イスラム国事件~日本の動揺と国家論の未熟さ | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

イスラム国事件~日本の動揺と国家論の未熟さ

ほんとうは、4年目の3.11に向けて、体系的なことを書こうと思っていたのであった。
これまで原発問題、沖縄問題からマクドナルドまでいろいろ書いてきたけれど、そう言った個別の問題についてではなく、「考え方そのもの」と言っても良いような哲学的な問題、たとえば「存在について」とか「分析哲学で正義が語れるのか」とか「そもそも語り得るとはどういうことか」とか、その種の話から、流行りのピケティ『21世紀の資本』について、あるいはナショナリズムの問題、国家と戦争、軍事まで演繹しようと企んでいたのだ。
昨年末からそんなことを考え、書き散らかした断片的なテキストファイルは山のようにある。だけどどれだけ書いていても全然体系化されない。
「答」を用意したいのではない。「問い」を体系化したい。もちろん高級な体系化など無理だ。稚拙でも良いので、僕の考えていること、問題を感じていることを、「問い」として積み上げるような文章をまとめておきたい。3月11日までに何回かに分けてそれを書こう。そう考えていたのだ。

でも全然駄目。己の無能に嫌気がさすばかりだ。

そんなある日、とんでもないニュースが飛び込んできたのである。
イスラム国による日本人人質の身代金要求と殺害予告。

ええええええええ!

「体系的な文章」では「国家」のことも書こうと思っていた。「国家とはどういうことか」という問題だ。「イスラム国は国なのか?」
世界中のほとんどが国として認めないという意味では当然イスラム国は国ではない。
でも、権力機構と統治されている人々、土地があるという意味では「国もどき」と言えるかもしれない。
そもそも「国家」なんていうのは最初から存在していたものではないのだ。
大昔から、部族の長や地域のボスや、まあいろんな人が土地と人を支配していたわけだが、そんなのは「国家」概念にはほど遠い。日本のような島国にいると「列島=国」となんとなく思ってしまい、「国家」が太古の昔から存在していたように錯覚するが、それは、現代の我々が世界規模で共有すべき国家概念とはまったく違う。

とかさ。
まあ国家論の意味でイスラム国のことを書こうと考えていたのであったが、突如としてそんな悠長なことは言ってられなくなってしまった。

4年前の東日本大震災。
地震、津波は天災だが、原発事故と進まぬ地域再生は人災である。この悲劇によって、日本の駄目な部分、腐った部分が一気に可視化された。
当時は「第二の戦後」などと言われ、これを契機に日本をマトモな国にしていこうという議論が沸き起こった。
結局のところ以前よりもっと駄目な国になってしまったのだけれど、それでも、日本をマトモな国にしようという議論や人々の取り組みはずっと続いている。
原発再稼働を問う運動や中央に依存しない地域再生への挑戦、また「国家とは何か」という問いかけである。

特に「国ってなに?」「日本ってなに?」という議論は、3.11以後、ずっと反芻されてきた。
昨年、沖縄では県知事選、衆院選など主要選挙ですべて自民党が敗北した。これ以上基地を押しつけるなという県民の怒りの声である。県知事選で圧勝した翁長さんは安倍晋三君の掲げる「日本を取り戻す」というスローガンに対して「そこに沖縄は入っていますか?」という、かくも鋭く本質を突いた名言を放った。
そんな、沖縄の人々の選挙での圧倒的民意というかたちで我々に突きつけられたのも、「国ってなに?」という問題である。

というわけで我々は、3.11から4年、そこで提起された「これでいいのか日本?」というドメスティックな問題と未だ格闘中であった。
もちろん、対中対韓といった問題もいろいろ発生し、中国はほんとうに無礼なのでみんなの怒りを買い、その上低能なネトウヨやレイシストが騒いだりしてあらためて日本の品格が問われたりもしたが、結局のところ東京から2000㎞範囲内の話をしていたのだった。
ファッキングローバル新自由主義の蔓延で、経済の話は世界中と直結している。ところが、政治の話となるとたった2000㎞範囲内だ。(せいぜい2000㎞+米国)

要するに我々は、その程度のことしか考えていなかったのだ。イスラム国なんて他人事と、眼中になかったのである。

別の言い方をしよう。
戦後、あまりにも間抜けに生きてきた日本人であったが(もちろん僕もだ)、3.11を契機に、この国のありかたを考えた。
だが、それがまだまだ未消化な今、突如として混沌としてワケのわからないアラブ世界の無法者からのナイフが喉元に突きつけられたのだ。

ええええええええ!

国民の多くが原発再稼働や集団的自衛権に反対しながらも総選挙では自民党が勝ち、ところが県知事選では自民全敗という日本のぐちゃぐちゃぶりは、すなわち哲学の欠如あるいは思想の錯綜であり、そんなときに地球の裏側から日本人の斬首写真がアップロードされるという突然の事態に、みんなついていけない。
今、インターネットが世界をフラットにし、ちょっとした情報(たとえば猫のびっくり動画とか)が瞬く間に世界中に拡散されるという状況については、多くの日本人がリアリティを持っている。でも、イスラム過激派による現実の日本人殺害が検索上位日本語のハッシュタグ付きで拡散されるなど、予想もしていなかったのだ。

それがこの一週間の日本の動揺である。

ここで立て直すべきは国家論だ。
3.11で立ち上がった、ドメスティックな意味での国のありかたについての議論を深めるべきなのは言うまでもないが、今、ここにある現実の国家のありかたを考える場合、アジアや米国だけを見ていたのではもはや追いつかない。
たとえば、多くの日本人には想像もできない一神教への洞察や、宗教、民族、血でつながる憎しみの連鎖、さらに野生化した弱肉強食のグローバル市場主義。
そんな、入り組んだレイヤーを重ねた世界地図を描かなければ、国家は理解できないし、日本がどうあるべきかも語れない。

2015年1月20日に公開されたイスラム国による日本人人質の身代金要求動画によって明確にされたのは、我々の国家論が抱えていた致命的な見落としである。もちろん、米国の腰巾着となって正義漢面しろということではない。だが、我々は現実に首を切られてその映像をばらまかれるかもしれないというリアリティ。3.11以後問われてきた「日本のありかた」議論において、それを無視するわけにはいかなくなった。悲しいけれど。

というわけで、これまで目論んできた「体系的な文章」は今は諦めます。
これだけの出来事があったのだ。僕が体系化して何になる?
ひとつひとつ書くしかない。

最後になりますが、後藤健二さんの解放を心から祈ります。
また、日本国内のニセ愛国者等が事件と関係のないイスラム教徒への差別的な攻撃をしないことを願うばかりです。