語り得ぬものについては沈黙しなければならない。 -3ページ目

「対テロ戦争」など、定義上存在しない。

酔ったはずみでひとことだけ書こう。

『偽りの戦後日本』を読んだ。
偽りの戦後日本/KADOKAWA/角川学芸出版
¥1,728
Amazon.co.jp

正直言って『永続敗戦論』(http://www.amazon.co.jp/dp/4778313593/)の衝撃と比べると地味な感じはしてしまうのだけれど、これは何度でも繰り返し訴えていかねばならぬ話なのであって、つまりとても良い本です。
すなわち、米国に隷属する奴隷のくせにアジアの他の国々の人たちを見下すような薄汚い精神は、安倍政権共々葬り去らねばならない。

まあこの話は今はよそう。

なぜ突如ブログを書くのかと言えばこれは前述した通り酔った勢いなのであるが、『偽りの戦後日本』のあとがきでカレル・ヴァン・ウォルフレンさんが述べている一節に、なるほどもちろんそうだよな、とつくづく納得してしまったからである。

安倍首相が信じているような「対テロ戦争」など、現実には全く不可能です。今世紀に入ってからの「歴史」を振り返るだけでも、そのことは明らかになっている。「対テロ戦争」など虚構に過ぎません。テーブルについて和平交渉すらできないような相手との間で、戦争をすることなどできるはずもないのです。
(『偽りの戦後日本』p221)

この前「イスラム国の本(『漫画でわかるイスラム国』)を作りました」と自慢したばかりの僕であったが、こんな当たり前のことさえ気づいていなかった…。
お恥ずかしいばかりなので、素直に報告しておこうと思ったのだった。

「戦争」というのは「喧嘩」とは違う。
相手を攻撃する正当な理由(もちろん、それがでっち上げだった歴史は多々あるが)があった上で宣戦布告をし、終結にあたっては降伏や和平交渉をする。それが戦争だ。捕虜の扱いとかにだって国際法を遵守しなければならない。つまり、戦争というのは「ルール」があるのだ。
ところが、「対テロ」ということになれば、そこにはもはや「ルール」はない。これは、「戦争」ではなく「喧嘩」なのである。その意味で「対テロ戦争」など、定義上存在しない。

安保法案の国会審議を見ていると、安倍晋三君とか中谷君岸田君の答弁は目も当てられない。すなわち、論理性の決定的な欠如。あるいは、わざとそれを行うという倫理性の決定的な欠如。「ことば」に対する反省がなさすぎる。

「喧嘩」なのに「戦争」と言ってしまう無神経さも同様だ。

「テロとの戦争」など存在しない。テロと戦うのは「戦争」ではなく「喧嘩」である。

「喧嘩」しますか?
俺はやだね。

安倍晋三君の安保法案は「戦争法案」だと言われているが、ルールのある「戦争」ならまだましで、「喧嘩上等法案」になるかもしれないよ。

「漫画でわかるイスラム国」発売。そして、安保とイスラム

「漫画でわかるイスラム国」が発売になりました。
漫画でわかるイスラム国/PHP研究所
¥1,080
Amazon.co.jp
「アメリカはイスラム国に勝てない」(PHP新書) http://www.amazon.co.jp/dp/4569823637/ などの著者であり、テレビなどにもたびたび登場するイスラム専門家の宮田律さんに監修をお願いして、僕が構成や本文執筆をしました。

2月に後藤健二さんと湯川遥菜さんの人質事件が表面化したときは日本中が大騒ぎになりましたが、今ではまた元のように「俺らには関係ない世界の裏側の話」みたいな空気になっている。

でも、ここ数日間の報道だけ見ても、「イスラム国」がイラク西部アンバール県県都ラマディを制圧したというニュースや、人質事件に関しての日本政府の対応に関しての(およそ検証にはほど遠い杜撰な)報告書が発表されるとか、今日もシリア・パルミラの世界遺産で20人を公開処刑とか、毎日ニュースになっている。

で。大事なのは、「他人事ではないですよ」ということだ。

国会で安保関連法案の審議が続いているけれど、この法案が通ってしまうと自衛隊が「イスラム国」と戦うような事態が充分考えられる。「イスラム国」の日本敵視がさらに高まればおっかないことになりますよ。

そもそも、イスラム圏の人たちが日本に好意的なのは、千数百年に及ぶキリスト教vsイスラム教の戦争に加わっていないという理由が大きい。ところが、もしも日本が米国の手先として中東で軍事活動を行ったらどうなるのか?(後方支援だって立派な軍事活動だ) 9.11のときに大西洋を渡ってアルカイダが米国本土を攻撃したように、どんなに遠く離れていても日本だって他人事ではなくなるということだ。いいのかな?

というわけで、「漫画でわかるイスラム国」は、現在まさに進行中の日本の問題とも深くリンクしているイスラムについて、かなり基本的なことを網羅した本。

高校で世界史を勉強した人でも、イスラム世界と言えば「なんとか朝」→「なんとか朝」→「オスマン帝国」くらいしか理解していない。
これは、日本の世界史教育が欧米と、せいぜい東アジアが中心だからだ。
しかし、イスラムの世界から歴史を見てみると、まったく違った流れがあり、その上で、第一次、第二次世界大戦という近現代史を経て現在がある。
イスラムと欧米がどのように対立して現在に至っているのか?
あるいは、シーア派、スンニ派というような宗派対立、アルカイダと米国の関係やイラク戦争とは何だったのか。

そういう基礎的なことを、この本では書いているのです。
なので、イスラムや世界史をちゃんと学んだ人には「なんだよこの程度かよ」だと思いますが、「なぜ、イスラムと米国は仲が悪いの?」といような素朴な疑問を抱いている方には、かなり適切な説明ができると思います。

一時期「イスラム国はかなり劣勢」という報道もあったけれど、ラマディ制圧を見ると彼らが弱体化したとは思えない。最近では「1年以内に核兵器を持つ」と言っているぞ。

そういえば、この前閉幕した国連核不拡散条約(NPT)再検討会議は、核兵器保有国の我が儘で結局合意文書作成に至らなかったが、武器・兵器の怖さは、それが拡散することにある。つまり、そもそもは「敵を倒すため」と作った武器も、いつの間にか敵に渡ってしまうのだ。
「イスラム国」はたくさん武器を持っているのだが、その中には米国製も多い。米国がイラク軍やシリアの「反イスラム国組織」に武器を供与→戦闘に負けたイラク軍やシリアの「反イスラム国組織」から「イスラム国」が武器をかっぱらう、ということが続いているし、「カネ儲けのためならなんでもやる」武器商人どもの暗躍もある。こうして、武器というのは世界中に拡散していくのだ。

さすがに、「イスラム国」が戦場から核兵器をかっぱらうような事態は考えられないが、それでも、核兵器だって拡散すればするほど、それが過激派集団の手に渡るリスクは大きくなる。

今日の日経には、「(イスラム国が)ラマディを制圧したことに関し、カーター米国防長官が「戦意を見せなかった」とイラク軍を批判した発言が波紋を広げている」という記事があった( http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM27H3K_X20C15A5FF2000/
イラク軍がなぜやる気がないのかも、「漫画でわかるイスラム国」に書いてあります。

さて。

僕は、フリーの編集者としていろいろな本を作ってきた。
フリーであろうと出版社社員であろうと、編集者は普通、署名原稿は書かない。しかし、この本では久しぶりに著名原稿で「あとがき」を書かせていただいた。これは、「原発・放射能 子どもが危ない」 (文春新書/小出裕章・黒部信一著 http://www.amazon.co.jp/dp/416660824X/ )以来だ。

なぜ書くのかと言えば、編者として責任を被りたいからだ。
もちろん、どんな本でも編集者にはその本を編集した責任がある。だがあえて、それ以上の責任が俺にはあるよ、と語っておきたい。
安保法案問題なども含め、「他人事ではないですよ」と語気を強めて言っておきたいのだ。

「国」は、自明な存在ではない ~ 中東問題と沖縄が突きつける国家論

「イスラム国」関係の本を作っている。
詳細は発売日近くになったら宣伝するけど、マンガなんかがたくさん入った入門書。
で、僕は中東の歴史とか全然知らなかったのだが、今回、著名な専門家に監修していただき、いろいろ勉強してあらためて思うのは、国境なんて所詮、人為的なものにすぎないということだ。

