「対テロ戦争」など、定義上存在しない。 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

「対テロ戦争」など、定義上存在しない。

酔ったはずみでひとことだけ書こう。

『偽りの戦後日本』を読んだ。
偽りの戦後日本/KADOKAWA/角川学芸出版
¥1,728
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正直言って『永続敗戦論』(http://www.amazon.co.jp/dp/4778313593/)の衝撃と比べると地味な感じはしてしまうのだけれど、これは何度でも繰り返し訴えていかねばならぬ話なのであって、つまりとても良い本です。
すなわち、米国に隷属する奴隷のくせにアジアの他の国々の人たちを見下すような薄汚い精神は、安倍政権共々葬り去らねばならない。

まあこの話は今はよそう。

なぜ突如ブログを書くのかと言えばこれは前述した通り酔った勢いなのであるが、『偽りの戦後日本』のあとがきでカレル・ヴァン・ウォルフレンさんが述べている一節に、なるほどもちろんそうだよな、とつくづく納得してしまったからである。

安倍首相が信じているような「対テロ戦争」など、現実には全く不可能です。今世紀に入ってからの「歴史」を振り返るだけでも、そのことは明らかになっている。「対テロ戦争」など虚構に過ぎません。テーブルについて和平交渉すらできないような相手との間で、戦争をすることなどできるはずもないのです。
(『偽りの戦後日本』p221)

この前「イスラム国の本(『漫画でわかるイスラム国』)を作りました」と自慢したばかりの僕であったが、こんな当たり前のことさえ気づいていなかった…。
お恥ずかしいばかりなので、素直に報告しておこうと思ったのだった。

「戦争」というのは「喧嘩」とは違う。
相手を攻撃する正当な理由(もちろん、それがでっち上げだった歴史は多々あるが)があった上で宣戦布告をし、終結にあたっては降伏や和平交渉をする。それが戦争だ。捕虜の扱いとかにだって国際法を遵守しなければならない。つまり、戦争というのは「ルール」があるのだ。
ところが、「対テロ」ということになれば、そこにはもはや「ルール」はない。これは、「戦争」ではなく「喧嘩」なのである。その意味で「対テロ戦争」など、定義上存在しない。

安保法案の国会審議を見ていると、安倍晋三君とか中谷君岸田君の答弁は目も当てられない。すなわち、論理性の決定的な欠如。あるいは、わざとそれを行うという倫理性の決定的な欠如。「ことば」に対する反省がなさすぎる。

「喧嘩」なのに「戦争」と言ってしまう無神経さも同様だ。

「テロとの戦争」など存在しない。テロと戦うのは「戦争」ではなく「喧嘩」である。

「喧嘩」しますか?
俺はやだね。

安倍晋三君の安保法案は「戦争法案」だと言われているが、ルールのある「戦争」ならまだましで、「喧嘩上等法案」になるかもしれないよ。