真理教事件では、地下鉄サリンの12人など30名弱が殺害され、当時のオウム幹部らの多くは死刑が確定したが、福島原発では現在のところ誰の刑事責任も問われていない。
また、3.11の地震、津波で亡くなった方は、
岩手県 5642人、宮城県 10483、福島県 1757人
であるが(厚生労働省2012年9月6日発表 http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/kakutei11/ http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/kakutei11/dl/14_x34.pdf)、
直接的に地震や津波、それに伴う建物の崩壊や火災などで亡くなったのではなく、その後の避難生活で体調を崩したりしたため亡くなった「震災関連死」死者数は、
岩手県 417人、宮城県 873人、福島県 1572人
(復興庁2013年12月24日発表 http://www.reconstruction.go.jp/topics/post-68.html  http://www.reconstruction.go.jp/topics/main-cat2/sub-cat2-1/20131224_kanrenshi.pdf
震災の直接的な犠牲者18877人のうち福島県の犠牲者は1割に満たないが、震災関連死で言えば全国の2916人の半数以上を福島県が占めている。岩手、宮城ともに、震災関連死者数は直接的な震災被害者数の1割以下であるのに、福島だけは震災関連死者数が直接的な震災犠牲者数とほぼ同じなのである。
福島県では、死ななくてもすんだ人が原発のせいで殺された、と言わずしてどういう説明ができるであろうか?)


僕は「なぜ人を殺してはいけないのか」というのはとても重要な哲学的問いであると考えるし、理由も考えずに「人殺しは悪だ」と唱える人は愚かだと思う。しかし、「殺していいよ」と武器を渡されても、無抵抗の人は殺せまい。殺さなければ自分が殺される、というような切羽詰まった場合は殺るかもしれぬ。だが、一生そのことを考え続け、毎晩夢に出てくるだろう。

原発を認めると言うことは、それくらいの重さがある。
つまりそれは、明らかに無抵抗の人を犠牲にする、ということだからだ。
これを是とするか非とするか。
そこがまさに「生き方」の問題なのである。

僕は正義漢ではない。どうしようもなく自堕落な駄目人間だ。しかしそれでも、子猫や赤ちゃんをいじめている者を見れば、ブチ切れて向かっていくだろう。正義を語る資格はないし、語ろうとも思わないが、弱い者を犠牲にしようという奴らが許せない、ていうか、それを認める自分自身が許せない。

と、かっこよく息巻いたのだったが、さっきも言ったように、僕もこんな糞システムに乗っかって生きているのは事実だし、大勢の目の前で子猫や赤ちゃんをいじめる奴にはまず遭遇しないが、たとえば会社の中で弱い者を蹴落とそうとするような連中に会うことがあっても、きっと気が小さいので何も言えないだろう。

でもさあ、選挙なのだ。正々堂々と「こいつに入れるぜ」とやればいいのだ。

都知事選の争点は福祉とか災害対策とかオリンピックとか、まあいろいろ言われているわけだけれど、何から何まで僕の思ったとおり、なんて候補者はいない。これは当然だ。であれば、ピンポイントに絞るしかない。
その選択の基準は、と言えば、僕はオリンピックなんか辞退せよ派だし、経済成長なんて馬鹿な夢を見るなといいたい。福祉や災害対策は確かに大事だろう。だけど、今まさに目の前で子猫や赤ちゃんがいじめられているのであれば、とにかく向かって行かなければならない。
それが原発問題である。
つまり、「生き方」の問題としての投票の基準なのだ。

当然のことながら、「原発が人を犠牲にする」というのは健康被害の問題だけではない。
原発は現代日本(あるいは世界)システムの病巣を象徴する。
力の強い者が弱い者を踏みにじるという格差(経済格差、地域格差などなど)の問題であり、また、守銭奴どもの腐った人生観、自己中心的な都会人と閉鎖的な田舎者の偽善、政治家どもの厚顔無恥など、ありとあらゆる小汚い性根が複雑に入り組んだ問題であり、さらに言えば、目の前にぶら下がった人参しか見えず「善」や「美」といった価値について考えることも感じることもできない愚かで凡庸な社会のありかたそのものの問題である。
そんな諸悪の結晶が原発であり、原発に象徴されるこのシステムの中で、多くのマトモな人たちが苦しんでいる。

