ファック原発 ファッキン国際禁煙デー | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

ファック原発 ファッキン国際禁煙デー

国際禁煙デーだってさ。
糞喰らえだな。

かなり久しぶりにブログを書くのに悪態から始まるのもどうかと思うが、まあこの話から。

僕は一日二箱以上のヘビースモーカーで、煙草をやめる気はない。35年間ずっとこの調子だ。
昔、「今日も元気だ煙草が美味い」という秀逸なコピーがあったが、体調が悪いとほんとうに煙草が不味い。それでもニコチンを摂取すべく火をつける。
そんな人生さ。
禁煙もしないし貯金もしない。ダイエットもしない。楽しく生きてさっさとくたばる。それが理想だ。

とはいえ、食べもの屋の禁煙に異議はない。これだけ煙草ラブの僕でさえ、寿司屋のカウンターで隣の席から煙草の煙が漂ってきたら寿司が不味くなる。寿司に限らず、食べもの屋はラーメン屋の禁煙だって良いと思う。
でも、バーやパブの禁煙はあり得ない。酒と煙草(とかシガー)を楽しむ場所だ。煙が嫌なら他へ行きな。

ロンドンでは、オリンピックを機に市内はパブも禁煙にしたらしいが、まるで気が狂っている。禁煙ファッショ連中の言いなりになって、東京がそんな愚かな街にならないことが願いだ。

煙を吸いたくない人や子どもとかが、無用な受動喫煙しないようにする。それで充分な話である。
ところが禁煙ファッショの連中は、喫煙は悪だという。
どうやら反原発の人の中にも反喫煙がたくさんいて、喫煙は原発と同様に悪だというのだ。

これは違うぞ、決定的に。

原発が悪なのは、「自分のケツも拭けない未熟な技術」のくせに、「腐った世界システム」がその温存を図っているからだ。

「自分のケツも拭けない未熟な技術」というのは、いうまでもなく何万年も残る放射性物質である。原子力で作られる核のゴミを無害化する技術はない。調子に乗って原子力を進めているが、そのゴミは処理できない。どっかに埋めればよいなどと、責任を先送りしようとしている。しかし、どこに埋めようがそのゴミは、何万年も何十万年も、放射能を出し続ける。要するに「臭いものに蓋」の幼稚な発想なのだ。

もちろん、「自分のケツも拭けない未熟な技術」というのは、原子力の他にもたくさんあるだろう。
科学技術というものは、「なにかに役立ちそうだ」という、功利主義的発想で発展していくので、ケツが拭けなくとも「これって便利でしょ」ということになればどんどん出てくる。
近代以降の科学技術は基本的にこういう感じであって、だから「自分のケツが拭けない技術」がすべて悪だということではない。(功利主義というのは大変愚かな発想だと僕は思うが)

ところがね、「ケツの拭きかた」を考えずに作った技術でも、出てくるうんこがあまりにも臭くて大きいということがわかれば、「ケツの拭きかたも考えとかなきゃヤバいじゃん」ということになる。

こんな僕でも、ゴミは分別して出すのだ。
毎晩僕の部屋から排出される何本もの缶ビールのアルミ缶は、再生されるのだろう。古雑誌もトイレットペーパーになるし、可燃物の焼却場はなるべく有毒ガスが出ないようにコントロールされている。僕は料理をしないのでコンビニでおかずを買うのだけれど、割り箸は「さくっと成長して環境に不可のない」竹製だったりする。

当然のことながらそんな取り組みがあっても100%の循環型サイクルができているわけではない。
でもさあ、少なくとも現代の日本では、「自分がうんこをするのなら、ケツの拭きかたも考えよう」という思想になっている。
だからこそ、「ケツが拭けないゴミは出すなよ」ということで、たとえばアスベストなんかは便利でも禁止で、それに代わる技術が誕生する。