みんな知ってるとおり、「イスラム国」が台頭するイラクとシリアの国境線に不自然な直線があるのは、比喩ではなくほんとうに定規で線を引いたから。
第一次世界大戦の戦勝国が、支配地域を分けっこするために引いた線が、今でも国境となっているのだ。

ヨーロッパの国境線も、歴史の中で今はここに落ち着いたというだけの話だし、ソ連崩壊後いろんな国が独立したときも、新たな国境が引き直された。
あるいは中東やアフリカの紛争国なんかだと、地図上には一応国境線が書いてあるが、実際は行き来自由、国境の管理なんか全然されていないこともある。国際社会公認の政府ではなく、地元のゲリラ組織がテキトーに管理していたりする。

言われてみれば当然だが、最初から地面に線が引いてあったわけではない。国境なんて後付けだ。
市民革命を経たヨーロッパでは、近代国家の概念が歴史的にも現実的にも妥当なものだと受け入れられているけれど、一歩外に出て中東やアフリカを見れば、国境や国家権力は、市民革命の理念とはかけ離れた植民地支配の亡霊にすぎないことが多い。

さて日本だ。

島国日本では、「国境」の意識がかなり低い。
昔から単一国家だったと思っている人が多いので、ヨーロッパ型の近代国家(≓国民国家)の感覚がするっと何気に受け入れられてしまっている。
だが本来、ヨーロッパ型の近代国家とは市民革命によって勝ち取られたものである。
そこをスルーして、ヨーロッパの国々と横並びの「国家」だと思ってしまっている。

安倍晋三君が「憲法が国家権力を縛るというのは王権が絶対権力を持っていた時代の考え方」と、マトモな大人とは到底思えない立憲主義否定発言を国会でかますのも、そんな無知、無明のせいだろう。

要するに「国」が自明の存在だと思っているから、歴史をすっ飛ばして、そんな間抜け発言が出てしまうのだ。
だがそれは断じて違う。
「国」なんか単なる歴史の産物にすぎない。

と言ってしまうと身も蓋もないので、日本の思想史を見ると「日本という国を基礎づける」思想、「日本国は自明の存在である」という考え方がたびたび現れる。
「国体」というのがその代表だろう。
僕は「国体」論はまったく腑に落ちず、理解できないし勉強不足なので、それについてはここでは深く言及しない。

ただまあ、
(1)「世界史を見れば国境の変遷は一目瞭然なように、「国」なんて所詮仮初め」という考え方の一方で、(2)「民族は自立し国家を樹立すべき」という考えや、(3)「我が国は最初から国家だったのだ」という考えもあるというわけだ。
(2)の考えは「民族ってなに?」というとても難しい問題を孕んでいる。(多民族が同居する米国は、本来の「国」の姿ではないのか?) (3)の考えはその根拠が圧倒的に貧弱だ。
たとえばイスラエル。国連の非難を無視してパレスチナ自治区を無差別攻撃したり、自分はNPT(核不拡散条約)に加盟せず核兵器を作り続けているにもかかわらずイランの原子力開発を非難したりと滅茶苦茶な国だ。
なぜそんな独善的なことを平然とやってのけるのかと言えば、イスラエルの建国思想が「聖書にそう書いてある」からだ。つまり、「パレスチナ(現在のイスラエルを含むあの一帯)は、神がユダヤ人に授けたもの」と旧約聖書に書いてある。そこから演繹して、アラブ人はパレスチナから追い出すべき、となる。
おいおい俺は聖書なんか知らん、というのが日本に住む多くの人の考えだろう。聖書なんか持ち出されても困る。
だが、日本でもしも同様に(3)「我が国は最初から国家だったのだ」と論じるのであれば、その根拠に何を持ち出そうとも、世界中から「おいおい俺は知らん」と言われるだろう。

いずれにしても、「国家なんか所詮歴史の産物」ではないのなら、いったい何だというのだろう? 神話や宗教を持ち出すのであれば、イスラエルや、「イスラム国」と同類だ。

「国家は、最初からこのようにあったものではない」「国は自明な存在ではない」
世界を見渡せば当たり前のこの事実を再確認した上で、じゃあ日本はどうなのよ、という話になる。

第二次世界大戦の敗戦で、日本はそれまで植民地支配をしてきたアジアの国々から手を引いた。だから日本は、「それまでの、本来の日本に戻った」と考える人が少なくない。どこも侵略していないし、もともと日本はそうだったのだ、と。
そんな感覚があるから、市民革命がなくても、近代国家(≓国民国家)として、欧米の国々と同じだと思ってしまうのだろう。

だが、少なくとも沖縄について言えば、それはまったく違う。

日本政府は、1854年3月に江戸幕府と米国間で結ばれた「日米和親条約」が、日本が「国際法上の主体」として締結した「最初の国際約束」であると閣議決定した。つまりこの段階で日本が国際法上の国家となった、というのが政府の公式見解である。
ところが、その後の1854年7月11日、琉球王国は米国と修好条約を結んでいる。
つまり、当時米国が認めた「日本国」の中に、琉球は含まれていなかったのである。1854年から59年にかけて、琉球王国は米仏蘭と修好条約を締結している。日本とは別の、国際法上の主体たる国家であったのだ。
にもかかわらず、日本政府は琉球王国を制圧し、1879年の「琉球処分」で「沖縄県」にしてしまった。

繰り返すが、「国」は自明な存在などでは決してない。
日本は最初から今のような日本であったのではない。独立国家であった琉球王国を侵略して、現在の日本地図が出来上がっているのである。

沖縄の辺野古新基地問題を巡って、ネットにはいろんな意見が書き込まれているが、翁長県知事や沖縄で基地反対運動に取り組む人たちに対するこんな悪口が多くある。
「県よりも国のほうがエラいに決まってるじゃん」

この悪口バージョンは「沖縄県民は非国民」のような知性を疑うようなものから、「国防は国の専権事項」みたいなものまでいろいろあるようだが、いずれにしても、国と地方、国と国民の関係について、根本的な問題がほぼスルーされている。

まずは「国の下に国民がいる」のではない、という近代民主主義国家の当たり前の考え方である。
「国があって国民がいる」のではなく、「国民が国を認めてあげている」のだ。これが最初の大原則だ。(この大原則を否定するのがファシズムである)

そして、沖縄の歴史。

沖縄戦や米軍統治時代の話はここではしない。だが、「琉球王国」という国家の主権が踏みにじられて「沖縄県」とさせられた歴史的事実だけをとっても、「日本は大昔からこうだった」と疑わない人たちのあやふやな国家観、さらに「沖縄は我が儘だ」論を封じるのに充分ではないだろうか。

「国」なんて、単なる歴史の産物だ。
だからこそ、盲目的に「日本はひとつ」などと思わずに歴史を直視せよ。

「イスラム国」と沖縄新基地問題が突きつけたのは、図らずとも同じ、国家論の問題である。

今日は宣伝! 満席御礼~3.11関連ドキュメンタリー(劇場公開初日)

3.11後災害派遣で被災地に赴いた海上自衛隊隊員と、被災者、遺族の方々のその後を描いたドキュメンタリー作品『ポセイドンの涙』が、昨日(3/7)劇場公開されました。
大島孝夫さんと僕の共同監督作品です。
http://www.is-field.com/poseidon/index.html

いろいろ思うところはあるのですが、それは前回の記事( http://ameblo.jp/jun-kashima/entry-11989183689.html )を。
今日は単純に宣伝だ!

