「国」は、自明な存在ではない ~ 中東問題と沖縄が突きつける国家論 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

「国」は、自明な存在ではない ~ 中東問題と沖縄が突きつける国家論

「イスラム国」関係の本を作っている。
詳細は発売日近くになったら宣伝するけど、マンガなんかがたくさん入った入門書。
で、僕は中東の歴史とか全然知らなかったのだが、今回、著名な専門家に監修していただき、いろいろ勉強してあらためて思うのは、国境なんて所詮、人為的なものにすぎないということだ。

みんな知ってるとおり、「イスラム国」が台頭するイラクとシリアの国境線に不自然な直線があるのは、比喩ではなくほんとうに定規で線を引いたから。
第一次世界大戦の戦勝国が、支配地域を分けっこするために引いた線が、今でも国境となっているのだ。

ヨーロッパの国境線も、歴史の中で今はここに落ち着いたというだけの話だし、ソ連崩壊後いろんな国が独立したときも、新たな国境が引き直された。
あるいは中東やアフリカの紛争国なんかだと、地図上には一応国境線が書いてあるが、実際は行き来自由、国境の管理なんか全然されていないこともある。国際社会公認の政府ではなく、地元のゲリラ組織がテキトーに管理していたりする。

言われてみれば当然だが、最初から地面に線が引いてあったわけではない。国境なんて後付けだ。
市民革命を経たヨーロッパでは、近代国家の概念が歴史的にも現実的にも妥当なものだと受け入れられているけれど、一歩外に出て中東やアフリカを見れば、国境や国家権力は、市民革命の理念とはかけ離れた植民地支配の亡霊にすぎないことが多い。

さて日本だ。

島国日本では、「国境」の意識がかなり低い。
昔から単一国家だったと思っている人が多いので、ヨーロッパ型の近代国家(≓国民国家)の感覚がするっと何気に受け入れられてしまっている。
だが本来、ヨーロッパ型の近代国家とは市民革命によって勝ち取られたものである。
そこをスルーして、ヨーロッパの国々と横並びの「国家」だと思ってしまっている。

安倍晋三君が「憲法が国家権力を縛るというのは王権が絶対権力を持っていた時代の考え方」と、マトモな大人とは到底思えない立憲主義否定発言を国会でかますのも、そんな無知、無明のせいだろう。

要するに「国」が自明の存在だと思っているから、歴史をすっ飛ばして、そんな間抜け発言が出てしまうのだ。
だがそれは断じて違う。
「国」なんか単なる歴史の産物にすぎない。

と言ってしまうと身も蓋もないので、日本の思想史を見ると「日本という国を基礎づける」思想、「日本国は自明の存在である」という考え方がたびたび現れる。
「国体」というのがその代表だろう。
僕は「国体」論はまったく腑に落ちず、理解できないし勉強不足なので、それについてはここでは深く言及しない。

ただまあ、
(1)「世界史を見れば国境の変遷は一目瞭然なように、「国」なんて所詮仮初め」という考え方の一方で、(2)「民族は自立し国家を樹立すべき」という考えや、(3)「我が国は最初から国家だったのだ」という考えもあるというわけだ。
(2)の考えは「民族ってなに?」というとても難しい問題を孕んでいる。(多民族が同居する米国は、本来の「国」の姿ではないのか?) (3)の考えはその根拠が圧倒的に貧弱だ。
たとえばイスラエル。国連の非難を無視してパレスチナ自治区を無差別攻撃したり、自分はNPT(核不拡散条約)に加盟せず核兵器を作り続けているにもかかわらずイランの原子力開発を非難したりと滅茶苦茶な国だ。
なぜそんな独善的なことを平然とやってのけるのかと言えば、イスラエルの建国思想が「聖書にそう書いてある」からだ。つまり、「パレスチナ(現在のイスラエルを含むあの一帯)は、神がユダヤ人に授けたもの」と旧約聖書に書いてある。そこから演繹して、アラブ人はパレスチナから追い出すべき、となる。
おいおい俺は聖書なんか知らん、というのが日本に住む多くの人の考えだろう。聖書なんか持ち出されても困る。
だが、日本でもしも同様に(3)「我が国は最初から国家だったのだ」と論じるのであれば、その根拠に何を持ち出そうとも、世界中から「おいおい俺は知らん」と言われるだろう。

いずれにしても、「国家なんか所詮歴史の産物」ではないのなら、いったい何だというのだろう? 神話や宗教を持ち出すのであれば、イスラエルや、「イスラム国」と同類だ。

「国家は、最初からこのようにあったものではない」「国は自明な存在ではない」
世界を見渡せば当たり前のこの事実を再確認した上で、じゃあ日本はどうなのよ、という話になる。

第二次世界大戦の敗戦で、日本はそれまで植民地支配をしてきたアジアの国々から手を引いた。だから日本は、「それまでの、本来の日本に戻った」と考える人が少なくない。どこも侵略していないし、もともと日本はそうだったのだ、と。
そんな感覚があるから、市民革命がなくても、近代国家(≓国民国家)として、欧米の国々と同じだと思ってしまうのだろう。

だが、少なくとも沖縄について言えば、それはまったく違う。

日本政府は、1854年3月に江戸幕府と米国間で結ばれた「日米和親条約」が、日本が「国際法上の主体」として締結した「最初の国際約束」であると閣議決定した。つまりこの段階で日本が国際法上の国家となった、というのが政府の公式見解である。
ところが、その後の1854年7月11日、琉球王国は米国と修好条約を結んでいる。
つまり、当時米国が認めた「日本国」の中に、琉球は含まれていなかったのである。1854年から59年にかけて、琉球王国は米仏蘭と修好条約を締結している。日本とは別の、国際法上の主体たる国家であったのだ。
にもかかわらず、日本政府は琉球王国を制圧し、1879年の「琉球処分」で「沖縄県」にしてしまった。

繰り返すが、「国」は自明な存在などでは決してない。
日本は最初から今のような日本であったのではない。独立国家であった琉球王国を侵略して、現在の日本地図が出来上がっているのである。

沖縄の辺野古新基地問題を巡って、ネットにはいろんな意見が書き込まれているが、翁長県知事や沖縄で基地反対運動に取り組む人たちに対するこんな悪口が多くある。
「県よりも国のほうがエラいに決まってるじゃん」

この悪口バージョンは「沖縄県民は非国民」のような知性を疑うようなものから、「国防は国の専権事項」みたいなものまでいろいろあるようだが、いずれにしても、国と地方、国と国民の関係について、根本的な問題がほぼスルーされている。

まずは「国の下に国民がいる」のではない、という近代民主主義国家の当たり前の考え方である。
「国があって国民がいる」のではなく、「国民が国を認めてあげている」のだ。これが最初の大原則だ。(この大原則を否定するのがファシズムである)

そして、沖縄の歴史。

沖縄戦や米軍統治時代の話はここではしない。だが、「琉球王国」という国家の主権が踏みにじられて「沖縄県」とさせられた歴史的事実だけをとっても、「日本は大昔からこうだった」と疑わない人たちのあやふやな国家観、さらに「沖縄は我が儘だ」論を封じるのに充分ではないだろうか。

「国」なんて、単なる歴史の産物だ。
だからこそ、盲目的に「日本はひとつ」などと思わずに歴史を直視せよ。

「イスラム国」と沖縄新基地問題が突きつけたのは、図らずとも同じ、国家論の問題である。