このように、「新しい技術を開発するのは良いけれど、ちゃんとケツを拭けるようにしようね」というのが、現代日本の科学技術のありかた(ある意味で倫理観)なのだ。

この前『特捜最前線』のDVD借りて見てたんだけどね、1970年代の東京ではまだかなり滅茶苦茶にゴミを埋めていたようだな。証拠品を求めてゴミの埋め立て地を漁る「おやっさん」(大滝秀治)の姿があった。
きっと、若い人に「夢の島」と言ってもわからないと思うけれど、あの頃まではゴミはなんでもかんでも東京湾に埋めていたのだった。
だが今はそうはいかない。今でもゴミの埋め立てはあるけれど、あれから40年でリサイクルの思想は徹底、埋め立てゴミは激減した。

ところが原子力について言えば、夢の島以前の段階だ。
有名なキュリー夫人は19世紀の人で、1945年には日本に原子爆弾が投下され、1950年代からは原発が稼働しているのだけれど、その後いつまで経っても、核廃棄物(原子力で必ず発生するうんこ)を無害化する技術はできていない。

理論的には、ある放射性物質を「放射性なし物質」にすることはできるらしい。ただしその過程で、さっきなくした以上の放射性物質が出来上がったりするらしい。あるいはそんな手間暇かけるには莫大なカネがかるので誰もトライしないらしい。

(ここでは面倒なので核燃料サイクルについては書かない。ひとことだけ言っておくと、核燃料サイクル構想が実現すれば核のゴミは出なくなって一件落着、と思っている人がいるようだが、それはまったくの間違い。ウラン燃料だろうがプルトニウム原料だろうが、有害な核のゴミは出続ける)

要するに原子力というのは、己のうんこを見て見ぬふりして推進されてきたわけだ。
何十万年も放射能を出し続けるうんこに対して、抜本的な対策はなにもない。地下に埋めれば良いじゃん、というのがその野蛮な発想だ。

「自分のケツが拭けない」科学技術はいろいろあるが、なぜ、原発はケツを拭こうともしないのか? 科学者が実験室で研究しているのであればまだわかるが、なぜ、ケツを拭けぬままリスクの高い大規模な原子力発電所が許されてしまうのか?

それはつまり、「腐った社会システム」がその温存を図っているからである。

久しぶりにブログ書いたんだけどいよいよ酔ってきたなあ。

足早に行こうね。

日本で言えば、経産省の役人どもや電力会社、その株主。そして、そいつらを支える財界とか政治家とか。
そういった連中の自己保身を中心として回っている社会システムである。
原発がなくなったら「俺が」困るという連中の思惑が深く根を張っている腐りきった社会システムである。

(もっといえば、毎朝通勤電車に詰め込まれている社畜どもを筆頭とする、この社会システムを是としてのっかているお前ら全員なのだが、今日は面倒だからその話はしない)

「自分のケツも拭けない未熟な技術」+「腐った世界システム」の見事な結合。
ここに、原発の特異さと、だから悪である理由がある。

煙草の話に戻ろうかな。

僕はスノーボードが好きで、一番気持ち良いのは、アドレナリン全開でパウダーをぶっ飛ばすときと、リフトを降りて天を仰ぎながらの煙草だ。
当然、吸い殻は携帯灰皿に入れる。
煙草のフィルターは、何十年もしないと土に還らないらしい。

ところがどっこい、原発から出る核廃棄物が放射能を出し切るには、何十年どころか何十万年もかかるのだよ。

この先の文章は思いつきで追加。

58歳で亡くなった尊敬する先輩大編集者(Kさん)がいた。
肺癌だった。
僕は、肺癌と言われたら諦めようと思っている。Kさんも同じだったのではないかと思う。
で、入院中もピース缶を持って病室を抜け出し、こっそり煙草を喫っていた。僕もきっとそうするだろう。
すると、若い医者に見つかってとても怒られた。
今ここで煙草を喫おうが喫うまいが先は長くないだろうと、Kさんはわかっていたに違いない。
にもかかわらず、Kさんはその一本を最後に煙草をやめたという。
「彼が熱心だったからな」と、Kさんは語った。

自分では99%駄目だとわかっている。にもかかわらず「残りの1%」に賭けようという若い医者の気持ち。Kさんは、そこに触れてしまった。

でも、それからしばらくして死んでしまった。

僕だったらどうするだろうなあ。