60人規模の小箱で今のところ一日一回午前中だけの上映なのですが、お陰様で初日は満席御礼でした。

ナレーションをお願いした榎木孝明さんの舞台挨拶のおかげで、日テレとテレ朝のwebニュースに掲載されています。
http://news.tv-asahi.co.jp/news_geinou/articles/hot_20150307_180.html
http://www.news24.jp/entertainment/news/1637943.html

3/9朝のTBS『いっぷく』では、本作の出演者にTBSがあらためて取材した映像を交えて、作品紹介をしていただきます。
それと、月曜発売の『週刊プレイボーイ』にも2ページの記事が載ります。

あと、これは受信できる地域は限られますが、3/13 21:30~千葉テレビのニュースで作品紹介とスタジオ収録の監督インタビューをしていただいたり、J-WAVEなどFMの震災関連番組などでも紹介してもらいます。

Yahoo!の映像トピックス(映画)の日別ランキングでは結構いい感じです。
http://videotopics.yahoo.co.jp/ranking/videolist/official/movie/
コロコロ変わるのだと思われますが、今のところ(3/8 03:00)一位です。

Yahoo!映像

ほんとうに今回は宣伝のみなのですが、超低予算作品なので、地味にふれてまわるしかないのです。

興味のある方はぜひどうぞ。

3.11をテーマとした作品を劇場公開します

ほんとうはこの日までに諸々ブログに書いておこうと思ってたのでした。
ところがなんかだらだらしてるうちに時は流れていくのである。

大島孝夫さんと僕が、共同監督として手がけた『ポセイドンの涙』が劇場公開されます。

3/7~ ヒューマントラストシネマ渋谷
3/14~ 大阪シアターセブン
その後、東北、九州etc.でも上映予定。

昨日がそのプレスリリース日でした。
3.11にまつわる映画です。
反原発映画ではありません。自衛隊です。

http://www.is-field.com/poseidon/

災害派遣で被災地で活動した自衛隊員は当時何を思っていたのか、そして今何を思うのか?

海上自衛隊の全面協力でそれを追ったドキュメンタリーです。

たとえばね、
第二次大戦で米国は大量の機雷を敵国日本の沿岸に沈めたわけで、70年も経った今でもその処理は続いている。
その作業にあたっているのが海上自衛隊の掃海部隊。潜水服を着て海に潜り、不発弾の処理などをする。(集団的自衛権の問題に絡んで安倍晋三君が「ペルシャ湾の機雷撤去」の話をしたが、まさにそういう任務の人たち)
で、そんなダイバー部隊の人たちの震災後の任務は何かというと海の中での遺体捜索だった。

みんな知ってると思うけれど、海の中の遺体はものすごく悲惨です。腐敗してガスが出て身体が膨張しパンパンになる。身体がちぎれていたり、魚に食べられていたりもする。
そんな遺体を、彼らは毎日何十体も海の中から引き揚げていたのです。
しかも、地上部隊の隊員であれば(生きている)被災者の人たちから感謝のことばをかけられたりもするけれど、ダイバー部隊の任務は遺体を陸に揚げるところまで。被災者から直接感謝されるような場面もまずない。

いったい彼らは何を思って任務を遂行していたのか、そして、今何を考えるのか?

みたいなことを1年かけて取材、何度も何度も被災地を訪れ撮影して回ったのでした。

世の中には、「自衛隊」と聞いただけで眉をひそめるサヨクの人もいるし、「反原発は中国の手先の売国奴」と決めてかかるウヨウの人もいる。

でもさあ僕はずっと言うように、そういう古典的とも言える左右対立図式は今や一切無効だと思うのだよ。
特に問題なのが、マルクス主義的唯物論を信仰して「反原発なら反自衛隊でなければ筋が通らない」と考えるような昔ながらの左翼的嗜好のみなさん。それから、ネトウヨというのは僕はよく知らんが、要するに自分のアタマでなにも考えずに、「中国ムカつく」「韓国ムカつく」「市民運動ムカつく」「反原発ムカつく」とか一直線に思ってる馬鹿な反知性主義の人たち。

僕は安倍政権を一切支持しない。
でも、自衛隊は日本にとって必要な組織だと思う。

ネオリベラリズムの財界人や御用経済学者などは人として屑だと思ったりするが、僕が取材した海自の人たちは素敵な人格者がたくさんいた。

まあ僕としてもそんないろんな考えがあるわけですが、あの震災で何が起きたかのか、そして、人は何を思い何を考えたのか。そういうのをいろいろ聞いて何らかの形にしたいなあと考えていたのでした。

被害に遭った人と遭わなかった人、助ける人と助けられた人がいる。
もちろん、被害にあった人、助けられた人の哀しみはとても深い。
でも、被害に遭わずに「助ける」側だった人も、哀しんでいるし、場合によっては自責の念に駆られている。
それをひしひしと感じて、作品にまとめようと思ったわけです。

最初に言ったけど「この日までに書いておきたかったこと」があった。
たとえば「国家とはどういう事態なのか?」(国家は「実体」ではなく単なる「事態」だよ)とか、「軍隊について善だ悪だと言うような議論はどのように存在してしまっているのか」とか、もっと言えば、今「イスラム国」の本を作っているのだけれど、果たして日本は、というか日本国の主権者である我々は何をどう問題にして詰めていくべきかとかね。
そういうことをいろいろ語っておきたかったのだけれど、朝は寝てるし昼は二日酔い、夜は酔っ払っているのでまとめられませんでした。

週刊文春は毎号読んでいるのだが、最新号で大好きな連載、町山智浩さんの『言霊USA』が、クリント・イーストウッドの『アメリカン・スナイパー』( http://wwws.warnerbros.co.jp/americansniper/ )について書いている。
日本公開は2/21で、僕もまだ観ていないので作品についてきちんと語ることはできない。
ごめん、でもあえて書くよ。

町山さんの原稿を読むと、米国ではこの作品に対して、そもそもの問題設定を間違えている人が(いわゆる)右派にも左派にも大勢いるようだ。
イラク戦争で160人以上を射殺した米国海軍特殊部隊SEALsの狙撃兵の物語。
右派からは「この作品を批判する奴は反米、売国奴だ」と声が上がり、左派は「戦争を美化するな」と糾弾する。
でもさあ、町山さんの原稿を読む限り、あるいは、『許されざる者』とか他のクリント・イーストウッド作品作品を見る限り、この話はそもそも、「敵か味方か」的なイデオロギーに還元されるような安っぽい問題ではないのである。

もちろんクリント・イーストウッド作品と僕の作品を比べるなんて失礼極まりない。
けどそれを承知の上で言うが、僕のこの作品もイデオロギーというようなくだらない話ではない。
もしよかったら、みなさん、観て下さい。

まずは
3/7~ ヒューマントラストシネマ渋谷
3/14~ 大阪シアターセブン

もう一度書くぞ。

3/7~ ヒューマントラストシネマ渋谷
3/14~ 大阪シアターセブン

よろしく頼むよ。

イスラム国事件~日本の動揺と国家論の未熟さ

ほんとうは、4年目の3.11に向けて、体系的なことを書こうと思っていたのであった。
これまで原発問題、沖縄問題からマクドナルドまでいろいろ書いてきたけれど、そう言った個別の問題についてではなく、「考え方そのもの」と言っても良いような哲学的な問題、たとえば「存在について」とか「分析哲学で正義が語れるのか」とか「そもそも語り得るとはどういうことか」とか、その種の話から、流行りのピケティ『21世紀の資本』について、あるいはナショナリズムの問題、国家と戦争、軍事まで演繹しようと企んでいたのだ。
昨年末からそんなことを考え、書き散らかした断片的なテキストファイルは山のようにある。だけどどれだけ書いていても全然体系化されない。
「答」を用意したいのではない。「問い」を体系化したい。もちろん高級な体系化など無理だ。稚拙でも良いので、僕の考えていること、問題を感じていることを、「問い」として積み上げるような文章をまとめておきたい。3月11日までに何回かに分けてそれを書こう。そう考えていたのだ。

でも全然駄目。己の無能に嫌気がさすばかりだ。

そんなある日、とんでもないニュースが飛び込んできたのである。
イスラム国による日本人人質の身代金要求と殺害予告。

ええええええええ!