最初に書いたけれど、僕は3.11まで、日本は結構マシな国だと思ってきた。
昔から言われるように政治は三流だし、経済も駄目。それでも3.11前は、北朝鮮や中国なんかよりはずっと良いと思っていた。
3.11で、突然「愛国的な自分」に気がついた。これはもちろん「体制に奉仕したい」とか「お国のために死んでも良い」とかではまったくない。ただただ、被災地の報道を見るたびに、自分のことのように涙がこぼれるのである。遠い国で戦争に巻き込まれた子どもの姿をテレビで見ることがあっても、ここまで胸は締め付けられまい。

というわけで、白状するとそれまで僕は、自分は非国民で充分と思っていたのだが、3.11を経て、自分は愛国者なのではないかと感じるようになったのだった。
と同時に、国民を守らないこの国のシステム、東電に何兆円も出すくせに、原発事故被災者には厳しいこの国のシステムに猛烈な怒りを覚えたのである。

どうも酔ってるから話が迂回するなあ。

原発が都知事選の立派な争点であることはこの前書いた(http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11752384352.html)。
他にも争点はあるが、僕はこの一点、すなわち「反原発」という基準だけで候補者を選ぶ。
なぜならば、それこそが僕の「生き方」に重なる問題だからだ。

僕も一応、30年間も選挙に行っている。棄権は数回しかない。投票の基準は、政策だったり天の邪鬼だったりまあいろいろだったのだけれど、いずれにしても、誰に入れるかは公示前からほぼ決まっていた。悩んだこともあったけれど、そんなときは当日の気まぐれで投票した。

ところが今回だけは大いに悩む。

「生き方」の問題として反原発候補以外は考えようもなく、二者に絞られる。
宇都宮さんのほうが断然筋が通っており、知る限り反原発プロパーの人たちは宇都宮さんに投票が多い気もするが、選挙が社会システム(というくだらない存在)へのコミットメントである以上、社会的な(つまりくだらない)選択においては、一点突破のために悪魔に魂を売る、ていうかあえて妥協して数字という(くだらない)土俵に載るのが正当な筋なのではないか、とも考える。

この話は今度にしよう。
ブログ書くのもなかなか気合いと時間が必要なのですよ。なにしろ書き出すと長いからな。
いろいろ詳しく書けると良いのだけれど、結論を出して期日前投票に行き、「誰に入れました」だけは書くつもり。

都知事選その1~「原発はまさに都政の問題である」

さて、都知事選。

3.11から3年も経たないというのに、また、今でも原発のせいで10万人以上の人々が故郷を追われて苦しい思いを強いられているというのに、さらに、マトモに安全対策をしようと思ったらあんなもんは不経済極まりないというのに、もっと言えばこの先、甲状腺癌はもちろんのこと、被曝した子どもたちの健康被害が続々出てくることが充分予測されるのに、原発に群がる連中は、それでも再稼働、あわよくば新設まで企んでいる。

で、細川&小泉の出馬表明に慌てふためいて、「原発は都政の問題ではない」などと論点の誤魔化しに必死だ。

原発は、明確に都政の問題である。

東京は原発の立地体ではないが、最大の電力消費地だ。消費者が自分の食べるものについて、たとえば「中国の冷凍食品は怖いから買わない」とか、「浜松の鰻が食べたい」とか選択できるのは当然の話であって、自分たちが使うのであるから、「原発の電気は要らない」とか、あるいは逆に「原発の電気が一番だよね」とか、そういう判断をまさに都民がすべきである。
現状では、各電力会社は単なる一私企業であるにもかかわらず地域独占、という出鱈目な構造になっているがゆえに、僕なんかはもしも選べるのであれば高くても「反原発電力会社」から電気を買いたいが、それができない。例えて言えば、中国の冷凍食品が怖くても中国の冷凍食品しか売っていない。買うしかない。選択の余地がないのだ。