「体系的な文章」では「国家」のことも書こうと思っていた。「国家とはどういうことか」という問題だ。「イスラム国は国なのか?」
世界中のほとんどが国として認めないという意味では当然イスラム国は国ではない。
でも、権力機構と統治されている人々、土地があるという意味では「国もどき」と言えるかもしれない。
そもそも「国家」なんていうのは最初から存在していたものではないのだ。
大昔から、部族の長や地域のボスや、まあいろんな人が土地と人を支配していたわけだが、そんなのは「国家」概念にはほど遠い。日本のような島国にいると「列島=国」となんとなく思ってしまい、「国家」が太古の昔から存在していたように錯覚するが、それは、現代の我々が世界規模で共有すべき国家概念とはまったく違う。

とかさ。
まあ国家論の意味でイスラム国のことを書こうと考えていたのであったが、突如としてそんな悠長なことは言ってられなくなってしまった。

4年前の東日本大震災。
地震、津波は天災だが、原発事故と進まぬ地域再生は人災である。この悲劇によって、日本の駄目な部分、腐った部分が一気に可視化された。
当時は「第二の戦後」などと言われ、これを契機に日本をマトモな国にしていこうという議論が沸き起こった。
結局のところ以前よりもっと駄目な国になってしまったのだけれど、それでも、日本をマトモな国にしようという議論や人々の取り組みはずっと続いている。
原発再稼働を問う運動や中央に依存しない地域再生への挑戦、また「国家とは何か」という問いかけである。

特に「国ってなに?」「日本ってなに?」という議論は、3.11以後、ずっと反芻されてきた。
昨年、沖縄では県知事選、衆院選など主要選挙ですべて自民党が敗北した。これ以上基地を押しつけるなという県民の怒りの声である。県知事選で圧勝した翁長さんは安倍晋三君の掲げる「日本を取り戻す」というスローガンに対して「そこに沖縄は入っていますか?」という、かくも鋭く本質を突いた名言を放った。
そんな、沖縄の人々の選挙での圧倒的民意というかたちで我々に突きつけられたのも、「国ってなに?」という問題である。

というわけで我々は、3.11から4年、そこで提起された「これでいいのか日本?」というドメスティックな問題と未だ格闘中であった。
もちろん、対中対韓といった問題もいろいろ発生し、中国はほんとうに無礼なのでみんなの怒りを買い、その上低能なネトウヨやレイシストが騒いだりしてあらためて日本の品格が問われたりもしたが、結局のところ東京から2000㎞範囲内の話をしていたのだった。
ファッキングローバル新自由主義の蔓延で、経済の話は世界中と直結している。ところが、政治の話となるとたった2000㎞範囲内だ。(せいぜい2000㎞+米国)

要するに我々は、その程度のことしか考えていなかったのだ。イスラム国なんて他人事と、眼中になかったのである。

別の言い方をしよう。
戦後、あまりにも間抜けに生きてきた日本人であったが(もちろん僕もだ)、3.11を契機に、この国のありかたを考えた。
だが、それがまだまだ未消化な今、突如として混沌としてワケのわからないアラブ世界の無法者からのナイフが喉元に突きつけられたのだ。

ええええええええ!

国民の多くが原発再稼働や集団的自衛権に反対しながらも総選挙では自民党が勝ち、ところが県知事選では自民全敗という日本のぐちゃぐちゃぶりは、すなわち哲学の欠如あるいは思想の錯綜であり、そんなときに地球の裏側から日本人の斬首写真がアップロードされるという突然の事態に、みんなついていけない。
今、インターネットが世界をフラットにし、ちょっとした情報(たとえば猫のびっくり動画とか)が瞬く間に世界中に拡散されるという状況については、多くの日本人がリアリティを持っている。でも、イスラム過激派による現実の日本人殺害が検索上位日本語のハッシュタグ付きで拡散されるなど、予想もしていなかったのだ。

それがこの一週間の日本の動揺である。

ここで立て直すべきは国家論だ。
3.11で立ち上がった、ドメスティックな意味での国のありかたについての議論を深めるべきなのは言うまでもないが、今、ここにある現実の国家のありかたを考える場合、アジアや米国だけを見ていたのではもはや追いつかない。
たとえば、多くの日本人には想像もできない一神教への洞察や、宗教、民族、血でつながる憎しみの連鎖、さらに野生化した弱肉強食のグローバル市場主義。
そんな、入り組んだレイヤーを重ねた世界地図を描かなければ、国家は理解できないし、日本がどうあるべきかも語れない。

2015年1月20日に公開されたイスラム国による日本人人質の身代金要求動画によって明確にされたのは、我々の国家論が抱えていた致命的な見落としである。もちろん、米国の腰巾着となって正義漢面しろということではない。だが、我々は現実に首を切られてその映像をばらまかれるかもしれないというリアリティ。3.11以後問われてきた「日本のありかた」議論において、それを無視するわけにはいかなくなった。悲しいけれど。

というわけで、これまで目論んできた「体系的な文章」は今は諦めます。
これだけの出来事があったのだ。僕が体系化して何になる?
ひとつひとつ書くしかない。

最後になりますが、後藤健二さんの解放を心から祈ります。
また、日本国内のニセ愛国者等が事件と関係のないイスラム教徒への差別的な攻撃をしないことを願うばかりです。

マック「ポテトSだけ問題」は、日本の将来の問題である

昨日のニュースではあれだけ言っていたのだからもうちょっとそういう話が出てくるかと思ったのだが、さっき「マック ポテト TPP」で検索したらそれらしいのがほとんど出てこなかったので書いておこう。

マックフライポテトの原料は米国から輸入しているわけだが、輸送ルートの米国西海岸の港で労使紛争があって、芋が日本に入ってこない。足りなくなってしまった。そのため日本マクドナルドでは「安定的な調達のめどが立つまでの期間」(同社HP)、ポテトはSサイズしか売らないことにした。

ニュースでは「Sサイズじゃ物足りないので二個買ってしまうかもしれません」と言ってる町の声や、ご丁寧にグラム単価を計算して「Lサイズ分食べると割高になる」とか報じていて呆れてしまったのだが、そんなことはどうでも良いのだ。

西海岸の港の労使紛争なんて、知ってた人いるかい?
そんな、これまで誰も知らなかったような出来事でマックは大騒ぎだ。(日本マクドナルドでは、港が駄目ならということで芋を空輸するらしいが、ものすご~~~~~く高くつくはずだ)

輸入に頼るからこの始末なのである。

もちろん、マックのポテトが食べられなくなったってそんなに困る人はいない。
でも、豚肉も牛肉も小麦も食べられなくなったらどうするのか?

今回の出来事で考えなければならないのは、食糧自給率の低下はものすごいリスクだと言うことだ。

農水省のHPから持ってきた食糧自給率の図。(http://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/011.html

日本の食糧自給率
「港の労使紛争」ならまだ良い。だが、どっかの国が「日本には食料を輸出しないよ」と言い出したらどうなるのか?
「西側先進国はそんな意地悪はしない」という人がいるかもしれない。だけど世界規模で見ると人口はどんどん増えているのだよ。輸出国が優先的に日本に食料を売ってくれるなどと言うのは甘いのではないのかな。

食料というのは国家の安全保障の大きな柱なのだ。安全保障というと軍事のことだけと思う人がいるが、食料やエネルギーもそれと変わらない大事な問題だ。(これはまた別の機会に)

自給率が低いと兵糧攻めに遭うぞ。大袈裟に聞こえるかもしれないがそうではない。国民の生命線を外国に握られてしまうと言うことだ。

TPPに賛成する人たちと話していると「農協の既得権益が薄汚い」とか「農家は努力せずにカネをもらっている」などという。
そうかもしれない。
けどさあ、これは国内問題として考えるべき話なのである。「農協憎し」の気持ちもわかるが、だからといって規制緩和の名の下に荒療治を施せば、日本の食糧自給率はどんどん下がる。
だって米国なんてあの広い領土がほとんど畑ばっかで、そこを農業メジャー(大資本)が超低コストでどんどん耕しているわけだ。価格競争で日本の農家がかなうわけがない。

「ブランド力を高めていけば良い」という人がいる。
もちろん日本には、とても美味しくて質の高いブランド農作物がいろいろある。
なんとか牛とか、なになに苺とかさ。梨も林檎も豚も鶏も、なんでもある。
でも、みんなそれをいつも食ってるの?

「農家が経営努力して農作物の質を上げるべきだ」というのは別に良いのだが、だからといってブランド品が日本人の毎日の食卓にあがる食べものになるわけではない。グローバル経済の中で、そういう高級品は国内、国外の金持ちに供給されるからだ。
多くの日本人はブランド肉やブランド果物を毎日食べることはできないわけで、結局外国産の安い肉(自給率8%)や安い果実(自給率39%)を食べざるを得ないのである。

マックフライポテト事件の本質は、「TPPなんかやったら、肉も小麦も大豆も乳製品もこうなりますよ」という話である。

それにしても「日本を取り戻す」と言う安倍晋三君がTPPに乗り気なのが不可解極まりない。食料という大事な安全保障の首根っこを外国に掴まれて、ますます弱い国になるぞ。

『ハッピークリスマス』は、「幸せ」を問いかける「反戦歌」である。

さっきもテレビ見てたら流れてきたのでどうしても今日書いておかねばと言う気持ちになって酔ったアタマでパソコンに向かう。

クリスマスが近くなってくると街でもテレビでも、日本中で聞こえてくる曲。
ジョン・レノンの『ハッピー・クリスマス』である。
ジョン・レノンは知らなくてもこの時期にこの曲を聴いたことがない人はまずいないだろう。

大変美しい曲なので、「クリスマスって幸せだよね」なソングだと思ってる人が多いようだが、それは違うぞ。この曲は『反戦歌』なのである。
オフィシャル動画を見よ。綺麗なツリーやラブラブカップルなんか出てこないのだよ。
歌詞をよく聞け。浮かれてる場合じゃない。


https://www.youtube.com/watch?v=yN4Uu0OlmTg


僕的には、もしもこのPV見たことがない人がいたら見てくれるだけで充分なのだが、せっかくなので原稿も続けます。「時間ねえよ」という人は原稿は読まなくて良いのでPVは是非とも見て下さい。

最後にテロップで出てくるガンジーの言葉、“An eye for an eye will make us all blind.”。
僕にはなかなか上手く訳せないが、「『目には目を』が人を盲目にする」とでも言おうか。

「やられたらやり返せ!」というのは、「憎悪」のみからではなく、それ以上に「恐怖」から生まれる気持ちである。(憎悪と恐怖はある意味表裏一体だ)
怖くて怖くてビビりまくってしまう。だからなにも冷静に見ることができなくなってしまう。

9.11同時多発テロ以降の米国がまさにそうだった。テロとはなんの関係もないイスラム教施設やムスリム、イスラム教徒、さらに中東の人たちへの嫌がらせが全米で頻発した。
マトモな神経の人であれば、「平和に暮らしているアラブの人たちを攻撃するなんて、テロとの闘いじゃないだろ」とわかるはずなのに、怒りと恐怖でアタマに血が上った単細胞にはそれすらわからない。日本のヘイトスピーチも同じようなものだ。

クリスマスと言えばそもそもはキリスト教の記念日であるが、ジョン・レノンはキリスト教に対して根本的なところで否定していた。
1966年、THE BEATLESが売れに売れまくっていた頃。「僕らはイエスよりも人気がある」と言って米国を中心とした保守系キリスト教団から総攻撃されたとき、「僕は反教会でも反キリストでもない」と若いジョン・レノンは釈明したが、本心では「宗教なんてFuckだ」と思っていたに違いない(と僕は思う)。

だいたい米国の保守的キリスト教団なんかろくなもんじゃないからな。未だに「同性愛者は焼き討ちにしろ」的なことを言っているようだ。東京ドーム何個分みたいなメガチャーチに何万人だか集めて「神様に感動」大会をやっているらしい。米国の田舎の白人は馬鹿が多い。共和党の大きな支持基盤だ。

THE BEATLES解散の翌年の1971年、ジョンは今でも彼の代表曲のひとつとされる『IMAGINE』をリリース。
そこでは、「国家」や「所有」とともに、「宗教」を否定した世界感が描かれた。
「やっぱ宗教なんてかなり変だ」
これが、若い頃から一貫して彼が問い続けた続けた考え、あるいはリアリティなのだと僕は思う。

それでもジョンはクリスマスの歌を歌う。
「Happy Xmas (War Is Over)」は、毎年耳にするしその音はまったく古さを感じさせないので「新しい曲」だと思っている若い人も多いみたいだけれど、“No religion”と歌った『IMAGINE』と同じく1971年に発表された曲である。

当然、主イエスに感謝しようという宗教的なメッセージではない。
なおかつ、ここが大事なのだが「恋人や家族と過ごす幸せなクリスマスのデコレーション」として作られた曲でもない。街に飾られたクリスマスツリーとはワケが違うのだ。

「嫌な現実を忘れて今宵は幸せな夜を」と言っているのではなく、むしろ逆。
「現実を見ろよ。幸せになれない人、虐げられた人、傷ついた人、弱い人たちの幸せを考えろよ」と歌っているのだ。
この曲は「反戦歌」であるが、くだらないイデオロギーの主張ではない。「幸せ」の問いかけである。

詳しいことは知らないけれど、映像は1971年リリース当時のものではなく、比較的最近になって制作されたものを音楽に載せている。この曲が、ハッピーすぎる数多の凡庸なクリスマスソングのひとつとなってしまわないようにというジョンの意思を汲んでオフィシャルPVとなったのであろう。

僕だったらさ、戦争関係の映像だけでなく、爆発してボロボロになった福島第一原発の建屋の画や、未だに仮設住宅で厳しい生活を強いられている被災者の人たちの画を入れるね。
東日本大震災被災者のための仮設住宅は、ピーク時に12万戸あまり。それが3年以上経った今年7月、まだ9万7千戸も残っているのだ。
弱い人たちは置いてけぼりだ。ラブラブクリスマスや、株価高、東京オリンピックみたいな浮かれた話をしている場合かい?

1980年の今日(現地時間12月8日、日本時間12月9日)、ジョン・レノンはニューヨークの自宅前で射殺された。

高校3年だった僕は、当時毎晩のように地元国立市のバーとか音校並びの養老乃瀧とか駅前の赤提灯「さかえや」とか、あるいは一橋大学構内瓢箪池とかで飲んだくれていたのだったが、その日はやっぱ「ペニーレイン」だった。

原宿の「ペニーレイン」は吉田拓郎の歌で有名だったが国立旭通りのペニーレインはそれとは全然関係ない。
BEATLESが好きで、Rock'n'rollが好きなお姉さんがひとりでやっていたロックバーなのである。僕らは「ママさん」と呼んでいた。ごめん、高校3年生の僕らにはおばさんに見えたのだ。
そこで僕らは、ClashとかJamとかSex Pistolsとか、もちろんJohn Lennonとか聞きながら、サントリーホワイトを浴びるように飲んでいたのだ。

しかしその日、いつもは元気なママさんがず~~っと泣いていたのを覚えている。
僕らは子どもだったので泣き続ける年上の女性にどう対応していいかわからず、柿の種をつまみにひたすら飲み続けているだけだった。

僕はと言えば、ジョン・レノンの死を境に、その後15年ほど音楽をほとんど聴かなくなった。だから1980年代の音楽は全然知らないのである。
日本はバブル、つまり価値の崩壊と、灯滅せんとして光を増す時代へ突入した。

ええと、今日はジョン・レノンの話であって清志郎ではないのだが、やっぱこれかな。
素晴らしい日本語訳。


https://www.youtube.com/watch?v=hNSaDij31dw

2007年12月8日。ジョンの命日に行われた「ジョン・レノン スーパー・ライヴ」より。忌野清志郎は、その前年に喉頭癌が見つかって音楽活動を一時休止。体調不完全なままステージに立った。

ついでだが、ユニセフの世界的キャンペーン『イマジン・プロジェクト』のCMが昨日(日本時間12/8)公開された。都内の屋外ビジョンなどでも流れるらしい。(http://www.unicef.or.jp/news/2014/0178.html
上で紹介している2007年の「ジョン・レノン スーパー・ライヴ」の映像が使われている。(https://www.youtube.com/watch?v=iWH7IItEMMo
世の中にはまだ少しはマトモな人がいるんだなと思えるお話。


https://www.youtube.com/watch?v=RtvlBS4PMF0

沖縄県知事選

有利に闘っているという情報は聞いていたけれど、投票締め切りの午後8時直後にNHKが速報を流したのを始め、テレビ、新聞各社が雪崩を打つように沖縄県知事選での翁長雄志さんの当確を伝えた。
また、翁長さんが那覇市長を辞めて県知事選に立候補したため空席になった那覇市長選も同時に行われたが、ここでも翁長さんと共闘してきた城間みきこさんの当確が出た。

僕は選挙権を持って30年以上になって、この間八割方の選挙では投票に行ったのだったが、僕が投票した候補者の当選というのは覚えている限り一度もない。
この僕が推す候補が当選しないなんて、国も都も目黒区も渋谷区も政治的には糞である、でもまあ政治なんていうのはそもそもその程度のくだらないものだから仕方ないよな、と思っていたのだった。

それでも僕が投票所に足を運ぶのは、このルールで政治にコミットメントすることが今は最善だと思われるからだ。民主主義というのは駄目な政治思想だが、しかし現状では一番マシである。今のところ、クーデターや暴力革命は御免被りたい。だから投票には行く。
とはいえ現代の日本は、衆愚政治の成れの果て。みんなが、目の前の札束とか自分の社会的立場とかばっか気にするから、何万年も毒をまき散らす原子力発電を許すような政治がまかり通るのだ。