であれば、東京電力に対して「原発はやめろ」と言うほかない。
使う人間が選択するのではなく、いったい誰が選択するというのだろう?
都知事選における原発問題を「国のエネルギー政策」にすり替えるのはまったくの誤魔化しである。それとも、「エネルギー問題に地方が口を出すな」というのは、国家管理による社会主義的な計画経済をやりたい、ということなのであろうか?

それから。
福島第一原発はレベル7という史上最悪の事故であったが、それでも運良く、原子炉の爆発という事態は避けられた。

ざくっというよ。
福島第一原発の爆発は、「水素爆発」であった。つまり、建屋(コンクリートの建物)の中の水素による爆発で、建物は吹っ飛んだが、その中の原子炉は爆発しなかった。原子炉には穴が空いて放射性物質がダダ漏れ状態で、今でも大変な放射能汚染を引き起こしてはいるが、それでも核燃料の大半は原子炉の中かその近くに残っている。
ところが、2011年3月には、それよりも桁違いに大きな被害が想定されていた。
原子炉内の冷却水が沸騰して、「水蒸気爆発」により原子炉自体が木っ端微塵に吹っ飛ぶ、という事態である。原子炉内の核物質が爆発でドッカ~~ンとばらまかれる。
こうなると都民も避難を余儀なくされる。実際に当時の政府内では、秘密裏にそんな事態が想定されていたことが明らかになっている。

要するに、福島であろうと新潟であろうと、事故が起これば都民も当事者だ。放射能汚染に県境なんか関係ない。200~300㎞くらい、放射性物質は余裕で飛んできますよ。

というわけで、都知事選に関する記事の第1回はこれで終わり。
なぜならば眠いから。

今回のまとめは
「原発はまさに都政の問題である」
ということだが、次回は(もしも気が向いたら)、原発以外の論点を書こう。
簡単に言うと、「守銭奴どもの自由自在を許すな」ということだ。
そして、その先の最大問題が「宇都宮健児か細川護煕か」ということになるのだが、これは難しいよなあ。
単なる政治的選択ではない。投票という社会参加、ていうか「世界へのコミットメント」はどうあるべきかという、哲学的、倫理学的難問が突きつけられている。

まあ、気が向いたら書くよ。

紅白、幸せな家庭の幻想、泉谷、奴隷天国、ウィトゲンシュタイン

紅白の視聴率が半沢直樹を超え、年間トップになったという。( http://www.asahi.com/articles/ASG123VZQG12UCVL001.html )。瞬間視聴率が50%を超えたことも報じられらた。( http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/01/07/kiji/K20140107007336780.html

僕は紅白なんか興味なかったんだよね。ていうか子供の頃は嫌いだった。だって演歌ばっかなんだもん。演歌大好きな小学生なんか滅多にいない。
ところが思春期を迎え生意気にも恋心など持ち始めると歌謡曲に感情移入するようになる。僕が高校生だった1970年代後半は、歌謡曲の全盛期だ。1980年の紅白出場者一覧を見るとものすごい。( http://www1.nhk.or.jp/kouhaku/history/history_31.html
松田聖子と田原俊彦が初登場。郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹はバリバリ現役で、沢田研二は来るべき80年代の喧噪を「TOKIO」で予言した。石野真子、小柳ルミ子、桜田淳子、森昌子などなど、伝説の女性アイドル歌手たちも勢ぞろいだ。

あの頃の歌謡曲は良かったなあ。駄目になったのは歌手が自分で詞を書くのが一般的になってきた90年頃からだ。ルックスが良い歌が上手いという才能に加えて、なおかつ詞も書けるという人なんかほとんどいない。それなのに歌う本人に詞を書かせるものだから、くだらない歌詞が溢れかえる。