というわけで、日本本土の政治にはほとほとうんざりしている僕なのだが、今回、沖縄は違った。

本土での選挙の場合、世論調査で「何を一番重視しますか」と問われると、多くの場合、「景気」とか「経済」が一番に挙がる。
田舎で自民党が勝つのは、田舎ならではの地縁血縁、自分の仕事に直結した地域の利益構造や汚い利権構造が第一の要因だと思うけれど、都会でも自民党が勝ってしまうのは、多くの有権者が自分の足元しか見ずに「景気が良くなれば自分も家族も安泰だろう」と恐ろしく安易に考えてしまうからだ。
たとえ株価やGDP的な数字で景気が良くなったって利益は一部の人間が独占するだけなのに、そんなことすらわからない。
だから、都会の世論調査で原発再稼働や特定秘密保護法に反対の人は多いのに、選挙をすると自民党が勝ってしまう。衆愚。

沖縄県知事選も、前回(2010年)の選挙前の世論調査では「景気」や「経済」を重視する人が一番多かった。
そして、前回は自公が推す仲井眞弘多氏が当選した。仲井眞氏も公約では普天間基地の国外・海外移転を約束していた。
ところが仲井眞氏は昨年末、突然公約を破り「普天間基地の辺野古移設OK」(新基地建設のための埋め立て承認)と言い出してしまう。
で、「これで良い正月が迎えられる」と宣ったのだった。

面積で言えば日本全体のわずか0.6%にすぎない沖縄に、日本全体の74%の米軍基地が居座っているというのは誰でも知っている異常な事態だが、それらは沖縄県民が「ここに作っていいですよ」と差し出したものではない。米国に無理矢理奪われたものだった。
ところが、仲井眞氏は新基地建設のための埋め立てを承認、つまり、戦後初めて、自ら進んで沖縄を売ったのである。

これには沖縄の人たちが怒った。
だからこそ、今回の沖縄県知事選世論調査では、基地問題を争点とすると考える人たちが圧倒的に多かったのだ。
そしてその結果、「沖縄に新しい基地は作らせない」と訴える翁長さんが今回の知事選で勝利したのである。

県知事選にあたって仲井眞氏の再選を目論む自民党は、当然のことながらカネの話を持ちかける。補助金とか交付金とか、あるいはUSJの誘致とか。仲井眞氏を再選させれば景気、経済が良くなりますよ、というわけである。

でもさあ、それってあまりにも人を馬鹿にしていませんか?

沖縄の人たちの平均収入は東京の約半分。要するに経済的にはビンボーだ。自民党の拝金主義的体質からすれば「札束ちらつかせて言うこと聞かせよう」ということになるのだろう。でもそれは、あまりにも無礼である。

しかし仲井眞氏は落選。今回の沖縄県知事選では、カネにものを言わせて沖縄の人々を懐柔させようという日本本土政府に対して、沖縄の人たちの誇りや自尊心がそれを許さなかった。
ということである。

当選した翁長さんは、もともとは沖縄の自民党の重鎮。れっきとした保守だ。
だが、「私は保守ですが、『沖縄の保守』です」と、彼は言い切る。

本土にいる我々は「保守=米軍基地OK」と単純に考えがちだが、小学生の女の子が米軍人に集団強姦された挙げ句、犯人は日本の法律で裁かれることなく本国に逃げ帰るというような理不尽がまかり通ってきた沖縄においては、「保守=米軍基地OK」といった単純な話ではない。
沖縄の保守とは、本土や米国の理不尽に対して沖縄の人々を守りぬく、という意味での保守なのである。

だからこそ、日米安保そのものは肯定する翁長さんを、今回、日米安保に反対する共産党が全面支援した。
もはや、右か左かなどというくだらないイデオロギーの話ではない。これが重要だ。
自民党は現職の仲井眞推薦を打ち出したが、自民党支持者の3割ほどは翁長さんに投じたと言う。本土自民党政権の金魚の糞ではなく、保守は保守でも沖縄の保守を自覚する正統な保守層である。

えーとちょっとここでひと休みしようかな。
最近、アタマがどんどん馬鹿になってちゃんとした文章が書けなくなっている。
困ったなあ。

なので動画。
14日沖縄市内での翁長さんの街頭演説の一部である。
日本本土の人へ向けてのメッセージでもあるから、これは見ておいたほうが良いよ。
場所は那覇新都心。(返還された米軍施設跡に新しくできた街。ゆいレール(那覇空港から首里までを結ぶモノレール)「おもろまち」駅から西側の一帯。高層ビルが建ち並び、商業施設や博物館、美術館などもあって、なんていうか、横浜のみなとみらいみたいな感じ。すごく人工的な街なので僕はあんまり好きではないけれど、活気はある)



酒が回ってきてなに書こうと思ってたんだか忘れちゃったよ。

おお、そうだった。

書こうと思ってた 「その1」
右翼/左翼、保守/革新といった図式はもうとっくに無効だと言うこと。

これは今まで何度も書いてきたが、政治的思想をそんな単純な二項対立に落とし込むというのは不可能なのである。
「もっと複雑になった」ということではない。
この二項対立は、無理、無効、意味がないのである。

米国共和党や安倍政権の経済政策はネオリベラリズムの思想、つまり、個人(近代に成立した概念)の自由こそが正義、という価値観をベースにしているが、これは、マルクス主義、共産主義よりもさらに極左(と言われる)アナキズムの思想と根底で通じている。ていうか、哲学的にはほぼ一緒と言っても良い。
現代の新自由主義的保守は、ある意味極左なのである。
安倍晋三などは、問いただせばそんな極左アナキズム的思想の持ち主のくせに、靖国神社に参拝するようなわかりやすい右翼嗜好がある。
これは、言ってしまえば決定的に論理的一貫性を欠いているのだが、それはともかく、要するに現代ではもはや右も左もないということの実例でもある。

同様に保守/革新の二項対立についても、それを、現状維持/改革と捉えると、規制緩和が大好きな安倍晋三とかたとえば橋下徹とかは改革派に属するように見えるが、一方で奴らは国体の現状維持、経済発展を望む超保守だ。

こんなふうにわかりにくくなってしまうというのは、右翼/左翼、保守/革新といった二項対立概念そのものが今では意味がないからなのだが、にもかかわらず、未だにそのような二項対立でモノを考える馬鹿も多い。

「自分はこっち」と決めておけば、考える必要もなくて安心なのだろう。
たとえばネトウヨの低能が自己コンプレックスの果てに自慰的左翼バッシングを始めるとき、彼らのアタマの中には自分では一切吟味することなく「左翼=共産党=中国=悪」という図式が出来上がってしまっている。だから今回の沖縄県知事選でも、『翁長が勝ったら沖縄は中国に占領される』みたいな、なんの根拠もないネガティブ・キャンペーンが繰り広げられるのだ。ほんとに馬鹿。

もちろん、右翼/左翼、保守/革新といった区分が思想的に無効だと言うことはもう何十年も前から言われていた。だが政治的後進国日本では、現実の政治システムの中でそれが問われると言うことがまずなかったのである。

でも。
今回の沖縄県知事選では、現実の選挙戦において、右翼/左翼、保守/革新といった区分は無効だと言うことが、誰の目にも明らかな形ではっきりわかった。

前述したように、今回当選した翁長さんは「自分は保守だが「沖縄の保守」だ」と訴えたわけだが、そうすると、これまでは「自民党に入れてりゃいいや」と思考停止だった保守な人も、今回は考えざるをえない。
もちろん同様に、共産党支持者の中にも「日米安保を肯定する翁長に一票を投じていいのか」という葛藤もあっただろう。

保守って、何を守るんだろ?
革新で、何を変えるんだろう?
そもそも、保守も革新も、色眼鏡なしで考えると、どういう方向を目指しているのだろう? そして、私自身は、政治をどう考えたら良いのだろう?