まあそんな話はきりがないのでここではやめておくけれど、とにかく僕は、若い頃はかなり一貫して「年中行事としての紅白」には興味なかった。

1970年代頃までは「家族団欒」の幻想が残っていた時代だ。じいちゃんばあちゃん、父さん母さん、そして子どもたちと、三世代揃って一緒の炬燵で紅白を見て、その後除夜の鐘を聞きながら近所の神社に初詣に出かける、という、いわば昭和的なステレオタイプの権化。それが「紅白歌合戦」であり、まさにそこが気持ち悪かったのだ。
だから「紅白」は、最も忌むべき「凡庸さ」の象徴だった。

さて。
時を経て、2013年から2014年を迎えた今、「幸せな家庭」のステレオタイプなどあるのだろうか?
「お父さんは馬車馬のように仕事をして大変だけれど、それでこそ必ず来年はもっと豊かになる」。そんな幻想に支えらていたのが(特に都市部における)昭和的ステレオタイプな「幸せな家庭」だった。でもそんな幻想はもう崩壊した。

今、アベノミクスを支持する人たちは「景気回復」ばかり唱えている。けどさあ、「景気回復」っていったい何? それでみんなが幸せになれるとでも思っているのだろうか? もう一度、1960~70年代のような「景気が良くなってみんながハッピー」的時代が来るとでも思っているのかい?

面倒だから細かいことはここでは書かないが、昭和の経済成長の再現はあり得ない。資本主義の内実が変わっているからだ。現代は、モノや実体経済に即した資本主義ではなく、(たとえば債権を証券化する金融工学みたいな)実体経済から遊離した数字だけのギャンブル的グローバル資本主義世界になっているからだ。
もしもアベノミクス的な景気回復、すなわち株価やGDP、貿易収支などの数字が良くなったとしても、それは、格差拡大によるものでしかあり得ない。貧乏人が豊かになるのではなく、守銭奴が今以上に金をもつ社会だ。

昭和的ステレオタイプな「幸せな家庭」イメージは僕は嫌いだった。だから紅白も嫌だった。
でもそれは、幻想ではあったが(僕のような天の邪鬼を除いて)みんなが同じ夢を持てた時代だったということでもある。ところが現代はもはや、そんな「経済的な幸せイメージ」を全国民が共有できる時代でもない。
「みんなが同じように経済成長を信じる」なんて、信じられますか???

かなり酔ってきたのでまあいいや。

そもそも今夜は、紅白の後半を録画したのを酒飲みながらテキトーに見ていて、身体が疼くので書き始めたのであった。

思うことはいろいろあるのだけれど、今夜はひとつだけ。

泉谷しげるが初出場とは知らなかったが、『春夏秋冬』は名曲だ。それこそ1970年代から僕がカラオケで歌ってきた曲。
紅白の映像はアップされていないので、ここでは、忌野清志郎、桑田佳祐らが参加している昔の映像を。


今日ですべてが終わるさ
今日ですべてが変わる
今日ですべてが報われる
今日ですべてが始まるさ

こんな、まさにRock'n'rollな歌を紅白会場のNHKホールで絶叫する泉谷は、客席を睨んでこう言った。
「おい、手拍子してるんじゃねえよ。誰が頼んだこの野郎」
それでも手拍子を続ける客席に向かって
「するなっていってんだよこの野郎」
そして、画面には映らなかったが、最終的には泉谷は、ギターを投げ捨てて怒ってステージを去って行ったのだった。

ここに僕は、泉谷しげるの紅白の凡庸さに対する苛立ちを感じると同時に、この名曲を思い出さずにはいられなかった。


エレファントカシマシ『奴隷天国』。
客席を罵倒する、宮本浩次の苛立ちこそ、まさにRock'n'rollの立脚点だ。
俺も糞だが、お前も糞だ。

もちろん、100%完璧に思いを表現できるなどと言うことは原理的に不可能である。
だが、それを十分承知の上で、それでもなにかを伝えようとする切実さこそがRock'n'rollであり、そこに挑む限り、僕らは客席を罵倒しなければならない
当然のことながら、客席への罵倒は己への罵倒でもある。

歌う前に「イエ~~~~~~!」が入る。
そういうのが昭和のロック的と感じる若い人も多いと思う。
紅白での泉谷しげるがまさにそうだった。宮本浩次も客席を罵倒したあと「イエ~~!」と叫ぶ。
これを「Rock'n'rollの作法」と言ってしまえばそれまでだが、僕はなんというのか、ウィトゲンシュタインの有名な一節を思い出してしまう。

人は哲学をする際に、
ついには分節化されていない音声だけを
発したくなる地点に達することになる

(『哲学探究』Ⅰ-261)

『奴隷天国』の歌詞は、貴様ら奴隷はよく聞いたほうが良いよ。この前忘年会で超久しぶりにカラオケ屋に行ってカラオケにもこの曲があるのを知った。練習して、今年の忘年会で健全な会社に呼ばれたら、これを歌って健全な連中を嫌な気分にさせてやりたいとも思ったのでした。

道埋るまで雪はふりつむ

あけおめなのだが、昨年父が亡くなったのでそれは言えないから、まあよろしくなって感じだ。

久しぶりに紅白なんか見ちゃってさ、ていうのも、天野アキ&足立ユイ、さらに天野春子、そして鈴鹿ひろ美が歌うということだったので、これだけは見ねば、ということで見ました。はい。

『あまちゃん』については、最終回のあとに書いた記事( http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11624596748.html )に書いたとおり。
2011年3月11日という、何百年先でも日本史の教科書に残らなければならない日(敢えて言えば、忘れることは許されない日)。
このドラマは、それと対峙し、格闘していた。

面倒だから前に書いた記事から引用だ。

我々はみな、あの日の凄惨な出来事を知っている。
でも、あの日以前も、昔からずっと南三陸市は存在していた。海女がいて、アイドルをめざす少女がいて、海沿いを一両編成のディーゼル気動車が走っていて、みんながそれぞれの生活を続けていた。それを我々はほとんど気にしたことがなかった。
そして、あの日のあとも、「あの日」を乗り越えようと、人々が生活を送っている。それも我々は、少しずつ忘れかけていた。

同じ日付を覚えているからこそ、そんな町と人々の姿に僕らは思わず拍手を送り、どんどん好きになっていく。
ドラマの中で「あの日」が来ることを知っているから、アキちゃんがそのとき何を感じ、どう行動するのか? 町の人々はどうなるのか、どきどきしながら毎朝見てしまう。


最終週の放送で、鈴鹿ひろ美が南三陸市の「あまカフェ」のステージに着物姿で登場し『潮騒のメモリー』を歌い上げたシーンでは、正直泣きましたよ。
薬師丸ひろ子の大女優っぷりを思い知ったのももちろん。

僕は物書きなので基本的には「ことば」で表現するしかないのだが、当然のことながら「ことば」で表現することには限界がある。なおかつ、たとえばテレビドラマのような「ストーリー」を作るとすれば、そのストーリーの本線に沿って、余計な部分は可能な限り切り落としていかなければならない。これは技術論だけれど、余計な贅肉がついていると、見る人は混乱し、ドラマに「乗れない」のです。
なので、特に(テレビドラマでも映画でも)商業作品においては、ストーリーの単純化がマスト条件。

とはいえ、物書きとすれば「俺の言いたいのはそんな単純なことじゃない」「そんなに薄くはない」とか思ったりね。

で、だ。
物書きが単純な「ことば」にしてしまうと薄っぺらくなってしまうところに、厚く肉付けしてくれるのが、役者の芝居だ。

鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)が歌い上げたのは、登場人物の心情だけじゃない。
つまり、アキちゃんやユイちゃん、天野春子やあまばっぱ、南三陸市の人たちの気持ちだけではないのはもちろんのこと、荒巻プロデューサーや水口マネージャーやGMT47の女の子たちなどなど、劇中人物の心情だけじゃない。
ていうか、劇中人物の心情、ではないのです。
鈴鹿ひろ美が歌ったのは、劇中(フィクション)登場人物の心情を超えて、2013年の僕らの心に響く声だった。