そんな、当たり前の問いが、やっときちんと問われた。
その結果の翁長さんの当選である。
政治的後進国日本で、こんなにちゃんとした選挙はまずない。
これは、『右/左 イデオロギー的対立』への無効宣言である。


「その2」

カネで人の心を買おうとした自民党は敗北した。
翁長県政が本土中央自民党政府と対立する限り、国家予算から沖縄に落ちてくるおカネはきっと減るだろう。それによって苦しい財政を迫られる自治体や家庭も出てくるだろう。
そんなことが当然予想できる中でも、沖縄の人たちは、過半数が翁長さんに投票した。(投票総数704356票のうち360820票)
目の前の札束よりも「誇り」を選んだのである。
素晴らしいではないか。

選挙は物乞いではない。
でも、本土の田舎者の中には、「自分が得するほうの候補者に投票する」と言って憚らない者がとても多い。選挙で問われるのは理念ではなく、「損得」「物乞い根性」になってしまっているのである。
もちろんこれを責めることはできない。誰だって一文無しになって野垂れ死にたくはないからだ。

そんな中、今回の沖縄県知事選で試されたのは、「損得か誇りか」というテーゼであるとも僕は思う。
本土の人間には真似できっこないだろうなあ。
本土の人間も、誇りを持って政治にコミットメントしろよ、と僕は言いたい。


「その3」は、もう眠いからやめた。

投開票前日の15日夜まで沖縄に行っていたのでした。
石垣にも行った。
沖縄本島の選挙戦と比べると、なんかびっくりするくらい静かで選挙カーに出会うことすらなかった。
中心部の飲食店経営者の話が印象に残っている。
石垣島は景気が良いというのだ。新しい空港が出来て観光客が増えたと言うこともあるのだろう。成功している人は結構稼いでいるという。
その一方で、「(彼曰く)駄目な自営業」が底辺にたくさんいて、石垣全体の足を引っ張っているというのだ。儲からない農家とか。

要するに、沖縄に限らず本土でも、強欲な連中が口にするのとまったく同じ台詞なのである。
「稼げない奴は切り捨てろ」という発想。「競争で淘汰しろ」という強者の論理。

また、これは別の石垣市民から聞いたのだけれど、県知事選は静かだが地元の市議選ともなると町は街宣車だらけ。「投票してくれ」電話も鳴りっぱなしだという。

知らない人もいると思うので書いておこう。石垣島は那覇とは400㎞以上離れた離島で、まさに「沖縄の中の田舎」だ。

「田舎の駄目な部分」が凝縮されているようだ。
「誇り」や「理念」よりも「損得」という、日本本土の田舎と変わらない駄目っぷり。

案の定、石垣市だけを見ると、翁長さんよりも仲井眞氏の得票が多い。

全世界で見るとリテラシーの高い地域はごく限られている。
国内でも同様である。街と田舎は全然違う。
で、沖縄という県の中でもそんな断絶があるのだな、とひしひしと感じたのでありました。

眠過ぎなのでこのへんで。

沖縄のことを書こう。

沖縄のことを書こう。

僕は沖縄は大好きなわけだが、そんなふうに東京から沖縄に来てみて一発で惚れちゃう人は多い。
で、面白いことに、沖縄に惚れる本土の人の多くが「どこか駄目な人間」だ。

おっと。誤解しちゃいけない。
ここでいう「駄目」とは決して蔑んでいるわけではない。
つまりこれは、現代市場原理主義の途方もなくくだらない価値観に蝕まれている東京の多くの人間から見れば「駄目」に映る、ということであり、むしろ、人間的に魅力のある人々なのである。
言ってしまえば、他者の悲哀に寄り添おうとする想像力の持ち主であり、同時に自分の「駄目さ」に謙虚な人だ。

ビーチでナンパしたりされたりするために夏ツアーでやってくるパーティーピーポーな連中は別だと思うが、「海に入れなくても沖縄に来たい」「出来ることなら移住しちゃいたい」と切望する本土の人は、概してかなりマトモであり、だからこそ東京的なモノサシから見ると、「どこか駄目な人間」なのである。

市場原理主義イデオロギーに則って成功に向けて日夜努力し、世界一の大都市に相応しい小洒落た生活を送りたいなどという、糞面白くもない信仰にどっぷりはまった凡百の東京人からすれば、「沖縄の人はだらしない」とか、「努力しないくせに権利ばっかり主張する」ということになるのであろう。
だから、「夏の沖縄旅行は楽しかったけれど、沖縄で暮らしたら怠け者になってしまう」とか言う間抜けな東京人がいるのだろう。

愚かな新自由的倫理観に毒された人々。都民はもちろん、埼玉や千葉の田舎者のくせに「ここは東京から電車で何分」を誇りに思うような馬鹿、田園都市線の多摩川以西に一戸建てを建てて自分の家の地価が上がるのが嬉しくて仕方ないような間抜け、そんな連中は十把一絡げなのだが、要するに、自分よりエラい人を見上げ、自分より駄目な人を見下す習性が身についている。
しかも、「エラい」か「駄目」かについて己で考え抜いた基準などなく、政治的あるいは経済的に成功しているか、出世が早いか、偏差値はいくつか、などといった、まあ要するに「世間体」を無自覚無反省に受け入れてしまっている。

だから、沖縄の人たちに対して「平均賃金の低い沖縄はやっぱ努力しない駄目な人間が多いのだろう」「お前ら税金から充分に交付金や補助金払ってやってるのに基地問題で文句言うな。それとももっとカネがほしいのか?」などといった考えを抱いてしまうのだ。

僕は東京は好きですよ。ここで生まれ半世紀もここに住んでいるのだ。今は特にいろいろ混沌としてきて面白いし、見方によっては世界一の都市である。ただ同時に、人類史上稀に見る歪んだ薄汚い最低の街、歪んだ人々の集まりでもある。

そういうことを直感的に肌で感じて「東京は居辛いな」と感じる人たちが、沖縄に来るとホッとする。東京尺度で「駄目な人間」とされていた自分に、正当な評価ができるようになる。

沖縄の人たちの懐の深さであろう。

東京はと言えば、安倍晋三の単細胞に象徴される中央政府や、あれだけの事故を起こしておきながら原発を再稼働させようという経済界。そしてそんな奴らを支えるのが、金融緩和なんかバブルの種にすぎず格差を拡大させるだけなのに円安、株価高で喜び、被災地の復興を遅らせるだけの東京オリンピックにわくわくしている馬鹿な都民。
つまり、自分たちが苦労なく勝って他人を見下す場所に立ちたいのだ。
その上で、自由とか民主主義とか綺麗事を言いたい。
それが東京だ。

それに対して沖縄の人たちは、もっとおおらかで奥行きのある価値観を持っている。
東京的に「駄目な人間」に対しても、尊厳を認める優しさがある。

ええと。
最近、KIRIN本搾りグレープフルーツばっか飲んでるんだよね。今夜は500ml缶の4本目だ。自分では酔っているつもりはないのだが、文章が駄目になってくる。
駄目ついでにちょっと迂回しよう。

僕が初めて沖縄を訪れたのは20代の頃、1980年代だよ。雑誌の編集部にいたのでハイレグ水着アイドルの撮影とか、街の取材でときどきやって来たのだった。で、山羊の金玉の刺身を食べさせてもらったり、炎天下の海ロケで真っ赤に焼けた肌にアロエを塗ってもらったり。
もちろん、取材で行くと現地の人はどこでも大抵親切なのだが、なにかが他と違っていた。
なんなんだろう?

で、時は流れ、約20年ぶりに沖縄を訪れたのが震災後の夏、2011年の8月。
京都大学原子炉実験所の小出裕章さんと一緒だった。小出さんの本を作るために沖縄での講演会に同行させてもらったのである。
正直言って僕はそれまで、沖縄の歴史や現状に関してまったく無知だった。
原発に憤ってはいるが、沖縄に原発はないし、福島原発事故とはあんまり関係ないだろうと思っていた。

ところが、である。

「これまではスーパーに九州産の野菜が並んでいたのに、原発事故後、九州産は棚からすべてなくなって、東北や北関東産の野菜が並ぶようになった」
沖縄で子供を持つお母さんからそんな話を聞いたのだ。
九州産の野菜は首都圏向けに出荷されるという。

ええええええ!