これはね、言い始めると長くなるし難しいのでざくっと書くが、劇中人物への感情移入というのはそんなに簡単ではない。
たとえば、劇中に裸足で画鋲を踏むシーンで彼が「痛い!」と言えば、見てる人は「彼が痛いんだろうな」とはわかるけれど、それがわかるだけでは「感情移入」とは言えない。
この「痛い」同様に、どんなドラマであっても、劇中人物が「楽しいんだろうなあ」とか「辛いんだろうなあ」とかは、表情ワンカットだけでほぼ誰にでも伝わる。
だけど、それだけでは感情移入はできない。「他人事」だからだ。

「他人事」ではなく「自分事」として感じてもらうことができるか。
これこそが、ドラマの肝であり、その「肝」を見事捉えたのが、南三陸市の「あまカフェ」で『潮騒のメモリー』を生声で初披露するという、薬師丸ひろ子の芝居だったわけだ。

2011年3月11日については、みんなが多くの思いを持っている。

これまでの生活を根本から覆された被災地の人たちは、怒りやむなしさ悲しさ、苦しみ憤りを感じているだろうし、東京にいても原発は許せないと立ち上がった人、被災地の復興こそが大事だとなにか行動を始めた人もいる。自分の生活は変えられなくとも署名や募金をした人も多い。

みんなの思いはそれぞれ違っている(はずだ)。
でも、それでも、鈴鹿ひろ美の歌は、そんなのすべてを包み込むような奥行きを持っていた。
だから僕らは彼女の歌にその思いを託すことができたわけだ。「劇中のこの人は画鋲を踏んだのだからきっと痛いのだろう」というだけの「他人事」ではなく、「自分の痛み」として、感じることができたというわけだ。

紅白では薬師丸ひろ子が南三陸市でのステージと同じ着物姿で登場した。
かなり涙。
の僕でした。

『あまちゃん』のこと書くつもりなかったのになあ。まあいいか。

いつもブログは酔っ払って書くが、今夜は特に飲み過ぎだ。僕はほとんどアルコール依存症だが、なんとか社会性を保っていられるのは「昼から飲まない」という己のルールを守っているからである。
夕方からは飲む。夜はもちろん飲む。朝まで飲む。でも、昼からは飲まない。(朝は寝ていて飲めないのでカウントしない)
上記規則の例外が、年間数日の「とても楽しい日」、および「正月」だ。

というわけで、大晦日の夜からずっと飲んでいるのだけれども、昨年つまり糞のような2013年に唯一とも言うべきまともな仕事をした作品が、夏前くらいにはリリースされます。
詳細は追ってこのブログでも紹介するけれど、3.11震災関連だ。
僕はやはり、「あの日」のことに対してどう向き合うか、という問いの中で生きていくしかないのだと思う。まあきっと早死にするだろうけれど、それまではずっと、3.11と対峙するしかないだろうと思っている。

冷蔵庫にビールがなくてさあ、泡盛の水割りを4杯くらい飲んで、ワンカップの日本酒飲みながら近所の大鳥神社で初詣して知り合いのアイリッシュパブで越後ビール2パイント飲んで、コンビニで買った南部杜氏『あさ開』720mlがそろそろ空になろうとしている。

吹きあるる
嵐の風の末遂に
道埋るまで
雪はふりつむ


大鳥神社の百円おみくじ。
「中吉」というが、これはほとんど「凶」ではないか?

でもまあ、「この道をゆけ」とか指図されたら最悪で、「雪で埋まって道は見えないよ」というのはずっとマシではあるが。