東京の地元のスーパーで、僕はそんなこと一度も気にしたことはなかった。
だが、東京に戻っていつもの東急ストアに行くと、なるほど東北産はおろか、北関東産の野菜もない。

つまりこういうことだ。
当時、東北や北関東の野菜は汚染されている(それが事実かどうかは別として)ので食べたくないと思う人は全国にいたのだが、東京のスーパー(東急ストアというのは、東京、神奈川の東急線沿線)は、売値も仕入れ値も高いので、市場のメカニズムとして、九州などなるべく福島から遠い野菜が回ってくる仕組みになっているのだ。
結果、人気のない東北産、北関東産の野菜は、地理的な距離に関係なく経済的に弱い沖縄にやってくる。

汚染食品がどれだけ身体に悪いかという問題の話ではない。
都会でフツーの暮らしをしている人は、特に気にしなくとも(そして実際にそれが汚染されているか否かとは無関係に)、東北産、北関東産の野菜を食べずに生活できる。
ところが、はるか1700㎞離れた沖縄の人は、東北産、北関東産の野菜を食べざるを得ない。

政府が仕組んだことではない。これが市場経済というシステムの本質だ。すなわちこのシステムは、強者の願望をなによりも優先させるのである。

まさに、ほとんどの人が無自覚なまま進行する差別のシステム。

恥ずかしながら沖縄の抱える問題にまったくの無知だった僕だが、それ以来気になり始め、たびたび訪れるようになった。
ていうとなんかカッコいいけれど、そんな問題意識よりも、沖縄に惚れたと言う方が正しいな。

あの、独特のゆるさ。
国際通りというのは那覇のメインストリートだが、近所の子どもが裸足で走っていたりする。
このゆるさに、本土に住む多くの「どこか駄目な人間」は惚れてしまう。
僕もそうだ。

KIRIN本搾りグレープフルーツ500ml缶が5本目に突入したところでやっと、ここからが本題だ。
飲み過ぎなので文章も迂回しすぎたな。ごめんね。

本題はこれ。
僕は、沖縄の「ゆるさ」に惚れたのであるが、「強さ」を知って惚れ直した、という話だ。

全国の米軍基地の3/4が沖縄県に集中し、県民の負担となっているという話は誰でも知ってるだろう。
1995年、12歳の小学生の女の子を米軍の軍人が集団強姦する事件があって、しかも、日米地位協定のせいで犯人は日本の法廷で裁かれることなく、本国に逃げ帰ってしまった。
2004年には普天間基地のヘリがこともあろうに沖縄国際大学の構内に墜落した。墜落だけでも大問題なのに、墜落現場を米軍が勝手に閉鎖してしまい、大学関係者や沖縄県警の警察官さえ立ち入らせなかった。
独立国家日本でこんなことが許されるのか?
沖縄では滅茶苦茶がまかり通っている。

で、そんなことはニュースになるわけだが、さっき書いた、本土の人々が敬遠する東北や北関東の野菜が結局沖縄に回ってくるというような話は報道されない。でも、このように報道されない本土からの差別メカニズムは、沖縄では日常茶飯事だろう。

そして、ここからが大事なポイントなのだが、
それでも沖縄の人たちがめげずににこにこしているのは、その「強さ」ゆえだろうと僕は思う。

太平洋戦争敗戦後、サンフランシスコ講和条約によって日本本土が主権を取り戻したにもかかわらず、沖縄は1972年まで米国の軍事占領下に置かれた。米軍は、沖縄の人々を強制排除し、家や農地を火炎放射器で焼き払って基地を作っていった。ベトナム戦争の頃は、沖縄の人たちをベトコンに見立てて追いかけ回すとなどという非人道的極まりない訓練を行ったりもした。
しかし、そんな厳しい軍事統治下にあっても、沖縄の人たちは「島ぐるみ闘争」として10万人規模での集会を行うなど、徹底的に闘った。
これは、沖縄の人たちが、自治、アイデンティティ、主体性を守り抜くための闘いであった。

さて。

本土に目を移すと、2011年あれだけの出来事が起こったにもかかわらず、東京では「震災は天罰だ」ととんでもない暴言を吐いた石原慎太郎が都知事選で馬鹿勝ちし、原発を推進する自民党が政権を奪い返した。
正直言ってマトモな民主主義国家では考えられないような事態だと思う。ここに、日本本土の民主主義の未熟さがある。

欧州では「民主主義」は、歴史的に勝ち取られたものであった。それまでの封建的、絶対的な権力を打倒し、「権力」に対する「個人」の権利を確立したわけである。
その地では、そんな「闘い」の歴史が、現代も人々の考えの中にも深く根付いている。だからこそ「民主主義」が、机上の概念としてではなく、実際に血を流して勝ち得た権利として、リアリティを持っているのだ。

日本本土にはそんな歴史はない。
僕は現行日本国憲法を高く評価するが、市民が闘って勝ち取った民主主義ではないことは事実である。

現代で言えば、米軍が介入して独裁政権を倒したが民主主義が根付かず内戦状態になっている国があるわけだけれど、要するに「独裁政権を倒してあげましたので、はい、これからは民主主義にしなさい」と言ったって、そんな簡単にはいかない。
「そのために闘った」という人々の歴史がなければ、民主主義(というのもある意味歴史的な概念のひとつにすぎないので)のリアリティは持てないのだ。

だから、日本本土では、「民主主義」というのをみんなわかっていない。
たとえば、「個人主義」というのは本来「民主主義」とペアであるべき概念なのに、経済的勝者が「個人主義」を自分に都合良く解釈して「金を儲けて何が悪い?」と居直ったりする有様である。

でも沖縄は違うのだ。

琉球國は廃藩置県によって「国」ではなく一地域として日本に組み入れられ、太平洋戦争では15万もの人々が犠牲になった。太平洋戦争での日本国敗戦後、サンフランシスコ講和条約で本土が主権回復したにもかかわらず、沖縄はその後20年間も米軍に支配されたが、その間も人々は理不尽な権力に対して闘い続けた。

そんな歴史があるからこそ、「与えられただけ」の本土の人たちよりも、「ずっと闘い続けてきた」沖縄の人たちのほうが、現行日本国憲法の民主主義の理念にリアリティを持てるのだ、と僕は思う。
当時、沖縄の多くの人たちが、民主主義理念に基づいた現行日本国憲法下の日本本土復帰を願った。

ところが、日本に復帰してみると民主主義とはまるで違う。
米軍は居座ったままだし、米国軍人による沖縄女性への暴行事件も日米地位協定のもと、ちゃんと沖縄で裁かれることはない。
普天間基地は街の真ん中でかなり危ないのだが、「その危険を取り除きます」などと都合の良い言い草で、本土中央政府は辺野古に新しい基地を作ろうとする。
要するに、とんでもない話ばかりが続く。

ものすごくざくっと書いてしまったけれど、そんな歴史に揉まれながら、沖縄の人たちはずっと闘い続けてきた。

沖縄の「強さ」と書いたのは、そのことである。
ずっと闘ってきて、今も闘っている「強さ」である。
理不尽な権力に対する果てしない闘いを続けている「強さ」である。
ちゃんと見張っていないと権力は自分に都合の良いように好き勝手するよ、ということを身に染みて知っているからこそ闘い続ける「強さ」である。
本土の、特に東京の人にそんな強さなんかまったくない。「立身出世のために頑張る」みたいな利己的な闘いなんか、社会的に共有される「強さ」にはなり得ない。

で。
そんな、沖縄の人たちの「強さ」。
そのベースにあるのは決して「敵意」ではない。

自治やアイデンティティ、主体性を確立する、守る、というのは、同時にほかの人々のそれも認める、ということだ。

許し合い、認め合う。

これが、沖縄の闘いの核心なのではないかと僕は思う。
だから、ちょっとだらしない人なんかに対しても、きちんとその尊厳を認める。
東京で傷ついた「どこか駄目な人間」は、そこで癒やされるというわけだ。。

しかし、自治やアイデンティティ、主体性を「許さない」「認めない」理不尽な権力に対しては徹底抗戦する。

僕はこれは、素晴らしい生き方だと思う。

さて。

いよいよ一週間後の11/16に、沖縄県知事選投開票である。

危なすぎる普天間基地を撤去すべきなのはもちろんなのだが、どの世論調査を見ても、沖縄県民の70%以上が、普天間基地の辺野古(県内)移設ではなく、県外、国外移設を求めている。
すなわち、「沖縄に新しい基地は作らせない」。

戦後70年を迎えるにあたって、そんな沖縄の意志を全力で示してもらいたいと僕は思っているのだが、ものすごく気になるので今週後半は沖縄に行くよ。